「古代天皇家の婚姻戦略」荒木 敏夫 著

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古代天皇家の婚姻の特徴はその強い閉鎖性である、ということを様々な史料を元に当時の東アジア諸国の婚姻関係との比較も交えつつ大局的に描いた一冊。一言で言うと「お兄ちゃんだけど政治目的さえあれば関係ないよねっ」って話(たぶん)。

倭・日本の古代王権は濃密な近親婚によって強い結束力を保とうとした。皇族男性は外部からキサキを迎えることはあっても、皇族女性が非皇族と結婚することはほぼ無く、皇族女性は皇族男性と婚姻関係を結ぶという婚姻規制が存在していた。その特徴は、一つに異母兄弟姉妹婚による同世代婚、もう一つがオジ―メイ婚・オバ―オイ婚による異世代婚である。

六~八世紀を通じて、歴代天皇のキサキを整理するとその多くが異母姉妹か、畿内の諸豪族、一部のほぼ限定された畿内の外(「外国(ゲコク)」)の諸勢力から女性がキサキとなっていることが本書で明らかにされている。

例えば天智天皇の子女四人の皇子と十人の皇女のうち、不明の二人の皇女と夭折した皇子一人を除く十一人は――天智天皇の皇女のうち四人「大田皇女」「鵜野皇女(持統天皇)」「新田部皇女」「大江皇女」が天武天皇のキサキとなっているのを始め――全て天武天皇およびその子女との婚姻関係を結ぶ。天武天皇に限らず歴代天皇は一人の男性が姉妹を妻として娶る姉妹型一夫多妻婚が広く見られているという。

当時の国津罪として近親相姦が定められているが、それに当てはまるのは同母兄弟姉妹間の婚姻で異母兄弟姉妹婚は当てはまらなかったらしい。また、同母兄弟姉妹間の婚姻も中大兄皇子(後の天智天皇)と同母妹間人皇女との関係のように王族の間では必ずしもタブー視されなかった可能性もあるとされ、「ロイヤル・インセスト」と呼ばれる世界的に見られる『王ないし王族に特権的に許された近親婚』(P46)があったようだ。

特に天皇を中心として異母兄弟姉妹婚を行うことでそれぞれの皇女を母とする単位集団を連結する目的があったと見られている。例えば欽明天皇は宣化天皇の三人の娘(石姫、稚綾姫皇女、日影皇女)と蘇我氏出身の二人の姉妹(堅塩媛、小姉君)をキサキとして迎えたが、次代の天皇は堅塩媛を母とする用名、石姫を母とする敏達、小姉君を母とする崇峻の三人が順次継いだ。

同様の目的で、同母兄弟姉妹婚とともに、オジとメイ、オバとオイの婚姻が行われて、世代の違う集団を結合させていた。用名天皇は母堅塩媛の妹で父欽明天皇のキサキであった蘇我石寸名とオバ―オイ婚をしているし、敏達天皇の孫舒明天皇は祖父敏達と推古との間の田眼皇女をキサキとするオバ―オイ婚と同時に敏達天皇の孫茅渟王の娘である宝皇女(後の皇極天皇)をキサキとするオジ―メイ婚をしている。

このような近親婚は、特に王族女性に対する王族内での婚姻に限定する婚姻規制にもとづいていたから、「不婚の内親王」と呼ばれる未婚の王族女性も数多く輩出されることにもなった。

同時に、王権を超えた婚姻関係についても、五世紀ごろ、百済から王族の女性を迎え入れていた可能性があるものの、六世紀以降中国朝鮮の王権から王族女性をキサキとして迎え入れることはなく、王族女性が他の王権と婚姻関係を結んだ例もない。

これは当時の東アジア情勢からすると異例で、新羅・百済・高句麗などは相互に婚姻関係を結ぶことで政治的緊張の緩和や同盟関係の締結など外交の一手段として活用しているし、唐王朝もチベットや契丹など西方諸国へ王族を嫁がせたり(和藩公主)、周辺諸国から王族男子との婚姻相手となる王族女性を迎え入れたりしており、当時の東アジアでは国際結婚が一般的な外交手段として採用されていた。

このような古代天皇家の閉鎖性は日本列島内でも顕著で、畿内より外に属する国(外国(ゲコク))のうち古事記日本書紀にある天武までの歴代天皇のキサキを出したのは伊勢・尾張・越・丹波・吉備・筑紫・日向に限られ、第一に『倭王権の直接の基盤をなす大和・河内の「中心」に対し、西の辺境である筑紫や日向のキサキが記紀に記されている』(P19)一方で、『倭王権の軍事的基盤である東国からのキサキがみえないだけでなく、記紀が「蝦夷」と記した世界からのキサキがみえない』(P19)という特徴があり、『倭王権による婚姻の選択・選別を如実に示すもの』(P19)という。

基本的には畿内と周辺地域の諸豪族からキサキを迎えるに限られており、かつ、皇族女性が臣下のキサキとなることもない。ただ、ヲホド王=継体天皇を一地方豪族とみた場合に、手白髪(手白香)皇女との婚姻がその例外として捉えることが出来るとされる。

『六世紀以降、倭国・日本の王権の婚姻は海外の王権と通婚関係を結ぶ施策は取らず、列島内の蝦夷として「異人」視された集団を王権との婚姻関係から除外したうえで、日本列島内の女性に限定し、もっぱらその婚姻の相手を王族内の異母集団の女性化中央・地方氏族の女性に限定し、差別的に選択した婚姻を採用していくことになるのである。』(P196)

このような閉鎖性に変化が訪れるのが八世紀からの藤原氏の台頭と九世紀の臣籍降下の制度化である。持統天皇八年(694)、藤原不比等が天武天皇のキサキであった五百重姫(藤原鎌足の娘)を妻として迎え子をもうけていることに始まり、延暦十二年(793)、現任の大臣・良家の子・孫は三世・四世の女王を娶ることが許され、藤原氏は二世の王も娶ることが許された。以後、皇族女性との婚姻を藤原氏が独占していく。また、弘仁五年(814)の詔により賜姓源氏が登場すると、臣籍降下した源氏賜姓者との間での婚姻が行われるようになった。

ほかに、桓武天皇が滅亡後に日本に定住した百済王家から三人の女性を女御として入内させている点についても、『桓武天皇が百済王氏の女性をキサキとしたのは、六世紀以来の大王・天皇が行おうとしてできなかった婚姻の「国際化」を実行したことに他ならない』(P162)と評価がなされている点も興味深い。

一方で近代まで脈々と受け継がれて様々な悲喜劇を生み出していく天皇家の閉鎖性の淵源であり、他方で差別的な婚姻を巧みに行うことによって確立されていく王権の強かさでもあるといえるのだろう。古代天皇家の描写を中心としつつ、徳川将軍家と皇族の婚姻や、歴史上絶えることのなかった不婚の内親王の問題、大正九年に初代大韓帝国皇帝の七男李垠と結婚し激動の時代を生きた梨本宮方子のエピソードなども語られ、様々な発見がある面白い一冊だった。

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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