シノン城~ヘンリ2世からジャンヌ・ダルクまで愛された王城

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シノン城( Château de Chinon )はロワール川とその支流ヴィエンヌ川との合流地点を臨む高台に建つ古城である。ロワール川を東に上るとオルレアンや首都パリを擁するイル・ド・フランス地方へ、ヴィエンヌ川を南下するとポワトゥー地方やフランス中部の主要都市リモージュへと抜ける交通の要衝であった。

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草創期

起源は古く、少なくとも五世紀以前には砦が設けられており、古代ローマ時代にまでさかのぼる。公式サイト(フランス語)によれば、ガリア時代の戦士貴族が現在のサン・ジョルジュ城郭のあたりに館を建てていたという。その後、ローマ帝国崩壊の混乱の中でシノン城があった高台が強化され、歴史家トゥールのグレゴリウス(538頃-594)はこの地が城塞化されていることに言及しているという。この地に城が建てられたのは954年、ブロワ伯ティボー1世による。1037年、アンジュー伯フルク3世がシノン城を占拠し、1044年、ジョフロワ2世(在位1040頃-1060)によってアンジュー伯領となった。

アンジュー帝国~カペー朝時代

1151年.アンジュー伯ジョフロワ5世(在位1128-1151)が亡くなり、アンリ・プランタジュネと弟ジョフロワとの間で継承をめぐって争いとなった。1154年、アンリ・プランタジュネはイングランド王位を獲得してヘンリ2世(在位1154~1189)となると、弟ジョフロワからのアンジュー伯領請求を退け、1156年までにシノン城を占拠した。イングランド、ノルマンディ、アンジュー、ポワトゥー、アキテーヌ、さらにブルターニュも獲得してフランスの西半分を支配する大帝国、通称アンジュー帝国を築いたヘンリ2世は、シノン城を大規模な中世城郭として新築、現存する城郭の最東端サン・ジョルジュ砦がこの時建てられた。ヘンリ2世はシノン城を自らの王宮として好み、その最期もシノン城で迎えた。

ヘンリ2世は帝王然とした軍事・政治に秀でた英傑だったが、家族の争いに悩まされた。1173年、長子で副王の若ヘンリが王妃アリエノールや弟リチャードとともに反乱を起こすとこれを電光石火の攻撃で鎮圧する。しかし親子の不和は除かれず、1183年、若ヘンリが28歳で早世し、続いて、1186年、三男ブルターニュ公ジェフリーが事故死すると、1187年次男リチャードがフランス王フィリップ2世(在位1180年-1223年)と結んで再び謀叛を起こしシノン城を略奪、リチャード、フランス王フィリップ2世の同盟軍との抗争の末、1189年、シノン城で亡くなった。側近ギヨーム・ル・マレシャル(ウィリアム・マーシャル)に反乱に加わった人物の名簿を読み上げさせ、溺愛していた末子ジョンの名を聞いたことに深く悲しんだという。

「もうよい。うんざりだ」(レジーヌ・ペルヌー 著「リチャード獅子心王」白水社,2005年,78頁)

王が亡くなったのは、そういって読み上げをやめさせた三日後のことだった。

ヘンリ2世の死後、跡を継いだリチャード1世(獅子心王、在位1189-1199)とフランス王フィリップ2世の抗争が激しくなり、リチャード1世死後ジョン欠地王(在位1199年-1216年)に王位が変わると、1204年秋、フィリップ2世はケント伯率いるイングランド軍が守るシノン城を包囲、9か月にわたる包囲戦の後、1205年6月23日、陥落させた。ガイヤール城の落城に続くシノン城の落城によって、アンジュー帝国の大陸領土の大半はフランス王の手に渡り、ジョン王はイングランドへ追いやられることになった。フィリップ2世は占領後すぐにシノン城のさらなる強化を望み、現在最西端にあり、後に本丸として使われるクードレイ塔部分を建てている。

1308年、フランス王フィリップ4世(端麗王、在位1285年-1314年)はテンプル騎士団を壊滅させるべく騎士団員をことごとく逮捕すると、そのうちジャック・ド・モレーをはじめとする高官4名をここシノン城に送って尋問させている。

シャルル7世とジャンヌ・ダルク

百年戦争(1337年-1453年)後期、1415年、フランスの内乱に乗じて再侵攻を果たしたイングランド軍はブルゴーニュ公と結んでノルマンディ公領を席捲し、王都パリを陥落させた。難を逃れた王太子シャルルはブールジュに亡命政府を打ち立てると、1422年、父王シャルル6世(在位1380年-1422年)死後、フランス王シャルル7世(在位1422年-1461年)を名乗る。一方イングランドもヘンリ6世(在位1422年-1461年、復位1470年-1471年)がイングランド王にしてフランス王に即位、イングランド=フランス連合王国を樹立する。結果、フランス王国から離脱して独立国となったブルゴーニュ公国と三勢力鼎立状態となる。このとき、シャルル7世が王宮としたのがシノン城であった。

1428年、要衝オルレアンをイングランド軍が包囲、存亡の危機に立たされたシノン城のシャルル7世の元を訪れたのが、ドンレミ村の少女ジャンヌ・ダルクであった。

ジャンヌ・ダルクとシャルル7世の歴史的会見が行われたのは1429年3月6日(2月25日とする説も)。ヴァンドーム伯ルイによって諸侯・諸将居並ぶ大広間に通されたジャンヌは、人ごみに紛れて隠れるシャルル7世を一目で見分け、近づいてこう言ったという。

「いとも貴き王太子殿下、あなた様と王国とをお救い申し上げるべく、神さまよりつかわされてやって参りました」(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍,1992年,57頁)

シャルル7世の信頼を得たジャンヌ・ダルクはクードレイ塔の一室を与えられて準備を進め、やがて歴史に残る偉業を成し遂げることになる。

現代まで

1562年、シノン城はユグノー勢力が支配するところとなったが、フランス王アンリ4世(在位1589年-1610年)によって刑務所となり、十七世紀、リシュリュー枢機卿の所有となったのち、放置された。1793年、ヴァンデの反乱の際、王党派によって占拠される。以後、廃墟と化していたが、1830年、七月王政の開始によってフランス王となったルイ・フィリップ(在位1830年-1848年)治世下、作家プロスペル・メリメが修復を提唱、1840年、フランスの記念史跡として認められ、1854年、自治体が解体を求めるが、改めてプロスペル・メリメらの働きかけにより解体ではなく修復が進められた。

2000年に世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」の一部としてシノン城も認められ、2003年から2010年にかけて大規模な修復事業が行われた。ジャンヌ・ダルク博物館も一角に設けられ、現在は人気の観光地となっている。

参考書籍・リンク
・太田 静六 著「ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 (世界の城郭)」吉川弘文館,2010年
・藤井 信行 著「ヨーロッパの古城と宮殿 (ビジュアル選書)」新人物往来社,2012年
・アンリ・ルゴエレル著(福本秀子訳)「プランタジネット家の人びと (文庫クセジュ)」白水社,2000年
・レジーヌ・ペルヌー 著「リチャード獅子心王」白水社,2005年
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍,1992年
Forteresse royale de Chinon (フランス語)
Château de Chinon – Wikipedia(英語)
Forteresse royale de Chinon — Wikipédia(フランス語)
シノン城Château de Chinon-ロワールで最も古い歴史を持つ城、ジャンヌ・ダルクがシャルル7世と謁見した場所。/ロワールの古城めぐり::フランス・アクセ/ロワール渓谷地方のポータルサイト::