ジャンヌ・ダルクの家族と友人~残された人々はどう生きたか

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ジャンヌ・ダルクの家族

ジャック・ダルク

ジャンヌ・ダルクの父。ジャンヌが生まれ育ったドンレミ村の名士であった。1420年頃、旧領主ブールレモン家の邸宅を村の倉庫兼避難所として使えるよう賃借契約を結んだ記録や、23年に、野武士ロベール・ド・サルブリュックと交渉して村を荒らさないよう取り決めを結んだ記録があり、1425~27年には村の取りまとめ役を務め、村を代表して何度もヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールへの代訴人となったこともある。(コレット・ボーヌ「幻想のジャンヌ・ダルク」P57-58)

彼がジャネット(ジャンヌの故郷での呼び名)のことを非常に溺愛していたことは多くの証言からうかがわれる。ジャンヌ・ダルク処刑裁判での三月十二日のジャンヌの証言によると、「父が娘のジャンヌが兵隊達と連れだって家を出てしまう夢を見た」として、父母がジャンヌを厳しく監視するようになり、あわせて母から「儂がジャンヌのことで夢に見たようなことが起きるくらいなら、あの娘を溺れさせてやりたい。お前達にできないなら儂自身でやってやる」(ジャンヌ・ダルク処刑裁判P136-137、1431年三月十二日月曜日午後の審理)と父が兄たちに言っていたことを聞かされている。

結局ジャンヌは両親に話さないまま、叔父デュラン・ラクサールに頼んでドンレミ村を出ることになった。

1429年七月。父ジャック・ダルクは妻イザベル・ロメとともにランスへ向かい、戴冠式での娘の雄姿を眺めている。また、フランス王シャルル7世よりジャック・ダルクに対してドンレミ村の王税免除が約束された。(コレット・ボーヌP38)このときジャンヌとも会ったかもしれないが――ランスの南にあるシャロンという町でジャンヌとドンレミ村の人々が面会したという記録が残る(高山一彦「ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける『聖女』」P82)――これが父母と娘の今生の別れとなった。

ジャック・ダルクの死はジャンヌの処刑と前後した時期と考えられている。死因はわからない。「娘の悲惨な死を聞いて悲しみのあまり死去したとも伝えられている」(高山一彦「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」の編注P359)としてジャンヌの死後すぐに亡くなったとされることが多いが、コレット・ボーヌは、処刑裁判で「ドンレミの家を母の家と言っているジャンヌの供述」(コレット・ボーヌP38)と根拠としてジャンヌ処刑の前だとする。

なお、英語、フランス語、日本語版wikipediaは没年を1440年としているが、この没年を1440年とする説はジャンヌ・ダルクに関する邦訳・日本語文献に一通り目を通した限り確認できていない。海外の研究で1440年説が唱えられているのかもしれない。

イザベル・ロメ

ジャンヌ・ダルクの母。裕福な家の出身でローマへの巡礼を表すロメの渾名のとおり熱心なキリスト教徒だった。ジャンヌは母から「天にまします我等の父よ」「めでたし聖寵みちみちてるマリア」「われ唯一の神を信ず」(” Pater Noster , Ave Maria , credo ”)という祈祷文を教わったと証言(「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」P65)しており、母としてジャンヌの信仰の道を開いた。ジャンヌの護衛をした騎士ジャン・ド・ヌイヨンボンはジャンヌから「私は貧しい母の許で糸を紡いでいるほうがずっと良いのです」(「ジャンヌ・ダルク復権裁判」P122)と、本当は母の許にいたかったという本心を聞いている。

ジャンヌ死後、1440年にオルレアンに住む息子ピエールに迎えられ、43年以降、年金をオルレアン市より受けた。

1455年十一月七日、パリ、ノートルダム寺院。イザベル・ロメはジャンヌ・ダルク復権裁判開会にあたり、満足に歩けない中で、息子ピエールとジャンに支えられて、感動的な請願を行う。

