アランソン公ジャン2世~ジャンヌ・ダルクに心酔した戦友の滅び

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アランソン公ジャン2世(1409-1476)はシャルル7世時代のフランスの貴族で軍人である。ジャンヌ・ダルクと最も親しい人物の一人として知られる。愛称美男公。父はアランソン公ジャン1世、母はブルターニュ公ジャン4世の娘マリー・ド・ブルターニュ。

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前半生

アランソン公ジャン2世

アランソン公ジャン2世の肖像(1473年)

アランソン家はヴァロワ朝初代フィリップ6世の弟シャルル2世に始まるヴァロワ家の分家でヴァロワ王家の親王家の一つである。1415年、ジャン1世の代に伯から公へ陞爵したが、その当主ジャン1世が同年アジャンクールの戦いで戦死、アランソン公領もイングランド軍が占領するところとなった。

残されたジャン2世は当時まだ六歳、父も領地も失った彼は、アンジュー公妃ヨランド・ダラゴンの庇護下にあったシャルル王子(1417年より王太子、1422年フランス王シャルル7世に即位)とともに育てられることになった。1421年、王太子シャルルとブルターニュ公ジャン5世との同盟強化のためジャン5世の甥でもある彼はオルレアン公シャルルの娘ジャンヌと結婚した。

1422年、ラ・プルシニエールの戦いで初陣。この頃誕生したシャルル7世の王太子ルイ(1423-1483、フランス王ルイ11世(在位1461-83))の代父に指名される。1424年8月6日、ヴェルヌイユの戦いでイングランド軍のジョン・ファストルフに囚われた。以後1429年二月に身代金を完済するまで捕虜となっており、妻ジャンヌは自らの宝石を質に入れるなど身代金の工面に尽くしている。

ジャンヌ・ダルクとの出会い

解放されて間もない1429年3月、シノン城にジャンヌ・ラ・ピュセル(ジャンヌ・ダルク)という少女の一行が到着し、シャルル7世の信頼を得て包囲されているオルレアンへ救援に向かうとのうわさを聞いた彼は、その乙女に会いに行くことにした。

シノン城に到着し、アランソン公とジャンヌとの初めての対面でシャルル7世から紹介されたジャンヌはこう言ったという。

「あなたですか。ようこそおいでくださいました。フランス王の家系の方たちが力を合わせれば合わせるほど良いことなのです。」(ジャンヌ・ダルク復権裁判185頁)

すっかりジャンヌ・ダルクに魅了された彼は頻繁に彼女と行動を共にすることにした。国王の供をして槍を手に走る「ジャンヌのそのときのふるまいや、槍の持ち方や、槍を持った走り方を見て、馬を一頭贈」(ジャンヌ・ダルク復権裁判186頁)ったという。

彼はまだ虜囚時代の取り決めで出陣できなかったため、オルレアンには赴いていないが、オルレアンが解放されると退却するイングランド軍の追撃部隊が編成され、彼が総司令官に任じられることになった。オルレアン解放後パテーの戦いまでの一連の戦闘はロワール作戦と呼ばれる。

オルレアンが解放された直後の5月23日、ジャンヌ・ダルクは追撃軍編成のためアランソン公の元を訪れて善後策を打ち合わせている(ペルヌー,クラン1992年,114頁)が、そのとき、夫の身を心配する公妃にジャンヌ・ダルクは「奥様、怖がらないでください。私が公爵を無事にお返ししますから。今の通りの、いや今より良い状態で」(ジャンヌ・ダルク復権裁判189頁)と力強く宣言して安心させたという。

アランソン公の栄光

ジャンヌ・ダルクを含めたアランソン公率いるシャルル7世派軍は順調に進撃し、6月12日ジャルジョーの戦いで敵将の一人サフォーク伯を捕縛、15日マン、16日ボージャンシーを次々と奪還し、ボージャンシーではシャルル7世の寵臣ラ・トレモイユとの対立でシャルル7世から宮廷を追われていたフランス大元帥リッシュモン伯も合流して、6月18日、ついに英国軍本隊を補足する。

