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中世のブルボン家~ブルボン公国の興亡とヴァンドーム家の台頭

中世ブルボン家略系図

中世ブルボン家略系図

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ブルボン公家の誕生

フランス王ルイ9世聖王

フランス王ルイ9世聖王

ブルボン公家は、1272年、フランス王ルイ9世の六男クレルモン伯ロベールと中央フランスにあるブルボネ地方を領するブルボン伯家の女継承者ブルボン女伯ベアトリスが結婚、その子ルイ1世がブルボン公に陞爵したことに始まる有力諸侯である。中世後期フランスに登場した有力「諸侯国家(”État princier ”)」のひとつブルボン公国として十四世紀から十六世紀初頭まで勢力を誇った。

初代ブルボン公ルイ1世(在位1327~41)はフランドル戦争で活躍し、1317年父の死後クレルモン伯位と母の所領ブルボン伯領を継承した。フランス王シャルル4世の忠実な支持者として信頼され、クレルモン伯領とラ・マルシュ伯領の交換と、それにともなう公への陞爵によってブルボン公家を開いた。ヴァロワ伯シャルルの娘イザベラを嗣子ピエールと結婚させるなどヴァロワ家の有力な支持者でもあった。また次男ジャックにラ・マルシュ伯を継承させたが、この系統から後にブルボン王家が誕生することになる。

二代ブルボン公ピエール1世(在位1341~56)は百年戦争でフィリップ6世、ジャン2世に従ってブルターニュ継承戦争、クレシーの戦いなど各地を転戦、外交にも活躍するなどフランス王家に忠実な有力家臣であったが、1356年、ポワティエの戦いで戦死した。彼の最大の功績は1350年、娘のジャンヌをフランス王ジャン2世の王太子シャルル(後のシャルル5世)と結婚させたことである。

ブルボン公国の確立~ルイ2世善良公

ブルボン公ルイ2世

ブルボン公ルイ2世

元々ブルボン家は聖王ルイの血を引く名門ではあったが、そのブルボン公家を一気にフランス有数の諸侯へと躍進させたのが第三代ブルボン公ルイ2世(在位1356~1410、善良公)である。

19歳で公位を継いだルイ2世は対イングランド戦争に参加。1360年、ポワティエの戦いで捕虜となった国王ジャン2世解放の身代わりとして1366年までイングランドで人質となる。1569年、国王シャルル5世が名将ベルトラン・デュ・ゲクランを大元帥に任じて再征服戦争に乗り出すと彼も軍を率いて参戦、オーヴェルニュ公領奪還をはじめ数々の武功で勇名を馳せた。軍事面の活躍と騎士の模範としての振る舞い、そしてシャルル5世も義兄を四番目の兄弟と呼ぶなど重用されて、シャルル7世の弟であるアンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン、ブルゴーニュ公フィリップ2世の三諸侯と並ぶ地位を築くことに成功する。

1380年、シャルル5世が亡くなり幼いシャルル6世が即位すると三諸侯とともに集団指導体制の一角を占めた。同時代の詩人・作家クリスティーヌ・ド・ピザンがブルボン公について「公が熟年に達すると、輝かしい青年期とは打って変わり、思慮深く、穏便であり、厳格で献身的な顧問となる。」(上田48頁)と評した通り、彼は宮廷内の政争の調停者として、フランス王国を支える柱石となった。

フランス王シャルル6世(狂王)

フランス王シャルル6世(狂王)

1392年、シャルル6世が狂気の発作を起こして統治能力を喪失すると王弟オルレアン公ルイとブルゴーニュ公フィリップ2世豪胆公の間で主導権争いが生じ、ブルボン公はこの関係改善に力を発揮した。1404年、豪胆公の死とジャン無怖公のブルゴーニュ公位継承によってオルレアン公とブルゴーニュ公の対立が先鋭化し、1407年、オルレアン公ルイがジャン無怖公の配下によって暗殺されると、事態の収拾に努めている。彼の努力も空しく、次第に自派の勢力拡大を進めるジャン無怖公は反対派官僚の粛清など国政を壟断。1409年、老いたルイ2世は所領へ退き、翌1410年8月10日、73歳でその生涯を終えた。

彼が亡くなる直前の1410年4月、ベリー公ジャンはオルレアン公ルイの遺児シャルル、アルマニャック伯ベルナールら反ブルゴーニュ派諸侯を自城ジアン城に集め反ブルゴーニュ同盟「ジアン同盟」を締結。世にいう「アルマニャック派」が誕生してブルゴーニュ・アルマニャック両派は内戦へ突入、この内戦に乗じてイングランド王ヘンリ5世がフランスへ再侵攻して、百年戦争後半戦が始まることになる。

百年戦争「アルマニャック派」とは何か、成立から消滅まで
アルマニャック派(” Armagnacs”)は1410年、台頭するブルゴーニュ公ジャンへの対抗としてオルレアン公シャルル、アルマニャック伯ベルナール7世、ベリー公ジャンら有力諸侯が結成した反ブルゴーニュ派同盟。イングランド軍の侵攻後は、王太...