「私には正当な結婚で得た娘が一人おりました。私はその娘に洗礼と堅信の秘跡をしかるべく受けさせ、神を畏れ、教会の伝統を敬うように育てました。その子は年をとるにつれ、また畑と牧場の中という素朴な環境の中で成人したことにもより、いつも教会にお詣りをし、毎月きちんと告解をすませた後で、その若さにもかかわらず、聖体拝領をしておりました。そして当時の民衆のおかれている苦境に心からの同情を寄せる娘は、そのために開かれる断食会や祈祷会にも熱心に献身的に参加しておりました。しかるに、娘はいかなることにせよカトリック信仰に背くことを。考えたり、望んだり、行ったりしたことはないにもかかわらず、反対派の人や敵たちは、貴族や一般の人たちに呪詛、軽蔑、憎悪されていることを理由に、娘を信仰の裁判にかけ、あまつさえ不正にも娘を異端者と断定して、残酷にも火あぶりの刑に処したのでございます。」

(引用元の中略部分を補うため、前半「私には~参加しておりました」はペルヌー「ジャンヌ・ダルク」P280、後半「しかるに~以降」ペルヌー「ジャンヌ・ダルクの実像」P143から引用)

会場は熱狂に包まれて一時審議を中断せざるを得なくなるほどだったと伝わる(ペルヌー「ジャンヌ・ダルクの実像」P143-144)。母は娘の復権が認められた後、1458年に亡くなった。

ジャックマンとカトリーヌ――早世した兄と姉妹

ジャックマンはジャンヌ・ダルクの長兄。彼についてはほとんど記録が残っていないが、少なくとも1425年以前、早くに結婚して別居しており、ジャンヌの死後ほどなくして亡くなっている。

カトリーヌはジャンヌ・ダルクの姉妹。妹説と姉説がある。ジャンヌとはさほど年が離れていなかったとされ、結婚後、出産時の産褥で亡くなった。死亡時期についても、ジャンヌの出発前とする説とジャンヌの死後とする説がある。後世の創作では「ジャンヌの出発前に死亡した姉」設定になることが多い。個人的には、家族からのかわいがられようを見るに、ジャンヌには妹属性とでもいうような、末っ子っぽい自由さと過保護感があるとは思う。

ピエールとジャン――生き残った二人の兄

ジャンヌ・ダルクの兄で次兄と三兄。どちらが上か入れ替わることがあるが、ピエールを二番目、ジャン(またはプティ=ジャンと呼ばれることもある)を三番目とするのが通説である。ジャンヌがドンレミ村を出た後、二人で妹を追いかけ、ジャンヌ・ダルク部隊の一員として彼女の下で戦った。

オルレアン解放から戴冠式に至る戦功によりジャンヌの一族に貴族位とデュ・リス姓が与えられると、二人ともデュ・リス姓を名乗る。リスは百合を意味しヴァロワ王家を象徴する花である。「全体が青地で、二本の黄金のユリのあいだに、刀身が銀色で金箔がかぶせられた鍔をもつ剣があり、剣の先には金冠が置かれた」(ミシェル・ヴィノック「ジャンヌ・ダルク」(ピエール・ノラ編『記憶の場 フランス国民意識の文化=社会史<模索>3』)P21)紋章をデュ・リス家は代々受け継いだ。ゆえに百合はジャンヌ・ダルクを象徴する花である。ただ、ジャンヌ自身はデュ・リス姓を名乗らなかった。

デュ・リス家の紋章

デュ・リス家(ジャンヌ・ダルク)の紋章
wikimedia commonsより

ピエールは最後までジャンヌの下で戦い、コンピエーニュではジャンヌとともにブルゴーニュ軍の捕虜となった。ピエールは同じく捕虜となった副官ジャン・ドーロンと一緒に収監され、後にジャンヌが処刑裁判の地ルーアンへと送られるのを見送ることになった。ジャンヌ死後、1436年時点でまだ捕虜であったことが確認されているので、1430年代後半まで長きに渡って虜囚としての日々を送り、ようやく解放されたあと結婚し、1440年頃オルレアンに妻と子、そして母イザベル・ロメを迎え居を構える。以後、フランス軍に参加して対イングランド戦争を転戦、ジャンヌ・ダルク復権裁判の開催に向けて弟ジャンとともに尽力した。

