理智光寺址と伝・護良親王墓

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理智光寺跡

理智光寺跡

『鎌倉廃寺事典』によると、現在は廃寺となっている理智光寺は、願行上人憲静(1215~1295)開山と伝わることから十三世紀半ば以降に創建された、現在護良親王の墓がある谷地一帯を寺域とした寺院でした。開山当初から南北朝時代にかけては理智光院と名乗っていたようですが、その後理智光寺と称するようになります。天文十六年(1547)、理智光寺が衰微して浄光明寺の慈恩院が兼務あるいは管理していたとの記録から、少なくとも天文以降理智光寺と称するようになったと考えられています。このとき、小田原北条氏が理智光寺に二貫二百文の地を寄付したとされています。(『鎌倉廃寺事典』1980年,254-255頁)

『太平記』十三には、建武二年(1335)、淵辺伊賀守義博が護良親王の首をやぶの中に捨てたのを、理智光院の長老が葬ったとあり、また『鎌倉志』には護良親王の位牌が浄光明寺慈恩院にあったが、理智光寺にあるべきとして移したとの記録があるとのことです。これらの記録から、理智光寺に護良親王の墓が設けられていたようで、江戸時代には護良親王墓所の入り口付近に、鞘阿弥陀と称する本尊を祀った阿弥陀堂が建てられていたと伝わります。また、江戸時代には東慶寺の末寺となっていたとのことですが、尼寺であったとも、阿弥陀堂を残すのみだったとも言われています。(『鎌倉廃寺事典』1980年,255頁)

明治にはいって廃寺となり、阿弥陀堂の本尊は覚園寺に移され、護良親王墓はのちに宮内庁の管理下に置かれました。現在はかつての寺域はほぼ住宅地に造成されて、碑が残るのみとなっています。

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伝・護良親王墓

伝・護良親王墓

伝・護良親王墓

伝・護良親王墓

伝・護良親王墓

伝・護良親王墓

伝・護良親王墓

護良親王(1308~35)は後醍醐天皇の皇子で延暦寺梶井問跡の大塔に入室して大塔宮と呼ばれました。1331年還俗して護良を名乗り鎌倉幕府討幕運動を主導、征夷大将軍にも任じられるなど後醍醐天皇の建武政権の中心人物となりましたが、足利尊氏と対立した後失脚、鎌倉に送られて、中先代の乱に際して足利直義によって殺害されました。

かつて境内の内にあったと考えられる護良親王墓ですが、玉垣・石段は明治二年、鎌倉宮造営時に造られたものと伝わります。実際歩いてみるとかなり急な石段で、ところどころ破損が見られていて、補修が必要そうな印象です。石段の途中で施錠され参拝はできません。護良親王墓については、護良親王の子日叡が創建した妙法寺にも伝・護良親王墓とされる宝篋印塔があり、そちらは公開されています。

妙法寺の伝・護良親王墓

妙法寺の伝・護良親王墓

参考文献
・貫 達人,川副 武胤 編著『鎌倉廃寺事典 (1980年)』(有隣堂,1980年)
・神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会編著『神奈川県の歴史散歩 (下) (歴史散歩 (14))』(山川出版社,2005年)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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