衣笠城址と三浦氏の寺社を歩く

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衣笠城址

衣笠城は平安時代後期から鎌倉時代にかけて三浦半島一帯を支配した三浦氏の本拠地とされてきた城です。平氏の流れを汲む武士村岡平太夫為通が、前九年の役(1051~62)で源頼義に従って功をあげ、1063年、三浦の地を与えられて三浦氏を名乗った際、この地に拠点をおきました。(注1)以後為継、義継と勢力を伸ばし、三浦義明(1092~1180)の代に源義朝に従って相模国・武蔵国一帯に義朝の勢力を広げることに尽力しました。そして衣笠城の名を知らしめたのが、治承四年(1180)八月二十六日、源頼朝の挙兵に際して当主三浦義明が討ち死にした衣笠合戦でした。

以仁王の挙兵に始まる中央の政変に呼応して源頼朝が伊豆で挙兵すると、三浦義明もこれに従い兵を挙げます。三浦軍は頼朝軍に合流しようと兵を進めようとしましたが、酒匂川の増水に阻まれて身動きが出来ませんでした。その間に頼朝軍は石橋山の戦いに敗れて房総半島へ脱出。義明も頼朝敗戦の報に接して撤退の途上、畠山重忠軍と現在の逗子海岸付近で合戦(小坪合戦)となり追撃を振り切って衣笠城へ撤退。その後畠山重忠・江戸重長・河越重頼らが率いる平家方の大軍が衣笠城を取り囲みます。

吾妻鏡には以下のようにあります。

「吾妻鏡」治承四年八月廿六日
今日卯の剋、此の事三浦に風聞するの間、一族悉く以て当所衣笠城に引籠り、おのおの陣を張る。東木戸大手は次郎義澄・十郎義連、西木戸は和田太郎義盛・金田大夫頼次、中陣は長江太郎義景・大多和三郎義久等なり。

(中略)

義明云わく、吾源家累代の家人として、幸いにその貴種再興の秋に逢ふなり。なんぞこれを喜ばざらんや。保つところすでに八旬有餘なり。餘算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛に投げうちて、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、かの存亡を尋ねたてまつるべし。吾独り城郭に残留し、多軍の勢に摸して重頼に見せしめんと云々。義澄以下、涕泣度を失ふといえども、命に任せてなまじひにもつて離散しをはんぬ。

一族の当主で最長老の三浦義明が、大軍を前に一族を逃がして自らは討ち死にを果たす、鎌倉幕府草創時のエピソードの中でも特に劇的なシーンの一つで、ここから後世の城郭イメージも相まって衣笠城を現在の衣笠山域一帯に広がる天然の要害を利用した大規模な山城とする考え方がかつては一般的(注2)で、現地の案内板も山城として紹介されていますが、現在は考古学的な調査も踏まえて衣笠山(鞍掛山)を含む馬蹄型の連丘に挟まれた旧大矢部村にあたる谷地全体を三浦氏の本拠地すなわち衣笠城と捉える考え方が主流となっています。

衣笠城址の碑

衣笠城址の碑

衣笠城址物見岩

衣笠城址物見岩

衣笠城址公園平場

衣笠城址公園平場

衣笠合戦の際には義明がこの物見岩から戦況を眺めて指揮を執ったといわれ、物見岩の下から経筒・鏡・刀子などが発掘されています。ただ周辺の見通しの悪さなどから、実際に物見岩として使われていたのか疑問が呈されています(注3)

衣笠城址の御霊神社

衣笠城址の御霊神社

初代衣笠町長後藤八郎翁碑

初代衣笠町長後藤八郎翁碑

蔵王権現社及御霊神社遺跡碑

蔵王権現社及御霊神社遺跡碑

衣笠城址の石碑や物見岩のある周辺は開けた平場となっていますが、かつては衣笠城の防衛線である詰の城で、伝承では奈良時代の著名な僧行基がこの地を訪れた際に、自ら彫刻した不動明王像を祀った金峯蔵王権現堂があったといわれています。しかし、ここからは城郭の遺構は全く見つかっていないため詰の城ではなくこの下の大善寺や金峯蔵王権現堂に伴う施設でしかなかったのではないかと考えられています。(注4)また、これらの点から、衣笠山は山城ではなく山岳信仰の霊地であったのではないかという説が有力となっています。(注5)

