「ヘースティングズの戦い(Battle of Hastings)」(1066年10月14日)

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決戦への道

1066年、エドワード証聖王の死後、戦上手で知られる有力貴族ハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王ハロルド2世に即位すると、これに異を唱えてノルウェー王ハーラル・ハルドラーダとノルマンディ公ギョーム2世(ウィリアム1世)がイングランドへ侵攻した。9月25日、ハロルド2世の弟トスティク・ゴドウィンソンと結んだノルウェー王ハーラル・ハルドラーダをスタンフォード・ブリッジの戦いで撃破しトスティク、ハーラル王ともに敗死させたハロルド2世軍は、ドーヴァー海峡を渡ってイングランド南部ヘースティングズ一帯に侵攻してきたノルマンディ公軍を迎え撃つべく南下した。


スタンフォード・ブリッジの戦いの古戦場

ノルマンディ公ギョーム2世の侵攻

ノルマンディ公軍がイングランドに上陸したのは9月28日、ニシン漁の解禁を控えて漁船が出払い海上防備が手薄になる隙をついてのことだった。まずは港町ペヴェンシを占領し、10月1日ごろ、要衝となるヘースティングズへと軍を進め、防衛拠点のヘースティングズ城の築城を開始した。このとき、スタンフォード・ブリッジの戦いでのハロルド2世大勝の報がノルマンディ公軍に届き、家臣は勢いに乗るハロルド2世軍との決戦を避け籠城を進言するが、ノルマンディ公は「余は、堀や壁に守られて籠っているつもりはない。可及的速やかにハロルドと一戦を交えん」(鶴島,2015年,138頁(ウィリアム・ポワティエ「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」(1070年代成立)より))とこの進言を退けた。

ハロルド2世の決断

ハロルド2世がロンドンに帰還したのが10月6日ごろのことである。ハロルド2世はノルマンディ公へ使者を送り自身の王位の正統性を訴えるとともに、撤退を求めた。これに対してノルマンディ公もまた、自身の王位継承の正統性を唱え、雌雄を決することを望む返答を送る。

このとき、ハロルド2世に献策したのが王弟イースト・アングリアの伯ギリスである。ギリスは自身が軍を率いてノルマンディ軍と対峙する間に、ロンドンを焦土として撤退し、自身の勝敗に関わらず補給を断たれたノルマンディ公軍は撤退を余儀なくされるという。しかし、王は「私が保護すべき人々を害することなどできるはずがない。」と退けたうえで、こう宣言した。

「ハロルドなしに戦場に行くことも戦うこともない。人々は臆病者と罵るだろう。多くが批難するだろう。もしハロルドが、彼のよき支持者たちを、来もしないところに送り込んだら」(鶴島,2015年,144頁(ウェイス「ロロの物語」(1155年頃成立)より))

あるいは別の史料ではギリスはこう進言してもいる。

「親愛なる兄弟にして主人よ。分別をもって勇気を押さえてください。ノルウェー人との戦いから疲れ切って帰ってきたばかりではないですか。またも性急にもノルマン人と戦うつもりですか。休んでください。ノルマンディの公になした宣誓について深く考えるべきでしょう。偽証とならないためにも。その罪によってわが民の華を枯らし、子孫に汚辱を残さないためにも。私は、伯ウィリアムには宣誓をしていないのだから、わが故郷の土のために堂々と彼と戦います。しかし、兄上は好きなだけお休みください。あなたが戦死してイングランド人の自由が汚されることのないためにも」(鶴島,2015年,168-169頁(オルデリック・ヴィターリス「教会史」(1110~42年頃成立)より))

しかし、ハロルド2世はこれをよしとせず、自ら全軍を率いてロンドンから決戦の地ヘースティングズへ向かった。10月12日ごろ、最後のノルマンディ公の使者が行軍中のハロルド2世に届き、王国の二分割または王と公による決闘を提案し、これを王は退ける。『ハロルドは顔を天に向けて、「主よ!今日、私とウィリアムのあいだで、何が正義かお決めください」と言った』(鶴島,2015年,148頁(アミアン司教ギー「ヘイスティングズの戦いの詩」(1067年頃成立)より))という。


