ノルマン朝(アングロ=ノルマン王国、1066~1154)の歴史まとめ

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ノルマン朝は、1066年、フランス北東部ノルマンディ地方の領主ノルマンディ公ギョーム2世がエドワード証聖王死後のイングランド王位を巡ってブリテン島に侵攻、ヘースティングズの戦いでハロルド2世を破りイングランド王ウィリアム1世として即位したことに始まる王朝。アングロ=ノルマン王国とも呼ばれる。ウィリアム2世を経てヘンリ1世時代に集権的体制が築かれたが、スティーヴン王即位に際して勃発した後継者争いで弱体化、1154年、ヘンリ2世の即位によってプランタジネット朝へと移った。

ノルマン朝(アングロ=ノルマン王国)王家略系図

ノルマン朝(アングロ=ノルマン王国)王家略系図

ウィリアム1世(在位1066年12月25日~1087年9月9日)
ウィリアム2世(在位1087年9月26日~1100年8月2日)
ヘンリ1世(在位1100年8月5日~1135年12月1日)
スティーヴン王(在位1135年12月22日/26日頃~1154年10月25日)

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「ノルマン人の征服」

ノルマンディ公領は911年、ヴァイキングの有力者ロロが西フランク王シャルル単純王によって封じられたことに始まり十世紀末までに王権に対抗する有力領邦として確立、ギョーム2世(ウィリアム1世)の頃にはフランス王権や周辺諸侯と北フランスの覇権をめぐって対立抗争状態にあった。ウィリアム1世はイングランドを領地としたことで、北フランスでの抗争を有利に進めることができるようになった。ウィリアム1世と彼の家臣団にとってあくまで本領はノルマンディにあり、イングランドは属領としての位置づけであった。

この征服の影響として
1. 支配層のアングロ・サクソン人からノルマン人への大幅な入れ替え
2. フランク式の政治・行政制度の導入
3. フランス語の流入と英語の衰退
4. ノルマン式築城技術の導入
5. フランスの封建社会との一体化

などの点が挙げられる。

特にノルマンディ公はイングランドでは王だがフランスではフランス王の宗主権の影響下、すなわち諸侯の一人として臣従礼を求められる立場にあり、このねじれが以後の英仏関係に多大な影響を及ぼし続けることになる。

北フランスの覇権を巡る争い

ノルマンディとイングランド

「ノルマンディと北フランス諸侯、イングランド関係」
(青山吉信編『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年,207頁図を改変)

ウィリアム1世のノルマンディ公位継承時からフランス王、アンジュー伯が介入して三つ巴の争いが展開され、北海を挟んで北欧ではデンマーク、ノルウェー、さらにイングランドまでを支配下においたクヌート大王による北海帝国の圧力が強まっていた。クヌート大王死後北海帝国は空中分解してイングランドはエドワード証聖王のアングロ・サクソン政権に戻っていたが彼には後継者が無く、イングランド王位は地域の覇権を狙う上で誰もが欲しい地位であった。

1060年代、ノルマンディ公ギョーム2世はノルマンディの内紛を制し、ちょうどタイミングよくフランス王アンリ1世が没して幼年のフィリップ1世が即位し、アンジュー伯家でも後継者争いが勃発していた。ノルマン・コンクエストの結果、イングランド王ハロルド2世、デンマーク王ハーラルらを退けてノルマンディ公家がイングランド王位を獲得した結果、地域で最大の勢力になったのである。このときウィリアム1世はブルターニュ伯の協力を得ている。

ヘンリ1世即位に際してノルマンディ公ロベール2世の子ギョーム・クリトに味方してフランス王ルイ6世、フランドル伯、アンジュー伯らが同盟を結んでノルマンディに侵攻したが、ヘンリ1世は約二十年かけてこれらを悉く撃破して王国の体制を盤石なものとした。また、アンジュー伯家との婚姻は後々のアンジュー帝国建設への第一歩となった点で重要な成果であった。

スティーヴンとマティルダの継承戦争に際しては、スティーヴンの背後にフランス王ルイ6世・7世親子と教会が付き、マティルダには彼女の夫アンジュー伯ジョフロワ5世、ヘンリ1世の庶子グロスター伯ロバート、スコットランド王デイヴィッド1世らがついた。

