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百年戦争の猛将、傭兵ラ・イルことエティエンヌ・ド・ヴィニョルの生涯

ラ・イル(「憤怒」の意 ” La Hire” 日本語訳ではラ・イールと伸ばして表記される場合もある。)の異名で知られるエティエンヌ・ド・ヴィニョル( ” Étienne de Vignolles” 1390年頃生~1443年1月11日没)は百年戦争後期のフランスの傭兵隊長。ガスコーニュ地方プレシャック=レ=バン( “Préchacq-les-Bains” ) 出身。ジャンヌ・ダルクの戦友として知られる。

異名ラ・イル(憤怒)について、彼の怒りっぽい性格から名付けられたとするのが通説だが、当時は肉体的特徴や出身地・領地など縁のある地名に由来する異名がつけられるのが一般的であったことから、Hireに近い綴りで彼の姓と同じヴィニョル( “Vignoles” )の近隣の地名 ”Hite” あるいは ”Larehille” などが転じた可能性も指摘されている。(注1)まぁル・ボン(善良)、サン・プール(おそれしらず)など性格的な特徴に起因する異名も珍しくはなく、おこりっぽい性格から取られたとしてもおかしくはないので、あくまで一説であろう。

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初期の経歴

ラ・イル肖像画(1835年)

ラ・イル肖像画(1835年)
wikimedia commonsより

少年時代から戦いに明け暮れていたというが、彼の軍歴としてはっきりわかるのは1418年、同郷の戦友ジャン・ポトン・ド・ザントライユとともに王太子シャルル派の軍に参加して、クーシー城を占領したのが最初である。このとき、『王に非ず公に非ず、候にも非ず伯にも非ず、われはクーシー城主なり』(注2)と語ったという。

以後バール枢機卿に雇われてザントライユとともにヴェルマンドワ、ラン、ロレーヌを転戦、1421年ボージェの戦いに参加した。この頃、宿に宿泊していた際に暖炉が崩れ落ちて右足を骨折、以後その後遺症で右足を引きずって歩くようになったが、戦いに支障が出るほどではなかった。(注3)

1423年、シャロン=シュル=マルヌ(現シャロン=アン=シャンパーニュ)を攻撃し、続いてルクセンブルク公領へと侵攻、1424年メーヌ地方へと転戦した。その後、バタール・ドルレアン(ジャン・ド・デュノワ)に雇われ、1427年、ル・マンを一時占領するがジョン・タルボットによって追われた。同年、イングランド軍によって包囲されたモンタルジスをバタール・ドルレアンの指揮下で解放、勇名を馳せた。このモンタルジスの戦いに際して、突撃を敢行する前に司祭から懺悔を求められたラ・イルは大声で神に向かって『もしもお前がラ・イルで、ラ・イルが神様だったら、ラ・イルがお前にしてほしいと思うだろうことをラ・イルのためにしてやってくれ』と言ったという逸話が残っている。(注4)

オルレアン防衛戦での活躍

1428年10月25日、侵攻してきたイングランド軍に対して防衛のためバタール・ドルレアンの下ザントライユらとともに傭兵部隊を率いてオルレアンに入城した。オルレアンでの彼が率いた傭兵部隊の兵員数として、59人分の支払い記録がある(注5)。また、1428年11月9日、オルレアンを一時離れてトゥールに赴き戦費600リーヴルを獲得して帰還した記録も残る(注6)、

この時期のオルレアンの戦いでのラ・イル部隊の勇猛さを示す逸話として、このようなものがある。1428年の大晦日、ラ・イルの部下ジャン・ル・ガスケとヴェディールというガスコーニュ出身の傭兵二人がイングランド軍に槍の試合を申し込み、イングランド側がこれに応じた。両軍首脳陣まで観戦に訪れ、まずガスケが相手のイングランド兵を一撃で打ち倒し、続くヴェディールは敵イングランド兵も精強だったか勝負がつかず引き分けとなった、という(注7)。

オルレアンの戦いでのラ・イルの活躍として語られるのが1429年2月12日の「ニシンの戦い」である。オルレアン防衛軍は増援としてオルレアンに向かっていたクレルモン伯シャルル(注8)軍と連携して、ジョン・ファストルフ率いるイングランド軍補給部隊を叩くべく出撃したが、クレルモン伯は自軍が到着するまで敵軍への攻撃を待つよう要求、合流を待たされることになったオルレアン軍は移動中の補給部隊への奇襲の機会を逃し、その間に敵の動向に気付いたファストルフは輸送用の荷車三百台を使ってバリケードを築き防御を固めた。焦ったオルレアン軍のスコットランド部隊が増援を待ちきれず攻撃を開始、イングランド軍は万全の態勢で迎え撃ち指揮官ジョン・スチュアート(注9)らが戦死、続けてイングランド軍が攻勢に転じて、オルレアン軍は指揮官バタールが負傷するなど大敗を喫した。補給物資のニシンが戦場に散乱したことからニシンの戦いと呼ばれる。

