「アジャンクールの戦い(1415年10月25日)」イングランド軍、三倍のフランス軍に圧勝

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アジャンクールの戦い(フランス語: Bataille d’Azincourt、英語: Battle of Agincourt、またはアザンクールの戦い、英語読みでアジンコートの戦いともいう)は1415年10月25日、百年戦争中の主要な戦いのひとつ。休戦期間を終えてヘンリ5世率いるイングランド軍がフランスへ侵攻し、フランス北部アジャンクールの平野で迎え撃った数に勝るフランス軍が大敗、以後、百年戦争後半の戦いが開始することになった。

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前史

1392年、フランス王シャルル6世が狂気の発作に陥り統治能力を喪失すると、王弟オルレアン公ルイと前王の弟ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公との間で主導権争いが激化。1407年、フィリップ豪胆公の後を継いだジャン無畏公によってオルレアン公ルイが暗殺され、オルレアン公遺臣と有力諸侯アルマニャック伯らからなるアルマニャック派とブルゴーニュ派との間で内戦状態となった。

1399年、イングランド王リチャード2世がランカスター公ジョン(リチャード2世の父エドワード黒太子の弟)の子ヘンリ・ボリングブルックにより廃位され、ヘンリ・ボリングブルックがヘンリ4世として即位(ランカスター朝)、ウェールズの反乱を鎮圧して1413年、ヘンリ4世の子ヘンリ5世が即位した。

アルマニャック派、ブルゴーニュ派ともに自勢力を優位とするためイングランド王との同盟を求めて交渉を開始すると、ヘンリ5世はアルマニャック派が支配していたフランス政府に対して過大な要求を突きつけた上で兵を集め、1415年8月14日、ノルマンディのシェフ・ド・コーに上陸した。

アルフルール攻囲戦

アルフルール攻囲戦

アルフルール攻囲戦

イングランド軍は約一万でセーヌ川河口の要衝アルフルールの攻囲に取り掛かった。アルフルールは26の塔とマシクーリ(城壁上から攻撃できる張り出し)を備えた大規模城壁で囲まれた城塞都市で、ダムの水門を調節することで低地に水を氾濫させることもできるなど堅守で知られた。

アルフルール攻城戦ではイングランド軍は大砲や投射兵器を集中運用し、火器が戦争の主流へと移行する過渡期の戦闘の一つであった。ただ、この戦いではまだ有効ではなく、城壁へ打撃は与えたものの、砲兵たちは守備隊により撃退されている。

イングランド軍一万に対し仏将ラウル・ド・ゴークール率いる守備隊400の兵力差だったが、市民兵も動員されて一か月以上に渡ってイングランド軍の猛攻を耐え9月17日に落城、イングランド軍はこの戦いで総兵力の五分の一を失う大損害を被り、立て直すため撤退することになった。(カウフマン,2012年,147-149頁)

アジャンクールの戦い

アルフルール攻囲戦で想定外の損害を負ったことで、ヘンリ5世はイングランド領であるカレーへと退却を開始する。これに対しフランス軍はイングランド軍を追撃するべく装甲騎兵を主力とする軍勢を派遣した。フランス軍の総兵力について、2万~6万まで諸説あるが、イングランド軍の三倍以上とされており、マーティン J.ドアティ著(日暮雅通監訳)『図説中世ヨーロッパ武器・防具・戦術百科』(原書房,2010年)によれば7000の装甲騎兵とその二倍14000の下馬兵、3000の弩兵に加え砲兵隊も備えていたという。一方、イングランド軍は騎士・装甲騎兵約1000と5000の弓兵を含めて総勢8000ほどであった。

両軍の作戦

Morning of the Battle of Agincourt

Morning of the Battle of Agincourt
1884年、サー・ジョン・ギルバート作

フランス軍の作戦を立案したのが大元帥シャルル・ダルプレとブシコー元帥ジャン・ル・マングルである。ブシコー元帥は騎士道の体現者として後々まで語られる人物で、かつ戦上手で知られる。彼らはクレシー、ポワティエでの敗戦を踏まえ、イングランドの長弓兵を無効化すべく主力として下馬装甲騎兵の両側を通常歩兵で固め、この歩兵隊列の前面に弓兵・弩兵を配置、小規模の機動力を持った騎乗装甲騎兵による別動隊でイングランド軍本陣を突かせつつ、大軍勢で敵長弓兵部隊に総攻撃を加えるというものであった。(ベネット,2009年,66-67頁)