ジャンについてまず語られるのは悪い話の方からである。1436年、悪名高い偽ジャンヌ事件が起きた。ジャンヌ・ラ・ピュセルを自称する女ジャンヌ=クロード・デ・ザルモワーズがロレーヌ地方からオルレアン市にかけて現れ、「魔法」を披露して1440年まで四年に渡って金銭を詐取してまわったという事件である。このときジャンは彼女を妹ジャンヌだと認めてオルレアン市から金銭を受け取っている。その正体は没落小貴族の娘で、所領を追放処分になった騎士ロベール・デ・ザルモワーズの妻である。どうやら彼女はジャンヌとよく似ていたらしく、ジャンヌのこともよく調べていたため、実兄ジャンも認めたこともあって、少なからぬ人が騙され――1439年にはかつての戦友ジル・ド・レも騙され、彼は偽ジャンヌを戦場に連れて戦っている――ている。1440年、偽ジャンヌはシャルル7世に召喚されて偽物であると喝破され、裁判で自身はジャンヌ・ラ・ピュセルではないこと、二度と詐称しないことを誓い追放された。その後偽ジャンヌの行方は知れない。(コレット・ボーヌ「幻想のジャンヌ・ダルク」P375-377、レジーヌ・ペルヌー「ジャンヌ・ダルク」P400-401)

このためジャンに対しては詐欺師の評価が下されることが多いが、このころ、夫も子も亡くして失意の年老いた母イザベル・ロメを支えるのは彼しか残っていないことを考えると情状酌量の余地があるようにも思う。生きていくため、守らなければならない家族のために手段を択ばなかったということのようにみえるのである。

こののち、ジャンは長兄ジャックマンの娘と結婚、1452年、ヴェルマンドワ代官およびシャルトル守備隊長に任じられ、1456年のジャンヌ・ダルク復権裁判の開催に兄ピエールとともに尽力、1457年、ジャンヌ旅立ちの地として知られるヴォークルールの守備隊長となり、以後十年以上同職を務めて亡くなった。

生き残った二人の兄の好対照な人生はとても興味深い。ジャンヌと最後まで戦ったピエールは妹の影を追うかの如くその後も戦場を駆け巡り、残されたジャンは、まるでいつか妹が帰ってくることを信じているかのように、家族と故郷を守り続けているように見える。実際、ジャンは生涯生家に住んだ。そしてデュ・リス家はジャンの家系が残り、ジャンの末裔(十七世紀にルイ13世に仕えたシャルル・デュ・リスという人物が知られている)も代々生家を守り続け――流石に19世紀には所有者が変わってはいたが――、幸運にも近代に入ってジャンヌ・ダルク再評価の波が訪れ、ジャンヌ・ダルクの生家は五百年以上の時を経て現代まで残ることになったのである。

ちょっと変わり者の妹がフランスを守ると村を飛び出して行ったので守らないと、と追いかけたらあれよあれよという間に妹ジャネットは救国の乙女ジャンヌ・ラ・ピュセルへと変貌していく・・・そんな姿を二人はどのような思いで見つめていたのだろうか。そして、妹の死という事実をどのように受け止めて、その後を生きたのだろうか。

デュラン・ラクサール

ジャンヌ・ダルクの叔父。ジャンヌの母イザベル・ロメの姉の娘婿にあたり、ドンレミとヴォークルールの中間にあるビュレイ村に住む農民である。復権裁判時約60歳なので当時は30代前半。1428年五月十三日、ラクサールはジャンヌを身重の妻の手助けにと家に招くが、そこでジャンヌからヴォークルールの城主ロベール・ド・ボードリクールに会わせてくれと懇願され、なんとかボードリクールと会わせることができたものの、フランス王に会いたい、フランスを救うというジャンヌの突拍子もない話に対して、ボードリクールは「娘の両頬を引っぱたいて両親の元に送り返せ」とラクサールに言い、もちろんそれも実行できず、話にならないと思ったジャンヌにマントを引っ張られて退出している。

