ジャンヌ・ダルク書簡まとめ~書状でみるジャンヌ・ダルク

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ジャンヌ・ダルクの書簡は直筆署名付きの三通の書簡と口述した手紙の原本六通、その他写本で文面のみ残っているものが多数ある。十九世紀に歴史学者ジュール・キシュラ(1814~82)によってジャンヌ・ダルクの裁判記録、年代記、書簡、会計簿等史料がまとめられ、ジャンヌ・ダルク研究が大きく進展した。

この記事ではレジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍,1992年,原著1986年)の「ジャンヌ・ダルクの書簡」に掲載されている福本直之訳の11通の書簡の文面を一部改変して引用、紹介する。古文・漢文にも造詣が深い福本先生ゆえ、いくつかの訳文は格調高く文語体で翻訳されているが、漢文調の箇所「認之(これをしたたむ)」「無之候(これなくそうろう)」などは「これを認む」「これ無く候」と書き下し文に開いた。またイギリスはイングランドへ、ブルゴーニュ候・ベッドフォード侯など候は公へ、乙女(ラ・ピュセル)はラ・ピュセルと表記を変更した。引用時の改変点は以上である。

ジャンヌ・ダルクは実は非常に筆まめな人で多数の書簡を各地に送っている。当時の庶民の女性たちは学問を受ける機会が少なく読み書きが出来ない女性が大半だったが、ジャンヌについて全く読み書き出来なかったという文盲説はすでに否定されており、多少は読み書きができたとするのが定説である。ただし書簡は署名を寄せるだけで、主にジャンヌ・ダルクに付き従った聴聞司祭ジャン・パスクレルが彼女の口述筆記を行っていた。

また、興味深いのが書簡からジャンヌの訛りがわかるということであった。ジャンヌは「J(ジ)」を「ch(シ)」と発音していたため、口述筆記時「ショワイユーズ(かわいがりやの)」と書いてから代筆者は文脈から正しい意味を理解して「楽しい、喜びに満ちた(ジョワイユーズ)」と書き直していた跡が残っているという。また「デュー(神)」はロレーヌ方言の「デ」というように、当時の共通語であるフランシアン方言を務めて話してはいたが訛りの強いロレーヌ方言がどうしても出てしまう、いわば方言女子であった。日本語だとどうだろう、ロレーヌはフランス北東部なので東北地方の方言イメージかもしれない。

研究者からは口述筆記ゆえ話し言葉そのままで、当時の一般的な教養であった書簡体形式も無視されていて、文面のバリエーションも少なく、文中で人称もころころと変わるなど、稚拙さが特徴である点が指摘される(コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)『幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会』昭和堂、2014年,71頁)が、そのような文法の稚拙さや教養の無さの一方、これら書簡からは彼女の勇ましさとともに繊細な配慮やコミュニケーション能力の高さなども伝わってきて、通俗的なイメージだけではわからないジャンヌ・ダルクの素顔が見えて来る。そんなわけで、翻訳するなら格調高い文語体より、もっとくだけた話し言葉風の軽い翻訳の方がジャンヌらしいとは思うので、どなたか十五世紀フランス語・ラテン語に堪能な研究者の方は新訳に挑戦してみて欲しいです。

以下、書かれた順にその書状の書かれた背景なども解説しつつ紹介していく。

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1929年3月22日付イングランド軍宛

「イエズス=マリアの御名において申す。イングランド王、および汝、フランス王国摂政と称えるベッドフォード公、汝ギョーム・ド・ラ・プール、汝タルボット領主ジャン、さらに汝スカル領主にしてベッドフォード公副官トマ、汝ら、すみやかに天上の王に服すべし。汝らがフランスにおいて奪いかすめし諸都市の鍵を、天上の王たる神によりここに遣わされたるラ・ピュセルに返納致すべし。ラ・ピュセルこそは王家の正当な血統を明らかにせんがため神より差し向けられたる者なり。汝らがラ・ピュセルの命に服し、フランスを旧主に戻し、この地を横領したる償いを支払うかぎり、ラ・ピュセルはあえて干戈に訴えるものにあらず。汝ら、オルレアン城外に布陣せる弓兵、士卒、貴族その外のもろもろの者ども、とくに汝らの国に立ち戻れ。神の御名において申しつくるものなり。万一汝らがかく服さざる場合には、ラ・ピュセルの動きに意を払うべし。ただちに馳せ参じて汝らに痛撃を与えん。イングランド王よ、もし命ずるがごとく行わざれば、われも一軍の将なり、フランスの地において貴軍の兵と遭遇致しなば、いずれにおけるとも遠慮会釈なくこれを立ち退かしめん。逆らうにおいては全員これを斃ふるものなり。われは天上の王、神より遣わされし者にて、汝らをフランス全土より駆逐せんがため身命を惜しまざるものなり。汝の兵わが命に従うときには、温情をもってこれを扱わん。これ以外他にとるべき道はなし。と申すも汝が、天上の王、聖母マリアの御子、神の御旨によりてフランス王国を領するは適わぬことなればなり。この王国を治むるべきは、正当なる王位継承者シャルル王をおいて他になし。そは天上の王、神の望みたもうところにして、ラ・ピュセルをしてそれを告げせしたもうなり。王はほどなく供揃いも美々しくパリ入城を果たされん。万が一、汝が神とラ・ピュセルの申し出を信ざぜる場合、それに服せざるときには、汝がどこに潜むとも探し出し千年来フランスでは聞きしに及ばざるほどの猛襲をかくるものなり。汝もしラ・ピュセルとその猛き軍勢に必死の攻勢をかけるとも、天上の王はそれにいや勝る力をラ・ピュセルに授けたもうことをゆめ疑うなかれ。ひと度干戈を交えなば、天上の王の思し召しがいずれにあるやはおのずから分明ならん。汝ベッドフォード公よ、ラ・ピュセルは説に願い上ぐる、さらに侵掠を重ぬるなかれ。汝がラ・ピュセルに服するにおいては、汝をわが陣営に迎え、フランス人ども相集い、いまだキリスト世界にても比類なき盛儀をもて汝を遇さん。オルレアンの和議御所望あらば、早々に御回答これあるべし。万一、御同意これなき場合には、ただちに痛撃を加えて汝に思いしらしむものなり。聖週間の火曜日、これを認む。」

