「中世ヨーロッパ」は現在のヨーロッパ地域における古代と近代に挟まれた概ね五世紀から十五世紀までの千年間を指している。現在の我々の生活にも大きな影響を及ぼしているヨーロッパ発祥の文化や思想、制度の淵源は概ねこの時代に端を発しているが、どんな時代だったのかといざ知りたいと思っても、その幅広く奥深い世界はなかなかにハードルが高い。そんな「中世ヨーロッパ」を知るために入門として一押しなのが本書である。
何故一押しなのか。まず、本書は通史ではなく、そのタイトル通り、十五のテーマに分けて論じられる分野史である。
かつてはヨーロッパ史も政治・外交・戦争の歴史を中心に考察されてきたし、現在でもそれらへの注目は高い。ゲルマン人が侵入してフランク王国が成立し、カール大帝が戴冠し、ドイツとフランスとイタリアに分裂して神聖ローマ帝国とフランス王国とイタリア都市国家がそれぞれ繁栄し、ヴァイキングの侵攻やイスラームとの戦争の中で十字軍とレコンキスタが行われてイベリア半島諸国やブリテン島諸国、スカンジナヴィア諸国、そしてスラヴ人諸国家など周辺諸国がヨーロッパ世界に組み込まれていき・・・というやつだ。しかし、それだけでは「中世ヨーロッパ」を語るには十分ではない。というか政治史や国制史・経済史の重要性は依然より随分と低くなってきた。
『その背景としては、次のような歴史学全体に関するパラダイムの転回があった。現在では、もはや、一つの研究テーマが、単独でそれ自体として、研究上の決定的な意味をもつことはなくなってしまったのである。それ以上に個別のテーマと歴史社会全体との関係が重要なのだ。』(5頁)
「中世ヨーロッパ」を理解しようと思うなら、政治史や経済史にばかり目を向けていては駄目で、政治経済だけでなく宗教・文化・思想・芸術・建築・衣食住など諸要素との相互関係とそれら諸要素から構成される全体を理解することの重要性がより強調されるようになってきた。
『フランスを中心として、フランドル地方から南ドイツとイタリアに及ぶ地域に生まれて、その周辺地域に拡大していった、宗教や政治経済から衣食住にいたる中世ヨーロッパ文明の要素の全体が重要なのである。そして、そのような文明の諸要素が、ヨーロッパ全体に定着していく歴史的過程で、固有の中世ヨーロッパ文明世界が形成されていったのである。』(5-6頁)
本書は、その『ヨーロッパ文明を規定する諸要素を一五章に区分して再考』(6頁)することを目的としている。
序 章 中世ヨーロッパ文明への視角(堀越宏一・甚野尚志)
第Ⅰ部 キリスト教世界の成立
第1章 キリスト教化と西欧世界の形成(多田 哲)
1 ローマ・カトリックとキリスト教化
2 各地域のキリスト教化の様相
3 キリスト教化の初期段階
4 慣習のキリスト教化
5 心のキリスト教化へ
コラム1 聖人・聖遺物崇敬とキリスト教化
第2章 ローマ・カトリック教会の発展(甚野尚志)
1 教会改革の時代
2 ラテン・キリスト教世界の拡大
3 教皇権の発展
4 信仰の内面化
コラム2 「東西教会の分離」の意味
第3章 中世後期の宗教生活(印出忠夫)
1 小教区から見た宗教生活
2 中世の小教区の時間的・空間的枠組み
3 中世後期の小教区の現実
4 死後の魂の救い
コラム3 永遠のミサと累積ミサ ——彼岸の会計学をどう見るか
第Ⅱ部 統治の方法
第4章 戦争の技術と社会(堀越宏一)
1 中世ヨーロッパ社会と戦争
2 騎士と騎士道文化
3 城と天守塔
4 大砲と常備軍の戦争 ——戦争の中央集権化と近世化
コラム4 ウェゲティウス『軍事覚書』と中世ヨーロッパ
第5章 貴族身分と封建制(桑野 聡)
1 西欧封建社会の形成
2 新しい貴族家門の出現と西欧の拡大
3 ヨーロッパ文化としての貴族文化
コラム5 ハインリヒ獅子公から見える家門意識の形成
第6章 文書と法による統治(岡崎 敦)
1 口頭所作儀礼・文字・テクスト
2 法秩序と文字
3 実務と文字
4 文字の意義
コラム6 書物と読書の中世ヨーロッパ
第Ⅲ部 農業生産と交易
第7章 西欧的農業の誕生(丹下 栄)
1 「西欧的農業」とは何か
2 西欧的農業の萌芽
3 中世農業革命と大開墾
4 西欧的農業の見直し
コラム7 所領明細帳と「ジェンダー」
第8章 都市という環境(徳橋 曜)
1 都市のヨーロッパ
2 都市の政治と文化
3 都市という空間
4 都市環境
5 受け継がれる自治意識
コラム8 中世から近世のヴェネツィアの環境意識
第9章 ラテン・ヨーロッパの辺境と征服・入植運動(足立 孝)
1 「辺境」の生成
2 征服・分配・入植
3 理念と現実
コラム9 アンダルス社会から封建社会へ
第Ⅳ部 人々の生活
第10章 衣服とファッション(徳井淑子)
1 ヨーロッパ服飾の誕生
2 社会表象としての衣服
3 文化表象としての衣服
コラム10 中世の子ども服
第11章 融合する食文化(山辺規子)