ルイ2世は生前、「『自分には生来の義務で十分だと言って、一族の誰かと誓約によって連盟や同盟を結ぶ』ことを望まなかった」(グネ145頁)という。党派対立によって崩壊せんとする秩序を必死に保つ良心的な調停者であったルイ2世の存在はフランス王国にとってあまりに大きすぎた。この時代に馴染みの薄い人のために日本史で例えると豊臣政権における前田利家みたいな立場といえばわかりやすいだろうか。勇猛な青年期、政権の柱石として諸勢力の均衡に力を注ぐ調停者としての壮老期、そしてその死後、統治能力の無い君主を差し置いて政権は二分し熾烈な内乱に陥るというわけだ。

ルイ2世の時代にブルボン公国は所領を拡大させた。旧来のブルボン公領とあわせて1374年にフォレ伯領を併合、フォレ伯の分家であるボージュー家へも影響力を及ぼしつつ1400年に同家領を併合して、ブルボン公国の中核となる所領が確立した。さらに嫡子ジャンとベリー公ジャンの娘マリーとの結婚を通じてオーヴェルニュ公領の継承権を獲得している。

また統治・行政機関としての機能を大きく発展させブルボン公国の土台が築かれた。城主→地方を統括するバイイ→首邑ムーランの全国法廷、という上訴ルートが確立して司法制度が整い、1374年にムーランに設置された会計検査院が財政・文書管理機能を統括、ブルボン公と顧問団からなる顧問会議が意思決定機関となりバイイが地方行政を管理して統治機構が整備された。(上田27-28頁)また、ルイ2世によってブルボン公国から中央政界へ多くの人材が登用され、その昇進ルートがあることで、ブルボン公国へ人材が集まる好循環を生んでいた。

ブルボン公国領土(十六世紀初め)

ブルボン公国領土(十六世紀初め)
上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』晃洋書房,2014年,19頁より

ブルボン公国の全盛期

シャルル1世――百年戦争最低の愚将にして最高の外交官

ブルボン公シャルル1世

ブルボン公シャルル1世

ルイ2世を継いだジャン1世(在位1410~1434)は1415年、アジャンクールの戦いで捕虜となり1434年に亡くなるまでその生涯を捕虜として終えている。父の不在の間公国の事実上の当主であったのが嫡子クレルモン伯シャルル(後のブルボン公シャルル1世、在位1434~56)である。とはいえ、父が捕虜となった1415年当時、1401年生まれの彼は14歳と若年であったため母マリー・ド・ベリーの後見を受けている。

シャルル1世はその特徴として両極端な面を持つ面白い人物である。まず武将としてはおそらく百年戦争史上最悪の愚将と呼んでいいのではないかというぐらいどうしようもない。

1429年2月、オルレアン包囲戦の折、援軍としてオルレアンに近づいていたシャルルは籠城軍と連携してイングランド軍補給部隊を急襲する計画を立てていた。このときシャルルは自分が到着するまで敵軍への攻撃を待つよう要求、イングランド軍はフランス軍の動向を察知して急遽輸送用の荷車でバリケードを築いて万全の防御態勢を取り、これに焦ったフランス軍が攻勢に出て返り討ちに遭い、さらに攻勢に転じたイングランド部隊によってフランス軍は大敗を喫する(ニシンの戦い)。これに驚いたシャルル軍は、敵補給部隊に数倍する兵力を擁しながら戦わずして敗走し、オルレアンに逃げ込んだ。さらにオルレアンの食料を食い尽くした上、シャルルは不名誉に感じたか兵をまとめて撤退するが、その際迷惑なことに他の武将にも離脱を勧めて回る始末。士気は低下して兵力も激減、物資も窮乏を極め、市民の間では降伏の声も大きくなり・・・とオルレアンは陥落の危機に立たされる。よくジャンヌ・ダルクが語られるとき登場前のオルレアンの危機的状況が言われるが、その最大の原因を作った人物である。

実際、彼が戦場に出ると身分の高さゆえに自ずと指導的立場になってしまうため、足を引っ張りまくる。彼が主導したプラグリーの乱(1440年)でも彼の率いる反乱軍主力のブルボン公軍はまっさきに奇襲を受けて瓦解、その結果反乱軍は一気に窮地に立たされている。戦場で味方にすると最悪に迷惑な武将である。

