荏柄天神社~鶴岡八幡宮と並ぶ鎌倉屈指の古社

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荏柄天神社社殿

荏柄天神社社殿

荏柄天神社御神木

荏柄天神社御神木

熊野権現社

熊野権現社

絵筆塚

絵筆塚

鎌倉屈指の古社です。社伝『相州鎌倉荏柄山天満宮縁起』によると、長治元年(1104)の創建で、治承4年(1180)、鎌倉に入った源頼朝は鶴岡八幡宮若宮を造営して屋敷を鶴岡八幡宮の東、荏柄天神社の西にあたる位置において、大倉幕府の鬼門の鎮護としたともいわれています。大宰府天満宮、北野天満宮と並ぶ日本三大天神に位置づけられ、東国の天神信仰の中心となりました。

鎌倉幕府としても非常に重視した寺社の一つで、建仁2年(1202)、将軍源頼家は同社で行われた菅原道真三百年祭に大江広元を派遣。建仁3年(1203)、北条時政は比企能員追討の謀議を当社で行っています。建保元年(1213)、泉親衛の乱に連座して誅されることになった渋川兼守が十首の和歌を荏柄天神社に収め、この和歌を詠んだ将軍実朝は渋川を助命したと伝わります。また、正応2年(1289)、鎌倉を訪れた後深草院二条は鶴岡八幡宮、荏柄天神社、永福寺、勝長寿院に詣でています。

室町時代になっても信仰は篤く、鎌倉公方足利成氏が正月二十五日に参詣した際、千句の催しが行われ、文明8年(1476)、太田道灌は江戸城静勝軒や泊船亭からの風景を作詞させた「江戸城静勝軒詞序並江亭記」の写しを奉納しています。また、宝徳3年(1451)、足利成氏は国家安寧の祈祷を荏柄天神社に命じているなど、荏柄天神社は鶴岡八幡宮と対になって信仰され、武家政権と密接なかかわりがあったと考えられています。

天文17年、北条氏康は荏柄天神社造営のための関銭徴収の法を定め、天正18年(1590)、鎌倉に入った豊臣秀吉は荏柄天神社造営を命じ、天文19年、徳川家康は社領19貫200文の御朱印を下して修理を命じました。慶長12年(1607)、滝川雄利が東西脇殿(老松殿・紅梅殿)を修復、元和8年(1622)、将軍徳川秀忠により、鶴岡八幡宮若宮旧社殿の移設が命じられ、このとき移された社殿が現在まで残る拝殿となっています。江戸時代は鶴岡八幡宮、円覚寺、建長寺東慶寺に次ぐ社領を誇り、他の寺社とは別格の扱いを受けていました。別当として二階堂の一条院が管理していましたが、明治維新後、神仏分離によって一条院は廃寺となり、荏柄天神社は熊野神社、八雲神社などが境内に移された上で二階堂の村社となり、以後鎌倉宮神職による管理、二階堂の村民による管理を経て、現在は鶴岡八幡宮宮司の管理下にあります。

昭和38年(1963)、御神木の銀杏が鎌倉市の指定天然記念物となり、昭和46年(1971)、境内に漫画家清水昆画、川端康成書による「かっぱ筆塚」が建立、平成元年(1989)、絵筆塚が建立されました。

境内地は国指定史跡、本殿は国指定重要文化財・鎌倉市指定文化財、束帯天神像が鎌倉市指定文化財、木造天神坐像・天神立像が国指定文化財などとなっています。


公式ページ

参考文献
・鎌倉市教育委員会編「史跡荏柄天神社境内保存管理計画書」(2007年)
・貫 達人,川副 武胤 編著『鎌倉廃寺事典 (1980年)』(有隣堂,1980年)
・神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会編著『神奈川県の歴史散歩 (下) (歴史散歩 (14))』(山川出版社,2005年)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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