しかし、フランス軍はこの作戦を実行する上で指揮系統に根本的な問題を抱えていた。本作戦の総司令官オルレアン公シャルルは1394年生まれ、若干20歳の若い大貴族である。彼のほかにもブルボン公ジャン、アランソン公ジャン1世ら多くの大貴族を抱え、統一した命令系統が全く確立されていなかった。作戦通りに軍が動くかどうか全く保障できなかったのである。

もう一つの、最大の問題点がこの作戦がイングランド軍に筒抜けだったことであった。

ヘンリ5世はフランス軍の捕虜から上記の作戦を入手してその対抗策を講じた。弓兵全員に長さ1.8メートルの両端を尖らせた丸太を持て、と命じたのである。単純極まる命令の背後には精緻にして巧妙な作戦が練られていた。

丸太を持った弓兵に続けて以下のように命じた。

「接近してきたフランス軍が騎兵で隊列を破ろうとしたときは、すべての弓兵は、自分たちの前面に一列に杭を打ち込むこと、そして一部の杭は彼らの後ろの、前の列の杭の位置の中間に打ち込むこと、その際、地面に打ち込まれている一方の端は自分の方に向けて、もう一方の端は腰の高さで敵の方に向けて打ち込むこと」(ベネット,2009年,70頁)

この単純な作業を行うことにより、丸太一本であっという間に簡易的かつ効果的な馬防柵が完成する。しかし、これはあくまでヘンリ5世の作戦の一端でしかなかった。

戦闘

アジャンクールの戦い

アジャンクールの戦い
(マーティン・J・ドアティ著『中世ヨーロッパ武器・防具・戦術百科』(原書房,2010年,258頁)

10月25日、フランス軍とイングランド軍はカレーの南50キロ、アジャンクール村とタームクール村の間の斜面で対陣した。

フランス軍はカレーへと向かうイングランド軍の進行方向を遮るようにして布陣する。フランス軍第一列は6000の下馬装甲騎兵からなり4000の弓兵・弩兵に支援され、両側面には左に1600、右に8000の騎馬隊が配置された。第二列に6000以上の下馬装甲騎兵、後衛に8000の騎兵がそれぞれ陣を敷く。(ベネット,2009年,71頁)

これに対して地の利を生かしたのがイングランド軍である。両側面を鬱蒼とした森に囲まれた狭隘な地形の両側面に弓兵、中央に下馬装甲騎兵という構成で、三部隊に分けるのではなく弓兵と騎兵という兵科の異なる部隊を一つとして陣形を組んだ点に特徴があった。指揮命令系統を完全に一本化したのである。

10月25日午前、布陣早々指揮系統が混乱していたフランス軍はイングランド軍に攻撃を仕掛けられず、その間にイングランド軍は最も狭隘な地形へと移動、弓兵はかねてからの指示通り杭を打ち込み、フランス軍へ威嚇射撃を行う。

フランス軍両翼は規律の乱れから充分に集結できないまま、イングランド軍両翼の弓兵に攻勢を仕掛ける。しかし、前日までの雨でぬかるんだ地盤に足を取られて速度を奪われ、弓兵の築いた馬防柵にも阻まれて、一方的な矢の雨に晒されることになった。このためフランス軍騎兵は反転しようとして後続とぶつかり混乱、中央へと軍を集中させざるを得なくなるが、それこそイングランド軍の思う壺で、弓兵からの集中攻撃を受けることになる。

重武装した騎士たちは矢では致命傷を与えられることは少ない。しかし馬は別である。まず馬たちが次々と倒れて機動力が奪われ、泥濘に足を取られて身動きできず、しかし、一方的な矢の雨に耐え忍ばなければならない。致命傷にはならないまでも関節や甲冑の隙間に矢が突き刺さって負傷し、あるいは戦闘不能に陥る。それは確かに恐怖を覚えさせられる状況で、士気は著しく衰えていく。

機動力を失いつつ徐々に中央に誘導されていったフランス軍の前衛部隊に襲い掛かったのが、イングランド軍中央の騎兵部隊である。両翼からの弓兵による遠距離攻撃で戦意と戦闘力をそがれたフランス軍に、中央のイングランド軍騎兵部隊が縦横に駆け巡って蹂躙し、重武装の下馬装甲騎兵が止めを刺す。鮮やかな弓兵・騎兵・装甲騎兵のコンビネーションで戦闘というよりは一方的な文字通りの虐殺が繰り広げられることになった。

