「フランス的思考―野生の思考者たちの系譜」石井 洋二郎 著

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近代フランスを特徴づける、デカルト以来の合理主義、フランス語の優位性への確信から広がった普遍主義という二大潮流に対する反合理主義・反普遍主義あるいは非合理主義・非普遍主義的な思想の系譜を、マルキ・ド・サド、シャルル・フーリエ、アルチュール・ランボー、アンドレ・ブルトン、ジョルジェ・バタイユ、ロラン・バルトの六人を通して描くことで、「フランス的思考」の姿に迫る一冊。

著者は「フランス的思考」という書名について、フランス語にすれば”pensée Française”(フランス思想)となるが、敢えて「的」「思考」とすることで『すでに確立された「フランス」の「思想」に関するなんらかの見取り図のようなものを答えとして提示する書物ではな』(P10)く『さまざまな留保つきではあれ「フランス的」という形容詞を冠することができるかもしれない「思考」のありようをめぐる問いかけの書物』(P10)として描く。反合理主義・反普遍主義という「反」という言葉で表現されるようなアンチテーゼ的な存在というより、両潮流ならざる茫洋とした様々な「野生の思考」の姿である。

先日の風刺画事件などでも注目されたフランスの普遍主義とムスリムとの対立、イスラム嫌悪の思想的背景の理解に、本書の序章「合理主義と普遍主義」は大いに参考になる。

デカルトの合理主義を代表する命題として知られる「私は考える、ゆえに私はある(我思う、ゆえに我あり)」について簡潔にまとまっている部分を引用する。

『著者(=デカルト)はまず、「ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめなければならない」とかんがえる。そして最初に私たちを欺く「感覚」を退け、次に誰もが誤りを犯しうる「推論」を捨て去り、最後にそれまで自分の精神の中に入っていたすべてを真でないと仮定する。ところが、このようにすべてを偽であると考えている自分自身は必然的に何者かでなければならないということに彼は気付き、「私は考える、ゆえに私はある」という真理こそが、哲学の最も堅固で確実な第一原理にほかならないと結論づけるのである。』(P14)

『「合理主義」とは、「理に合ったもの」だけをすくいあげることで正確な判断や認識を獲得しようとする態度をい』(P15)い、デカルトは『一般的にある命題が真であり確実であるためには、それが「明晰にして判明」にとらえられることが必要十分条件であると考えた』(P17)。

1782年、リヴァロールは「フランス語の普遍性について」という論文で「主語―動詞―目的語」という文法要素の並び方が理性の秩序に従ったもので、順番を転倒させることも主語を省略することも出来ないことから『明晰でないものはフランス語ではない』という言葉でもって『フランス語は唯一の普遍言語として他の言語に優越する』(P19)ことを論じた。

フランス語は明晰であるという神話が作られたことで、フランス語の普遍性が広く信じられるようになる。『言語の普遍性にたいする信頼は、容易に思考の普遍性にたいする確信へと横滑り』(P23)し、『この自負の念は、自然な成り行きとして、さらに自国の文化や歴史の普遍性にたいする確信へと肥大』(P24)、十九世紀半ばの歴史家ジュール・ミシュレなどの例が紹介されつつ、このような『フランスという国家の特殊個別性を拡大した地平に人類の普遍性を位置づけ、両者を等号で結んでしまう』(P25)ことになり、『熱狂的な自国中心主義的心情の偏狭さを、冷静な合理主義のヴェールで覆い隠してしまう』(P25)というプルデューのいう「普遍のショーヴィニスム」が見られるようになった。合理主義と普遍主義の理念が強固であるがゆえに、現代に至るまでこのイデオロギー的陥穽から脱却出来ていない。

「普遍のショーヴィニスム」は一方で帝国主義的拡大を支え、他方で異分子の排斥を表面化させる。

『「一にして不可分」である共和国の構成員のあいだには、人種や宗教による差別や亀裂をもちこむべきではないという考え方が、共同体内部における「他者」の存在への想像力を麻痺させ、共生への志向を後退させてしまうのだ。』(P26)

合理主義の誕生が科学的思考の基盤として歴史を大いに進歩させたことは間違いがないが、その一方で「理性を最高の原理とし、それに反するものを否定」(P15)する態度を突き詰めた先に異分子の排除と非寛容も醸成された。それが普遍主義と結びつくと寛容という名の排除になる。

このようにフランスにおける合理主義と普遍主義の発展と功罪を端的にまとめつつ、その大きな潮流に抗い、鋭く対立した思想家たちを紹介していくのが本書のテーマだ。

自身の欲求に忠実であることに究極の価値をおき道徳を相対化したマルキ・ド・サド、絶対的懐疑の下で文明を相対化しつつ構成員の情念によって結びつく理想協同体を構想したシャルル・フーリエ、「私は考える、ゆえに私はある」というデカルトの命題に対しその私自体が他者であるとして「人が私において考える」と書いたアルチュール・ランボー、そのランボーを受け継ぎ表現主体としての私を空白化させシュルレアリスム運動を起こしたアンドレ・ブルトン、ほかジョルジェ・バタイユ、ロラン・バルトなどどれも、彼らの思考を「明晰」に描いている。

もともとユートピアニスムについて興味があり、シャルル・フーリエの思想を知りたいと思ってこの本を手にとったのだが、よくわかったと同時にますますわからなくなった。フーリエ奥が深すぎるというか、言っていることが難解すぎんよー。ただ、著者がいう『その思想的営みを「空想的社会主義」という限定的な呼称のうちに押し込めてしまうことがいかに不当な矮小化であるか』(P88)については本書を読んで非常に共感するところだった。同時に、他の二人の空想的社会主義者、サン・シモンにしてもロバート・オウエンにしても、その後の影響の大きさを考えると、フーリエ同様に「空想的社会主義」のカテゴリで十九世紀初頭で終わりとしてしまって良い人物ではない。

そのような点で、カテゴリとしてではなく潮流として、あるいは複数の分野に横断する運動として考えることの重要性を、フーリエにかぎらず、他の人々の思考を本書を通じてたどることであらためて痛感させられる一冊だった。

サドとランボーは生き様から思考までほんと面白い二人だなと思う。特にサドは中二病の元祖みたいなこと言っててなんか憎めない。

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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