イングランド王ヘンリ2世と武威の王権『アンジュー帝国』

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誕生から即位まで

ヘンリ2世

ヘンリ2世

1066年、ノルマンディ公ギョーム2世がブリテン島へ侵攻しイングランド王ウィリアム1世として即位したことで、イギリス海峡をまたぐノルマンディ公領とイングランド王領からなる海峡国家アングロ=ノルマン王国が誕生した。三代目の王ヘンリ1世は王太子ウィリアムの事故死を受けて、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世(1125年没)の未亡人となっていた娘マティルダを後継者に立て、1128年、当時対立関係にあったアンジュー伯フルク5世の子ジョフロワ(アンジュー伯ジョフロワ5世)とマティルダの婚姻を成立させた。1133年3月5日(注1)、ジョフロワとマティルダの間に生まれたのがアンリ(後のヘンリ2世)である。

1135年、ヘンリ1世死後、後継者を巡って反マティルダ派の支持をうけたモルタン=ブーローニュ伯エティエンヌ(ウィリアム1世の娘アデルの子)がイングランド王スティーヴンとして即位し、マティルダ派は夫アンジュー伯ジョフロワ5世がノルマンディ公領を征服してアンジュー伯・ノルマンディ公領対イングランド王領の分裂抗争状態が続いた。(無政府時代1135~1154)

アンリの初陣は1146年末か1147年初頭、13~14歳ごろ、イングランドへの遠征でウィルトシャーのクリックダル攻囲戦のことだったという。(注2)1147年10月31日、マティルダ派の最有力者グロスター伯ロバートが亡くなったことでマティルダ派はイングランドからの撤退を余儀なくされる。(注3)1149年、アンリは騎士叙任を受けるためスコットランド王デイヴィッド1世(在位1124~53)の下を訪れ、そこで有力諸侯の一人チェスター伯の臣従礼を受けた。(注4)

1150年、父ジョフロワよりノルマンディ公位を譲られ、翌1151年、父の死にともないアンジュー伯位を継承した。しかし、父の遺言は長男アンリにノルマンディ公領、次男ジョフロワにアンジュー伯領を与え、アンリがイングランドを奪還するまではアンジュー伯領はアンリが所有し、次男ジョフロワはシノン、ルーダン、ミルボーの三城に留まるというものであった。(注5)これが後に兄弟対立の原因となる。

1151年、フランス王ルイ7世はアンリのノルマンディ公位継承に異を唱えてスティーヴン王の王太子ブーローニュ伯ユースタスと連携(注6)してノルマンディに侵攻、聖ベルナールの調停によって両者は和睦を結び、アンリはヴェクサン地方をフランス王に割譲し臣従礼を捧げる代わりに、ルイ7世はアンリのノルマンディ公位継承を認めた。アンリがルイ7世妃アリエノール・ダキテーヌと会ったのはこのときフランス王の宮廷を訪れた際であったという。(注7)

アリエノール・ダキテーヌ

アリエノール・ダキテーヌ

ルイ7世と不仲になっていたアリエノールは密かにアンリとの再婚を企み、1152年3月2日、そうとは知らないルイ7世がアリエノールとの離婚を決めると、同年5月18日、アンリとアリエノールの再婚が発表された。アリエノールはフランス南西部アキテーヌ公領およびポワトゥー伯領の女継承者であったから、アンリは一気にノルマンディ、アンジュー、ポワトゥー、アキテーヌというフランスの西半分を領する大領主となった。驚いたルイ7世はノルマンディに侵攻し、さらに兄に不満を持つジョフロワの反乱を使嗾することに成功したが、自ら軍を率いたアンリは短期間のうちにこれらを全て撃破し、ジョフロワは降伏、ルイ7世は和平を申し出ざるを得なかった。(注8)

