一国一城令とは何か~徳川幕府の城郭統制のはじまり

スポンサーリンク

一国一城令は慶長二十年(1615年)閏六月十三日、諸大名に対して大名の居城以外の城郭の破却を命じた法令。特定の法度として公布されたものではなく老中奉書として個々の大名に宛てて送られ、その対象範囲から西国諸大名に対して命じられたものと考えられている。

島津氏に宛てた一国一城令(藤井譲治著「江戸開幕」講談社,2016年,73-74頁)

  以上
きっと申し入れ候、よって貴殿御分国中、居城をハ残し置かれ、その外の城はことごとく破却あるべきの旨、上意ニ候、右の通、諸国へ申し触れ候あいだ、その御心得なさるべく候、恐懼謹言、

                   安藤対馬守
  壬六月十三日               重信(花押)
                   土井大炊助
                       利勝(花押)
                   酒井雅楽頭
                       忠世(花押)
  島津陸奥守(家久)殿

スポンサーリンク

一国一城令まで

関ケ原の戦い以後、西国を中心に全国で城郭普請が盛んとなっていた。幕府も伏見城・二条城・江戸城・駿府城・名古屋城を造営し、大坂城包囲網の一環として播磨姫路城・伊賀上野城・丹波篠山城・近江彦根城・膳所城などの築城を支援していた(横田冬彦24頁)。しかし加熱する築城ラッシュに、慶長十四年(1609)一月、徳川家康が不快感を表明、福島正則が普請部分を破却して謝罪している。(藤田72頁、横田23頁)

一国一城令公布の経緯

一国一城令は、慶長二十年(1615年)五月に大坂夏の陣が終結して豊臣家が滅亡した直後の閏六月十三日に出されたもので、諸大名への帰国許可は七月十八日(横田23頁)であったから、爆破大坂の役に参加した軍事力を保持した上で、豊臣恩顧の西国大名に出されたもので、「全軍がまだ家康・秀忠の軍事指揮下の准戦闘状態におかれたまま、個々の大名ごとに将軍命令遵守が迫られたことになる」(横田24頁)。

また、大御所家康と将軍秀忠の二元政治の分掌として西国大名は家康の軍事指揮下に置かれていたが、この一国一城令は秀忠の年寄衆である酒井忠世、土井利勝、安藤重信の連名で出されており、将軍秀忠の指揮権の拡大と権限委譲を表明するものともなっている(藤田74頁、横田22頁)

この際破却された主な城として細川忠興家老長岡氏の杵築城、長門・周防(毛利輝元)の山口城・長府城・岩国城、播磨(池田利隆)の明石船上城・三木城などがある。(横田25頁)

一国一城令と幕府の城郭統制

一国一城令発令直後の数日間で約400の城郭が破却され(日本史小辞典64頁)、一か月後の慶長二十年(1615年)七月七日に制定される武家諸法度第六条に補修の届け出・新築禁止条項が加えられて全国的な築城統制が行われた。

一国一城令と続く武家諸法度第六条によって大名の有力家臣が城郭を所有することが否定され、大名に城郭が独占されるようになると同時に、大名は築城に関する権限を失い、幕府の統制下におかれるようになった。一国一城令を画期として、以後の城郭統制の徹底により、中世まで大名・城主の所有物であった城は、公儀=幕府のものであり大名はそれを預かっているにすぎない、とする観念への転換が起きていった(横田25頁)

正保元年(1644年)、「破却された古城をすべて記載した国絵図と、残された居城の内部構造を明記した城絵図の提出」(横田25頁)が求められるなど、一国一城令に始まる徳川幕府の城郭統制は徹底されていく。

参考書籍
・藤井譲治著『江戸開幕 (講談社学術文庫)』(講談社,2016年)
・横田冬彦著『天下泰平 日本の歴史16 (講談社学術文庫)』(講談社,2009年)
・斎藤慎一、向井一雄『日本城郭史』(吉川弘文館、2016年)
・「一国一城令」日本史広辞典編集委員会編『山川 日本史小辞典』(山川出版社,2016年)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

Kousyouをフォローする
日本近世史
スポンサーリンク
この記事が気に入ったら
いいね!しよう
最新情報をお届けします。
Call of History ー歴史の呼び声ー