田中勝介~徳川家康の命を受け日本人で初めて太平洋横断した商人

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1610年、徳川幕府が成立して間もないころ、徳川家康の命を受け、日本人で初めて太平洋を横断してメキシコへと行き帰ってきた人物がいる。京の商人田中勝介(生没年不詳)である。万延元年(1860年)の咸臨丸による太平洋横断から遡ること丁度250年前のことであった。黒船来航以前に太平洋を横断した人物は他に支倉常長(長経)の慶長遣欧使節団、ジョン万次郎とその仲間たちを乗せて遭難した漁船、サム・パッチこと仙太郎や後にジョセフ・ヒコと呼ばれる浜田彦蔵らを乗せて難破した英力丸船員などが知られる。

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徳川家康の対スペイン外交

徳川家康は豊臣秀吉死後から積極的に対外関係の構築に動いていた。明・朝鮮に対しては朝鮮出兵後の和平交渉を進めつつ、朱印船貿易を活発化させてヨーロッパ・東アジア諸国との関係構築に努めた。中でもスペインは、太平洋横断しうる航海・造船技術と鉱山開発技術に魅力を覚え、交渉・通商相手として最も重視していた。

慶長三年(1598年)十一月、秀吉没後三か月で、秀吉によって追放されたスペインの宣教師ジエズスを保護して「ジエズスを介しスペイン国王に対し、メキシコ商船の関東誘致と鉱山・造船の両技師並びに航海士の招聘」(鈴木かほる 2010年,21頁)を依頼、その後もスペイン宣教師を保護して関係構築に前向きに取り組んでいるが、スペインは技術協力に消極的であったため、交渉は難航していた。

浦賀の内海

浦賀の内海

家康が交易の拠点として重視したのが三浦半島の浦賀湊であった。対外交易に積極的な西国諸大名に対抗して関東に交易の拠点を設けたいと考えており、江戸に近く船舶が停泊する十分な広さの内海を備えた同湊はその条件に適っていた。ウィリアム・アダムズ(三浦按針)や船奉行向井将監忠勝らを住まわせて外交・交易の窓口としての機能を持たせ、慶長九年(1604年)以降、スペイン商船を多く迎えることができるまでになっていた。

アダムズと向井将監らは家康の命により伊豆伊東において大型船の建造を開始、慶長九年(1604年)に八〇トン級、慶長一二年(1607年)に一二〇トン級の帆船の建造に成功する。この一二〇トン級帆船はサン・ベエナベンツーラ号と名付けられ、日本船初の太平洋横断に成功することになる。

慶長一四年(1609年)七月二十五日、フィリピン総督の任を終えてスペインへ帰国途中のドン・ロドリゴ・デ・ビベロを乗せたサン・フランシスコ号が上総国夷隅郡岩和田沖で座礁し乗組員が漁民によって救助されるという事故が起きた。ドン・ロドリゴらの帰国への協力を快く了承した徳川家康は、難航していたスペインからの鉱山技師の招聘や技術協力の交渉を進めるべくドン・ロドリゴ一行に使節を加えることにしたのである。

田中勝介の太平洋横断

慶長十五年(1610年)六月十三日、浦賀湊からドン・ロドリゴ一行、家康の使節アロンソ・ムミョス神父とともに日本人二十三人がサン・ベエナベンツーラ号に乗り込んでスペイン領メキシコ=ヌエバ・エスパーニャ副王領(日本語文献ではノビスパンと呼ばれる)に向けて出港した。その日本人の代表者が田中勝介である。

田中勝介について知られていることは少ない。

京町人田中勝介が家康の側近の一人金座頭後藤庄三郎光次に望んで、1610年、ノビスパンに渡航、羅紗や葡萄酒などを持ち帰って慶長十六年夏に帰国したこと(「駿府記」慶長十六年(1611年)九月二十二日条)、おそらくメキシコ滞在中に洗礼を受けたのか、ドン・フランシスコ・デ・ヴェラスコと名乗っていたこと、後にメキシコから返使として日本に渡航するビスカイノは「日本人の首領(田中勝介)は身分あり大いに尊敬されたる日本人」で、「善良なる態度」の人物であったと語っている(「ビスカイノ金銀島報告」鈴木,2010年,122-124頁および岡,1995年より)。

また、当代記慶長十五年(1610年)五月二十六日条には

「此比、京都町人米屋のりうせいと云者、以大御所御意、ノビスバンへ渡海、売買任心帰朝、狙々革多持来、但金銀は及聞し程はなし、錐然他の国、他の島より多、重而日本人渡海無用の由、ノビスバンの者堅日本人えしめす」