この敗戦の中で勇戦したのがラ・イルとザントライユら傭兵部隊であった。二人は兵をまとめると雪崩を打って敗走するフランス軍の中で追撃してくるイングランド軍を迎え撃った。当時の記録であるオルレアン籠城日誌には『心ならずも一旦は不名誉な退却をしたが……あとに随いてきた六〇ないし八〇名の兵士を集めてイングランド軍に打ってかかり……何人かの敵兵を倒した。すべてのフランス兵が同じように取って返していたなら、この日の名誉と勝利は彼らのものになっていたかもしれない』(注10)と、その活躍が記録されており、殿軍として勇戦した。

クレルモン伯軍は敗戦に驚いて戦わずしてオルレアンに逃げ込んだが、2月18日、同伯は軍をまとめてオルレアンから離脱した。あわせて多くの武将たちもオルレアンを離れているがその中にラ・イルもいた。離れてからオルレアンの戦費調達に努めてオルレアンとシノン城を往復していた(注11)。完全に離脱したわけではなかったことは、以下のようなエピソードからもわかる。例えば、4月3日、両軍の若い兵士の間で小競り合いが起き、投石合戦になった。ラ・イルは、これを含めこれまでの数々の若い兵士同士での衝突で指揮をとっていたドーフィネの貴族エーマール・ド・ピズーという人物に、彼が目立つ金髪を持ち主で勇敢だったことから、黄金の頭を意味するカプドラという異名を付けた(注12)。

ジャンヌ・ダルクとオルレアン解放

ジャンヌ・ダルクとどこでであったかは定かではないが、1429年4月末、オルレアンへの補給・増援部隊を率いてブロワを出撃したジャンヌ・ダルクと同行する諸将の一人にラ・イルが確認できる(注13)。1429年5月1日、ジャンヌ・ダルクとともにオルレアンに入城した。

5月4日、ジャンヌ・ダルクに続いてブーサック元帥らが率いる増援部隊が到着して意気上がる防衛軍はその日のうちに勢いに乗ってサン・ルー要塞を占拠する。5月6日、オーギュスタン要塞攻略を開始するが難航した。トゥーレル要塞から出撃したイングランド軍の攻勢に押されたオルレアン軍が撤退を開始、退却する兵の中でジャンヌ・ダルクとラ・イルの両部隊で追ってくるイングランド軍を押し返すと、敗走する兵たちが鼓舞されて次々と攻勢に転じ、一気にオーギュスタン要塞を陥落させた。続く5月7日、要衝トゥーレル要塞を激戦の末に陥落させ、翌8日、イングランド軍は包囲を解いて撤退し、オルレアンは解放された。オーギュスタン要塞の攻略などラ・イルの働きは目覚ましいものであった。

オルレアン後の活躍

以後撤退するイングランド軍の追撃作戦にも参加、パテーの戦いでは中央軍(本隊)指揮を託されてイングランド軍撃破に功あった。シャルル7世戴冠式後、イングランドはパリ防衛軍を増強しベッドフォード公ジョン自ら率いるイングランド軍主力が出撃、8月15日、ベッドフォード公指揮のイングランド軍本隊がシャルル7世率いるフランス軍本隊とサンリス近郊でにらみ合うが、このときラ・イルはジャンヌ・ダルク、バタール・ドルレアンとともに前衛を構成している。

以後、ジャンヌとは別れてロワール川流域の解放作戦に従事して戦功をあげ、1430年、イングランドの支配下にあったガイヤール城を奪還。1431年、捕われたジャンヌ・ダルクを救出しようと軍を率いてルーアンに迫るが敗れてジャンヌが処刑される頃までドゥールダンで捕虜となったあとシャルル7世が身代金を支払ったことによって解放された。

晩年

以後、あらためて各地を転戦し、1435年5月9日、ジェルベロワの戦い( “Bataille de Gerberoy” )でジャン・ポトン・ド・ザントライユとともにイングランド軍を撃破(注14)。しかし、1436年2月2日、ザントライユとともに臨んだリィの戦いでジョン・タルボット、トマス・スケールズ、トマス・キリエルらが率いるイングランド軍に敗北した。1436年、ロングヴィルに所領を与えられ、1438年よりノルマンディ総司令官に就任する。

