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世界史(書籍)

『あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』岡地稔著

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大王、禿頭王、肥満王、吃音王、短軀王、赤髭王、血斧王、征服王、碩学王、賢明王、敬虔王、獅子王、獅子心王、欠地王、聖王、悪王、残虐王、善良王に端麗王・・・中世ヨーロッパの王侯貴族はなぜ「あだ名」がついているのだろうか。それに、シャルル、ルイ、フィリップ、アンリ、ジャン、カール、ルートヴィヒ、ハインリヒ、オットー、フリードリヒ、ウィリアム、ヘンリ、リチャード、エドワード・・・同じ名前の違う人物が何度も何度も繰り返し出てくるのも不思議ではないだろうか。なぜシャルルの子もシャルルでオットーの子もオットーでエドワードの子もエドワードなのだろうか。

本書ではそのような中世ヨーロッパの名前の付け方や「あだ名」の流行から、彼らの家門意識の成立過程を非常に丁寧に史料を読み解き、紐解いていく好著である。

本書によれば史料に残る限りで「あだ名」がつけられた王侯貴族はメロヴィング朝末期からカロリング朝期(八世紀)以降の人々に対して初めて用いられるが、これは同時代に「あだ名」がつけられたわけではなく、『九世紀末~十世紀初の人びとが、彼らメロヴィング朝末期~カロリング朝前期の人びと、および自分たち自身の同時代人に対して、あだ名で呼んだのである』(129頁)という。

最初期の例であるカール・マルテル(鉄槌)もピピン3世のあだ名「短軀王」もカール1世の「大帝」も十~十一世紀に入って初めてつけられ、定着していったもので、同時代には「あだ名」は見られない。

九世紀末~十世紀初以降、なぜ「あだ名」が流行するようになったのか、貴族の家門の成立と深くかかわりがある。

中世ヨーロッパ初期の名前の付け方は『貴族であれ農民であれ一般に、生まれた子に対し、両親を含む親族のうち誰か二名の名前から、前半部あるいは後半部を一つずつとって、それを組み合わせて命名』(190頁)する命名方法が取られていた。これが八・九世紀になると、『生まれた子に、両親を含む親族のうち誰か一人の名前をそのままつける、というもの、つまり親族の誰かある人物にちなんでその人物の名前をつける』(190-191頁)命名方法が主流となる。例えばカールの子がカールマンとピピンになりピピンの子がカールとカールマンになるわけだ。

この独特な名付け方を何世代か繰り返していくと、その親族集団に特徴的な同じ名前が繰り返されることになり、「主導名」が登場する。カロリング家ならカール、カールマン、ピピン、ルートヴィヒなどであり、最初の神聖ローマ皇帝家であるオットー家ならばハインリヒ、オットー、リウドルフ、マティルデなどとなる。

しかし、同じ名前ばかりになると今度は見分けがつかなくなってしまうため記録上も呼称としても区別の必要性が生じてくる。そこで、例えば同じ名前の人物に大ピピン、中ピピン、小ピピンという具合に「大」「中」「小」をつけたり、オットー1世、オットー2世、オットー3世というように「~世」をつけたりする。その一連の工夫の一つとして個々の特徴やエピソードに由来する「あだ名」が登場した。

『九世紀後半以降、貴族たちのもので親から子、子から孫へと同じ名前が受け継がれる特異な命名方法が浸透して数世代がたち、名前を取り巻く状況が区別・識別の問題の上で深刻化する中、問題への対処・解決のためにさまざまな方法・工夫が、時に単独ではなく組合せて、用いられた。あだ名もそうした方法の一つであったが、他の方法・工夫に比べると、比較的容易に、そして確実に個人を特定・識別できた。』(208頁)

何故同じ名前を繰り返すのか、『それは、名前によってその子がどのような親族集団に属するかが分かる』(216頁)ためである。中世前期の人々には姓(家名)が無く、個人名しかない。ゆえにどのような親族集団に属しているかがアイデンティティとなる。他者にとっては識別できない結果となっても、当人たちにとっては同じ名前、「主導名」であることが重要であった。

このような中で同じ「主導名」を持つ親族集団が王侯貴族として永続的な勢力となると、封建制の成立によって、所領を持ち、自立化するようになる。

『彼らは先祖伝来の自家所領を中心にコンパクトに支配領域を形成していき、その中心には堅固で防備にすぐれた石造の城砦を築いて居城とし、新たに城主層として自立性・独立性を確保していった。こうした事態が彼ら城主層にかつてないほどの自信・誇りを生ぜしめ、そうした自意識の高まりを示すものの一つが、自己の権力の象徴たる城砦=居城を以ってする名乗りであった。これがゲルマン系のヨーロッパの人びとのものでの、姓(家名)の誕生であった。』(244-245頁)

姓(家名)の誕生は十一世紀後半以降のことだという。様々な「あだ名」の由来を読み解きつつ、中世ヨーロッパの人々の親族集団=家に対する帰属意識や同族意識の在り方はどのようなものであったのかが浮き彫りになって、非常に面白い。

特に面白かったのは第二章でカール・マルテルのあだ名「マルテル(鉄槌)」の由来を探っていくのだが、そこで批判対象として挙げられているのが「世界歴史大系 フランス史」の佐藤彰一氏の記述と「世界歴史大系 ドイツ史 1」の渡部治雄氏の記述である。ともに概説書としては最高峰、スタンダードと言える一冊であり、著者もこの分野の第一人者となる研究者であるが、両書の記述の間違いを、丁寧に史料を挙げながら論証していく様は実に見事だ。史料批判の教科書として多く学ばされる。

この点について、著者のあとがきに佐藤彰一氏への謝辞を述べた上で、佐藤氏の書いた記述に納得できないところがあったにもかかわらず、『直接伺えばよかったのかもしれないが、気後れして、そうすることはできなかった』(291頁)ため、十年かけて史料を渉猟して論考をまとめ書き上げたのだという。それに対して佐藤氏からも真摯な回答をもらえて『年甲斐もなく、感涙』(291頁)だったそうで、丁寧な史料読解と論証による徹底的な批判、のようにみせてその実、研究者間の熱烈なラブレターだったという、萌え以外の何物でもないオチに読後感は最高だ。

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