タルボット率いるイングランド軍はファストルフ率いる増援部隊と合流していたが、このとき、あくまで決戦にこだわるタルボットと、交戦せず迅速な撤退を主張するファストルフの間で議論があり、実際、イングランド軍はぎりぎりまで兵力を動員しておりこれ以上の損失は一兵でも惜しく、状況判断からも結果論としてもファストルフの意見が正しかったのだが、結局タルボットの意見が押し切られた。(ギース2017年,268-269頁)

英軍は森の中に潜んでフランス軍を奇襲しようと待ち受ける。そこに一匹の鹿が飛び込んで伏兵が混乱し、フランス軍が伏兵を察知、総攻撃が加えられた。終わってみるとイングランド軍は四千以上の損失を出し、タルボット、スケールズら指揮官が軒並み捕虜となる惨敗で、生き残ったファストルフは敗兵をまとめ撤退した。オルレアン包囲に始まる一連のイングランドの軍事行動は無残な結果となって終了したが、これによってランス戴冠への道が開けた。

アランソン公にとっては虜囚となったヴェルヌイユの戦いの雪辱を果たした格好だが、彼はこのロワール作戦の最中のジャンヌ・ダルクとのエピソードを後年多く語っている。

ジャルジョーを包囲したものの諸将の議論が紛糾して作戦の合意が得られないとき、ジャンヌはアランソン公に「やんごとなき公爵様、攻撃しましょう」と進言し、それでも時期尚早ではないかと逡巡する公に、「疑ってはいけません。神様のお気に召すときが行動の時なのです」といい、続けて後世、ジャンヌ・ダルクの名言として語り継がれる有名な言葉を発した。(ペルヌー,クラン1992年,118頁)

「まず行動を起こせ。しからば神の御はからいを得ん。」(ペルヌー,クラン1992年,118頁)

同じくジャルジョー攻略戦のとき、当然ジャンヌが公にその場所から急いで離れるよう叫んだ。ジャルジョーに備え付けられた大砲を指さし「あの武器があなたを殺しますよ」と。直後、公が去ったその場所に砲弾が着弾したという。また、ジャルジョー攻略時、ジャンヌ自ら旗を手に梯子を上り、石弾が彼女の兜に命中して砕け転倒するがすぐに起き上がりながら「進め!勇気を出せ!」と兵士たちを鼓舞する姿を語っている。(ジャンヌ・ダルク復権裁判189頁)

ボージャンシーでは宮廷を追われた大元帥リッシュモン伯が合流してきたが、アランソン公はシャルル7世から彼を仲間として受け入れてはならないとの命令を受けていたため、リッシュモン合流前に渋々ながら兵を引こうとする。シャルル7世への高い忠誠心を現すエピソードだが、これをジャンヌは「今は助け合うことが必要な時です」と引き止め、リッシュモンを軍に加えるよう説得した。(ジャンヌ・ダルク復権裁判190頁)

パテーでの勝利後、捕虜となったタルボットとアランソン公が対面し公が「今朝はお前がこうして連れてこなれるなど思いもしなかった」と言うと、タルボットは潔く「それが戦いの常だ」と答えたという。(ジャンヌ・ダルク復権裁判191-192頁)

1429年7月17日、アランソン公はランスでのシャルル7世戴冠式において代々諸侯筆頭が担う王冠を捧げ持つ役割を与えられ、名実ともにシャルル7世麾下第一の臣となった。ジャンヌ・ダルクの第一の戦友にしてシャルル7世の最も忠実な臣――このときが彼の栄光の時代であった。

