ジャンヌ・ダルク直属部隊の仲間たち18人まとめ

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シノン城行の仲間

粘り強い交渉の結果、ヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールからシャルル7世の待つシノン城へと向かうことが許されたジャンヌ・ダルクには六人の護衛がつけられた。準騎士ジャン・ド・ヌイヨンボン(ジャン・ド・メッス)とその従者ジャン・ド・オンクール、準騎士ベルトラン・ド・ブーランジとその従者ジュリアン、弓兵リシャール・ラルシュ、王国伝令使コレ・ド・ヴィエンヌである。

ジャン・ド・ヌイヨンボン(ジャン・ド・メッス)

ヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクール配下の準騎士。はじめてジャンヌがヴォークルールに現れて城主に会いたいと城下で言いはじめたのが1428年5月13日の前後である。その後、街中でジャンヌを見かけたヌイヨンボンは赤い服を着た彼女をからかってみたところ、真摯な受け答えをされて驚き、態度を改めて彼女――ジャンヌ・ラ・ピュセル――をシャルル7世のもとへ連れていくことを約束、城主に働きかけを行うとともに、女性用の服では動きにくかろうと自分の配下に男物の服を用意させて、彼女に与えた。

「信頼の徴として私の手を乙女の上に置いて、神にかけて国王の許に案内しようと乙女に約束しました。そして私は、いつ出発したいのかと尋ねますと、『明日より今日のほうが、もっと遅れるより明日のほうがよい』と彼女は答えました。」(レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、122頁)

以後、同僚のベルトラン・ド・ブーランジとともにジャンヌの護衛にあたり、ヴォークルールからシノン城、そしてオルレアンの戦いなどにも参加した。(ジャンヌらとともにオルレアンの財務官ジャック・プーシェの屋敷に宿泊した(レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)「オルレアンの解放」白水社、1986年、149頁))1448年に授爵し、メッスの領主となる。復権裁判でもジャンヌについて証言した。

ベルトラン・ド・ブーランジ

ヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクール配下の準騎士。ジャン・ド・ヌイヨンボンの同僚。復権裁判での証言から最初のジャンヌとロベール・ド・ボードリクールとの面会に同席していたようである。ジャン・ド・ヌイヨンボンと協力してヴォークルールの住人にジャンヌ用の服を作ってもらうなど尽力している。また、シノン城への出発が決まると、ジャンヌの実家にその旨伝えに行く役割を担った。本人の証言ではジャンヌに会う十二年前にドンレミ村を訪れており、ジャンヌの父ジャック・ダルクの家にもたびたび訪れたことがあったという。ポリションという愛称で呼ばれることがある。(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著「ジャンヌ・ダルク」東京書籍、1992年、76頁)

コレ・ド・ヴィエンヌ(伝令使)

シャルル7世配下で厩舎掛職に就いていた役人。ヴォークルールとシャルル7世との連絡役を担っていた。(堀越宏一著「ジャンヌ=ダルクの百年戦争(新訂版)」清水書院、2017年、原著1984年、140頁)ヴォークルールからシノン城までの案内役を任される。

ジャンヌ・ダルク部隊

1429年3月初旬、シノン城に到着したジャンヌ・ダルクはシャルル7世と面会を果たし、教会関係者からの審問もクリアして、オルレアンへの増援軍に参加することになった。その際、彼女には副官としてジャン・ドーロン、小姓として二人の少年ルイ・ド・クートとレイモン、それに伝令使としてアンブルヴィルとギュイエンヌの二人がつけられた。これに、聴聞司祭のジャン・パスクレル、後程合流するジャンヌの二人の兄ピエールとジャンほかシノン行の仲間らも含めて複数の騎士たちで、ジャンヌ・ダルク隊が編成される。

ジャン・ドーロン(副官)

ジャンヌの副官として彼女の保護を任されていた。デュノワ伯ジャンは彼について「当時は国王から、もっとも賢くて間違いなく誠実な人物として」(レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、174頁)評価されていたと語っている。ジャンヌ最後の戦いとなるコンピエーニュでもジャンヌとともに捕虜となっており、彼女を補佐した最も身近な戦友の一人であった。ジャンヌ死後、捕虜から解放されてもシャルル7世からの信頼は変わらず1437年のパリ入城の際は国王の騎馬を引く栄誉が与えられ、その後南フランス、ボーケールの国王代官に就任、国王顧問会議にも名を連ねた。ジャンヌに関する多数の証言を残している。