1 二つの食文化の出会い
2 時代変遷
3 中世ヨーロッパの食の特徴
4 節食と大食
5 宮廷の宴会とマナー
6 中世における食の思想
コラム11 『健康全書(タクイヌム・サニターティス)』
第12章 都市と農村の住居(堀越宏一)
1 中世ヨーロッパの建築
2 中世都市の住居
3 中世農村の住居
コラム12 ロマネスク式の町家と装飾窓
第Ⅴ部 文化と芸術
第13章 知の復興と書物の変容(甚野尚志)
1 「12世紀ルネサンス」と大学の成立
2 古典テクストと注釈
3 参照装置の発明
4 中世にはじまる「ルネサンス」
コラム13 シャルル五世の図書室
第14章 見えないものへのまなざしと美術(木俣元一)
1 中世美術の機能
2 彫像と人々のまなざし
3 黙示録の挿絵とヨハネの幻
4 聖遺物と見えないもの
5 中世美術の新たな理解に向けて
コラム14 エクレシアとシナゴーガの彫像
第15章 ヨーロッパ音楽の黎明(那須輝彦)
1 古典古代とキリスト教
2 カロリング・ルネサンスとグレゴリオ聖歌
3 グレゴリオ聖歌の装飾
4 14世紀以後
コラム15 元祖《ドレミの歌》
「第Ⅰ部 キリスト教世界の成立」では、まずローマ・カトリックによるキリスト教化の過程が特別に三章かけて描かれる。『それは、ローマ・カトリック教会の独自な教会組織、神学、典礼が、ヨーロッパ中世文明に与えた影響の大きさ』(3頁)ゆえである。第一章では中世前半(十世紀頃まで)を中心にキリスト教の布教と浸透の過程を、改宗、生活習慣のキリスト教化、心のキリスト教化の三段階に分けて、1215年の第四ラテラノ公会議における告解の義務化までを視野に入れて論じられる。第二章では中世盛期を中心にグレゴリウス改革などの教会改革と十字軍やレコンキスタの進展、教皇君主政時代の絶頂期など主に拡大の過程が描かれる。第三章では中世後期の人々の信仰生活の基盤となった小教区の在り様を中心に、都市に成立した信心会や煉獄、聖人崇拝などが紹介されている。
この「第Ⅰ部 キリスト教世界の成立」でのローマ・カトリック規範の成立を背景として、「第Ⅱ部」以降、個別テーマの掘り下げに移るが、いずれも各テーマについてコンパクトに概要を知ることが出来る良質な内容となっていて大いに参考になるだろう。
例えば「第4章 戦争の技術と社会」によれば、騎士が成立するのは十二世紀頃以降のことだが、それ以前はヨーロッパの騎馬兵も日本の武士やユーラシア大陸の騎馬遊牧民のように、馬上で弓を使っていたという。また馬上槍も後の騎士のような突撃用ではなく、投槍として使っていた。ヨーロッパ前期の騎馬弓兵の存在は多くの史料からも確かなもののようだ。それが、十二世紀になると騎兵は弓を使わなくなり、槍を投げることも無くなった。この変化は貴族身分としての騎士階級の成立と大きな関係があるようだ――
「第6章 文書と法による統治」を読むと、中世、文書行政の大幅な深化と発展があったことがわかる。それは十二世紀のローマ法継受が大きい。
『一般に一二世紀、とりわけその後半以降、文書形式の規格化が、全ヨーロッパ規模ではじまった。明確な法律用語を操りながら、簡素に規格化された新しい形式がどこでもほぼ一斉に現れ、定着していく現象の背景には、ローマ法の復興に代表される法学教育の刷新が想定され、事実、一二〇〇年ごろの文書には、煩雑なまでのローマ法手続きが記載されているものがある。』(136頁)
文書行政から見た中世ヨーロッパは、野蛮と暴力の暗黒時代というイメージを一新してくれるだろう。
中世ヨーロッパの音楽史に関する書籍が少ない中で「第15章 ヨーロッパ音楽の黎明」は非常にありがたい章だ。最近、結構認知が広がってきた説だが、「グレゴリオ聖歌」が教皇グレゴリウス1世と全く関係がないので「グレゴリオ聖歌」と呼ばなくなっている問題についても改めてまとめられている。十一世紀までに西方教会の典礼がローマ式に統一されていった過程で、そのローマ式典礼のために歌われた聖歌が「グレゴリオ聖歌」である。
『したがって、グレゴリオ聖歌はローマ聖歌と呼ぶのが正確である。「グレゴリオ」の名称は、六世紀末の教皇グレゴリウス一世が聖歌を集大成したとする伝承にちなみ、実際、中世には、グレゴリウス一世が聖霊から天啓を受けて聖歌を書き留めたと信じられた(後略)』(327頁)
各章最後に参考文献が解説付きで紹介されており、非常によいブックガイドとなっている。参考文献で挙げられている書籍も近年の者が多く、手に入れやすいのも嬉しい。参考文献に挙げられている書籍のうちようやく三分の一ぐらいを読めたところだが、どれも非常に勉強になる本である。この点も本書が入門としてお勧めな理由である。
本書でそれぞれのテーマの概要を掴み、より深く理解するための入り口とすることで、「中世ヨーロッパ」とは何か、という全体へと至る道が開けてくるだろう。