その後もロワール公シャルルに呼び出されたジャンヌに付き添ってロワール老公の願いを無下に断るジャンヌの横ではらはらしたり、ヴォークルールの城下でフランス王を救うなどと言いだして注目を集めるジャンヌに付き合ったり、何かとジャンヌに振り回されながら、けなげなまでに協力して、わざわざなけなしのお金まで出して彼女のために馬を買い、最後はジャンヌがボードリクールに認められてヴォークルールからシノン城へ旅立つのを見送り、ランス戴冠式でもジャンヌの父母らとともにランスを訪れてジャンヌに面会している。(「ジャンヌ・ダルク復権裁判」P109-110、レジーヌ・ペルヌー「ジャンヌ・ダルク」P48-50,P141)例えるならハルヒにとってのキョンみたいなポジションの、姪っ子にめっぽう弱い優しく善良な叔父さんであり、ジャンヌのよき協力者として名を遺した。

ドンレミ村の人々

マンジェットとオーヴィエット――ジャンヌの友人たち

ジャンヌ・ダルクには少し年上のマンジェット、少し年下のオーヴィエットとギィユメットという三人の同世代の幼馴染の友人がいた。ギィユメットについては記録が残っていないのでわからないが、マンジェットとオーヴィエットは復権裁判でも証言を寄せており、三人の親密さがよくわかっている。

マンジェットはジャンヌと家が近く、彼女と一緒に糸を紡いだり、夜となく昼となく一緒に食事をし、ドンレミ村にあった「妖精の木」あるいは「婦人の木」と呼ばれるブナの巨木の下で一緒に食事をしたり踊ったり森にある泉に水を飲みに行ったりした。ジャンヌについて彼女はこう語っている。

「彼女は非常に気だてがよく、飾り気がなく、また信心深かったので、私も他の娘たちも、あなたは信心深すぎるわよと言ったくらいです。彼女はよく働き、たくさんの仕事をしました。糸を紡ぎました。家事もしました。麦の刈り入れもしました。またしばしばではありませんが必要な場合には、自分の順番になると糸を紡ぎながら家畜の番をしたこともあります。
(中略)
村から立ち去る際に、彼女は私に『さようなら』と言いました。それから、遠ざかりながら私のことを神様にお祈りして、ヴォークルールに向かって去っていきました。」(ジャンヌ・ダルク復権裁判P104-105)

オーヴィエットはジャンヌより3つか4つ年下の幼馴染で、後世、ジャンヌの最も大事な親友と目される少女である。ジャンヌと一緒にいることが多く、彼女の家に泊まったこともある。マンジェット同様、ジャンヌと一緒に糸を紡いだり、舵を手伝ったり、妖精の木の周りでお弁当を食べたり遊んだりした。泉の日曜日というお祭りの日にはジャンヌや村の娘たち男の子たちと一緒に妖精の木や森の泉に遊びに行ったことを復権裁判で語っている。また、ドンレミ村が夜盗の襲撃にあったときにジャンヌやジャンヌの家族と一緒に避難して避難先のヌフシャトーの宿屋でジャンヌと一緒に食事や片付けの手伝いをした。

「幼いときから私は乙女ジャンヌを知っています。彼女はドンレミで、ジャック・ダルクとイザベレット夫婦の間に生まれました。夫婦は立派な農民で、評判も良いカトリック信徒でした。私がこのことを知っているのは、彼女と一緒にいることがとても多かったからですし、友達として彼女の父親の家に泊まりにも行ったからです。

(中略)

私はいつ彼女が村から出ていったのかは知りません。このことでは、ずいぶん泣きました。彼女は優しかったからとても好きだったですし、仲良しだったからです・・・・・・。」(ジャンヌ・ダルク復権裁判P103-104)

ジャンヌは村を出るとき、マンジェットには別れを告げ、オーヴィエットには何も言わなかった。おそらくはジャンヌにとってマンジェットは何でも相談できる友人、オーヴィエットは心配をかけたくない友人という意識だったのではないだろうか。オーヴィエットに何も言えず村を出たことに心残りはあったかもしれない。戴冠式を終えたあと、ジャンヌは使命を果たしたので村に戻りたいとル・バタール・ドルレアン(オルレアン私生児、オルレアン防衛戦時の司令官)に語っていた。

「私の創造主の神さまがここらで身をひくことをお許しくださらないものかしら。武器を捨てて父母の手伝いに戻り、羊の番をしたり、兄や妹(引用者注:レジーヌ・ペルヌーは妹説を取る)たちといっしょにいられれば、どれほど皆はまた私に会えて喜んでくれるでしょう。」(レジーヌ・ペルヌー「ジャンヌ・ダルク」P141)