この平場から降りていくと、金峯蔵王権現堂が建てられた際に、その別当として建てられたものと伝わる曹洞宗の寺院大善寺が座しています。

大善寺

大善寺

大善寺本堂

大善寺本堂

不動井戸

不動井戸

この大善寺、金峯蔵王権現堂、不動明王像を祀った不動堂は三浦氏の仏教信仰の中心的な役割を果たしていたといわれ、大善寺の本尊である十二世紀に作られた阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像と江戸時代に作られた勢至菩薩立像からなる阿弥陀三尊像は横須賀市重要文化財に指定されています。

また、大善寺の下には行基が杖で地面を叩いて沸きださせたという伝説の残る「不動井戸」という水場がありましたが現在はコンクリートで蓋をされています。

新しい衣笠城観

斎藤慎一、向井一雄著「日本城郭史」および斎藤慎一著「中世武士の城」によると、衣笠城は中世前期の武士の本拠地のモデルにあてはまる構造だといいます。当時の武士の本拠地のモデルとして、以下のようにまとめられています。

「西を奥とする東西方向の谷がある。その谷底には河川が流れる。谷奥には溜池がある場合がある。谷の北側斜面に並ぶ武士の屋敷や阿弥陀堂。武士の屋敷は溝や堀をめぐらし、支配の象徴として存在していた。近くには馬場や的場があった。谷にある武士の屋敷は惣領だけではなかった。庶子の屋敷であろうか、それとも従者の屋敷であろうか、谷の中に複数の屋敷ブロックが存在することもある。極楽浄土の装置としての阿弥陀堂には前面に浄土庭園がある場合があった。また周辺に墓地もあったであろう。阿弥陀堂と武士の屋敷その前面の谷底には東西の道路が普請されていた。道路と河川は並行していたであろう。西の谷底には堂などの聖地がある場合もある。空間の一角には現世利益の装置もあった。観音を祀る霊場。熊野神社。氏神。大般若波羅蜜多経を備える寺社など。これらは谷の西奥に象徴的に配置され、聖地と重なることもあった。」(「日本城郭史」P163-164)

現在衣笠城址とされる一帯から衣笠山にかけての一帯を西に見ると、その東山麓にあたる大矢部一帯、東西に延びる谷地ぼ北側斜面に三浦義明を祀る御霊神社を境内に持つ満昌寺、その東に三浦義村を祀る近殿神社と現在は廃寺となって三浦義澄の墓所のみが残る薬王寺址があり、道を挟んで向かいには廃寺となった円通寺の滝見観音を本尊とし三浦為通・為継・義継の墓と伝わる墓所を備えた清雲寺があります。これらはかつて「初期の三浦氏の本家の居館が存在していた場所」(「日本城郭史」P166)と考えられていて、「満昌寺・近殿神社・薬王寺は屋敷であった場所が寺社に転じたと推測でき」、「清雲寺・円通寺は極楽往生・現世利益の装置の寺院に解せる」(「日本城郭史」P166)として、西に霊場としての衣笠山、谷底に流れる大谷戸川に囲まれて谷の北側斜面に屋敷を構え、現世利益の装置を備えた中世武士の本拠地の天啓的なモデルとして再評価されています。

上述した吾妻鏡の配置についても、従来は東木戸・西木戸を山城を前提として衣笠山山麓に布陣したとされてきましたが、そうではなく、「『吾妻鏡』が記載した『東木戸口大手」「西木戸」はこの谷地形を踏まえたものではなかったか」(「日本城郭史」P166)とされています。確かに、衣笠山から大矢部の一帯の東側には東木戸に陣を構えたとされる佐原十郎嘉連の屋敷跡といわれる満願寺があり、この説を裏付けるように思われます。

それぞれ歩いてみたので順に紹介していきましょう。

衣笠山公園

衣笠神社

衣笠神社

衣笠神社内山王森大神

衣笠神社内山王森大神

衣笠山公園碑

衣笠山公園碑

住宅街を抜けて衣笠山公園へと登っていくと、衣笠山公園の入口横に衣笠神社があります。当地の案内板によると、かつて衣笠村には字ごとにあわせて二十三の神社がありましたが、大正二年、一村一社の政令に基づいて小矢部一丁目にあった村皇大神社に合祀、さらに小矢部一丁目の熊野社・山王社を解体してあわせて現在地に移転させて衣笠神社としたとのことです。第二次大戦後の昭和二十年、参拝に不便との理由で合祀された衣笠神社から大矢部、平作、阿部倉、池上の各町に分離、それぞれ鎮守を復活させています。(注6)