ブルゴーニュ公フィリップ3世善良公

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作『ブルゴーニュ公フィリップ3世善良公の肖像画』(1450年頃)

一方、外交交渉のテーブルに着いた彼ほど有能で頼りになる人物はほとんどおるまい。百年戦争最高の外交官と呼んでよいと思う。その例が1435年7月のアラス会議である。百年戦争の主要交戦国が一堂に会したアラス和平会議はイングランドを除くブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国とフランスとの同盟締結がなされることでイングランドは交渉途中で代表団が退場して孤立、百年戦争敗北への道を転げ落ちていくことになるが、フランス代表団長としてその状況を作り出したのがブルボン公シャルル1世であった。

このアラス和平条約の成立には準備段階があって、同年2月、ヌヴェールでブルゴーニュ公とフランス王との間で結ばれたヌヴェール協定で、同協定ではまずフランス王派の有力諸侯ブルボン公シャルル1世とブルゴーニュ公フィリップ3世との和平が結ばれている。アラス和平条約もブルゴーニュ=フランス間でこのヌヴェール協定で出された条件が取り入れられており、このシャルル1世による丁寧な根回しの延長線上にアラス会議でのブルゴーニュ公国の対イングランド同盟からの離脱とフランス王との和平があった。その上でブルゴーニュ公の動向を踏まえてイングランドへフランス側の譲歩案を提示し、イングランド側がそれを拒否するのを見届けた上で条約の取りまとめを行う、という一連の流れをブルゴーニュ公国宰相ニコラ・ロランとともに主導している。

『戦争では、戦場で獲得できなかったものを、その後の外交交渉で獲得することはできない、ということがいわれる。アラス平和会議はこの命題をよく例証しているといえる』(城戸244頁)と城戸毅は著書『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』でアラス会議でのイングランドの失敗を評している。

シャルル7世

シャルル7世

このような高い政治力で彼はブルボン公国のさらなる勢力拡大を図った。1416年、ベリー公ジャンの死去によってジャン2世の妻(シャルル1世の母)マリー・ド・ベリーに譲渡される予定のオーヴェルニュ公領およびモンパンシェ伯領はシャルル6世によって譲渡が禁じられていたが、25年、シャルル7世はブルボン家に対し男系継承者の断絶後、所領を国王に返還するアパナージュ既定を設けた上で同二領の継承を認めた。(上田127-128頁)同規定は後々大きな影響を及ぼすことになるが、これによってブルボン公国は領土を大幅に拡大した。

シャルル1世はラ=ファイエット元帥ジルベール・モティエをはじめとする自身の息のかかった人材を次々とシャルル7世の宮廷に送り込んだ。また、自身の弱点を承知していたのか、ジャックとアントワーヌのシャバンヌ兄弟、ロドリゴ・ヴィランドランドら多くの傭兵隊長を抱え彼らに官職を与えている。彼に引き立てられた傭兵シャバンヌ兄弟の子孫は後にヴァロワ朝を支える武家の名門としてシャバンヌ元帥を筆頭に次々と人材を輩出することになる。当時シャルル7世の宮廷は王母ヨランド・ダラゴンの影響下でリッシュモン大元帥と協力関係にあったアンジュー公派が最大勢力でアンジュー派とブルボン派の主導権争いが激化している。

プラグリーの乱

プラグリーの乱(1484年作)

この争いの先に、プラグリーの乱があった。1439年の諸侯の徴税・軍隊召集権を制限するオルレアン勅令に反発して1440年、ブルボン公シャルル1世、アランソン公ジャン2世らが王太子ルイ(後のルイ11世)を擁立して諸侯を糾合し反乱を起こしたが、前提には宰相メーヌ伯シャルル・ダンジュー(アンジュー公ルネの弟)とリッシュモン大元帥の協調によるアンジュー派主導の国王直属軍の創設計画があり、ブルボン公がそれから排除されていることへの危機感から発したものである。

結局反乱は短期間で鎮圧されるが、ここからシャルル1世の交渉力がものを言った。まずは反乱参加諸侯の赦免を勝ち取るが、これはつまり「大逆罪」への赦免であり、裏を返せば『以後この前例において、ある程度罪を恐れずに、国王に対して異議申し立てを行うことができる』(上田128頁)という「抵抗権」の獲得に他ならない。このロジックでシャルル1世はありとあらゆる手を講じて、時に反乱すらも脅しに使いつつ、1444年に創設される常備軍「勅令隊」の主要部隊長の過半をブルボン家とその配下が占めることに成功している。アンジュー公派は政治をブルボン公派は軍事を分担することで共存し、名実ともにフランス随一の諸侯国家としての地位を確立した。

「プラグリーの乱」とフランス王常備軍「勅令隊」の創設
プラグリーの乱は1440年、フランスでおきた大規模な諸侯反乱である。フランス王シャルル7世が前年1439年に発したオルレアン勅令に反対し、ブルボン公シャルル1世・アランソン公ジャン2世・元侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユら有力諸侯が王太...

