「不思議の国のアリス (ちくま文庫)」ルイス キャロル著/柳瀬 尚紀訳

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まだ幼い頃、子供向け絵本などのたぐいで読んで以来、例えば映画や様々な本で引用・オマージュされているものを通して間接的に知ってはいたのだけど、ちゃんと読んではいなかった。去年何かのタイミングでそろそろ読む時期かなぁと思い買うだけ買って積読していた。先週やっと読み始めて読了。この柳瀬訳の評判が良い。読んでみると確かに、英語上の言葉遊びを日本語にアレンジしたり、アリスのセリフまわしなど、評判どおり上手く日本語にしているとおもう。

姉とともに川べりで遊んでいたアリスは急ぐ白兎を目にして追いかけていくうちに地下へとするすると落ちて行き、様々な不思議な体験をするというお話で、様々な体験をアリスがしていくのだけど、確かにこれは夢だと思った。非常に夢的な、誰もが見る、記憶の片隅にしか残っていないけど、確かに残っている、夢の中であるいは空想として体験したことのあるイメージ。読みながらそういう断片が蘇って来て、鮮明に形作られていく。原形質のイメージと言っても良い。とてもプリミティブであるが故に様々な人の心に残り、様々なかたちでインスパイアされてきたのだろう。

そういう原型/元型的なため、様々な捉え方が出来ると思う。純粋にお話として楽しむことも、寓話として何か教訓を得ることも、自分の体験と重ねあわせることも、心理学的な分析をすることも、作者の分析をすることやこの作品が書かれた19世紀の社会を読み取ろうとすることもお好み次第。読者の心象風景を映す鏡としての役割を果たす作品だなぁ。

僕はアリスがなかなか大きさが定まらないところや、鼠に猫や犬の話をして嫌われてしまうコミュニケーション不全なところなどから、大人になっていくことの戸惑いや社会化への抵抗という、よくある思春期の悩みのようなものを読み取ったり、あるいは、アリスと出会う登場人物たちの多くが時間に追われているところに当時の社会の反映を思い浮かべたり、あるいは最後の裁判のくだりなどはアリスが夢と対峙して現実に戻るという、それまでの形定まらない状況から抜け出す、一種の成長として読んだりもした。トランプの王、女王たちは子供のままでありつづけようとしたルイス・キャロルを取り巻く大人たちの投影として暴虐で支配者然としているのかもしれない。

この作品が書かれた1850年代のイギリスは産業革命後の社会の変貌によって人々の生き方が劇的に変わって行く時期だった。そういう中でのルイス・キャロルの苦悩みたいなものがアリスの冒険として投影されているのだろうと思う。それは多分現代まで続いた様々な人々が味わう苦悩であり、その苦悩を引き受けるアイコンとしてアリスという少女が人々の心に残り続けたのだろう。この作品は、少なくとも現代を含む近代的時代――人が個人として自立していくことを求められる時代――が続く限り重要な作品であり続けると思う。

そういう、自分なりの解釈を自由にしやすい物語で、多分読み直すごとに、捉え方が変わって行く作品であり、その捉え方は私の、そして読む人の心象風景なのだ。アリスの物語をどう読むかは読む人にとっての世界とは何かという問いに等しい。

「あのう、教えてくださる、あたしここからどっちへいったらいいんですか?」
「きみがどこへいきたいかによるね」猫はいった。
「どこでもかまわないんですけど――」アリスはいった。
「それならどっちへいってもかまわないだろ」猫はいった。
「――とにかくどこかへ出られればです」アリスは説明をそえた。
「そりゃ出られるに決まってるさ」猫はいった。「ずうっと歩いていきさえすれば」

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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