1440年8月、プラグリーの乱に乗じてサマセット伯率いるイングランド軍がジョン・タルボット支配下のアルフルールに上陸したため、ラ・イルはリッシュモン元帥の命に従いアルフルールの包囲に向かっている。(注15)1442年、ガスコーニュ遠征に参加し、1443年1月11日、戦傷により病に倒れ、モントーバンで亡くなった。晩年、マルグリット・ド・ドロジー( “Marguerite de Droisy” ) と言う女性と結婚したが子供はいなかった。他に同じく傭兵の弟アマドク” Amadoc de Vignoles ”がいてオルレアンの戦いなどに参戦している(1434年戦死)。

また、ジャンヌ・ダルクとの関係について、ジャンヌは彼に厳しく告解を迫り、ラ・イルや彼の部下もそれに従って告解したという(注16)。ジャンヌ・ダルクには忠実でかなり傾倒していた、もっとも親しい戦友の一人と数えられよう。また、十九世紀に登場した、フランス式トランプでハートのジャックに模された。

脚注

注1)フランス語版英語版wikipedia参照。

注2)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年,315頁

注3)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン前掲書315頁

注4)司祭から懺悔をもとめられたエピソードはジャン・ポール・エチュヴェリー著(大谷暢順訳)『百年戦争とリッシュモン大元帥』(河出書房新社,1991年,159頁、引用部はレジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン前掲書316頁

注5)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン前掲書315頁

注6)レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』白水社、1986年.117頁

注7)ペルヌー前掲書113頁

注8)ブルボン公ジャン1世の子。後のブルボン公シャルル1世。クレルモン伯位はブルボン公家の嫡子が代々継承する爵位。父ジャン1世がアジャンクールの戦いで捕虜となったままであったため、公位継承していないが事実上ブルボン公家の当主である。ブルボン公家はシャルル7世政権でアンジュー公家と並ぶ大諸侯であった。

注9)スコットランド元帥ジョン・スチュアート・オブ・ダーンリ。当時アルマニャック派は長年のフランス王家とスコットランド王家の対イングランド軍事同盟「古来の同盟(1295~1560)」に基づきスコットランド軍の援兵を受けていた。

注10)ペルヌー前掲書122頁

注11)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン前掲書316頁

注12)ペルヌー前掲書113頁

注13)ジャンヌ・ダルクのオルレアン入城に随行した主な武将はラ・イルのほかブーサック元帥ジャン・ド・ブロス、ジル・ド・レ、フランス提督ルイ・ド・キュラン、アンブロワーズ・ド・ロレ、ラウル・ド・ゴークールなど。ブーサック元帥とジル・ド・レは同時入城せず、一旦ブロワに戻って増援部隊を指揮して5月4日にあらためて入城した。

注14)Bataille de Gerberoy — Wikipédia

注15)1440年7月のプラグリーの乱について、清水正晴『ジャンヌ・ダルクとその時代』でラ・イルがザントライユとともに謀議段階から反乱軍に参加したように書いているが、可能な範囲で調べてみた限りではプラグリーの乱に両者が反乱軍として参加したという記述は同書以外見つけられなかった。上田耕造『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』123頁の反乱中の反乱軍とシャルル7世との第一回和平交渉で王から出された和解案第三条にある反乱加担者の一覧にも名前は挙がっていない。本記事中のラ・イルの1440年8月のアルフルール包囲への参戦については、論文 Jonathan Bloch “Étienne de Vignolles, dit “La Hire” (ca.1385-1443) seigneur féodal, capitaine charismatique, officier royal. Mémoire de Maîtrise“(2015,p9)参照。以上の点から清水著の記述は間違いではないかと思われる。

注16)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン前掲書316頁で紹介されている復権裁判でのピエール・コンバン師の証言。レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』白水社、2002年,180頁も参照

参考文献・リンク

・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』白水社、2002年
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』白水社、1986年
・ジャン・ポール・エチュヴェリー著(大谷暢順訳)『百年戦争とリッシュモン大元帥』(河出書房新社,1991年)
・上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』晃洋書房,2014年
・清水正晴著『ジャンヌ・ダルクとその時代』現代書館,1994年
Étienne de Vignolles — Wikipédia
La Hire – Wikipedia
Bataille de Gerberoy — Wikipédia
・Jonathan Bloch “Étienne de Vignolles, dit “La Hire” (ca.1385-1443) seigneur féodal, capitaine charismatique, officier royal. Mémoire de Maîtrise“(2015,p9)

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