前述の『戦争では、戦場で獲得できなかったものを、その後の外交交渉で獲得することはできない』という命題を、ブルボン公シャルル1世は「鎮圧された反乱軍の首魁」の立場から鮮やかに覆して見せているわけで、これが彼を百年戦争史上最高の外交官と評する理由である。

ジャン2世~王権との相補関係

ブルボン公ジャン2世肖像画(1835年作)

ブルボン公ジャン2世肖像画(1835年作)

ジャン2世(在位1456~1488)は父とは好対照の武勇に優れた人物で若いころから数々の軍功を上げてシャルル7世に重用された。父に代わって国王直属軍「勅令隊」の隊長となったジャン2世は1449年から再開された百年戦争でノルマンディ奪還作戦に参加し天王山となったフォルミニーの戦いで活躍。続いて1451年、ギュイエンヌ方面国王総代官に任命され、アキテーヌの攻略を命じられる。1453年、ロエアック元帥アンドレ・ド・ラヴァルがカスティヨンの戦いでイングランド軍を壊滅させると、続いてジャン2世はボルドーを陥落させて百年戦争終結に大きく貢献した。

しかし、1461年、シャルル7世が亡くなりルイ11世が即位すると立場は一変する。プラグリーの乱にも参加した王太子ルイはその後も父シャルル7世に反抗を続け、1456年、代父アランソン公ジャン2世の逮捕に続いてフランスを追われブルゴーニュ公国へ亡命していた。父王死後、ブルゴーニュ公フィリップ3世率いるブルゴーニュ軍とともに帰還、公の後ろ盾で即位を果たしたルイ11世は旧臣の追放に乗り出し、ジャン2世やアントワーヌ・ド・シャバンヌらブルボン公派の勅令隊長が一気に罷免された。

ブルゴーニュ公シャルル突進公

ブルゴーニュ公シャルル突進公

1465年、このような急激な中央集権化と側近政治を進めるルイ11世に対しブルボン公ジャン2世は王弟ベリー公シャルル、ブルターニュ公フランソワ2世、ブルゴーニュ公子シャルル(シャロレー伯シャルル、後のブルゴーニュ公シャルル突進公)、アルマニャック伯、サン・ポル伯、デュノワ伯、ロエアック伯らと公益同盟を結び反旗を翻した。公益同盟戦争は反乱軍の優位に進み、王軍とブルゴーニュ軍が戦ったモンレリーの戦いののち、ルイ11世は諸侯に対し大幅な譲歩を行った。

その最大の恩恵を受けたのがブルボン公ジャン2世である。ルイ11世はジャン2世を勅令隊長に再任するとともに中央・南フランスの国王総代官に任じて事実上フランスをブルボン公と分割統治することで相補関係を築いた。1473年、ジャン2世の弟ピエール(後のブルボン公ピエール2世)とルイ11世の王女アンヌが結婚して王家と公家の関係は緊密となり、1477年、かつてブルボン家の所領で後にアルマニャック伯領となっていたラ・マルシュ伯領を返還されてブルボン公国の領地は過去最大となった。

フランス王ルイ11世

フランス王ルイ11世

以後、ルイ11世はブルボン公に最大限の配慮をしつつ、王権の強化に邁進する。争い続けた王弟ベリー公シャルルが1472年に亡くなり彼の所領を王領に併合、1477年、ナンシーの戦いでブルゴーニュ公シャルル突進公が敗死してブルゴーニュ公国が瓦解するとハプスブルク家と遺領を争いブルゴーニュ公領を併合し、同年名門アルマニャック伯領をも併合、1480年、ブルボン家と勢力を二分していたアンジュー公家の断絶でアンジュー公国を併合・・・と諸侯国家が次々と消滅していく中、ブルボン公国は王権に従ってそれを助けていった。

フランス王がフランス全土に君臨する近世国家フランス王国の誕生は目前に迫っていた。それは自立した諸侯国家を全て消滅させ王領に併合することによって――すなわち最後に残った唯一にして最大の諸侯国家ブルボン公国の消滅によって達成されることになる。

