「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制 (講談社学術文庫)」笠谷 和比古 著

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「関ヶ原の合戦」をめぐる通説も大きく変わってきている。“関ヶ原の合戦における東軍の勝利により、豊臣家は一大名に転落、徳川家康が覇権を確立し、のちの徳川幕府による一元的な支配体制の礎を築いた画期となった戦い”という理解はすでに退けられた。では、関ヶ原の戦いとはなんだったか、従来の「天下分け目の合戦」としての関ヶ原の戦い観を大きく転換して、現在、通説の地位を獲得したのが本書をはじめとする笠谷和比古の一連の論考である。

笠谷が本書で提示した新見解は「関ヶ原の合戦はたんなる徳川と豊臣の抗争というだけのものではな」(P221)く、「家康と徳川家にとって、永続的な天下支配のための盤石の態勢をもたらしたとする従来の通説、通念は誤りとする見解」(P3)であり、「豊臣政権が直面し、その内部において胚胎した国制上の矛盾や葛藤の所産であり、その大規模な決着を踏まえて、徳川幕藩体制という新たな国制を形成していくうえでの条件醸成の状況としてとらえる」(P221)ものだ。

その見解を支える命題として以下の三点を挙げている。

「第一は、家康の率いる東軍の構成では徳川の主力軍が欠落しており、むしろ家康に同盟した福島正則以下の豊臣系武将の軍事的比重がきわめて高かったこと。第二は、徳川主力軍は家康ではなく、中山道を進む徳川秀忠に率いられていた部隊の方であり、同部隊が信州上田城の真田昌幸との戦いに手間取ったために、徳川主力軍が関ヶ原合戦において欠落する結果となったということ。第三は、戦後の領地再配分において、西軍からの没収地の大半が家康に同盟した豊臣系武将たちに分与され、家康と徳川勢力が獲得した領地は全国の三分の一でしかなかったこと。」(P3-4)

そのうえで関ヶ原の合戦を「豊臣政権が直面し、その内部において胚胎した国制上の矛盾や葛藤の所産」としている点から、関ヶ原の合戦にいたる豊臣政権の誕生と変容の過程を丁寧に追っていく。その関ヶ原の合戦へ帰結した豊臣政権下で生じた矛盾と葛藤として、第一に秀次切腹事件を契機とする秀吉の相続をめぐる対立、第二に朝鮮出兵の中で生じた石田三成ら吏僚派と加藤清正・福島正則の武断派の対立、第三に天下一統戦争と太閤検地を通じて諸大名家に設けられた太閤蔵入地の存在と外様大名の家臣団の中から直接秀吉に取り立てられたことで台頭する親豊臣派を通じた干渉と他の家臣団との軋轢である。

あきらかにされるのは従来捉えられてきたような豊臣vs徳川という単純な構図ではなく複雑に入り組んだ様々な対立が関ヶ原の合戦の背景として存在しているということである。それぞれの対立関係についてはその後の研究によってより深化されたものもあれば、あらためて疑問が呈されて論争となっているものもある。

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北政所と淀殿は対立したのか?

その一つとして笠谷は関ヶ原の合戦の背景にある対立構図の一つとして北政所と淀殿との対立関係を提示している。その前提となる史料は浅野幸長・黒田長政から小早川秀秋に送られた慶長五年(1600)八月二十八日付書状にある「政所様へ相つゝき御馳走不申候ては、不叶両人に候間、如此候」と、幸長・長政が秀秋を調略するうえで北政所の名前を出して、私たち二人は政所様に奉仕しなければならないので家康につきました、と語っている点で、笠谷は「北の政所に好意を寄せ、彼女のために尽くすということは、とりもなおさず家康に与同して、淀殿と三成の勢力に敵対することであるということが、率直な実感として人びとのあいだで共有されていたということ」(P102)として「同合戦における両陣営の勢力分布を規定する要因として、北の政所と淀殿との確執という問題が伏在していたことを明確に実証するもの」(P102)と断じる。