ルイ・ド・クートとレイモン(小姓)

ともにジャンヌの小姓。
ルイ・ド・クートはジャンヌ・ダルクの下に小姓としてついた際は14~15歳。オルレアン代官ラウル・ド・ゴークールの父で同名のシノン城守備隊長の下で武具係を勤めていた。同世代のレイモンとともにジャンヌの武装や甲冑を着込む手伝いなど身の回りの世話を行う。また、よくジャンヌに叱責されていたことを後に述懐しているが、同時にジャンヌをとても敬愛していた。兵士たちからはミュゴやイメルゲと渾名されている。ジャンヌ死後、準騎士となり、復権裁判(1456年)時にはヌーヴィオンとリューゲルの領主となっていた。(レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、208頁)

また、彼の義理の兄弟にオルレアンの名士であるジャン・ポアルネとギヨーム・ポアルネという人物がおり、弟のギヨームはナポレオン1世の妃ジョセフィーヌの最初の夫アレクサンデル・ド・ポアルネ子爵の祖先、すなわちナポレオンの養子ウジェーヌ・ポアルネの祖先にあたる。(レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、180頁)後にナポレオンによってジャンヌ・ダルクは再評価されていくが、もしかするとこの縁が背景にあったかもしれない。

レイモンもルイ・ド・クートと同様ジャンヌの小姓として勤めたが、パリ包囲戦で戦死しており、おそらく彼と思われるその戦死の様子を当時の記録である「パリの住人の日記」は書き残している。

「・・・・・・そして、その男の放つ弩の矢は、まっすぐに彼女に向かい、彼女の脚を貫き通したので、彼女は逃げ去る。もう一筋の矢は、彼女の旗をもっていたものの足を貫き通す。その者は、傷ついたと知るや、その瞼甲をあげて、足にささった旋転矢をひきぬこうとする。そのとき、さらに一筋の矢が彼に至り、両眼の間を貫き、顔を血に染める。彼を傷つけ、死に追いやる。」(堀越宏一著「ジャンヌ=ダルクの百年戦争(新訂版)」清水書院、2017年、原著1984年、176頁)

アンブルヴィルとギュイエンヌ(伝令使)

ドーロンらとともにつけられた伝令使。オルレアンの戦いの際、ジャンヌの命でイングランド軍への降伏勧告の書簡を届けに行き、ギュイエンヌが捕らわれている。

ピエールとジャン(ジャンヌの兄)

ジャンヌの二人の兄。詳しくは以下の記事参照。

ジャンヌ・ダルクの家族と友人~残された人々はどう生きたか
ジャンヌ・ダルクの家族 ジャック・ダルク ジャンヌ・ダルクの父。ジャンヌが生まれ育ったドンレミ村の名士であった。1420年頃、旧領主ブールレモン家の邸宅を村の倉庫兼避難所として使えるよう賃借契約を結んだ記録や、23年に、野武士ロベール・...

ジャン・パスクレル(聴聞司祭)

ジャンヌ・ダルクの専属司祭。トゥールの聖アウグスティヌス修道院の修道士で、1429年3月25日の聖金曜日、ジャンヌの母イザベル・ロメらロワール地方からの巡礼団の訪問を受けた際にイザベル・ロメと面会、ジャンヌのことを頼まれた、という。(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著「ジャンヌ・ダルク」79-80頁)以後、コンピエーニュで彼女が捕らわれるまでジャンヌと行動をともにし、日々ジャンヌの告解を受け、様々な相談にも乗っていた。ジャンヌは彼を信頼して、いつも傍にいてほしいと伝えている。また、ジャンヌの書簡の大半は彼が口述筆記している。

