スティーヴン王~内乱を招いたノルマン朝最後のイングランド王

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スティーヴン王はノルマン朝イングランド(アングロ=ノルマン王国)四代目のイングランド王、ノルマンディ公。ヘンリ1世の死後、後継者と目されていたヘンリ1世娘マティルダを退けてイングランド王位に就くが、内乱を招きイングランドを混乱させた。彼の統治時代は無政府時代(The Anarchy)と呼ばれる。1153年、マティルダの子アンリ・プランタジュネ(ヘンリ2世)に王位を譲るウォリングフォード条約を結び、1154年、亡くなった。在位1135年12月22日~26日頃(注1)~1154年10月25日。生年不明~1154年10月25日没。ノルマン朝に入れず彼の出身家門からブロワ朝とする場合もある。

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スティーヴン王と帝妃マティルダ

ヘンリ1世は嫡子ウィリアムが事故死した後、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の未亡人となっていた娘マティルダを後継者に指名していた。マティルダは通称帝妃(Empress)マティルダと呼ばれる。しかし、ヘンリ1世が亡くなるとノルマンディの貴族たちは帝妃マティルダではなくウィリアム1世の娘アデラとブロワ伯エティエンヌ2世の子ブロワ伯ティボーを推戴しようとマティルダらを退けて協議を実施、その間にロンドンに渡りイングランド王に即位したのはブロワ伯ティボーの弟モルタン=ブーローニュ伯エティエンヌであった。

スティーヴン王の細密画

スティーヴン王の細密画

彼はウィリアム1世の女系の孫でありモルタン=ブーローニュ伯としてイギリス海峡の両岸一帯に影響力を持つフランス貴族である。弟ウィンチェスター大司教ヘンリが教会の支持をとりまとめ、ロンドン市民やイングランド諸侯も彼の即位を支持したため、ティボー支持のノルマンディ諸侯も彼の即位を承認し、1135年12月、イングランド王スティーヴン(在位1135年~1154年)となった。

スティーヴン王は温厚で洗練された振る舞いの宮廷人であったから民衆からも諸侯からも人気を集め、弟ウィンチェスター大司教ヘンリを通じた教会勢力も彼の支持基盤となった。さらに兄のブロワ伯ティボーの支持を取り付け、ノルマンディに関して嫡男ユースタスを通じてフランス王ルイ6世に臣従礼を行うことでフランス王の支持も得るなど、着実に政権基盤を固めていく。

これに対して不服を訴えたのが前王ヘンリ1世の後継者とされていた帝妃マティルダとその夫アンジュー伯ジョフロワ5世である。ヘンリ1世の生前、三度に渡りヘンリ1世は諸侯にマティルダへの忠誠の誓約を求め、諸侯もこれに従っていたから、ここにきてスティーヴン王の即位を認めるのは謀叛であり簒奪である。ただ、帝妃マティルダは前王時代から貴族たちの間で人気が無く、夫のアンジュー伯家はノルマンディ貴族にとってはウィリアム1世時代からの長年の仇敵、さらにイングランドに支持基盤がなく、また彼女が女性であることも忌避される要因であった。

アングロ=ノルマン王国継承戦争

1138年、前王の庶子グロスター伯ロバートが口論によってスティーヴン王から離反して帝妃マティルダ支持に転じると、グロスター伯の叔父スコットランド王デイヴィッド1世もこれに同調してイングランドに侵攻した。1138年8月29日、スティーヴン王はこれを撃破してスコットランド軍は撤退するが、このスタンダードの戦いが長い内戦の始まりとなった。

戦争の勃発によってスティーヴン王派諸侯の間に、教会が占有する城を支配下に置くべきとする意見が強まると、スティーヴン王はこれを抑えきれず、1139年6月、ソールズベリー司教ロジャーらを逮捕して城を占拠するが、これはむしろ彼の支持基盤となっていた教会の支持を失わせ、弱体化を招いた。さらに、1139年9月20日、帝妃マティルダがポーツマスに上陸し、グロスター伯と合流するためアランデルへと向かう。ここでスティーヴンは寛大な人の良さを見せた。帝妃マティルダに通行許可を与えたのである。

この一連の事件でスティーヴン王の支持基盤は一気に動揺する。寛大で温厚、報復を好まない人物との評は裏を返せば八方美人ということでもあり、貴族たちは彼を恐れることがなくなり、教会の支持は失い、盤石だったはずのスティーヴン王の統治体制が脆くも崩れていくことになった。

グロスター伯軍を中核とした帝妃マティルダ=アンジュー伯連合軍は以後攻勢を強め、1141年2月2日、リンカンの戦いでは帝妃マティルダ派軍が王軍を撃破、スティーヴン王が捕らえられた。続けて帝妃マティルダは女王に戴冠しようとするが、9月14日、グロスター伯ロバートが捕らえられたことで、スティーヴン王とグロスター伯との捕虜交換のため戴冠は流れることになった。しかし、帝妃マティルダ=アンジュー伯の勢いは止まらず、1144年にはアンジュー伯ジョフロワ5世がノルマンディを制してノルマンディ公に登位、帝妃マティルダもイングランドに拠点を築いていく。

しかし、1147年、グロスター伯ロバートが没したことで帝妃マティルダはイングランドから撤退を余儀なくされ、以後アングロ=ノルマン王国アンジュー伯と同君連合となったノルマンディ公領、統治能力を著しく弱体化させチェスター伯など有力諸侯が乱立するイングランド・スティーヴン政権に分裂、イングランドは「キリストと聖人たちが眠り込んでしまった」(エドマンド・キング,2006,76頁)と評される無政府時代(The Anarchy)を迎えることになった。両者決め手を欠いたままの分裂状態の解消は、帝妃マティルダの子アンリ・プランタジュネ(のちのヘンリ2世)による再統一を待たねばならない。

スティーヴン王の死とアンジュー帝国への道

アンリ・プランタジュネは1147年に14歳で初陣、1149年、スコットランド王デイヴィッド1世によって騎士叙任を受けると同時に、当時イングランド最大の諸侯だったチェスター伯の臣従礼を受け、1150年、父ジョフロワよりノルマンディ公位を譲られ、翌51年父の死によってアンジュー伯位を継承、52年、フランス王ルイ7世と離婚したアキテーヌ公領の女継承者アリエノール・ダキテーヌと結婚して領土を広げ、ヴェクサン地方を巡ってフランス王軍を撃破すると敵対勢力を悉く退けて、1153年1月、悠々とイングランドに上陸した。弱冠20歳にしてフランスの西半分に君臨する若き帝王に対して、王太子ユースタスも失ったスティーヴン王に抗する術はなく、同年11月、アンリ・プランタジュネをイングランド王位継承者とするウォリングフォード(あるいはウィンチェスター)条約を締結する。

1154年10月25日、スティーヴン王はドーヴァー城で亡くなった。その死を受けてアンリ・プランタジュネがイングランド王位を継承し、十二世紀欧州最大の帝国――アンジュー帝国が誕生する。

注1)エドマンド・キング,2006年,64頁は12月22日、森護,1986年,37頁は12月26日頃とする

参考文献

・エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)
・城戸毅著「第六章 イングランド封建国家」(青山吉信編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1991年)
・中村敦子著「第一章 ノルマン征服とアングロ・ノルマン王国[一〇六六~一一五四]」(朝治啓三,渡辺節夫,加藤玄編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年))
・森護『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・森護『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)