亀裂

ランス戴冠後、シャルル7世の宮廷ではブルゴーニュ公国との和平を優先すべきとする和平派とさらに攻勢を強めるべきとする主戦派の対立が強まった。和平派の領袖が王室侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ、対する主戦派の領袖となったのがやはり対英攻勢を唱えるジャンヌ・ダルクに心酔するアランソン公ジャン2世であった。シャルル7世も和平に傾いており、次第にアランソン公と王の両者の距離が離れていく。盛んにジャンヌと共同での出陣を主張するアランソン公の主張は退けられてジャンヌとは別行動となり、この齟齬が埋まらぬまま、1431年、ジャンヌは捕われ処刑されてしまう。

ジャンヌ・ダルク死後の1432年、追い打ちをかけるようにこれまでアランソン公を支えてきた愛妻ジャンヌ・ド・ブルターニュが亡くなる。二人の間に子供は無く、二人のジャンヌを立て続けに失った公は孤独を感じていただろう。

さらに同年、ラ・トレモイユが失脚してリッシュモン大元帥が宮廷に復帰、ラ・トレモイユに替わってアンジュー公弟メーヌ伯シャルル・ダンジューが王の信頼を受けて政務を取り仕切り始める。軍政を担うリッシュモンと政務を担うシャルル・ダンジューの協調体制がシャルル7世政権に確立した。未だ所領アランソン公領は英国の支配下にあり地盤の弱いアランソン公の宮廷での立場は次第に小さなものとなっていった。

1437年、アランソン公はアルマニャック伯ジャン4世の娘マリー・ダルマニャックと再婚。かつてアルマニャック派と呼ばれていたシャルル7世政権はすでにアンジュー公派とブルボン公派の二大勢力が主導権巡って争っており、アルマニャック伯の影は薄い。とはいえ支持基盤の強化は両者にとって喫緊の課題であった。

この頃、1430年代後半からシャルル7世が熱く寵愛するようになったのがアニェス・ソレルという美姫である。1422~23頃の生まれというからまだ十代後半、絶世の美女――時のローマ教皇ピウス2世は「この世に、彼女より美しい人が、他にいるとは思われない」(ブルトン,1993年,415頁)とまで語っている――との評判であった。これに不満を持っていたのが王太子ルイである。1423年生まれ、十代後半の多感な年ごろの王太子にとって、母をないがしろにして己と同世代の女性にうつつをぬかす父、というのは嫌悪の対象以外の何物でもなかっただろう。そして王太子ルイの代父(後見役)がアランソン公ジャン2世であった。

反逆者アランソン公

契機となったのは1439年11月2日のオルレアン勅令である。これは「まず王国内の全ての者に対して軍隊を招集することを禁止し、また国王以外が課税を行うことを禁止する。もし規定に従わなかった場合、違反者は大逆罪に処され、彼が持つすべての所領が没収される。」(上田,2014年,106頁)というもので、跳梁する傭兵崩れの野武士団の横行を阻止する目的があったが、同時にすべての貴族をも対象としており、事実上貴族の自治権を制限し王権を強化するものだった。

これに宮廷内でのアンジュー公派とブルボン公派の争いが絡み、オルレアン勅令後創設される国王軍から外れることが予想されていたブルボン公シャルル1世が諸侯に呼びかけて反乱軍が組織された。アランソン公も計画段階から参加し、彼自ら王太子ルイを説得し反乱の盟主として擁立する。

1440年2月17日、世にいうプラグリーの乱が勃発した。これに対して国王軍もリッシュモン大元帥指揮の下、反乱諸都市を次々と攻略して回り、途中のブルボン公主導の和睦交渉は王太子ルイの強硬な姿勢によって頓挫、反乱諸侯の足並みがそろわずわずか五か月で鎮圧された。

1441年、前年に虜囚の身から解放されたオルレアン公シャルルとブルゴーニュ公フィリップ善良公が同盟を結び、翌42年、アランソン公とブルターニュ公もこの同盟に参加して反シャルル7世の動きを再び見せ、寵臣排除を掲げて国王との交渉を行うが失敗に終わっている。43年、アランソン公の義父アルマニャック伯ジャン4世が逮捕され失脚、アランソン公は追い詰められていく。