1429年3月22日頃、ポワティエにて口述され、同年4月24日から27日にかけてブロワより発送された、イングランド軍宛の書状。無署名。

文中のイングランド王は当時八歳の幼王ヘンリ6世(イングランド王にしてフランス王)、ベッドフォード公は当時のフランス=イングランド二元王国フランス摂政で事実上の総帥だったベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスター、ギョーム・ド・ラ・プールはオルレアン攻略軍の副将サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、タルボット領主ジャンはオルレアン攻略軍の副将で総司令官ソールズベリー伯トマス・モンタギュ事故死後オルレアン攻略軍の総司令官となったジョン・タルボット、スカル領主にしてベッドフォード公副官トマも同じくオルレアン攻略軍の部将トマス・スケールズ。

1429年3月6日、シノン城でシャルル7世と面会したジャンヌは3月11日、ポワティエに移動して純潔検査や信仰に関する尋問を受け、純潔が認められてオルレアンへの出陣が決まった。その直後の休日(聖週間)にしたためた書簡で、文面が残る書状としては最初のものとなる。一言でいうと「ぶっ殺すぞ」という内容である。

1429年5月5日イングランド軍への撤退勧告

「イングランド兵よ、汝らはこのフランス王国に寸土といえども権利を有せず。天上の王は我ラ・ピュセルジャンヌを通じて汝らが陣地を撤収し、国に立ち戻るよう厳命されたり。さもなくば我は汝らに生涯忘れがたきほどの痛撃を加えん。三度目にして最後の書状にて申し送るべきことくだんのごとし。さらに加えるものなし。

署名、イエズス=マリア、ジャンヌ・ラ・ピュセル。

当方は作法どおり書面御送り申し上げ候得共、貴殿方は当方の使い番拘留致され候。ギュイエンヌなる伝令留置かれし件に御座候。彼の者ただちに御返し願い上げ度く候。しからば当方もサン=ルー砦にて生け捕りたる貴軍兵士数名御引渡致すべく候。全員討死致せしものにてはこれ無く候。」

1429年5月5日オルレアンにてイングランド軍への撤退勧告。1455年に行われた復権裁判でのジャン・パスクレルの証言にある。レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』白水社、2002年から高山一彦訳での訳文も紹介しておく。

「イングランド兵諸子よ。天国の王はこのフランス王国に何らの権利ももたぬイングランド人諸子に、私、ジャンヌ・ラ・ピュセルを通して命令する。諸子は堡塁を出て諸子の国へ帰りなさい。さもなければ私は永遠に記憶されるような敗北を被らせるであろう。私はここに三度目で最後の書簡を記す者である。これ以上記すことはない。
署名、イエズス・マリア、ジャンヌ・ラ・ピュセル

私は、私の書簡を慣習に背かぬ方法で届けている。しかるに諸子は私の使者を逮捕している。諸子が監禁しているのはギエンヌという者である。わが方にその者を返されたい。わが方からはサン=ルー堡塁で捕虜になった何人かの兵士を送り返すであろう。全員が戦死したわけではないから。」

1429年5月1日、ジャンヌ・ダルクがオルレアンに到着、フランス軍は増援部隊の到着を待って、5月4日、サン・ルー要塞を陥落させた。その翌日、ジャン・パスクレルが口述筆記したジャンヌ・ダルクの書簡である。また、この前に現存していないが第二の手紙をギュイエンヌという伝令使に持たせてイングランド軍に送ったが捕虜となっていたことがわかる。

パスクレルによれば、この書状を手ずから矢に結び付けたジャンヌは、イングランド軍に投げ込むように命じ、イングランド軍に対して「読みなさい。新しい報せです」と叫んだという。これに対して手紙を受け取り一読したイングランド兵は「アルマニャック派の淫売婦からの報せだ!」などと大声で罵声を浴びせたため、ジャンヌはため息をついたあと、たくさんの涙を流して神に祈り、声が聞こえたとして気を取り直した。その翌日、オーギュスタン要塞を攻略、続いて5月7日トゥーレル要塞を陥落させ、包囲網が崩れたと考えたイングランド軍は撤退を開始、オルレアンは解放される。