ブルボン公国の滅亡

ブルボン公ピエール2世

ブルボン公ピエール2世

1488年7月、ルイ11世の後を継いだシャルル8世政権下、サン・トーバン・デュ・コルミエの戦いでブルターニュ公フランソワ2世はフランス王軍に敗れ、1491年、公女アンヌ・ド・ブルターニュがシャルル8世と結婚することによって、ついにフランス王に唯一服さなかった独立諸侯国家ブルターニュ公国が滅び、フランス全土が再統一された。これを推進していたのが、ジャン2世の弟ピエール・ド・ボージュー(ブルボン公ピエール2世)である。

1483年、ルイ11世が亡くなるとまだ若年だった国王シャルル8世を王女アンヌとその夫ピエール・ド・ボージューが摂政として後見し、ピエールのイニシアティブでブルターニュ公国攻略が進められていた。1488年、兄のブルボン公ジャン2世が後継者無く亡くなり、次弟シャルル2世の短い公位継承を経てその弟のピエール・ド・ボージューがブルボン公ピエール2世となった。シャルル8世は若い間はピエール2世の補佐に頼ったが1492年からピエール2世を退けて親政に乗り出す。以後、ピエール2世はブルボン公国の経営に専念することになるが、懸案が彼も男子に恵まれず娘しかいなかったことである。前述のとおり、かつてフランス王シャルル7世とブルボン公シャルル1世の間で男子継承者無くば公領を王領に返還するという取り決めがされていたが、シャルル8世は最大の有力者たるブルボン公に特別に温情をもって女子継承を認めた。

悲劇の名将ブルボン大元帥

ブルボン大元帥(ブルボン公シャルル3世)

ブルボン大元帥(ブルボン公シャルル3世)

1503年、ピエール2世死後、無事に娘のシュザンヌが女公として公位を継承することが認められる。シュザンヌが夫としたのが従兄弟のモンパンシェ伯シャルルである。モンパンシェ伯家はシャルル1世の弟ルイから始まる分家で、その四代目シャルルは優れた武勇で知られ、1515年、国王フランソワ1世はモンパンシェ伯シャルルを、フランス全軍を統括する大元帥に任じた。彼は「ブルボン大元帥」の名で悲劇の人物として歴史に名を遺すことになる。

1521年、ブルボン女公シュザンヌが亡くなり、夫のブルボン大元帥がブルボン公シャルル3世として公位を継ぐが、これに異を唱えたのが国王フランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォアであった。彼女はブルボン公シャルル1世の娘でサヴォア公に嫁いだマルグリットの娘、すなわちシュザンヌの従姉妹にあたる。ルイーズはシュザンヌの女子継承を前例として自身にこそ公位継承権があるのではないかと主張したのである。これをフランソワ1世も支持し、まさかの高等法院でもルイーズの女子継承を正当とする判決が出される。

フランソワ1世は、おそらくここから公と交渉で落としどころを探ってまずは強くなりすぎたブルボン公国の勢力を適度に削いでおくか、どうせ後継者もいないし・・・ぐらいに軽く考えていたのだろうが、良くも悪くも武の人であるブルボン大元帥は、堪えられず実にわかりやすい行動に出た。フランソワ1世の宿敵、神聖ローマ皇帝カール5世の下に走ったのである。

フランソワ1世肖像画

フランソワ1世肖像画

以後、フランソワ1世はカール5世とブルボン大元帥という戦上手相手に苦戦させられ、1424年にはカール5世、ブルボン大元帥、さらにイングランド王ヘンリ8世まで参戦し、四方からフランスへ侵攻されて絶体絶命の窮地に陥り、1525年2月25日、パヴィアの戦いでは皇帝軍を率いるブルボン大元帥の活躍で王族・軍首脳が次々戦死して自身も捕虜になる大敗を喫してしまう。1526年、フランソワ1世は大幅な領土割譲を約束させられ王子二人を人質に出すことでようやく解放されるが、単純だが戦上手の臣下を追い詰めすぎたことを後悔したことだろう。

最後はいつも突然である。1527年春、ブルボン大元帥は軍を率いてローマへと進軍していた。勝ち過ぎた神聖ローマ帝国の伸長に恐れをなした教皇クレメンス7世が1526年、イタリア諸都市やフランス王と密かに同盟(コニャック同盟)を結び反カール5世包囲網の形成を画策、この牽制のためにカール5世はブルボン大元帥にローマ攻略を命じたのである。1527年5月6日、ドイツ傭兵(ランツクネヒト)を主力としてスペイン歩兵部隊とイタリア人混成部隊などからなるブルボン大元帥率いる皇帝軍がローマへ総攻撃を開始するが、まさにその攻撃の指示を出して間もないブルボン大元帥に偶然流れ弾が命中して、彼を死に至らしめる。この瞬間、ブルボン公国は終焉を迎えた。後に残ったのは統制を失った暴徒の群れである。皇帝軍は一気にローマを陥落させると破壊と掠奪の限りを尽くしローマは八日間に渡って炎上、廃墟と化した。歴史上悪名高い「ローマ劫略」事件である。