ヘースティングスの戦いの古戦場

両軍の布陣

翌13日、ハロルド2世率いるイングランド王軍はヘースティングズからほど近いカルドベックの丘の稜線に布陣、対するギョーム2世率いるノルマンディ公軍はバトルで軍を集結させ陣を敷いたのち、カルドベックの丘の南、テラムの丘に布陣した。軍勢については諸説あるが、両軍とも5000~7000、歩兵中心のイングランド王軍に対して騎兵中心のノルマンディ公軍という特徴があった。

イングランド軍は両翼をフェルドと呼ばれる民兵が、中央を王の親衛隊を勤める勇将ハスカールが率い、丘の稜線に沿って重装歩兵による五列の密集戦列を組み、盾をお互いに組み合わせて壁を作りその隙間から槍を突き出す「盾の壁」と呼ばれる鉄壁の防御陣形を敷いている。

対するノルマンディ軍は中央をノルマンディ公率いる親衛隊とノルマン人部隊から構成される本隊、左翼をブルターニュ軍、右翼には留守を守る重臣ロジャ・ボーモンの子ロバートが率いる混成部隊の三部隊に分け、最前列がクロスボウで武装した歩兵、二列目が重装歩兵、三列目が騎兵という布陣で、丘上に陣取るイングランド軍の前面に展開する。

ヘースティングズの戦い布陣図

ヘースティングズの戦い布陣図
鶴島博和著『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社,2015年,156頁より

ヘースティングズの戦い

バイユーのタペストリー48場

バイユーのタペストリー48場「ヘースティングズの戦いの開戦」

10月14日朝9時、ノルマンディ公軍の攻勢によってヘースティングズの戦いは幕を切った。序盤は地の利を生かしたイングランド軍が優勢となった。イングランド軍が布陣する丘とノルマンディ軍の布陣する丘のあいだの一番低いところで標高65.4m、その先から高低差18mを加速なしで駆け上がらなければならない(鶴島,2015年,171-172頁)。また、ノルマンディ軍は丘を攻略するために、低地に軍を展開させざるを得ず、一帯には溝や亀裂がいたるところに走って行軍を困難にしており、さらに、溝に落ちて戦闘不能となる兵も続出していた。ノルマンディ公軍は不利な地形とイングランド軍の堅い守りに阻まれて攻めあぐねることになった。のちにバイユーのタペストリー製作を指示した人物とされるノルマンディ公ギョーム2世の異父弟バイユー司教オドがこのとき軍を鼓舞してまわっている。

「イングランド人は、高所という地の利を最大限に生かしていた。前に突出せず、隙間のないくらい密集した隊列を維持した。彼らの武器も盾や鎧を貫通するほど強力であった。接近を仕掛ける者を剣で追い返し、戦線を維持した。」(鶴島,2015年,161頁(ウィリアム・ポワティエ「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」(1070年代成立)より))

戦線が膠着するなか、ノルマン軍にノルマンディ公ギョーム2世戦死の噂が駆け巡り、動揺が走る。公はすかさず兜を投げ捨てて馬を走らせ、自らの健在をアピールして戦線の崩壊を防いだ。

「見よ!私は生きている。神のご加護でわれらは勝利に向かっている。何を血迷って逃亡しようとするのか。逃げ道でもあると思うてか。追って殺そうとする者は、おまえたちを牛のように屠殺できるであろう。おまえたちは、勝利と不滅の名声を捨てようとしている。そして破滅と消えることのない恥辱に落ちようとしている。逃げれば死が待っているだけだ」(鶴島,2015年,175頁(ウィリアム・ポワティエ「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」(1070年代成立)より))

そう鼓舞して、全軍突撃を指示し攻勢に出る。イングランド軍に損害を与えたものの、味方も大きな損害をこうむっていた。このとき、イングランド軍副将の王弟ギリスが戦死したとアミアン司教ギー「ヘイスティングズの戦いの詩」は書いているが、一方で、ウェイス「ロロの物語」はギリスが戦死したのは最終局面、ハロルド王を守っての戦死だったとする。

戦況はかんばしくない。しかし、イングランド軍の鉄壁の防御陣にも、おもに個人的な力量に優れたノルマン騎士の武勇によって開けた突破口であったが、いくつかほころびが見え始めていた。