しかし、その後の研究としては笠谷の説に反して両者の対立は無かった、あるいは対立があったことを実証することはできないといった見解が主流となってきているようだ。矢部健太郎氏は「それだけをもって、北政所が家康側の幸長・長政と組んで淀殿らの一派と対立していたと考えるのは早計」(「」P187-188)、「反家康側が家康を弾劾した『内府ちがいの条々』にも、北政所の名が登場」(P188)しており、「家康側のみならず、反家康側も北政所の名前を関ヶ原本戦前の重要な局面において持ち出していた」(P188)点を反論している。つまり両勢力が自身の正当性を証するためにどちらが北政所の意に沿うかを論じて競い合っていたということである。また、光成準治氏も福田千鶴氏の論を紹介するかたちで「関ヶ原合戦を通じて北政所(寧)と淀殿(茶々)が連携して」(P9)おり「北政所を後ろ盾とする加藤清正・福島正則らの武功派と淀殿を後ろ盾とする石田三成・増田長盛らの吏僚派という単純な対立図式は成り立たない」(P9)としている。

「武門の棟梁」と「二重公儀体制論」

これら豊臣政権下の政治的矛盾と葛藤の帰結としておきた関ヶ原の合戦が終結しても、徳川家が豊臣家にとって代わることはなかった。上記の通り、徳川主力軍3万が決戦に遅れて参加できなかった結果、徳川家康直属軍は約6000でしかなく、合戦は豊臣系大名を主力として頼らざるをえない。戦後、「西軍から没収した六三二万石の領地の八〇パーセント強にあたる五二〇万石」(P223-224)が豊臣系武将に与えられ、彼らは国持大名に昇格、「徳川家の勢力は一門・譜代の大名まで含めても関東から近江国あたりまでの地帯を支配するにとどまった」(P224)。その上で、引き続き豊臣宗家に忠誠を誓うわけで、関ヶ原合戦の結果は政権交代を意味しない。

むしろ重要なのは、家康の征夷大将軍任官と秀忠への将軍職引継ぎの方で、「征夷大将軍は伝統的に『武門の棟梁』としてあるのだから、全武家領主がこれに臣従するのは当然であるとして、彼らをその支配下に編入してしまう」(P227)。そのうえで豊臣秀頼は将来の関白であり、官位上は征夷大将軍より関白の方が上であるから豊臣家の政治的権威を侵さない。

「この手法は多くの豊臣系武将大名にとっても、豊臣秀頼に対する忠誠を持続したままで、なおかつ同時に『武門の棟梁』としての家康に臣従することを倫理的に可能とするものであったことから、彼らの支持をも無理なく取りつけられる性格を有していたのである。」(P227)

一種のクーデターであり、秀頼を頂点とする政治支配体制と並立するもう一つの政治体制を構築しようという試みであった。この体制を笠谷は「二重公儀体制」と呼ぶ。

「こうして将軍職を軸に構成された家康の政権すなわち徳川の将軍型公儀と、他方では豊臣秀吉が構築し、なお潜在的にはその制度上の力を持続させている関白職を基軸とする豊臣の関白型公儀が併立するかたちで、慶長年間の政治体制はあった。そして豊臣系武将をはじめとする武家領主たちは、双方の公儀の下に包摂され、両属するかたちで存在していたのである。二重公儀体制と呼ぶゆえんのものである。」(P227)

少なくとも家康はこの二重公儀体制をその後も持続させようとしていた、という。豊臣秀頼を殺し豊臣家を滅ぼして徳川の天下を確実なものとしようと決心したのはまさに豊臣家が滅亡する大坂の役の直前であったようだ。大坂の役はまさに「政治体制の中心点が一つではなく、二つ存在することからくる矛盾と葛藤の構造的な対立の問題として理解することができるということ」(P229)であり、「秀頼と豊臣家が関ヶ原合戦後にたんなる一大名に転落していたとしたならば、生ずる必要も必然性も無かった」(P229)ものである。

笠谷が打ち立てた説はその後も多くの批判と深化を経つつ概ね通説として受け入れられていったが、近年の関ケ原合戦研究の一次史料の見直しによる深化は改めて笠谷らによる通説を問い直すものとなっている。今後、本書の諸説の多くが改めて議論され見直されていくことになるだろう。最近の関ケ原合戦に関する書籍を読むうえで、批判の対象となっている議論がどのようなものか理解するために押さえておきたい基本書といえるのではないかと思う。

本書とあわせておすすめなのが以下の三冊。

矢部著は豊臣政権を清華成という観点から捉えなおす。光成著は特に毛利輝元の主体的な動きから関ケ原合戦を見る。白峰著は一次史料にこだわって、かなり論争的な事実を次々と提示している。一通り読み比べながら、さらに近年多数刊行されるようになった関ケ原合戦や豊臣政権、初期徳川政権などをテーマにした書籍を読んでいくと理解が深まる。

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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