ブルボン公国は王母ルイーズ・ド・サヴォワが亡くなる1532年まで彼女の管理下に置かれたあと所領はすべて王領に併合され、フランソワ1世の子ヴァロワ=アングレーム家のオルレアン公シャルル2世と、後のフランス王アンリ3世がそれぞれブルボン公位を継承しているが、あくまで王族のタイトルの一つとしてであって自立勢力としてではない。このブルボン公国の滅亡によってついに王権に抗しうる力を持った国内の勢力は消滅し中央集権的な近世国家フランス王国が幕を開けた。

ブルボン=ヴァンドーム家~傍流からの天下取り

本家の断絶によってブルボン公国は消滅したがブルボン家は存続が認められる。その新たな当主家となったのがヴァンドーム家である。ヴァンドーム家はブルボン家初代ルイ1世の次男ラ・マルシュ伯ジャック1世の子ジャン1世がヴァンドーム女伯カトリーヌと結婚し、1393年、次男ルイがヴァンドーム伯位を継承したことに始まる、いわば分家の分家にあたる傍流である。

初代ヴァンドーム伯ルイ1世~ジャンヌ・ダルクの戦友

旗印を持つジャンヌ・ダルク(1485頃)

旗印を持つジャンヌ・ダルク(1485頃)

初代ブルボン=ヴァンドーム伯ルイ1世(在位1393~1446)はなかなかの好人物であった。1376年生まれの彼は年が近いオルレアン公ルイ(1372年生)と親交が深く、彼が暗殺されて以降はアルマニャック派に参加。1415年、アジャンクールの戦いでは左翼軍の指揮を執り奮戦するが捕虜となった。解放後、シャルル7世の亡命政権で武将・政治家として活躍している。特にジャンヌ・ダルクと縁が深い。

1429年3月6日、シノン城に到着したジャンヌ・ダルクは大広間で人々の間に隠れるシャルル7世を一目で見つけ、王の秘密を語って信頼を得るが、このときシノン城に到着したジャンヌを大広間に案内する役を務めたのがヴァンドーム伯ルイである。以後オルレアン包囲戦など多くの戦闘にジャンヌとともに参加、戦友の一人に数えられる。

また、ヴァンドーム伯ルイはジャンヌの最末期の戦いにも大きくかかわっている。1430年5月14日、ジャンヌ・ダルク部隊とヴァンドーム伯部隊はブルゴーニュ軍が迫るコンピエーニュに入城、5月16日、両者は迫るブルゴーニュ軍の後背を叩くべくコンピエーニュを出陣し、ソワソンへ向かった。ところがソワソンの守備隊長はブルゴーニュ軍の脅威を恐れて両軍の入城を拒否する。ここでサンリスへ転進しようというヴァンドーム伯とコンピエーニュへ戻ろうというジャンヌで意見が分かれ、二人は別行動をとることになった、コンピエーニュへ戻ったジャンヌは5月23日、ブルゴーニュ軍の包囲によって捕虜となり彼女の戦いは終わる。ジャンヌ・ダルクを迎え入れ、そして送り出す、数奇な役割を担った人物となった。

その後も、シャルル7世配下の有力武将として活躍、アラス和平会議では代表団の一人に名を連ね、1446年に亡くなっている。

ブルボン家当主ヴァンドーム公家の誕生

ヴァンドーム公シャルル4世

ヴァンドーム公シャルル4世

以後ヴァンドーム伯家は代々王家に忠実な家臣として生き残りを図った。元々所領はブルボン公国から離れた飛び地のような位置関係で、パリやオルレアンに近いヴァンドームとその周辺を治めるだけの小領主でしかない。二代ジャン8世(1446~1477)は本家ブルボン公が起こした公益同盟戦争でフランス王ルイ11世配下としてモンレリーの戦いに参戦。第三代フランソワ(1477~1495)は国王シャルル8世の覚えめでたく王の直臣として取り立てられて名門サン=ポル伯の娘と結婚し、王領に併合されたアンジュー公家の家臣団の多くを預けられたが、1495年、イタリア戦争で戦死した。

父フランソワの死によって六歳でヴァンドーム伯家を継いだのがシャルル4世(在位1495~1537)である。国王ルイ12世の下、イタリア遠征で初陣を飾り、1515年、フランソワ1世即位後初勝利となったマリニャーノの戦いで軍功を上げた。1513年、王族アランソン公ルネの娘フランソワーズと結婚、1514年、公へ陞爵してヴァンドーム公家を開いた。

