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ブーサック元帥ジャン・ド・ブロス~ジャンヌ・ダルクと常に共にあった老将

ブーサック元帥(”Maréchal de Boussac ”)ジャン・ド・ブロス(” Jean de Brosse ”)は、フランス王シャルル7世の親衛隊長でフランス元帥。史料上はサント・セヴェールの領主という表記でも登場する(注1)。オルレアンからコンピエーニュまでジャンヌ・ダルクの主要な戦いにはすべて参加した数少ない武将の一人(注2)であり、ジャンヌ・ダルクの重要な戦友として知られる。1375年生~1433年6月没(注3)。

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経歴

ジャン・ド・ブロス像(ルーヴル美術館)

ジャン・ド・ブロス像(ルーヴル美術館)
ウィキメディアコモンズより

記録に残る彼の軍歴の初出は1423年3月31日、48歳のとき、サンセール伯の指揮下での戦闘である。もちろんそれ以前、若い頃から経験を重ねていただろう。その後リッシュモン伯アルテュールの下で功を重ね、その忠実な奉仕が認められて、1426年7月14日、元帥に叙された(注3)。リッシュモンがクーデターによって宮廷を追われてからは、ラ=ファイエット元帥(注4)との元帥二人体制で、シャルル7世の軍事面を支えている。なおラ=ファイエット元帥はフランス軍司令の名で史料に登場し国王顧問会議への出席(注5)もある点などを踏まえると、ブーサックは次席の元帥であったと思われる。

1428年10月イングランド軍がオルレアンの包囲を開始すると同25日、バタール・ドルレアンらとともにオルレアンに入り、以後イングランド軍の攻囲に対抗している。1429年2月12日、オルレアン軍がイングランド補給部隊を奇襲しようとして逆撃され大敗したニシンの戦いではバタールとともに本隊を指揮。その敗戦によるオルレアン防衛軍の戦力低下を補う増援部隊の徴募と再編成のため一時オルレアンを離れてブロワに向かった。(注6)

オルレアン包囲戦~勃発の背景からジャンヌ・ダルクの登場、終結まで
前史 フランス王シャルル6世が発狂して統治能力を失って以降、対立していたブルゴーニュ派とアルマニャック派はイングランド王ヘンリ5世に同盟を求め、両者の対立を好機としたヘンリ5世は1415年フランスに侵攻、アジャンクールの戦いでフランス軍を...

1429年4月末、オルレアンに向かうためブロワを訪れたジャンヌ・ダルク一行と合流、彼が編成した増援・補給部隊とともに5月1日、ジャンヌ・ダルクはオルレアンに入城する。ブーサック元帥はジル・ド・レとともに一旦ブロワに戻った上で、あらためて増援部隊を率いて5月4日、オルレアンに入城し、5月8日のオルレアン解放まで戦闘に参加した。その後の撤退するイングランド軍の追撃作戦にも参加、イングランド軍を壊滅させたパテーの戦いではジャン・ポトン・ド・ザントライユバタール・ドルレアンとともに前衛を構成して勝利に貢献した。(注7)

1429年7月17日、ランスでのシャルル7世聖別式(戴冠式)では、ノートルダム寺院から聖油を運び国王の聖別に侍る四騎士――元帥に叙されたばかりのレ元帥ジル・ド・モンモランシ・ラヴァル、国王親衛隊長ブーサック元帥ジャン・ド・ブロス、フランス海軍提督ルイ・ド・キュラン、弩兵隊長ジャン・ド・グラヴィル――の一人に選ばれてもいる。(注8)戴冠式後、ベッドフォード公自ら率いるイングランド軍本隊とシャルル7世率いるフランス軍本隊が8月15日、サンリス付近で対陣するが、このときジャンヌ・ダルクはアランソン公らとともに前衛にあり、ブーサック元帥は左翼を担当した。(注9)

以後、ジャンヌと戦場にともにあり続けた。ジャンヌ・ダルクがフランス王領を後背から脅かすペリネ・グレサールの討伐に向かった時はサン・ピエール・ル・ムーティエ攻略に参加、続けてラ・シャリテ・シュール・ロワール攻囲でも別動隊を率いて参加している。(注10)