しかし、悩んだ末、ジャンヌはさらなる戦いに身を投じ、結局、彼女たちと再会することはなかった。

使命を終え村に帰ってきたジャンヌが、ばつの悪そうにオーヴィエットのもとを訪れ、何も言わず出ていったことを詫び、オーヴィエットが泣きながら出迎える、その様子を愉快そうに眺めるマンジェット・・・ジャンヌ・ラ・ピュセルはドンレミ村の少女ジャネットに戻り、村娘の一人として友人たちとともに齢を重ね、記録に残らないが確かな生活を送りながら幸せな一生を終える――そんな未来は訪れなかったのである。

ドンレミ村の隣人たち

中世のフランスでは代父、代母という制度があった。子供が生まれると血縁関係とは別に地縁的な関係の中で代父・代母を選び縁戚関係が結ばれる。概ね司教区ごとに二、三人に制限されていることが多いが、ジャンヌの場合にはそれを大きく上回る代父・代母がいた。処刑裁判での証言では代父二人、代母三人の名が挙げられているが、復権裁判ではそこで名前が挙げられていない人物が代父・代母として証言しており、ジャンヌ自身も何人いるか把握していなかったらしく、わかっているだけで六、七人の代父母がいて、ジャンヌの成長を見守っていた。(コレット・ボーヌ「幻想のジャンヌ・ダルク」P45-46)

実はジャンヌも村を離れるまでに二人の子供の代母になっている。その一人がジャンヌより5~6歳年上の女友達イザベレット・デビナルの息子ニコラである。イザベレットはジャンヌと一緒に教会へ告解しに行く仲で、ジャンヌに代母を頼み、ジャンヌは「息子のニコラを洗礼盤で抱いてくれました」(ジャンヌ・ダルク復権裁判P108)

ドンレミ村の教会の堂守をしていたペラン・ドラビエー(証言時約60歳、ジャンヌ生存当時30代前半)は面白いエピソードを語っている。

「私が夕べの祈りの鐘を鳴らさないと、ジャンヌは私を呼びとめて叱り、私がしっかりしてなかったのだと言い、私がきちんと夕べの祈りの鐘を鳴らすように、毛糸をくれると約束してくれました――」(ジャンヌ・ダルク復権裁判P100)

ローティーンにして大人を叱り飛ばした後、ちゃんとしたら毛糸をあげる、と約束して、飴と鞭を使い分けるジャンヌの生き生きとした姿が浮かんでくる。

ジャンヌ・ダルクからジャネットへ

ジャンヌ・ダルクを、あるものは救国の乙女といい、あるものは殉教した聖女という。それは確かにジャンヌ・ダルクという不世出の人物の一面かもしれない。しかし、その死は英雄聖人の悲劇として語るだけで終わらせてよいものなのだろうか。ここで紹介したように、家族や故郷の人々にとって、彼女の死は終わりではなくこれから生涯を通して向かい合い続けていかなければならない、大きな喪失であったのだ。

これほど研究が進んでもなお、英雄・偉人史観と宗教的熱狂や狂気の人として語られるだけのジャンヌ・ダルクの死を、親しい人の死として受け止めざるを得なかった、そして悲しみを背負って生きていた人々がいたことを紹介した記事がインターネットに一つぐらいあってもいいと思ったのである。

一人のジャンヌ・ダルクファンとして、「おかえりなさい、ジャネット」と伝えるために書いた。

参考書籍
・コレット・ボーヌ著「幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会
・ミシェル・ヴィノック「ジャンヌ・ダルク」(ピエール・ノラ編『記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史<第3巻>模索』)
・レジーヌ・ペルヌー、マリ・ヴェロニック・クラン著「ジャンヌ・ダルク
・レジーヌ・ペルヌー編著「ジャンヌ・ダルク復権裁判
・レジーヌ・ペルヌー著「ジャンヌ・ダルクの実像 (文庫クセジュ)
・高山一彦訳「ジャンヌ・ダルク処刑裁判
・高山一彦著「ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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