1429年6月25日付トゥールネ住民宛

「イエズス=マリアの御名にかけて。
トゥールネの町の忠良なるフランス人住民へ。ラ・ピュセルは一週間もかけずしてロワール河岸に築きたる陣地より奇襲その他の攻撃によりすべてのイングランド兵どもを追い払いました。その旨当方より御知らせ申し上げます。その際イングランド方の戦死者、捕虜数多く、大いに奴らを打ち破りました。シュフォール伯および舎弟ラ・プール、タルボール殿、スカレ殿、ジャン・ファルストフ殿、その他あまたの騎士、隊長を生け捕りにしました。シュフォール伯の弟御およびグラシアスは戦死いたしました。どうか皆様方もしっかりとして下さいますようお願い申し上げます。
皆々様お揃いでかしこくもシャルル国王のランスにおける聖別式に御参列下さいますよう御願い致します。当方まもなくランスに参上致します。私どもの到着に御気づきになりますれば、何とぞ御顔をお見せ下さいますように、皆々様を神の御手に御ゆだね申したく存じ上げます。何とぞ神が皆様を御守り下さり、皆様方がフランス王国のために正義の戦いを続けられるよう御恵みを垂れたまいますことを祈り申し上げます。
六月の第二十五の日、ジアンに於いてこれを認む。
トゥールネの町の忠良なるフランス人の皆様へ。」

1429年6月25日ジアンから発送、7月6日トゥールネ着、この書面は書写されて町の36の地区に伝達された。「我らが国王陛下の御健勝と御清栄についてのめでたき便りを住民各位が心より聞き知りたいと望んで居りますれば、目下国王陛下の御側にお仕えしておりますラ・ピュセル殿よりわれわれ宛に送られてきた書状を書写させました。内容は御覧のとおり・・・」(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年,434頁)とトゥールネの記録には添えられている。

ここで語られているのは1429年6月18日に行われた会戦パテーの戦いの勝利である。オルレアン解放後、あらためてアランソン公ジャン2世を総大将としてジャンヌ・ダルクらを擁するイングランド追撃軍が編成され、様子見していた諸侯が次々と馳せ参じて、オルレアン周辺の占領地を奪還してまわり、6月18日、ジョン・ファストルフ率いる増援部隊と合流したジョン・タルボット率いるイングランド軍とフランス軍がパテーで会戦となりこれを撃破した。この会戦でジョン・タルボット、トマス・スケールズらイングランド将官を捕虜としている。文中ではジョン・ファストルフも捕虜としたように見えるが、ファストルフは敗兵をまとめて撤退しており、これは間違いである。シェフォール伯はサフォーク伯でパテーの戦いに先立ってジャルジョー奪還戦で捕虜とした。クラシダスはトゥーレル要塞の守将ウィリアム・グラスデールのことで、オルレアンの戦いで5月7日、戦死している。クラシダスもロワール訛りでの発音で、パスクレルはトゥーレル要塞攻略戦の際、「クラシダ、降伏せよ(ラン・ティ)、降伏せよ(ラン・ティ)」とロレーヌ訛りでジャンヌが呼びかけていることを語っている。

文面後半は7月17日に開催されることになるランスでのシャルル7世聖別式(戴冠式)へのお誘いである。このランスでの戴冠によりフランス王としての正統性を獲得したシャルル7世は急速に権威を確立していく。

1429年7月4日付トロワ住民宛降伏勧告

「イエズス・マリアの御名によりて、
トロワの町の領主、町人はじめ親愛なる住民の皆様へ。ジャンヌ・ラ・ピュセルは貴方がたが何とお思いになろうと、みずからがその命をうけて日々王事に奔走している天上の王、正当にして至高の王の命により貴方がたに次のように通達、命令します。ただちにいとも貴きフランス国王を認知し、衷心より服従しなさい。国王はほどなく、誰が妨害しようと、王イエズスの助けによりランス、パリをはじめ、彼の聖なる国王の有力な町々への入城を果たされます。忠良なるフランス人よ、ただちにシャルル国王の前に馳せ参じなさい。心得違いをして生命、財産を懸念してはなりません。ただちに国王に服するのです。もしそうしない場合には、貴方がたの生命にかけて約束、保証しますが、われわれが神助を得て聖なる王国に属しているすべての町への入城を強行し、誰が反対しようともそこに確固たる平和を築く所存であります。貴方がたを神の御手にゆだねます。神が皆様を御守り下さらんことを。至急御回答下さい。

トロワ市前方、サン=ファルにて、七月四の日、火曜日、認む。」

パテーの戦いでイングランド軍を撃破すると、シャルル7世の宮廷ではランスでの戴冠式に向かうべきとする意見とこれを機にブルゴーニュ公国との和平交渉を進めるべきとする意見で対立、ジャンヌらランス戴冠派の意見が勝り、シャルル7世自ら軍を率いて一路ランスへと向かった。この途上イングランドの影響下にあったのがトロワ市である。このトロワ市に対してフランス軍はトロワ市前方に布陣すると、王をはじめ様々なルートで降伏勧告が行われた。そのフランス軍からトロワ市への降伏勧告文の一つがこのジャンヌ・ダルクの書簡である。現物は失われ写本のみ。

トロワには少数ながらブルゴーニュ軍の守備隊が残っており市民たちも決断しかねていたが、ジャンヌは彼らに決断を促す目的でトロワ攻囲を進言、フランス軍が攻囲の準備を始めた様子を見てトロワ市民は降伏を決断し、7月10日、フランス軍はトロワ市に入城した。