ここで、ギョーム2世は大きな賭けにでる。逃亡を装っての後退を指示したのである。偽装敗走は最も難しい戦術の一つで、わずかな失敗で戦線が一気に崩壊しかねない。非常に高い統率力を必要とするこの戦術を実行するに、自らの鼓舞で士気が上がっているこのときは確かに絶好のタイミングで、この賭けに公は勝利した。二度に渡り偽装撤退からのイングランド軍の追撃を反転迎撃して殲滅する作戦を成功させ、堅守でノルマン軍を退け続けたイングランド軍の戦線が一気に崩れていく。

さらに追い打ちをかけるように、公は弓兵に高く矢を上に放つよう指示した。イングランド軍が「蚊」と呼んだ頭上からの矢の雨にイングランド軍次々と倒れる。さらにその矢の一本がハロルド王の右目に刺さった。王はその矢を自ら引き抜き、痛みをこらえて指揮を執り続ける不屈ぶりを見せつけ、その王の雄姿に鼓舞されるように、まだイングランド軍はケントとエセックスの精鋭を中心に激しく抵抗、攻勢にでるノルマン軍をさらに押し返す。これに対して公自ら千名の精鋭で密集隊列を組み激しい攻勢に出た末、これを粉砕する。

この乱戦の中でついにハロルド2世が戦死した。アミアン司教ギー「ヘイスティングズの戦いの詩」はノルマンディ公がブーローニュ伯ユースタス、ポンチュー伯相続人ヒュー、騎士ギファードとともに王に戦いを挑み倒したとするが、この著者アミアン司教ギーはポンチュー伯の叔父でブーローニュ伯とも親しい人物で、その両者がわざわざ入っている点など記述の信憑性に疑問が持たれている(鶴島,2015年,185頁)。別の史料ウェイス「ロロの物語」では単に「ある騎士が面頬を切りつけた。ハロルドは地面に倒れた。彼が立ち上がろうとしたとき、1人の騎士が腿を切り裂いたので彼は再び倒れた」(鶴島,2015年,184頁(ウェイス「ロロの物語」(1155年頃成立)より))としている。同じウェイス「ロロの物語」に従えば、前述の通り王弟で副将のギリスの戦死もこのとき、ノルマンディ公ギョーム2世手ずからの槍の一突きによってであった。

ハロルド2世の戦死は日没前のことと考えられ、その死が全軍に伝わるとイングランド軍は逃亡を開始、およそ八時間にわたる死闘はこうして幕を閉じた。

戦いの後

ハロルド2世の遺体はアミアン司教ギー「ヘイスティングズの戦いの詩」によれば、公の持っていた上質の紫のリネンの布に包まれ、葬儀が執り行われた。その上で、海の傍ら、崖の上に埋葬されたという。このとき、「半分ノルマン人、半分イングランド人」の公の側近がこの役目を務めた。また、ウィリアム・ポワティエ「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」によると、埋葬の役目を務めたのはウィリアム・マレットという人物であったといい、公は「ハロルドの遺体は海と海岸の守護としておくべき」と語ったという。(鶴島,2015年,187頁)

全体的に同時代史料はハロルド2世を非常に勇戦した人物として描いており、王の称号を欠かさず、尊重する姿勢が見られている。強敵として描くことでウィリアム1世の王位奪取を英雄的なものとし、同時にハロルド2世を尊重することでハロルド2世に近しい諸侯や地方を慰撫し味方につけようとする意図があったのかもしれない。このような敵役の尊重は日本も含め多くの建国・王朝草創の伝承・物語に共通するものとして見られるだろう。

以後、ドーヴァー、カンタベリーと要衝を支配下に置き、ロンドンで貴族らに擁立されたエドガー・アシリングを服従させて、1066年12月25日、イングランド王ウィリアム1世として戴冠する。以後、各地の反乱勢力を次々と鎮圧しながら、ノルマン朝(アングロ・ノルマン王国)による「ノルマン・コンクエスト」の名で知られる征服事業が始まった。

参考書籍
・鶴島博和著『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社,2015年
・マシュー・ベネット他編著(浅野明監修、野上祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』創元社,2009年
・朝治啓三他編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社,2012年
・バーバラ・ハーヴェー編(鶴島博和監修・吉武憲司監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈4〉 12・13世紀 1066年~1280年頃』慶應義塾大学出版会,2012年)
・青山吉信編『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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