アルフォンス・ド・パルタダ、ジャン・ル・キャノニエー

アルフォンス・ド・パルタダはイスパニア出身の騎士。

オルレアンの戦いにおいて、サン・ルー砦を奪取したフランス軍は消極策を退けて、オーギュスタン砦攻略のためジャンヌとラ・イールの部隊が中心となってイングランド軍が陣をおくサン・ジャン・ル・ブランを占領、イングランド軍をオーギュスタン砦に追いやることにした。このとき、アルフォンス・ド・パルタダと同僚(名前不明)との間で口論になり、「二人とも同時に敵の砦に打ち掛かる」ことで「どちらが一番勇敢か、二人のうちどちらが義務を尽くしたかわかるだろう」というやり取りが行われ、二人で敵中突破を敢行する。

これをみたジャン・ドーロンはジャン・ル・キャノニエーという射手にイングランド側防御柵を守る兵士たちに矢を撃ちかけることを指示して彼らを援護し、二人の突撃をみたジャンヌ・ダルクとラ・イールも部隊に攻勢を指示し、勢いに乗ったフランス軍によってオーギュスタン砦は陥落、イングランド軍はトゥーレル要塞に退却した。(レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年、202-203頁)

バルテルミ・バレッタ

イタリア・ビエモンテの傭兵隊長。ジャンヌ最後の戦いであるコンピエーニュの戦いにおいて、傭兵200名を率いてジャンヌ・ダルク部隊の実戦指揮を執った。

ポトン・ル・ブルギニョン

ジャン・ドーロンの弟。コンピエーニュでジャンヌ・ダルクとその兄ピエール、兄のジャン・ドーロンとともにブルゴーニュ軍の捕虜となった。

ジャンヌ・ダルクの部隊経営

ジャンヌ・ダルクは軍指揮官とされていたのか否かで多少の議論はあるが、事実上ジャンヌ・ダルク部隊というものがあり、オルレアン解放後は、一つの部隊としてフランス王の組織下に組み込まれていた。

当時の部隊は基本的に指揮官が自己資金でもって運用する。これはジャンヌ・ダルクであっても例外ではない。ジャンヌは処刑裁判での供述で「馬や剣その他を含めて一万二千エキュに値する財産を持っていた」(高山一彦編訳「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」白水社、1984年、96頁)と語っている。

このジャンヌの資産がどのぐらいかというと、1エキュ=1リーヴル=1フランで、少し下ってルイ11世時代(1461-1483)の最高位の閣僚の年俸が4000リーヴル、地方官僚である代官(バイイ)の年俸が200リーヴル、ジャンヌ・ダルク引き渡し条件としてフランス王シャルル7世に提示されていたのが1万フランであった。(高山一彦編訳「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」白水社、1984年、353頁)現代日本の貨幣価値に換算するのは非常に困難だが、ざっくり数億円といったところだろう。フランスを救った報酬として考えれば妥当といえそうではある。

とはいえ、これはすべて自由に使えるお金ではないし、上記の通り、ここから部隊の運用資金が捻出される。そもそもジャンヌはお金には興味を持たず非常に質素な信仰生活を旨としていた。資金管理は副官ジャン・ドーロンと実兄のピエールが担当していたようである。また、当時の軍は略奪や徴発は当然のものとしてあったが、ジャンヌはそれらを認めず、常に適切な金額を支払って武器や食料の調達、兵士への報酬を賄っていたし、また、イングランドの将校を捕らえることでの捕虜交換や身代金による収入を重視していた。(コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)「幻想のジャンヌ・ダルク 中世の想像力と社会」昭和堂、2014年、190-191頁)

ジャンヌ・ダルクに優秀な戦争企業家としての顔があることは否定できないが、その一方で、「私は貧しい母の許で糸を紡いでいるほうがずっと良いのです。そんなことは私の仕事ではないのですから」(「ジャンヌ・ダルク復権裁判」122頁)と語っていたように、本人が望んでいたことでは決してなかっただろう。現実と信仰のはざまで葛藤していたこともまた事実であり、その矛盾を抱えながら「神の声」に従い、部隊を率いて駆け巡った結果として、彼女には死が待っていたのである。

参考書籍
・コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)「幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会」昭和堂、2014年
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)「オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)」白水社、1986年
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)「ジャンヌ・ダルク」東京書籍、1992年
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年
・高山一彦編訳「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」白水社、1984年
・堀越宏一著「ジャンヌ=ダルクの百年戦争 (新・人と歴史 拡大版)」清水書院、2017年、原著1984年

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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