衣笠山公園日露戦争慰霊碑

衣笠山公園日露戦争慰霊碑

衣笠山公園の桜並木

衣笠山公園の桜並木

衣笠山公園の桜

衣笠山公園の桜

衣笠山公園さくらまつり

衣笠山公園さくらまつり

衣笠山公園のお花見

衣笠山公園のお花見

衣笠山公園展望台

衣笠山公園展望台

衣笠山は正しくは鞍掛山と呼ばれ、谷一つ挟んだ衣笠城址と三浦半島最高峰大楠山などに連なる連丘の一角を占めています。明治四十年(1907)、日露戦争で亡くなった戦没者の霊を弔うため頂上に「芳名不朽」の文字を刻んだ記念碑と数百株の桜・つつじなどを植えて公園として整備したのが衣笠山公園のはじまりです。(注7)以降、衣笠山公園は桜の名所として知られ、見ごろを迎えると園内いっぱいに桜が咲き誇りたいへん奇麗です。

満昌寺(三浦義明墓所)

義明山満昌寺

義明山満昌寺

満昌寺本堂

満昌寺本堂

三浦義明墓所(御霊神社)

三浦義明墓所(御霊神社)

衣笠合戦で戦死した三浦義明の菩提を弔うため、建久五年(1194)、三浦頼朝が建てたと伝わる古刹です。境内には頼朝手植えと伝わるつつじや、本尊である木造宝冠釈迦如来坐像、鎌倉時代末期に入寺して本寺を臨済宗にあらため(元の宗派は不明)た中興開山佛乗禅師天岸彗広坐像などが祀られています。(注8)

満昌寺の一角にあるのが義明の孫和田義盛によって建てられたと伝わる御霊神社があります。三浦義明の墓と、国の重要文化財である木造三浦義明座像が祀られています。

上記の通り、この満昌寺の付近が衣笠合戦当時、三浦氏の本拠地があった一帯、すなわち三浦氏の本拠としての衣笠城の中心と考えられるようになってきました。

近殿神社と薬王寺址(三浦義澄墓所)

近殿神社

近殿神社

薬王寺址

薬王寺址

三浦義澄墓所

三浦義澄墓所

三浦義明の孫で三浦義澄の子、鎌倉幕府内で影響力を発揮し三浦氏の地位を押し上げた三浦氏当主である三浦義村を祀る神社です。満昌寺の裏手にあたり、創建の経緯等は不明ですが、前述の満昌寺、近くの薬王寺とともに三浦一族の屋敷があったのではないかと考えられている一帯です。(注9)衣笠神社設立時に同神社に合祀されたあと、あらためて第二次大戦後に分離、再建されました。(注10)

薬王寺は建暦二年(1212)、侍所別当であった和田義盛が父杉本善宗や叔父の三浦義澄の菩提を弔うため創建した寺院でしたが明治九年頃廃寺となったと伝わります。(注11)現在はアパートの裏手にひっそりと三浦義澄の墓が残されているのみとなっています。

清雲寺(三浦為通・為継・義継墓所)

清雲寺

清雲寺

伝三浦三代墓所

伝三浦三代墓所

石造板碑文永八年在銘

石造板碑文永八年在銘

満願寺の道路を挟んで向かいから路地を入って坂道を上ると、清雲寺があります。三浦義継が父為継の冥福を祈って創建したと伝わり、かつては毘沙門天像が本尊とされていましたが、円通寺の廃寺後は同寺の本尊だった滝見観音像が本尊となっています。毘沙門天像は建保元年(1213)、和田合戦の際に顕現して敵の矢を受けたという伝承があることから「箭請(やうけ)毘沙門天」とも呼ばれています。(注12)

境内の本堂裏手には三浦三代の墓所と伝わる墓石があります。中央が三浦為継、左右のどちらかが為通、義継の墓とされていますが、墓石はともに鎌倉期のもので円通寺から移されたものです。(注13)