ジャンヌ処刑後の1431年10月24日、ブーサック元帥はコンピエーニュを包囲するリニー伯ジャン・ド・リュクサンブール(注11)率いるブルゴーニュ軍をついに撃破して撤退させ、ジャンヌが成し遂げられなかった因縁の地の解放を実現している(注12)。

その後、前線を退き故郷に戻って1433年6月、ジャンヌ・ダルクの死(1431年5月30日)からちょうど二年後、58歳で病死した。(注3)

ジャンヌ・ダルク直属部隊を除くとジャンヌ・ダルクの全ての戦いに参加したとされる有力武将は彼だけ(注2)で、ジャンヌ・ダルクの知名度に比して日本ではほぼ知られていないと思うが、ブーサック元帥はジャンヌ・ダルクの最も親しい戦友の一人と言えよう。生年を見ればわかる通り(ジャンヌは1412年生)、親子以上に齢の離れた、ジャンヌ・ダルクの傍らに常に居て、ジャンヌの死後すぐに後を追うように逝った老将のことはやはり紹介しておきたいのである。

脚注

注1)ジャンヌ・ダルク復権裁判記録、オルレアン籠城日誌など
注2)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』175頁のサント・セヴェールの領主に関する注に「ジャン・ド・ラ・ブロス。ジャンヌが関係したすべての戦闘に参加している。」とあるが、ジャンヌ・ダルクに関する日本語文献では1429年9月のパリ攻囲や1430年5月のジャンヌが捕虜となったコンピエーニュの戦いへの参加の記録は確認できていない。また、さすがにジャンヌ・ダルク直属部隊単独での小規模な軍事行動には参加していないと思われるので、「すべての戦闘に参加」というよりは「主要な戦闘にはすべて参加」という方が妥当かもしれない、と判断しての記述。
注3)生没年と初期の軍歴、死因はフランス語版及び英語版wikipediaのJean de Brosse の項を参照。
注4)ジルベール・モティエ・ド・ラ=ファイエット(1380~1464)。フランス元帥。1421年ボーヴェの戦いでイングランド軍を撃破してヘンリ5世の実弟クラレンス公トマスを敗死させた。オルレアンの戦いにも参加している。1428年~1432年のリッシュモン不在期間、シャルル7世政権で軍政を統帥。1445年からの勅令隊の創設等軍制改革に功があった。高名な「両大陸の英雄」ラ=ファイエット候ジルベール・デュ・モティエは子孫。
注5)上田耕造『ブルボン公とフランス国王 中世後期フランスにおける諸侯と王権』(104-105頁)
注6)ニシンの戦いで戦死した義兄シャトーブラン卿の遺産受け取りも兼ねている。(ペルヌー『オルレアンの解放』124頁)
注7)パテーの戦いの布陣はレジーヌ・ペルヌー『オルレアンの解放』(186頁)参照
注8)親衛隊長との表記は清水正晴著『<青髭>ジル・ド・レの生涯』(117頁)、グラヴィルのフルネームは上田耕造『ブルボン公とフランス国王 中世後期フランスにおける諸侯と王権』(104頁)を参照。
注9)ランス戴冠式後の動きについてはレジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン『ジャンヌ・ダルク』(143頁)、ジャンヌ、ブーサックらの配置については清水正晴著『<青髭>ジル・ド・レの生涯』(125頁)参照。ちなみに両者ともにらみ合っただけで戦闘には至らなかった。
注10)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン『ジャンヌ・ダルク』(154-156頁)
注11)ブルゴーニュ公フィリップ3世配下の隻眼の勇将で、1430年5月よりコンピエーニュを包囲していた。ジャンヌ・ダルクを捕らえたのは彼の副官リオネル・ド・ヴァンドンヌ。捕らえたジャンヌの処遇について四カ月間悩んだ末身代金と引き換えにイングランドへ渡した。
注12)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン『ジャンヌ・ダルク』(187頁)

参考文献・リンク

・コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)『幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会』昭和堂、2014年
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』白水社、2002年
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』白水社、1986年
・上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』晃洋書房,2014年
・清水正晴著『<青髭>ジル・ド・レの生涯』(現代書館,1996年)
Jean de Brosse – Wikipedia(英語)
Jean de Brosse — Wikipédia(フランス語)

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