彼が宮廷で存在感を増すことになったのが、皮肉にも1525年のパヴィアの戦いの大敗であった。フランソワ1世まで捕らわれたフランス宮廷で留守を預かる王母ルイーズ・ド・サヴォアの下、シャルル4世は国務会議の長に任命されて国王不在の宮廷をまとめあげた。また、フランソワ1世の叔父サヴォア公ルネ、フランソワ1世の義兄でシャルル4世自身にとっても義兄にあたるアランソン公シャルルら王族が戦死したことでシャルル4世は妻を通じて、一気に有力王族の仲間入りを果たす。1527年、ブルボン大元帥が亡くなった後、公国領は王家に返還されるが、彼がブルボン家の当主となることには何ら問題が無かった。

ヴァンドーム公にしてナバラ王アントワーヌ

ヴァンドーム公アントワーヌ

ヴァンドーム公アントワーヌ

1537年、シャルル4世の後を継いだヴァンドーム公アントワーヌ(在位1537~1562)は、1548年、ナバラ王エンリケ2世(アンリ・ダルブレ)の王女フアナ(ジャンヌ・ダルブレ)と結婚した。エンリケ2世(アンリ・ダルブレ)は1525年のパヴィアの戦いで戦死したアランソン公シャルル4世の未亡人マルグリット(国王フランソワ1世の姉、ルイーズ・ド・サヴォワの娘)と1527年に結婚、二人の間に生まれたのがジャンヌ・ダルブレである。アントワーヌの母フランソワーズはジャンヌ・ダルブレの母マルグリットの前夫アランソン公シャルル4世の妹にあたるので非常に近しい婚姻関係である。

ナバラ王国は代々フランスと縁が深く、シャンパーニュ伯、エヴルー伯などフランスの貴族が王位を継承し、フィリップ4世からシャルル4世までのカペー朝の王がナバラ王を兼ねていた時期もある。当時のナバラ王エンリケ2世もフランスのアルブレ領主である。ただし、1515年、スペインのカトリック両王にしてアラゴン王フェルディナント1世がナバラ王国を急襲、低地ナバラ(バス・ナヴァール)を除いてスペイン王の支配下に入っておりその支配領域は非常に小さく、事実上フランス王に臣従する一諸侯領といえた。1555年、国王エンリケ2世が亡くなり、アントワーヌと妻ジャンヌはナバラ王アントニオと女王フアナ3世として即位した。

内乱の予兆

カトリーヌ・ド・メディシス

カトリーヌ・ド・メディシス

1547年に王位を継いだフランス王アンリ2世は対神聖ローマ帝国戦争を継続、モンモランシ大元帥、ギーズ公フランソワらの活躍で戦況を優位に進め、1556年の休戦条約で、トゥール、ルクセンブルクからコルシカ、トスカーナに至る広い領地を獲得。同年、皇帝カール5世は引退してカールの日の沈まぬ帝国はスペインとドイツに分割され、1559年のカトー・カンブレジ条約でイタリア戦争は終結した。対外的には大勝利を収めたアンリ2世だが、国内は不穏な空気が漂っていた。1517年に始まった宗教改革の影響でフランス国内でも旧教(カトリック)派と新教(プロテスタント)派に分かれ、国民だけではなく貴族たちも旧教派と新教派の宗教対立が派閥抗争と絡み合い徐々に深刻な葛藤に至ろうとしていた。旧教派の指導者がギーズ公フランソワ、新教派の首魁と目されていたのがヴァンドーム公アントワーヌの弟コンデ公ルイ1世で、アントワーヌも妻のナバラ女王フアナ3世も新教徒であった。

1559年、強力な指導力とカリスマ性で対立の抑止力となっていた国王アンリ2世が槍試合中の事故によって亡くなり、脆弱な王太子がフランソワ2世として即位、実権は摂政となった王母カトリーヌ・ド・メディシスが国政を担う体制が築かれたが、一気に国内の対立が表面化した。1560年2月、新教派の貴族がフランソワ2世の誘拐を企んだとしてギーズ公フランソワは軍を率いて一挙に新教派を襲撃、およそ1200人を処刑した(アンボワーズの陰謀事件)。さらに10月にはコンデ公ルイ1世を逮捕して、高等法院に圧力をかけて死刑判決を出させようとする。しかし、同年11月、フランス王フランソワ2世が倒れ、12月5日に亡くなった。王妃メアリ・スチュアートの叔父という立場だったギーズ公は突然の王の死によって後ろ盾を失い失脚する。