また、「慶長年録」の同月条には

「京都町人朱屋之りうせいと云者、以大御所御意、のびすばんへ渡海、売買任心帰朝」

として、日本人の渡航者の中に「米屋のりうせい」あるいは「朱屋のりうせい」という人物がいたことが伝わっている。(鈴木,2010年,123頁)(岡 1995年)

この米屋あるいは朱屋りうせいについて、鈴木かほるは朱印船商人で家康の使節としてマニラなどに渡航経験のある西類子(ルイス)としているが、岡佳子は、寛永年間に京都の商人として朱屋の屋号を持つ田中宗因という人物がいたこと、また、「法政大学能楽研究所所蔵の日爪忠兵衛宗政手択本の「丹後物狂」の表表紙の識語」に本阿弥光悦の書き込みとして「朱屋ノ隆清トイヒシ人ノ所ニテ」と「朱屋ノ隆清」という人物のところで書き込みをしたとする記述を指摘し、この「朱屋ノ隆清」と朱屋田中宗因の存在から、米屋/朱屋のりうせいは「朱屋ノ隆清」であり、田中勝介と同一人物ではないかとしている。

また、岡は朱屋田中宗因が過去帳に金座と記録されていることに注目し、後藤庄三郎光次の配下の金座改役田中三郎左衛門という人物を見出す。また、田中宗因以前に亡くなった朱屋田中氏の一族として、元和六年(1619年)三月四日没の「祐徳日仙」と寛永六年(1629年)十月七日没の「信勝院光利日想」という二人の人物がいたとされ、「そのいずれかが田中勝介であったとも考えられる」(岡,1995年)としている。

スペイン外交の失敗

サン・ベエナベンツーラ号は年月日不明だが無事メキシコのアカプルコに到着、返使としてセバスチャン・ビスカイノが日本に派遣されることとなった。この際、サン・ベエナベンツーラ号を売却して帰路の費用を捻出する計画であったとのことで、同船は現地で売却され、代わりにスペインが新造船サン・フランシスコ2世号を提供、日本へ向けて出港した。

同船は慶長十六年四月二十九日に浦賀に到着、スペイン使節一行はまず浦賀で歓待された後、五月十二日に江戸城で秀忠に謁見、五月二十五日に駿府城で家康に謁見している。このときビスカイノから家康に送られたのが現存する日本最古の置時計(久能山東照宮博物館蔵)であった。

両者の交渉では家康が熱望していた鉱山技師の派遣についてはスペイン側は触れず、交易の準備段階としてスペイン船による沿岸測量の許可、船一艘の建造、自由貿易の公認を求め、家康は譲歩してこれを受け入れている。

スペイン側としては、太平洋横断航路はスペイン船の独占状態においておきたかったため日本船の航行に難色を示していたこと、鉱山技師の派遣についても、日本は採掘技術は未熟だがそれを差し引いても大量の銀の産出があるという報告を受けていたことから、協力するのではなくスペインが自国で日本近海の金銀鉱脈を発見してその利益を独占したいという目論見があったことなど家康は大幅な譲歩をしても、その距離が埋まらなかった。スペインへの不信感はやがてキリスト教弾圧と結びつき、自由交易の時代から厳格な管理貿易(鎖国)の時代へと舵を切ることになる。

慶長十七年(1612年)八月十六日、ビスカイノ一行は浦賀を出港して帰路についたが、その途中で秘密裏に進路を変え、まことしやかに噂されていた日本近海の「金銀島」捜索に乗り出す。ところが、船は暴風雨に遭い破損。浦賀湊に戻って修復を願い出るが、スペイン側の背信行為に幕府側は協力を拒否、困ったビスカイノが助けを求めたのが、伊達政宗であった。

かねてよりスペインとの交易を熱望していた政宗は幕府への根回しを周到に行って、ビスカイノ帰国への協力を含めた支倉常長(長経)率いる慶長遣欧使節の派遣に乗り出すことになる。

参考書籍・論文
・岡佳子著「朱屋田中勝介・宗因について -近世初期京都の一町人像-」(『大手前女子大学論集29巻』149-167頁,1995年)
・鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交 向井将監と三浦按針』(新人物往来社,2010年)
・永積洋子著『朱印船 (日本歴史叢書)』(吉川弘文館,2001年)
・ジャイルズ・ミルトン著(築地誠子訳)『さむらいウィリアム―三浦按針の生きた時代』(原書房,2005年)
・笠谷和比古著『徳川家康:われ一人腹を切て、万民を助くべし (ミネルヴァ日本評伝選)』(ミネルヴァ書房,2016年)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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