1429年7月17日ブルゴーニュ公フィリップ3世宛

「イエズス=マリア。尊貴にして威信高き君主、ブルゴーニュ公よ、ラ・ピュセルはその正当にして至高なる主、天上の王に代わりてフランス国王と公が、永続する、ゆるぎなき和平を結ばれんことを願い上げる。立派なキリスト教徒の義務として、快く完全にお互いを許し合いたまえ。戦いをお望みならば、サラセン人に立ち向かいたまえ。ブルゴーニュの君侯よ、御身に謹んで願い上げ、恭しく懇願し奉る。神聖なるフランス王国での戦いを止めたまえ。この聖なる王国に陣を張り、砦を構える御家中を今すぐ即刻に引き上げさせたまえ。やんごとなきフランス国王はその面目を失わざるかぎり、御身次第にて和平に応ずるの用意あり。わが正当にして至高なる主、天上の王になり代わりて申し上げる。御身の財産、名誉、生命にかけても、忠勇なるフランス人にさからいて戦さに勝利することあるべからず。かの神聖なるフランス王国に刃向かいて戦しかける輩は、天上と全世界の王にしてわが正当にして至高なる主イエズス王に弓ひく者どもなり。公よ、両手を合わせて願い上げ奉る。われらに向かいて戦さしかけたもうなかれ。公よ、その臣下の者どもおよび兵士ども、しかと心得られよ。いかほど兵士をわれらに差しむけようとも、汝らに勝ち目なく、われらに向かいて来る者どもの流さん血こそあわれなるべし。すでに三週間の以前、御身が本日、当七月十七の日、日曜日、ランスの町にて取り行わるる国王の聖別式に御列席あるべく書面書き認め、伝令使にもたせ送りぬ。その儀いまだ御返答これなく、爾今かの伝令の消息も聞かず、御身を主にゆだね申し候間、御自愛あるべく候。神がわれらに平和を授けたまうべく祈念いたしおり候。当地ランスにおいて、七月十七の日、これを認む。

ブルゴーニュ公、おんもとに。」

7月17日、ランスでの戴冠式が行われた日にジャンヌ・ダルクがブルゴーニュ公フィリップ3世善良公に対して送った書状。無署名。リールの北フランス古文書館に原本が収蔵されている。書面はブルゴーニュ公フィリップ3世に対し軍を退いて和平を結ぶよう丁寧に勧める内容となっている。

百年戦争後期は国王シャルル6世が精神錯乱状態となって統治能力を喪失し、国王に代わる国政の主導権を巡るフィリップ3世の父ジャン無怖公と王弟オルレアン公ルイとの勢力争いが内乱に発展、お互いが当主を暗殺しあうことで泥沼化し、ブルゴーニュ公は王権の支配から自立(ブルゴーニュ公国~1477)、この内乱にイングランド軍が介入することで三つ巴の争いになった。1420年、トロワ条約でブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランド軍と同盟を結びシャルル7世政権と対立、英仏両勢力を凌ぐほどに勢力を拡大して百年戦争のキャスティングボートを握っていた。

この文面にあるようなジャンヌの願いが叶ってフランス王とブルゴーニュ公がお互いを許し合うのはジャンヌ死後の1435年、アラス条約においてであった。フランス王とブルゴーニュ公の和睦によって孤立したイングランドは大陸領土喪失・敗戦そして血で血を洗う内戦へと転げ落ちていくことになるが、それはまだ先のお話。

1429年8月5日付ランス住民宛

「わが親しき友人にして、忠良なるランス市民のフランス人の皆様、ジャンヌ・ラ・ピュセルは皆様にその近況をお知らせするとともに、皆様が私が王家のために尽くしている正義の戦いにいささかも疑念を抱かれないように切望します。私の命ある限り、皆様を見捨てたりすることは絶対にないと確約いたします。国王がブルゴーニュ公との間に一五日間の休戦を結ばれたのは事実です。そうすれば公は国王に一五日後には平和裡にパリの町をお返しするはずになっているのです。しかしながら早急に私がパリに入城しないかぎり、奇跡が生じるようには思えません。このようにして結ばれた休戦であっても私は大いに不満ですし、休戦を遵守するかどうかはわかりません。彼らが国王軍を攻撃しなくとも、もし私が休戦を守るとしても、それは国王の名誉を重んじてのことにすぎません。でも彼らが国王を欺き奉ることはできますまい。というのは私は、彼らが一五日間の休戦の間に和平を結ばないときに備えて、国王の軍隊をしっかりと確保しておくつもりだからです。そういうわけですから、私のまったき親友である皆々様、私が生きているかぎりは心配なさらないようにお願いします。どうか警戒を厳重にして、国王のゆかりのある町を守り抜いて下さい。万が一にも皆様を苦しめる裏切者どもが出た場合には、ただちに私に知らせて下さい。即刻馳せ参じて奴らをやっつけて見せましょう。皆様の近況をもお知らせ下さい。
皆様を神の御手にゆだねます。どうか神が皆様をお守り下さいますように。八月第五の日、金曜日、プロヴァン近郊、パリ街道沿いの畑の一軒家で之を認む。」

71429年8月5日、二転三転する戦況に不安になるランス市民に宛てたもの。

7月に入りオルレアンで大敗を喫したイングランド軍がベッドフォード公ジョンの陣頭指揮で立て直しを図り、7月15日、パリの守備隊を増強。一方、7月17日、戴冠式を終えたシャルル7世はランス戴冠式に派遣されていたブルゴーニュ公の使節団と十五日間の休戦を結ぶべく交渉を望んでいた。結局締結されていないので、文中のジャンヌの「国王がブルゴーニュ公との間に一五日間の休戦を結ばれたのは事実です。そうすれば公は国王に一五日後には平和裡にパリの町をお返しするはずになっているのです。」は残念ながら事実ではない。あるいは交渉途中で誤ってジャンヌに伝わったか、ランス住民を安心させるための方便かもしれない。ただ続けて「彼らが一五日間の休戦の間に和平を結ばないときに備えて、国王の軍隊をしっかりと確保しておくつもり」と書いている点にも注目で、休戦協定は結ばれたがその協定を破るブルゴーニュ公国という図式で広めたい意図があるのかもしれない。