中央集権化を進めるシャルル7世とリッシュモン大元帥=アンジュー公派体制の中で、ブルボン公は巧みな交渉力で国王直属軍(通称「勅令隊」)の主要ポストを獲得することで生き残りを図り――このときの彼の絶妙な立ち回りがブルボン家を存続させ後のブルボン朝誕生にまでつながるのだ――、諸侯もそれぞれ王権の統制を受け入れていったが、王太子ルイだけはこれを良しとせず、1447年以降王太子領(ドーフィネ)を独立国化させつつあった。アランソン公も王太子と同調していたと思われ、イングランド(43年から休戦中)との取引を水面下で行っていた。アランソン公は生まれて間もない娘とイングランドのヨーク公一族との政略結婚を行おうとしていたという。

イングランドの駆逐を叫びフランス王の世を望んでその生涯を終えたジャンヌ・ダルクを最も敬愛し心酔した男は今や、イングランドと結びフランス王と争おうとしている。彼は反逆者となった。

アランソン公の最期

1449年、対英戦争が再開され1453年、ボルドーの陥落によって百年戦争が終結する。1456年、シャルル7世はジャンヌ・ダルク復権裁判を開催した。前述の通り、アランソン公も証言を寄せて様々な思い出を語っている。

槍を持つ所作の美しさに見とれ馬を贈ったこと、躊躇ったとき励ましてくれたこと、心配する妻を安心させてくれたこと、危険を顧みず先頭に立って兵士を鼓舞していたこと、間一髪危機を救ってくれたこと、神に祈りをささげていたこと、偶然みた乳房が美しかったこと・・・そして、ジャンヌ・ダルクと初めて出会ったときにかけられた言葉をよく覚えていた。あらためて引用しておく。

「あなたですか。ようこそおいでくださいました。フランス王の家系の方たちが力を合わせれば合わせるほど良いことなのです。」(ジャンヌ・ダルク復権裁判185頁)

1456年5月27日、復権裁判での証言直後のこと、アランソン公ジャン2世は反逆罪で逮捕された。逮捕の任に当たったのは四十年来の戦友にして、最初の妻の義兄となるデュノワ伯ジャンであった。デュノワ伯は逮捕に際して苦しい胸の内をこう語った。

「閣下、国王に命じられた御役目は本当につらく、いやなものです。貴方を国王の囚人として、王命に従い逮捕しなければならないのです。」(ペルヌー,クラン,1992年,320頁)

1458年、高等法院は有罪判決を下し、彼は囚人となった。

また、アランソン公逮捕直後の1456年8月30日、王太子領も国王軍の攻勢を受け、王太子ルイはブルゴーニュ公国へ亡命を余儀なくされる。

1461年、シャルル7世が亡くなると、ルイ11世がブルゴーニュ公の後押しを得てフランス王に即位し、彼は自分の代父を(いくつかの条件付きだが)釈放してやろうとする。しかし、アランソン公はこれを固辞した。再び捕われ1474年に死刑判決が出るが実行されることはなく、1476年、ルーヴルで囚人としてその生涯を終えた。後にアランソン公領は王領に編入され、消滅する。

ジャンヌ・ダルクを誰よりも敬愛し信奉した男は、ジャンヌ・ダルクが守ろうとした全てと戦う道を選び、すべてを失った虜囚となってその生涯を終えた。

参考書籍
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)「ジャンヌ・ダルク」東京書籍、1992年
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」白水社、2002年
・上田耕造著「ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権」晃洋書房,2014年
・佐藤賢一著「ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)」講談社,2014年
・コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)「幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会」昭和堂、2014年
・フランシス・ギース著(椎野淳訳)中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)「」講談社,2017年
・テレーズ・シャルマソン著(福本直之訳)「フランス中世史年表―四八一~一五一五年 (文庫クセジュ)」白水社,2007年
・ギー・ブルトン(曾村保信訳)「フランスの歴史をつくった女たち〈第1巻〉」中央公論社,1993年

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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