King Henry V at the Battle of Agincourt, 1415

King Henry V at the Battle of Agincourt, 1415
19世紀、サー・ジョン・ギルバート(1817–97)の作品

フランス軍前衛は早々に壊滅し、続く第二軍も、――あるフランス兵(アランソン公ジャン1世だったとする説もある(エチェヴェリー,1991年,93頁))がヘンリ5世に肉薄して金の冠の飾り花が外れる一撃を加えるまで迫ったが――このイングランド軍の必勝戦術の前に瞬く間に戦線が崩壊、当初活用予定だったフランス軍の弩弓兵たちは後方に押しやられえて活躍の場が与えられず、主力の無残な結果にフランス第三軍も軍の体を保てなくなり逃走を開始する。一部の部隊はそれでもイングランド軍に立ち向かおうとしたが、屍を増やしただけに終わった。その中でアジャンクールの領主イザンパール・ダジャンクールの軍――といっても地元農民の集団――が側面攻撃を行い、後方に回り込んでイングランド軍後方の行李を略奪して攪乱したが、これも鎮圧された。

死傷者には諸説あるが、最大値で死者数はフランス軍11000名に対しイングランド軍25~100名、フランス軍の捕虜5800名を数え(グラヴェット,2002年,133頁)、あまりに捕虜が多すぎて反乱を畏れたヘンリ5世は一部殺害を命じたほどであった。

アジャンクールの戦いのミニアチュール

アジャンクールの戦いのミニアチュール(十五世紀、作者未詳)

フランス軍の主な戦死者
・大元帥ドルー伯シャルル・ダルプレ
・フランス提督ジャック・ド・シャティロン
・弩兵隊長ダヴィド・ド・ランブレ
・アランソン公ジャン1世
・ブラバン公アントワーヌ
・バル公エドゥアール3世
・ヌヴェール伯フィリップ
・ヴォーデモン伯フレデリック

フランス軍の主な捕虜
・ブシコー元帥ジャン・ル・マングル
・オルレアン公シャルル(総大将)
・ブルボン公ジャン1世
・ヴァンドーム伯ルイ
・リッシュモン伯アルテュール
・ウー伯シャルル・ダルトワ
他多数

戦後

この戦いで首脳陣を全て失ったフランス政府=アルマニャック派は政権維持能力を喪失、1417年までに王太子二人が相次いで亡くなったことで第三子シャルルを王太子に擁立しつつも、1418年、ブルゴーニュ公ジャンによってパリを奪われ、フランス南部へ亡命政権を建てる。

一方、戦勝後、捕虜を連れて本国に退いたヘンリ5世は1417年にあらためてフランスへ再侵攻するとフランス北部を席捲、1420年、暗殺されたジャン無畏公にかわってブルゴーニュ公となったフィリップ3世とトロワ条約によって軍事同盟を結び、また病床のフランス王シャルル6世の娘カトリーヌとヘンリ5世との結婚を執り行った上でヘンリ5世をフランスの王太子に擁立させた。

イングランド王位とフランス王位は一人の王ヘンリ5世に集約されることになるかに見えたが、1422年、頑健だったヘンリ5世がまさかの病死を遂げ、それに続いてシャルル6世が没し、ヘンリ5世の遺児が生後九か月でフランス王にしてイングランド王ヘンリ6世として即位する。王位継承の正統性を巡って、南方ブールジュを拠点とするシャルルも異を唱えてフランス王シャルル7世への即位を宣言、独立勢力と化したブルゴーニュ公国も含めた三つ巴の争いが展開することになった。

参考書籍
・クリストファー・グラヴェット著(須田武郎・斉藤潤子訳)『イングランドの中世騎士―白銀の装甲兵たち (オスプレイ戦史シリーズ)』(新紀元社,2002年)
・ジャン・ポール・エチェヴェリー著(大谷暢順訳)『百年戦争とリッシュモン大元帥』(河出書房新社,1991年)
・J・E・カウフマン,H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)
・バート・S・ホール著(市場泰男訳)『火器の誕生とヨーロッパの戦争』(平凡社,1999年)
・マーティン J.ドアティ著(日暮雅通監訳)『図説中世ヨーロッパ武器・防具・戦術百科』(原書房,2010年)
・マシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』(創元社,2009年)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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