また、この書簡が書かれる前日の8月4日、ベッドフォード公ジョン自ら指揮するイングランド軍がパリを出撃、その三日後、ベッドフォード公はシャルル7世に対し一騎打ちを申し出る書状を送って挑発に出る。いわば、イングランド軍が劣勢回復のため兵を動員していることが各地に広まって不穏な空気が流れており、もしイングランド軍に対抗してフランス軍がランス一帯から軍を動かすとランスは孤立してしまう。そのような背景で支持勢力の動揺を抑える目的で書かれた書状である。そのため、非常に勇ましく、人々を勇気づける内容になっている点が興味深い。

この書状からもわかるようにジャンヌは巷で言われるようなイっちゃってる少女、ではなく、きちんと的確な戦略眼を持っていて、本音と建て前を使い分けつつ市民たちに何を伝えるか推敲の上で適切な言い回しを使って書状を送っている。

1429年8月22日アルマニャック伯宛

「イエズス・マリア
わが親愛なる良友アルミニャック(Armignac)伯殿、ジャンヌ・ラ・ピュセルは貴殿よりの御使者が私の許に御出でになった旨御通知申し上げます。使者殿の口上によりますと、貴殿が書状にてお尋ねの三教皇のいずれに信をおくべきか私に尋ねたいとのことでございますが、この件に関しましては今のところ貴殿に本当のことを申し上げることができかねます。パリかどこかに参ってからこっそり申し上げましょう。目下のところは合戦にあけくれております。私がパリに着いたことをお知りになれば、御使者の方を御差し向けて下さい。そのときには貴殿が信ずべき教皇が誰方であるか本当のところをお教えしましょう。また、私が至当にして至高なるわが主、全世界の王より知りえたことや貴殿が今後なすべきことを私に許される範囲で申し上げましょう。
神に貴殿をゆだねます。貴殿を神が守りたまわんことを。於コンピエーニュ、八月二十二の日。」

シャルル7世派がアルマニャック派と呼ばれていたことからもわかる通り、宛先となっているアルマニャック(Armagnac)伯ジャン4世はシャルル7世派の有力貴族。

1378年、ローマ、アヴィニョン、スペインに三教皇が鼎立する教会大分裂時代が続き、1417年、コンスタンス公会議(1414~18)によって三教皇は廃立、あらたにマルティヌス5世(在位1417~31)がローマ教皇に就任したが、スペインではその後もこの決定に応じず対立教皇が三代に渡って正当性を主張していた。アルマニャック伯はこの対立教皇を支持しており、この教皇の正当性についてジャンヌの助言を求めたものだが、ジャンヌは巧みにはぐらかしている、という書状である。

これは後にジャンヌ・ダルク処刑裁判で裁判官たちの格好の攻撃材料となった。1431年3月1日の処刑裁判第五回審理でこの書簡が裁判官によって朗読され、教皇の正当性についてジャンヌが疑っていたのではないか、恐れ多くも教皇の正当性をジャンヌが判断しようとしていたのではないかとネチネチと質問が繰り返されている。処刑裁判ではジャンヌは「ローマにいる我等の聖なる父である教皇に服従すべきものと信じている」として、なぜすぐ伯に返信しなかったのか、誰に服従するべきか知っていたのかなどの問いも巧みにかわしている(ジャンヌ・ダルク処刑裁判100-101頁)。最終的に処刑されるわけではあるが、少なくともこの件では供述を読む限り裁判官に付け入る余地を与えていないので、この書状で軽々に質問に答えなかったことは危機回避につながったといえる。

1429年11月9日リオン市民宛直筆署名付書簡

「親愛なる良き友よ、サン=ペール(Saint Pere)・ル・ムーティエをどのようにして奇襲で奪取したかはすでにご承知のとおりです。次には、国王に逆らっている他の要塞をも神の助けによって落とすつもりでおります。ところがこの町を攻略する際に火薬、矢、その他武器類の大半を費やしてしまいました。私といたしましては、われわれはラ・シャリテを攻囲すべく、速やかに同地に参るつもりでおります。皆様方が国王はもとより、国王軍の戦士のお為を思い、その名誉を慮って下さっているのに甘えてお願いしたいのですが、至急、火薬、硝石、硫黄、矢、弩弓、その他武器各種を当方までお送り下さり、同地攻囲に御助勢下さい。申し上げましたように火薬、武器類がはなはだ欠乏しておりますので、何分にも早急に御手配願いたく、また、この件ぜひとも御承知下さり手抜かりなく御取りはからい下さいますよう併せて御願い申し上げます。