戦争の在り方が中世とは大きく変わっていた。かつての王家・諸侯国家間の戦争は個々の利害関係の衝突によって始まり、その関係を調整することによって、領主間の利権の確定、封地の拡大、軍・宮廷での地位、徴税権など管轄区域内での裁量、相続権の保障・・・など適切な落としどころを見つけ終わっていた。。しかし、王権が権力を独占して中央集権化を進め一定の権限・裁量をもった自立諸侯が消滅した結果、すべての貴族の利害は宮廷での権力掌握という一点に集中する。自ずと倒すか倒されるかの権力闘争にならざるを得ない。これに宗派対立、派閥対立が絡み、その苛烈さは増した。

ユグノー戦争勃発

コンデ公ルイ1世

コンデ公ルイ1世

若くして亡くなったフランソワ2世に代わって王位についたのが10歳の弟シャルル9世である。摂政である王母カトリーヌ・ド・メディシスはギーズ公らに対抗する有力者としてヴァンドーム公アントワーヌを国王総代官に任じ、その弟コンデ公ルイ1世も釈放した。対する旧教派ギーズ公フランソワはモンモランシ大元帥、サン・タンドレ元帥と三頭政治を宣言、旧教派を糾合した。そのような中、1561年にアントワーヌはプロテスタントからカトリックへの改宗を宣言、旧教派へと転じる。信念に基づいた行動だったのか、政局を読んだ結果だったのかはわからないが、フランス王家、そしてプロテスタントの妻ナバラ女王フアナ3世や新教派を率いる弟コンデ公ルイ1世とも対立することになった。「プロテスタント派の中核たるブルボン家の当主がカトリックに改宗する」という行為は、彼の子によってもう一度繰り返され、歴史的意義を帯びることになるだろう。

1562年1月、カトリーヌ・ド・メディシスによって新教徒(ユグノー)の信教の自由を認めたサン=ジェルマン勅令(一月王令)が発されると、これに反発したギーズ公フランソワは3月1日、シャンパーニュの小都市ヴァシーで礼拝中の新教徒を襲撃、74名を虐殺するヴァシー虐殺事件を起こす。これが「ユグノー戦争」の始まりだった。

コンデ公ルイ1世もこれに対抗して新教派を糾合、オルレアン、ルーアン、ラングドック、ギュイエンヌなどを次々と攻略して支配下におさめた。これに対抗してルーアンの攻略に向かったのが、旧教派に鞍替えしたヴァンドーム公アントワーヌであった。

「ブルボン家の歴史」の終わり

フランス王アンリ4世

フランス王アンリ4世

1562年10月26日、ヴァンドーム公アントワーヌは激戦の末ルーアンの奪還に成功するが、このとき流れ弾に当たって重傷を負った。傷は深く、11月7日、アントワーヌはこの世を去る。「王家への反逆の果てに主要都市を攻略しての戦死」とまるでブルボン本家の終焉となったブルボン大元帥の死を繰り返すかのような因縁じみた最期だったが、一つだけ大きな違いがあった。ブルボン大元帥には後継者が無かったが、アントワーヌには後継者がいたことである。

父アントワーヌの死を受けてヴァンドーム公位を継ぎブルボン家の当主となったのが嫡子アンリであった。わずか九歳の王子はこれより始まる血で血を洗う宗教戦争を戦い抜き、フランス王アンリ4世に即位して宗教戦争を終結に導きフランスに平和をもたらすことになるだろう――彼の登場をもってフランス諸侯としてのブルボン家の歴史は終わり、「ブルボン王家の歴史」が始まる。

参考書籍

・上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』晃洋書房,2014年
・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』刀水書房,2010年
・佐藤賢一著「ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)」講談社,2014年
・佐藤猛著『百年戦争期フランス国制史研究』(北海道大学出版会,2012年)
・柴田三千雄編『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』山川出版社, 1995年
・柴田三千雄編『フランス史〈2〉16世紀-19世紀なかば (世界歴史大系)』山川出版社, 1996年
・清水正晴著『ジャンヌ・ダルクとその時代』現代書館,1994年
・長谷川輝夫著『聖なる王権ブルボン家 (講談社選書メチエ)』(講談社,2002年)
・アンドレ・シャステル(越川倫明、他訳)『ローマ劫掠―一五二七年、聖都の悲劇』(筑摩書房,2006年,原著1983年)
・ベルナール・グネ著(佐藤彰一,畑奈保美訳)『オルレアン大公暗殺――中世フランスの政治文化』(岩波書店,2010年,原著1992年)
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』白水社、1986年
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年
・他、wikipediaフランス語版、英語版の各人物のページ

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