三浦三代の墓所脇に置かれているのが横須賀市重要文化財「石造板碑文永八年在銘」です。こちらも円通寺裏山のやぐら群に安置されていたもので、現地の案内板によると以下の通り。

「埼玉県秩父産緑泥片岩製の武蔵型板碑で、現存地上高一三六・五cmを測る。
主尊の梵字は阿弥陀種子キリークで、中央に『文永八年五月十四日左衛門少尉平盛信』、その下に次の願文を五行で刻んでいる。
『右志者先考/聖霊當十三/年遠忌為成/佛得道造立/供養如件敬白』
平(佐原)盛信が、亡き父(佐原光盛)の霊の十三回忌にあたり、成仏し仏道の悟りを開くように板碑を造立し供養したことを記す。」

満願寺(佐原義連墓所)

満願寺

満願寺

満願寺の竹林

満願寺の竹林

佐原十郎義連墓所

佐原十郎義連墓所

三浦義明の末子佐原十郎義連によって創建されたと伝わる臨済宗の寺院です。境内には佐原義連の墓所があります。近くの丘陵地に衣笠城の支城として佐原十郎義連に建てられたとされる佐原城址がありますが、田嶌2015によると「地表面観察でも発掘調査でも、はっきりとした城郭遺構は確認できない。台地上を利用した屋敷地などを想定するべきではないだろうか」(注14)としており、満願寺も含めて広い一帯で佐原氏の屋敷地が想定されています。本尊である木造観音菩薩立像、木造地蔵菩薩立像、木造不動明王立像、木造毘沙門天立像はいずれも国の重要有形文化財に指定されており、電話予約をすれば観覧が可能となっています。(注15)

境内には竹林や季節の花々などがあり、満願寺周辺は閑静な住宅街で近くにはほたるの観察ルートなどもあり、散策コースとしても非常におすすめです。

以上、三浦氏の本拠地を歩いてみた記事でした。

注1)従来、為通が三浦荘を与えられたとされてきましたが高橋2016によると三浦荘という名は架空と考えられ三浦氏が三浦半島に拠点を築くのはもっと後、為継のころのことと考える方が妥当のようです。
注2)山城として捉えられている説として赤星1955、また一般向けに書かれた「神奈川県の歴史散歩 (上) (歴史散歩 (14))」も山城説で紹介されています。斉藤2006、田嶌2015いずれも通説としての山城説を紹介した上でこれを否定して論じています。
注3)田嶌2015、P56
注4)田嶌2015、P56-57
注5)斎藤2006、P179
注6)衣笠神社境内の案内板より
注7)衣笠山公園園内の案内板より
注8)満昌寺境内の案内板および「神奈川県の歴史散歩(上)」P224より
注9)斎藤2006、P181
注10)近殿神社境内の案内板より
注11)現地の案内板より
注12)「神奈川県の歴史散歩(上)」P226より
注13)清雲寺境内の案内板および「神奈川県の歴史散歩(上)」P226より
注14)田嶌2015、P68
注15)満願寺境内の案内板より

参考文献
・斎藤慎一、向井一雄「日本城郭史」吉川弘文館、2016年
・斎藤慎一「中世武士の城(歴史文化ライブラリー218)」吉川弘文館、2006年
・高橋秀樹「三浦一族の研究」吉川弘文館、2016年
・田嶌貴久美「衣笠城 幻影だった鎌倉時代の巨大山城」(西股総生、松岡進、田嶌貴久美「神奈川中世城郭図鑑(図説日本の城郭シリーズ1)」戎光祥出版、2015年)
・同    「佐原城 明確な城郭遺構が確認できない伝説の城」(西股総生、松岡進、田嶌貴久美「神奈川中世城郭図鑑(図説日本の城郭シリーズ1)」戎光祥出版、2015年)
・平井聖「日本城郭大系 第六巻 千葉・神奈川」新人物往来社、1980年
・永原慶二監修「新版 全譯 吾妻鏡 第一巻」
・横須賀市教育委員会「横須賀市史 資料編 古代・中世1」横須賀市教育委員会、2004年
・神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会「神奈川県の歴史散歩 (上) (歴史散歩 (14))」山川出版社、2005年
・赤星直忠「三浦半島城郭史」横須賀市教育委員会、1955年

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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