十一月九の日、モラン(Molins)に於いて認む。
ジャンヌ(署名)」

1429年11月9日付、リオン市民に宛てたジャンヌ・ダルク直筆署名入り書状

1429年11月9日付、リオン市民に宛てたジャンヌ・ダルク直筆署名入り書状

1429年11月9日付、ムーラン(Moulins)からリオン市民に宛てた書状。

1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクはパリ攻囲に取り掛かるが翌日パリ攻囲の中止命令がシャルル7世より下った。かねてからの方針通りシャルル7世はブルゴーニュ公との和平締結の外交努力を進めており、8月末、ブルゴーニュ公国と年末までの休戦が成立、ブルゴーニュ公の働きかけでイングランドも軍事行動を控えることとなり、その報を受けての停戦命令であった。

パリから転進したジャンヌは中央フランス、ラ・シャリテ・シュール・ロワールを拠点に周辺を実効支配してシャルル7世派フランス領土の後背を脅かしていた親英派の野武士領主ペリネ・グレサールの討伐を命じられた。当時乱世に乗じて城や領土を奪い実効支配する武将と言うのは珍しくなくペリネ・グレサールもその一人、当時屈指の戦上手として知られた独立勢力の頭目である。彼についてはジャンヌ・ダルクの映画や物語などでは大体はしょられるエピソードだが、実はジャンヌ・ダルクを初めて敗北させた因縁深い人物であった。

サン・ピエール(Sant Pierre)・ル・ムーティエもペリネ・グレサールが支配下においていた町の一つで、1429年10月末からジャンヌはダルブレ卿の指揮下でブーサック元帥らとともに攻略に取り掛かったが苦戦を余儀なくされる。11月4日、サン・ピエール・ル・ムーティエの堅守に攻囲軍が一時軍を退こうとするがジャンヌは頑として退かず、大声で兵を鼓舞して粗朶束や柵を持ってくるよう指示、鼓舞された兵たちによって堀に橋を架けることに成功し、フランス軍の奇襲攻撃が行われてサン・ピエール・ル・ムーティエを陥落させた。書面にある「どのようにして奇襲で奪取したか」とはこのようなジャンヌの働きのことである。

このあと、ペリネ・グレサールの居城ラ・シャリテ・シュール・ロワール攻略に乗り出すわけだが、その物資補給を懇願する書状である。ちなみにこの書状を受けてリオンから送られたのは、記録に残る限り一定額の金銭のみのようだ。同時にクレルモンにも送っており、クレルモンからは硝石、硫黄、矢などが送られた。11月24日からラ・シャリテ・シュール・ロワール攻囲が開始されるがペリネ・グレサールの堅守で一か月かけても陥落させられず、泣く泣く退却を余儀なくされている。包囲軍に参加した伝令使は「極寒の最中、ラ・シャリテ攻略軍は兵も少なく(中略)約一か月の攻囲の後、籠城軍には届いている救援物資も手に入らず、臼砲や大砲も失い、恥をしのんで陣を払った」(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年,158頁)と書き残している。ちなみにペリネ・グレサールは以後も勢力を保持してフランスの背後を脅かし続け、1435年、シャルル7世は彼をラ・シャリテ終身守備隊長に任じて周辺からの税徴収や多額の年金なども認める破格の待遇で取り立てている。

また、この書状について特徴的なこととして、ジャンヌの直筆署名が残る最も古い現存する書状であること、またジャンヌはJehanneと署名しているが、筆記体でnnと重ねた部分の下棒が四本で良いところ勢い余ったか五本書いてしまっている点で、ジャンヌの誤字としてもよく知られている。

もう一つこの書状にまつわるエピソードとして、十九世紀、ジュール・キシュラがこの書状の現物を確認した際、印章と封蝋の中に黒い髪の毛一本が残されていたが、後に無くなっている。これがジャンヌの毛髪だったのかそれとも全くの別人のものか、最初から黒髪だったのか金髪あるいは別の色の毛髪が経年劣化で変色したのか、今となっては調べることもできず不明のままである。

1430年3月16日付ランス市民宛直筆署名付書簡

「親愛なる、私の大好きな、ぜひお目にかかりたい皆々様、ジャンヌ・ラ・ピュセルは皆様が攻囲を受けるのではないかと心配されている内容のお手紙を何通も戴きました。決してそのようなことにはなりませんので御安心下さい。わが軍は近々敵の奴らと遭遇できそうだからです。万一遭遇できなくても奴らがあなた方の町に迫ることは決してありません。城門をしっかり閉めておいて下さい。私がただちにあなた方のもとに駆けつけますから。もし奴らがやって来ても、奴らが大あわてで拍車もまともにつけ終わらないうちに蹴ちらかし、そこから追い払ってあげましょう。あっという間にすんでしまうことでしょう。今日のところはこれまでにしておきます。どうかいつまでも皆様方が国王の忠良の臣下でおられますように。神が皆様方をお守り下さいますよう祈っております。シュリーにて三月十六の日認む。他にも皆様方が喜ばれる朗報をお知らせしたいのですが、途中で手紙が盗まれ、誰かにその情報を読まれないか心配ですのでここには何もしるしません。
ジャンヌ(署名)」

ジャンヌの三通ある直筆署名入り書状の一つ。

文面からはランス市民に非常に親し気な様子が伺える、まるで人気アイドルが書いたファンレターへの返信とでもいうような、貰ったら嬉しくなるだろう文面である。こんな手紙貰ったら一通り蛍光灯の紐でシャドウボクシングしたあとベッドに突っ伏して手足ばたばたしちゃうね、ランス市民。

