征服王ウィリアム1世と「ノルマン人の征服(ノルマン・コンクエスト)」

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ウィリアム1世(生没年1028-1087、ノルマンディ公在位1035-87、イングランド王在位1066-87)はノルマン朝初代のイングランド王。1035年、北フランスの有力諸侯ノルマンディ公を継承、1066年「ヘースティングズの戦い」でイングランド王ハロルド2世を破ってイングランド王となった(ノルマン人の征服(ノルマン・コンクエスト))。「ドゥームズデイ・ブック」を作成させ、ソールズベリーに貴族らを集めて忠誠を誓わせた。征服王の異名で知られる。

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ノルマンディ公ギョーム2世の台頭

ノルマンディとイングランド

「ノルマンディと北フランス諸侯、イングランド関係」
(青山吉信編『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年,207頁図を改変)

ノルマンディ公領はヴァイキングの侵攻に悩む西フランク王シャルル3世が911年、ヴァイキングの首長ロロにキリスト教への改宗と臣従を条件に領地として与えたことに始まる。ギョーム1世長剣公(在位927-942)、リシャール1世無畏公(在位942-996)の時代に海上交易の繁栄を背景とした強力な領邦権力として確立された。

1002年、イングランド王エゼルレッド2世(在位978-1016)は、圧力を増すデーン人に対抗するべくノルマンディ公リシャール2世(在位996-1026)の姉妹エマを妻に迎え、イングランドとノルマンディの関係を強化した。これが後のノルマンディ公ギヨーム2世によるイングランド王位請求に繋がる。

ノルマンディ公ギョーム2世、後のイングランド王ウィリアム1世はノルマンディ公ロベール1世(在位1027-35)と、側室アルレッタの間に生まれた庶子である。アルレッタはファレーズ市の富裕な製革職人の娘であった。1035年、父ロベールはエルサレム巡礼に出て巡礼先で亡くなり、庶子ギョームが公位についた。

幼い新公に対し有力貴族らが反乱を起こし、これにフランス王、アンジュー伯ら周辺諸侯が介入、長期に渡って戦闘状態となる。1047年、ヴァル・エス・デュヌの戦いで反乱を鎮圧、1053年、フランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダと結婚、フランドル伯との同盟関係を確立して、1054年のモートマの戦い、1057年のヴァラヴィルの戦いでフランス王アンリ1世・アンジュー伯ジョフロワ2世軍を撃破、公領の支配を固めた。

1060年、フランス王アンリ1世、アンジュー伯ジョフロワ2世が相次いで亡くなり、フランス王位は八歳の幼君フィリップ1世が継ぎ、摂政として義父のフランドル伯ボードゥアン5世が補佐することとなって融和ムードが高まり、一方アンジュー伯家は後継を巡って内紛となり大きく勢力を減退させた。1063年、アンジュー伯との境界にあったメーヌ伯領を獲得してアンジュー伯家の脅威を取り去り、さらに1064年、ノルマンディ公領の背後を脅かしつつあったブルターニュへ遠征、ブルターニュ公コナン2世を下して影響下に置いた。

この、フランス王・アンジュー伯との北フランスの覇権をかけた三つ巴の対立状態にあったという点は、後のイングランド征服戦争へと至る過程として大きな影響を与えた。大陸での優位確立のために、イングランドを後背地として獲得したかったのである。1060年代のノルマンディ公は公領の支配を確立した上で周辺諸国を抑えることに成功、軍事的冒険に出る環境が着々と整いつつあった。あとは機会の到来を待つだけだったのだ。

イングランド王家の断絶

エゼルレッド2世死後の1016年、デーン人の王クヌートの侵攻によってイングランド王エドマンドはウェセックスを、クヌートがマーシアとノーサンブリアを領有する分割条約が結ばれ、その直後エドマンドが死んだことにより、クヌートがデンマーク・ノルウェー・イングランド複合王国、通称「北海帝国」(1016-42)の王となった。

北海帝国はクヌートの死後、早世したハロルド1世に続いてクヌートとエマの子ハーディカヌートが継承したが、子のないハーディカヌートはエゼルレッド2世とエマの子エドワードを共同統治者に招き、その死後北海帝国は分割され、イングランド王としてエドワードが王位を継いだ(エドワード証聖王(在位1042-66))。

クヌート王の治世下で台頭したのがウェセックス伯ゴドウィンである。婚姻によってクヌートの義理の兄弟となったゴドウィンは北海帝国に代わってエドワード証聖王の時代になっても重用され、エドワード王とゴドウィンの娘エディスが結婚したことで王族に名を連ねることになった。