ノルマン朝に対しては諸外国が必ず介入してその体制を崩そうとしていたのである。ヘンリ1世まではこれらを退け続けることができていたが、その後はむしろ翻弄されていくことになった。このようなノルマン朝時代の対外関係の混迷が諸領邦悉く傘下としようとするアンジュー帝国建設の伏線となったといえよう。

統治機構の整備

ウィリアム1世はアングロ・サクソン人の所領を没収して王領とノルマン人の家臣団に再分配して支配階層を形成、フランク風の役職も新設されて統治機構の基盤が整備された。また、1086年より支配下の土地調査が行われ、後に二冊の土地台帳「ドゥームズデイ・ブック」にまとめられた。

ヘンリ1世の時代にイングランドの征服と反乱の鎮圧、外敵の撃退などが進み、同時に行政機構の整備が進んだ。具体的には宰相となる行政長官職が新設され、その下に宮内府、尚書部、財務府など役割分担された省庁が設けられた。残る限りイングランド史上最古のまとまった会計調査記録もこの頃のものである。また、巡回裁判も開始され、王自身もイングランドからノルマンディまで家臣団を伴いながら巡察して統治を監督するなど、行政システムの確立に努めている。

また、グレゴリウス改革を受けて聖職叙任権闘争がイングランドでも勃発、1095年、ウィリアム2世は教会が任命したカンタベリー大司教アンセルムを追放する。ヘンリ1世は教会との融和を図ってアンセルムを再招聘するが、やはりアンセルムがヘンリ1世に対し臣従礼を拒んだことで再びアンセルムはイングランドを去った。最終的にヘンリ1世は「まず王に臣従礼をおこなって知行地を受封したのち教会にしたがって司教ないし修道院長として叙任を受けるという方法」(城戸毅,1991,220頁)を採用することで、解決に至った。

後継者争いと無政府時代

ノルマン朝では王の交替時、常に後継者争いがおきた。ウィリアム1世が死ぬと、長子のノルマンディ公ロベール2世と次子のウィリアム2世が争い、ウィリアム2世が死ぬとヘンリ1世の即位にノルマンディ公ロベール2世とその子ギョーム・クリトが異議を唱えて諸外国を巻き込みながら反乱を起こした。

ヘンリ1世は、嫡男ウィリアムを事故で失うと長女のマティルダを後継者に定めたが、ヘンリ1世死後、ウィリアム1世の娘アデルの子スティーヴンが貴族らの支持を集めてイングランド王に即位、マティルダと抗争となった。マティルダとスティーヴンの継承戦争は両者決め手を欠いて、ウィリアム1世以来ヘンリ1世までの間に築かれた統治システムを崩壊させ、無政府時代と呼ばれる無秩序状態を生んだ。

ノルマン朝からプランタジネット朝へ

ヘンリ1世は生前、ウィリアム1世時代以来長く対立状態にあったアンジュー伯との和睦を進め、マティルダとアンジュー伯ジョフロワ5世との婚姻を成立させていた。両者の子アンリ・プランタジュネは成人するとノルマンディ公位・アンジュー伯位を継承し、アキテーヌ公領の女継承者アリエノール・ダキテーヌと結婚、さらに内戦を鎮めてスティーヴン王からイングランド王位の相続権を獲得し、フランスの西半分からイングランドに至る広大な領土を治めるまでになる。ノルマン朝はアンリ・プランタジュネのイングランド王への即位をもって終わり、プランタジネット朝(1154~1399)の時代となる。