「親愛なる、私の大好きな、ぜひお目にかかりたい皆々様」と重ねて言われたら嬉しいだろうし、「もし奴らがやって来ても、奴らが大あわてで拍車もまともにつけ終わらないうちに蹴ちらかし、そこから追い払ってあげましょう。あっという間にすんでしまうことでしょう。」など読む側にとってはとても安心感がある。最後、日付の後に敢えて添えられている一文は「他にも皆様方が喜ばれる朗報をお知らせしたいのですが」と他にもグッドニュースが沢山あるのだろうと感じさせつつ「途中で手紙が盗まれ、誰かにその情報を読まれないか心配ですのでここには何もしるしません。」とじらしてくるオチにジャンヌなりのユーモアが感じられる。まぁ、実際のところ差し迫った危機感からの一文ではあるのだが。実際この書状はジャンヌの書状の中では良文として評価が高い。

また、上述の「ショワイユーズ(かわいがりやの)」を「楽しい、喜びに満ちた(ジョワイユーズ)」に訂正していたことでジャンヌが「J(ジ)」を「ch(シ)」と発音しており訛りが判明した件はこの書状の記述からわかったことである。

1430年3月23日付フス派教徒宛

「イエズス・マリア(欄外にプエラ・デ・アングリア)
しばらく前より、私、ジャンヌ・ラ・ピュセルの耳には、立派なキリスト教徒であるはずのあなた方が異端の徒と化してしまったという世間の噂が聞こえてきております。そしてあなた方がサラセン人のようになって真の宗教や礼拝を捨て、恥知らずで罪深い迷信を奉じ、それを守り広めようとしてどんな恥ずべきことや妄動をもあえてしているというのです。あなた方は教会の秘蹟を台なしにし、信仰箇条を破り捨て、寺院を破壊し、記念に建てられた彫像を打ち砕き、火にかけ、正しい信仰を守っているキリスト教徒を虐殺している、とのことです。いったいその狂乱ぶりはどうしたことでしょう。あなた方はどのような狂気にとりつかれてしまったのでしょう。全能の神と、子と、聖霊が顕わし、定め、世に行きわたらせ、奇蹟を通じてありとあらゆる方法で称えてきたこの信仰をあなた方は迫害し、覆し、無に帰せしめようと願っているのです。あなた方は肉眼やものを見る目はもっているのに、あなた方の心の眼は盲いているのです。そのようなことをして神罰をこうむらないですむと思っているのですか。神があなた方の罪深き試みをそのままにしておかれると思うのですか。暗黒と誤謬の中にあなた方を放置にしたままにされるというのですか。それどころか、あなた方が罪や瀆聖を犯せば犯すほど、神はあなた方にそれだけ重い罪と責め苦をお課しになるのです。
はっきり申し上げて私といたしましては、もしイングランド人との戦いにかかり切りになっていなければ、とっくの昔にあなた方のところに出かけているはずです。あなた方が悔い改めたという知らせが届かないと、あるいはイングランド人の方は放っておいてあなた方のほうに向かうやもしれません。他に方法がなければ剣を用いてでもあなた方の愚かな、けしからぬ迷信を打ち砕き、あなた方の邪義を払うか、生命を奪うかするつもりです。もしあなた方がカトリック教会の教え、信仰の光に戻る道を選ぶつもりなら、使節を私のほうにお送り下さい。彼らにあなた方のなすべきところをお教えしましょう。もしその道を選ばずに、かたくなに私の忠告に耳をかさないのなら、あなた方が今までにどのような被害を人々に与え、どのような罪業を重ねてきたのかをよく思いおこして私の到着を待ちなさい。天、人の力を併せもつ強大な兵力であなた方にふさわしい最期をお目にかけましょう。

三月二十三日、シュリーに於いて。
ボヘミアの異端者たちに与える。
パスクレル(署名)」

シュリー・シュール・ロワールからボヘミアのフス派に対して送られた書状。唯一ラテン語で書かれている。かなり厳しい文面で当時名を馳せていたフス派を批判している。ペルヌーは口述筆記ではなくジャン・パスクレルによる文面であるとしているが、コレット・ボーヌはジャンヌの口述筆記でパスクレルの一部起草であるという。

勇ましい口調だが、勿論、当時の戦況からもフス派討伐の遠征を行うような余裕はなく、書面での脅し以上のものではない。フス派と対立していた神聖ローマ皇帝ジギスムントの出身家ルクセンブルク家は例えばクレシーの戦いに参戦して壮烈な戦死を遂げたヨハン盲目公をはじめ代々フランス王家との友好関係が強く、この頃、シャルル7世は皇帝ジギスムントとの同盟締結を目指していた。大局的に見ればフランス王=皇帝同盟が成立すれば低地地方(ネーデルラント)や中欧など帝国への領土拡大を進めていたブルゴーニュ公国を牽制することができる。また、ジギスムントはフス派に対する十字軍派遣を提唱し、それを口実にイングランドなどは戦費を教会から徴収して百年戦争に投入するなど、フス派問題は百年戦争にも少なからず影響を及ぼしていたのである。