しかし、王をしのぐゴドウィン家の権勢にエドワード王はマーシア伯ら有力貴族の協力を得て対抗、1052年ゴドウィン一族はフランドルに亡命を余儀なくされたが、翌53年、ゴドウィン派貴族の巻き返しもあってゴドウィン家は復権を果たし、ゴドウィンの後を継いだハロルド・ゴドウィンソンは1062年マーシア伯ら反対諸侯を粛清、ウェールズへの遠征も成功させて権力を固めた。

1064年、フランスを訪れたハロルド・ゴドウィンソンはポンティユ伯ギーに囚われる。このとき、ハロルドを助けたのがノルマンディ公ギョーム2世で、その救出の条件としてハロルドはギョーム2世に臣従を宣誓することで解放された。このときの臣従と宣誓の有効性が王位継承の正統性を巡るノルマンディ公側の大義名分となる。

一方で、ノルウェー、デンマークの旧北海帝国でもハーディカヌートの後継を巡ってノルウェー王ハーラル3世、デンマーク王スヴェンがともにイングランド王位の継承を主張していた。また、ハロルドの弟トスティクが兄に反乱を起こして失敗、フランドルに亡命していた。諸勢力はイングランド王位をめぐって一触即発の状態にあり、そのような中で、1066年1月5日、長く病床にあったエドワード証聖王が後継者無いまま亡くなったのである。

イングランド王ウィリアム1世の即位

ウィリアム1世の肖像画

ウィリアム1世肖像画(著者不明,1597-1618頃)
National Portrait Gallery, London収蔵

1066年、イングランド王エドワード証聖王が亡くなりウェセックス伯ハロルド・ゴドウィンソンがハロルド2世として王位に就くとノルウェー王ハーラル3世とノルマンディ公ギョーム2世がこれに異を唱えてイングランドへ侵攻を開始する。この頃、スコットランド王マルコムの元にあったトスティクとノルウェー王ハーラルは同盟を結び、ハロルド2世もまずはこれを討つべく北上、9月25日、スタンフォード・ブリッジの戦いでノルウェー=トスティク連合軍を撃破してハーラル王、トスティクを敗死させた。この戦いや次のヘースティングズの戦い、過去のウェールズ遠征等も含めて、ハロルド2世が卓越した戦上手であったことは確かである。

ノルウェー軍を殲滅し首都ロンドンに帰還したハロルド2世は、イングランド南部に上陸してヘースティングズの町を占領したノルマン軍に対して、自身の王位継承の正当性を訴えるとともに撤退を要求するが、ノルマンディ公ギョーム2世は拒否、改めて決戦の意図を伝え、10月14日朝9時ごろ、ヘースティングズの戦いが始まった。地の利を生かして鉄壁の守りを敷くイングランド軍と攻めあぐねるノルマン軍、両軍一進一退の激しい戦いとなったが、午後、ノルマン軍の偽装後退による誘い出しからの反転迎撃作戦が奏功して堅牢なイングランド軍の戦線が崩壊、日没直前、片目を射抜かれながらも最後まで奮戦していたハロルド2世の戦死によって、イングランド軍が敗走、ノルマン軍が勝利した。

同戦いの推移について詳しくは以下の記事にまとめてある。

「ヘースティングズの戦い(Battle of Hastings)」(1066年10月14日)
決戦への道 1066年、エドワード証聖王の死後、戦上手で知られる有力貴族ハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王ハロルド2世に即位すると、これに異を唱えてノルウェー王ハーラル・ハルドラーダとノルマンディ公ギョーム2世(ウィリアム1世)がイ...

ドーヴァー、カンタベリーなど要衝を次々占領したギョーム2世は大司教スティガンドをはじめとする貴族らに擁立されロンドンに籠る新王エドガー・アシリングを降伏させ、12月25日、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。

ノルマン人の征服(ノルマン・コンクエスト)

ウィリアム1世の即位に始まる歴史上「ノルマン人の征服(ノルマン・コンクエスト)」と呼ばれる事件の特徴は、これによってノルマンディ地方からイングランド、ウェールズやアイルランドへと至るフランス北部からブリテン諸島までの範囲に単一の貴族社会が成立したことである。ヘースティングズの戦い以降1070年までに旧アングロ・サクソン系貴族の土地の大部分が取り上げられてノルマンディ地方出身の有力者たちに再分配された。