ノルマン朝略年表

ノルマン朝略年表
西暦 事項
1066 10.14ヘースティングズの戦い
12.25ウィリアム1世即位
1068 イングランド北部の反乱(~76)
1070 8.15カンタベリー大司教ランフランク就任
1070年代、バイユーのタペストリー製作
1079 ノルマンディ公ロベール2世、ウィリアム1世に反乱
1085 12ウィリアム1世、ドゥームズデイ・ブックの調査・作成を指示
1086 8.1ソールズベリーの集会(イングランド諸侯に忠誠を宣誓させる)
1087 9.9ウィリアム1世没
9.26ウィリアム2世即位
1088 バイユー司教オド、ウィリアム2世に反乱
1089 ウィリアム2世とノルマンディ公ロベール2世の対立(~91)
1091 2ウィリアム2世とノルマンディ公ロベール2世和平を結ぶ
1093 12.3アンセルム、カンタベリー大司教に就任
1095 アンセルム、ウィリアム2世に抗議してイングランドを去る(聖職叙任権問題)
1096 8ノルマンディ公ロベール2世、第一回十字軍に参加(~1100)
1100 8.2ウィリアム2世、狩猟中事故死
8.5ヘンリ1世即位、戴冠憲章発布
11.11ヘンリ1世、スコットランド王女マティルダと結婚
アンセルム、再招聘
1101 7.20ノルマンディ公ロベール2世、イングランド侵攻
1106 9.28/29タンシュブレーの戦い(ヘンリ1世、ノルマンディ公ロベール2世を捕らえる。死ぬまで幽閉される)
1107 8.1ベック=ロンドン政教条約(聖職叙任権問題解決)
1109 フランス王ルイ6世とヘンリ1世開戦
アンジュー伯フルク5世、ヘンリ1世への臣従礼拒否、開戦
ヘンリ1世、この頃行政組織改革、初代行政長官(宰相)にロジャー・オブ・ソールズベリーを任じる。
1110 ノルマンディ公ロベール2世の子ギョーム・クリト、反乱
1112 ギョーム・クリトの庇護者ロベール・ド・ベレーム、ヘンリ1世に逮捕される
1113 フランドル伯ボードゥアン7世、ギョーム・クリトの亡命受け入れ対英開戦
1114 ヘンリ1世娘マティルダ、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚
1118 フランドル伯ボードゥアン7世、戦傷のため対英同盟から離脱
ヘンリ1世妃マティルダ・オブ・スコットランド没
1119 8.20ブレミュールの戦い(ヘンリ1世、ギョーム・クリト=ルイ6世連合軍を撃破)
1120 11.25王太子ウィリアム、事故死
1121 ヘンリ1世、アデライザ・オブ・ルーヴァンと結婚
1127 1ヘンリ1世、マティルダを後継者とする
1128 6.17ヘンリ1世娘マティルダ、アンジュー伯ジョフロワ5世と結婚
7.28ギョーム・クリト没
1133 3.5アンリ・プランタジュネ(のちのヘンリ2世)誕生
1135 12.1ヘンリ1世没
12.22スティーヴン即位
以後、マティルダ派とスティーヴン派争う
1138 グロスター伯ロバート、スティーヴン王から離反、マティルダ支持に転じる
8.29スタンダードの戦い(マティルダ支持するスコットランド王デイヴィッド1世、英に侵攻しスティーヴン王に撃破される)
1139 9.20マティルダ、イングランド上陸
1141 2.2リンカンの戦い(マティルダ派、スティーヴン王軍を撃破し王を捕虜とする)
9.14グロスター伯ロバート、スティーヴン王派に捕らえられ、のち伯と王の捕虜交換がなされる
1144 1.アンジュー伯ジョフロワ5世、ノルマンディを制しノルマンディ公登位
1147 グロスター伯ロバート没
1148 マティルダ、イングランドから退却
1150 アンリ・プランタジュネ、ノルマンディ公に登位
1151 9.7アンジュー伯ジョフロワ5世没、アンリ・プランタジュネ、アンジュー伯位継承
1152 フランス王ルイ7世、エレアノール・ダキテーヌと離婚
5.18アンリ・プランタジュネ、エレアノール・ダキテーヌと結婚
1153 8イングランド王太子ユースタス没
11.6ウィンチェスター条約(スティーヴン王、アンリ・プランタジュネを王位継承者とする)
1154 10.25スティーヴン王没、アンリ・プランタジュネ、イングランド王に即位しヘンリ2世となる。

参考文献

・エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)
・城戸毅著「第六章 イングランド封建国家」(青山吉信編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1991年)
・鶴島博和「第三章 11世紀~近世前夜」(近藤和彦編著『イギリス史研究入門』(山川出版社,2010年)
・中村敦子著「第一章 ノルマン征服とアングロ・ノルマン王国[一〇六六~一一五四]」(朝治啓三,渡辺節夫,加藤玄編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年))
・森護『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・森護『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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