1430年3月28日付ランス市民宛直筆署名付書簡

「親愛なる良き友よ、皆様方からの手紙を何通も落手いたしております。それらの中には忠実なランスの町にも数多くの悪党がいたことを国王に報告した次第がしるされていました。徒党を組んで町を裏切り、ブルゴーニュ人を城内に引き入れようとした多くの人たちがいたことを確かに国王に申し上げたことは本当です。国王もあなた方が国王に信頼を寄せているがためにこうむっている困難についてよく御存じですし、あなた方の国王に対する信頼には非常に満足なさっております。あなた方が陛下の加護のもとにあり、町が攻略にさらされるなど一旦緩急の際には国王があなた方の救援に駆けつけられることを疑わないで下さい。国王はまた、敵のブルゴーニュの裏切り者どもがあなた方に与えている辛苦のためにどれほど苦しみに耐えているかも承知されております。国王は必ずや神の望みたまうとおり、あなた方を早急に、つまり可能な限り早い時期に解放なさることでしょう。ですから、どうか親愛なる友人の皆様、あなた方の国王に忠実なよき町の守りを堅め、しっかりと警戒を怠らないようにお願いいたします。まもなくもっと詳しく吉報を知らせることができるでしょう。今回はもうこれ以上申し上げませんが、一つだけつけ加えておくと、ブルターニュ全土がフランスのものとなりました。そしてブルターニュ公は自身四ヶ月分の給金を支払ったうえで兵三〇〇〇を国王に差し出すことになりました。あなた方を神の御手にゆだねます。神があなた方をお守り下さいますように。
三月二十八の日、シュリーに於いて。
ジャンヌ(署名)」

ジャンヌ・ダルク直筆署名入り書簡の一つ。文面が現存する最後の書簡である。

前回の3月16日付ランス宛書簡からわずか12日後に送られたものだが、この頃、戦況は風雲急を告げていた。

全てはブルゴーニュ公フィリップ3世の動向に左右されている。英仏両国がブルゴーニュ公の顔色を窺い味方に引き入れようと涙ぐましい努力をしているというのが当時の政治状況であった。

1429年8月末に締結された同年末までのフランスとブルゴーニュの休戦条約は休戦期間終了後の講和条約交渉の開始を前提としていたが、ブルゴーニュ公はこの講和条約交渉を、理由をつけては先延ばしにしていた。1430年1月8日、ブルゴーニュ公フィリップ3世がポルトガル王女イザベル・ド・ポルテュガルと再婚し、1月10日、名高い金羊毛騎士団を創設すると、ベッドフォード公は1月12日、プリ、シャンパーニュ両伯領の割譲を自力での征服という条件付きで申し出る。ブルゴーニュ公に百年戦争への本格介入を促すための破格の譲歩であった。

一方ブルゴーニュ公はフランスに対しては休戦期間を3月15日まで延長、交渉は先送りにするよう通告の上で、休戦条約時の条件であったオワーズ川流域諸都市の引き渡しを求めてくる。フランス側は公に譲歩してその主要都市コンピエーニュにブルゴーニュ公国へ譲渡する旨説得に向かったが、コンピエーニュはこれに抵抗して防備を固め、ブルゴーニュとの対決姿勢を明らかにした。ここにブルゴーニュ公の百年戦争介入の大義名分は整った。実際に軍を集結させるのは4月4日と先のことになるが、公は主力をまずはベッドフォード公が約束したシャンパーニュ征服へ進軍させはじめる。もちろんその先にはコンピエーニュの攻略も視野に入っていた。

このような中、3月に入ってランスでも親ブルゴーニュ派の市民・兵士がブルゴーニュ軍を引き入れようとして鎮圧される。このジャンヌの文面にある「徒党を組んで町を裏切り、ブルゴーニュ人を城内に引き入れようとした多くの人たちがいたこと」がそれである。休戦期間を無視してあきらかに軍事行動の準備をする「ブルゴーニュの裏切り者ども」の脅威は、ランス市民を動揺させるのに十分であった。

文中のブルターニュ公国は百年戦争の過程で独立を果たした領邦国家で、イングランド・フランス・ブルゴーニュの三勢力鼎立の渦中で巧みな中立外交を続けていた。ブルターニュ公弟リッシュモン伯アルテュールは1425年、両国の関係強化のため王国総司令官に任じられていたが、1428年、クーデターによって宮廷を追われている。このブルターニュとの関係強化のためのリッシュモン復権の動きがアンジュー公母ヨランド・ダラゴンを中心として1430年代初頭から動き始めており、リッシュモンを追放した対ブルゴーニュ和平派の侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユと対立が深まっていた。実際にフランス-ブルターニュ関係が休戦・同盟へと舵を切るのは1431年に入ってからのことで、文面にあるブルターニュ関連の記述は他の書状同様、リップサービス以上のものではない。ジャンヌさん、書状を読めばわかるように相手を安心させるという目的は一貫しているが結構適当なことを勢いで言い切っていることがあるのが面白い。

ジャンヌが言う「ブルターニュ全土がフランスのもの」となるのは1491年のことであるが、その1491年のブルターニュ公国の併合をもってフランスの再統一が完了する、という点で予言めいたものを感じることはできる。

この書簡が送られた背景となる動きがそのまま、ジャンヌ・ダルクの旅の終わりへと至るカウントダウンの開始である。1430年5月14日、いよいよコンピエーニュへと軍を進めたブルゴーニュ軍に対抗して、5月23日、ジャンヌは軍を率いてコンピエーニュ救援に赴き、ブルゴーニュ軍の激しい包囲網の中で捕虜となる。そして、ブルゴーニュ公フィリップ3世はジャンヌをイングランドへ引き渡し、処刑裁判が開催されることになるのである。

参考書籍

・コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)『幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会』昭和堂、2014年
・ジェフリー・バラクロウ著(藤崎衛訳)『中世教皇史』(八坂書房,2012年)
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』白水社、2002年
・高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、1984年

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