「ノルマン人の征服(ノルマン・コンクエスト)」の結果起きた変化の第一として、古英語にかわり北フランスの言語がイングランドの主要言語となったことである。この傾向は、ノルマン朝を継いだフランス諸侯アンジュー伯アンリ・プランタジュネのイングランド王即位(ヘンリ2世(在位1154-89))に始まるプランタジネット朝で強まり、ロマンス語系語彙の増加を経て公的な場での英語の復活は十四世紀後半以降のこととなった。

第二に政治制度の複合化である。発展していたイングランドの儀礼や文書行政は残されつつ、フランスの制度も導入されることになった。「バイユーのタペストリー」の製作者として知られるウィリアム1世の異父弟バイユー司教オドがイングランド摂政に任ぜられて王不在時のイングランド統治を一任され、ノルマンディのベック修道院副院長であったランフランクがカンタベリー大司教に招かれて教会上層部が刷新、教会行政において大陸の制度が導入された。文書行政の面ではエドワード証聖王の制度が継承されたが王の家政組織はフランク風の役職が導入され、領主層に続いて地方行政官らも1071年までに大部分がノルマン人となった。このような支配階層の変化は「ドゥームズデイ・ブック」にまとめられた。

第三にフランスとの政治的結合の強化である。イングランド王国はノルマンディ公領と一体化して複合国家となり、イングランドはあくまで属領にすぎず、本土であるノルマンディ防衛の資金・兵員供給地とするための体制が確立されていく。このノルマンディ公領とノルマン支配下のイングランド王国をあわせて「アングロ=ノルマン王国」と呼ぶことが多い。また、フランスにおいて、ノルマンディ公はフランス諸侯としてフランス王の宗主権の下で臣従を求められる立場であり、一方でイングランド王はフランス王の宗主権の外にある。このギャップが以後のヨーロッパ史において英仏関係を大きく動かす要因となっていく。

また、他にもモット・アンド・ベイリー・キャッスルの導入など築城技術のフランスからの移転や、後に封建制に発展する臣従礼による従士制と恩貸地の授与、知行地と軍役などの制度化もノルマンディ地方からの移植と再編成がウィリアム1世以降ノルマン朝の支配下で進み、イングランドとフランスの一体化が進んだ。

征服王の死

1087年、ウィリアム1世はその死に際して三人の子に慣習にのっとって遺領の分割相続を行った。長子ロベールにノルマンディ、次子(三男)ギョーム(後のイングランド王ウィリアム2世)にイングランド、末子アンリ(のちのイングランド王ヘンリ1世)には金銭という配分であった。長子ロベールがノルマンディを継承したことについて、ロベールが反乱を起こしたこともあることなどウィリアム1世とロベールの確執を唱える説もあるが、本領を長子に、属領を次子にという点からみるとむしろ穏当な相続であるともいえる。しかし、この相続は遺恨を生むことになり、ウィリアム1世の死後、三人の兄弟とその子孫たちによって長きに渡る王国継承の戦いが続くことになった。

征服王の後継者ウィリアム2世ルーファス(赤顔王)
ウィリアム2世はノルマン朝イングランド(アングロ=ノルマン王国)三代目のイングランド王。ウィリアム1世の第三王子。兄にノルマンディ公ロベール、弟にヘンリ1世がいる。ウィリアム1世の跡をついでイングランド征服を推し進めた。教皇との聖職叙任権闘...
ヘンリ1世碩学王~イングランドの統治体制を築いた隠れた名君
ヘンリ1世はノルマン朝イングランド(アングロ=ノルマン王国)三代目のイングランド王。ノルマンディ公。ウィリアム1世の末子。前王ウィリアム2世の死後、ノルマンディ公ロベールの不在を就いてイングランド王に即位。ノルマンディ公ロベールの反乱と、そ...

参考文献

・青山吉信編『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・朝治啓三他編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社,2012年
・佐藤賢一 著「カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)」講談社、2009年
・柴田 三千雄, 樺山 紘一, 福井 憲彦 編著「フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)」山川出版社、1995年
・鶴島博和著『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社,2015年
・バーバラ・ハーヴェー編(鶴島博和監修・吉武憲司監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈4〉 12・13世紀 1066年~1280年頃』慶應義塾大学出版会,2012年)
・ヒレア・ベロック著(篠原勇次,デイヴィッド・ブラッドリー訳)『ウィリアム征服王の生涯―イギリス王室の原点』叢文社,2008年