「プラグリーの乱」とフランス王常備軍「勅令隊」の創設

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プラグリーの乱は1440年、フランスでおきた大規模な諸侯反乱である。フランス王シャルル7世が前年1439年に発したオルレアン勅令に反対し、ブルボン公シャルル1世・アランソン公ジャン2世・元侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユら有力諸侯が王太子ルイを擁立して反乱を起こしたが、大元帥リッシュモン伯アルチュール率いるフランス王軍によって鎮圧された。プラグリーは当時話題の宗教騒擾を彷彿とさせることからフス戦争の舞台となったプラハに由来して名付けられた。

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野武士団の横行とオルレアン勅令

野武士団( routiers )は、百年戦争下のフランスに登場した、戦時には傭兵となり、平時には盗賊として村々を荒らし略奪・暴行を繰り返す集団のことである。中には城塞を占拠し近隣を支配して独立勢力化するものもあった。十四世紀半ば、ペストの蔓延と村落共同体の崩壊、フランス王権の統治能力の低下、度重なる戦争による傭兵需要の高まりの中で登場し、十五世紀前半、百年戦争の再開とともに再び活動を活発化させていた。

ジャンヌ・ダルクの活躍に続くアラス和約(1435)、パリ奪還(1436)などフランスの優勢の中で戦争が落ち着いてくると、働く場所を失った傭兵たちが集団で略奪行為を働くようになり、治安維持のため野武士団対策は喫緊の課題となっていた。

1439年11月2日、この野武士団の跋扈を抑え治安を回復する目的で出されたのがオルレアン勅令である。上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』(晃洋書房,2014年)によれば同勅令は三つの項目に分類される。

「一つ目はフランス王国内のすべての人々に対して軍隊の召集を禁ずる由を記した条文。二つ目が兵士に対して略奪を禁じ、秩序の維持を取り戻すことを明記とした条文。最後に三つ目が、国王以外のものが課税を行うことを禁ずる条文である。」(上田,2014,116頁)

三部会も開催された上で発されたこの勅令は事実上諸侯の自主性を制限するものであったため、大きな反発を呼んだ。当時、諸侯は自らの軍事力を野武士団化した傭兵たちに頼り、彼らを抱え込むことで勢力を拡大、王権を脅かしかねないほど力を蓄えていたのである。その最右翼がブルボン公であった。

ブルボン公派とアンジュー公派の主導権争い

百年戦争後期、イングランド軍の侵攻によってパリを追われたシャルル7世派はその勢力の中核となったアルマニャック伯の名をとってアルマニャック派と呼ばれたが、1432年の侍従長トレムイユの失脚によりヨランドの末子メーヌ伯シャルル・ダンジューが王の側近となって以降、王妃マリー・ダンジューとその母前アンジュー公妃ヨランド・ダラゴンの後ろ盾で頭角を現したアンジュー公ルネ派の人材が多数を占めるようになった。

これに対しブルボン公シャルル1世もアラス和約締結に手腕を発揮、野武士団を多く抱えて軍事力を強化し、宮廷内でも権勢をふるうようになり、アンジュー公派の伸長に対して自派の人材を次々と国政に送り込んで、シャルル7世の宮廷は両派の勢力争いが激化していた。ところが、1437年、ブルボン公の傭兵隊長ロドリゴ・ヴィランドランドと国王軍が衝突、激怒したシャルル7世にブルボン公が赦免を求めるという事件が起こり、以降ブルボン公の権勢に陰りが見えていた。

オルレアン勅令によって創設されることになる国王直属軍から、この事件によって王の信頼を失っていたブルボン公の排除が決定的となった一方、同勅令を主導したシャルル・ダンジュー、大元帥リッシュモン伯らの優位は確実なものとなっていた。

プラグリーの乱

プラグリーの乱

プラグリーの乱(1484年作)

1440年2月17日、ブルボン公シャルル1世、アランソン公ジャン2世ら諸侯がブロワに集まり、代父であったアランソン公が父王との確執深まっていた王太子ルイを説得して反乱諸侯の盟主として擁立、プラグリーの乱が勃発した。しかし、野武士団対策は特に被害を受けていた都市民の悲願であったため諸都市の支持を得られず、早期にデュノワ伯ら有力諸侯の離反も招き、大元帥リッシュモンをはじめ、ラ・イール、ザントライユらが率いる国王軍の攻勢の前にわずか五か月で鎮圧された。

プラグリー乱の間、反乱諸侯と国王との間で二度の和平交渉が行われ、一度目は王太子ルイが強硬な姿勢を崩さず和平交渉は頓挫、反乱軍がほぼ敗色濃厚な状況となった七月、二度目の和平交渉が行われ、国王による反乱諸侯の赦免と引き換えに、ブルボン公領地の一部王領へ譲渡などが取り決められ、ブルボン公、王太子ルイらがシャルル7世の下を訪れて謝罪し王がこれを受け入れて乱は終結した。(クェセの和約)

フランス王直属常備軍「勅令隊」の創設

乱後、大元帥リッシュモン主導で国王直属の常備軍の創設が進められた。1445年1月5日に創設された「勅令隊( Compagnies d’ordonnance )」は国王から直接俸給が支払われ、六名の槍組(装甲騎士、その剣持ち、騎士見習、弓兵2名、小姓)を最小単位として100単位ずつ15部隊9000名からなる国王直属の常設軍である。続けて1448年、最大約8000名の弓兵からなる「自由弓兵隊」と、ジャンとガスパールのビュロー兄弟による「国王砲兵隊」も編成された。

プラグリーの乱後、ブルボン公はときに強硬な手段も用いつつ虚々実々の駆け引きを行いながら、王からの譲歩を巧みに引き出して、この勅令隊の隊長職のうち五つの隊長職を自派で占めることになっている。政治はアンジュー公派、軍事はブルボン公派という分担がなされるようになった。

プラグリーの乱を経た軍制改革によって大幅に強化されたフランス軍は、1449年、和平条約を破ってイングランドに攻勢をかけ、百年戦争開戦以来苦戦続きだったのが嘘のように快進撃を続けて、1453年までに大陸領土からイングランド軍を駆逐、国内での野武士団の跳梁も沈静化していった。

ブルボン朝への伏線としてのプラグリーの乱

この一連の改革を経て、フランス王権は領邦国家に対して超越的な地位を獲得し、やがて領邦国家の消滅とともに近世の幕が開き、フランス絶対王政国家への道を歩むことになる。その役割を王として担うのが、このとき領邦国家の代表として王権と対峙し、巧みに生き残りを図ったブルボン家――なお本家ブルボン公シャルル1世の系統は十六世紀初頭に断絶、傍流でプラグリーの乱にも参加していたヴァンドーム伯家が継ぐ――であった点は大変興味深い。

ブルボン家と競い我が世の春を謳歌したアンジュー公家も、フランス王に従わなかったブルゴーニュ公家・ブルターニュ公家もみな絶える中で、プラグリーの乱以後、ヴァロワ王家に忠実な最大の親王家であることに存在意義を見出し、領邦国家としての自主性をかなぐり捨てて命脈を保ち続けた結果、ブルボン家の時代が訪れるのである。

参考書籍
・上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』晃洋書房,2014年
・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』刀水書房,2010年
・佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』講談社,2014年
・デヴィッド・ニコル著(稲葉義明訳)『百年戦争のフランス軍―1337‐1453 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)』新紀元社,2000年
・バート・S・ホール著(市場泰男訳)『火器の誕生とヨーロッパの戦争』平凡社,1999年

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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