1153年1月、後顧の憂いを断ったアンリは軍を率いてイングランドへ上陸する。長きに渡る内乱によってスティーヴン王の王権は著しく弱体化し、諸侯が乱立する混乱状態が続いていた。1153年8月、王太子ユースタスが病死すると、スティーヴン王はアンリと和平交渉に臨み、1153年11月6日、アンリを養子として王位継承者とするウォリングフォード条約(ウィンチェスター条約)が締結された。(注9)翌1154年10月25日、スティーヴン王は亡くなり、同年12月19日、イングランドに渡ったアンリはイングランド王ヘンリ2世として戴冠、ここに八代245年に及ぶプランタジネット朝が始まった。

ヘンリ2世の領土拡大戦争

ブルターニュ征服

イングランド王即位後ヘンリ2世はアンジュー伯位の相続権放棄を弟ジョフロワに求めたが、ジョフロワはこれを拒否してアンジュー伯領で反乱を起こしたため征討をうけ、許された後、空位となったナント伯領を継承した。1158年にジョフロワが病死するとヘンリ2世はこれを口実にナント伯領を併合、ブルターニュ地方への進出を始めた。(注10)1166年、ブルターニュ公コナン4世の娘コンスタンスと自身の四男ジェフリーを結婚させると、コナン4世を退位させてブルターニュ公領を併合した。(注11)

ウェールズ征服

ウェールズはヘンリ1世時代イングランド王に従属していたがその死後、スティーヴン王が支配力を失うとデハイバース、ポウィス、グウィネッズの三公国が勢力を拡大していた。ヘンリ2世は1157年から1165年にかけてウェールズの支配を再建するべく南西ウェールズを支配下に置くデハイバース公国へ複数回の遠征を行い、チェスター伯らとともにポウィス公国を圧迫、グウィネッズ公国の激しい抵抗にあい西部ウェールズの征服までは至らなかったが、1172年、デハイバース公リース・アブ・グリフィズを自らの代理人に任命してウェールズ南部を傘下においた。(注12)

アイルランド征服

1160年代のアイルランドではオニール王とコナハト王の二大勢力が覇を競っていたが、1166年オニール王が亡くなり、その同盟者レンスター王ダーモット・マクマローがアキテーヌへ亡命しヘンリ2世に援助を求める。そこでアングロ・ノルマン貴族リチャード・フィッツ・ギルバート・ド・クレア――通称ストロングボウがアイルランドに侵攻、コナハト王を撃破してダーモット王の娘を妻に迎え、1171年、ダーモット王死去に伴いレンスター王に即位した。このストロングボウの勢力拡大を危惧したヘンリ2世が同年10月、軍を率いてアイルランドに侵攻し、ストロングボウは慌てて領地を全て献上した。また、対立していたコナハト王ローリー・オコナーもヘンリ2世と和平交渉に臨み、1175年6月、コナハト王はアイルランド王としてレンスター、ミーズを除く地域での統治権を獲得する代わりにヘンリ2世の宗主権を認め、税を納めるウィンザー条約を締結した。(注13)

ヘンリ2世は1155年、教皇ハドリアヌス4世によりアイルランドの領有を許されており、1171年のアイルランド遠征に際して”Lord of Ireland”――アイルランド卿またはアイルランド宗主などと訳される――としての地位をアイルランド諸侯に認めさせた。同地位は後にヘンリ2世の末子ジョン(のちのジョン欠地王)に受け継がれる。(注14)

スコットランド王の臣従

スコットランド王国ではデイヴィッド1世(在位1124~53)がヘンリ2世に騎士叙任を与えるなど友好関係を築いていたが、デイヴィッド1世死後、11歳の孫マルカム4世(1153~65)が即位すると、ヘンリ2世は幼いマルカム4世の王権が弱体であることを見て取り、1157年、スコットランド王支配下のノーサンバーランド、カンバーランドなど北イングランド三州を割譲させ臣従礼を受けた。(注15)

トゥールーズ伯領遠征

1159年、ヘンリ2世はトゥールーズ伯に対しアキテーヌ公として宗主権――王妃アリエノールの祖母からのトゥールーズ伯位継承権があるとする――を主張してバルセロナ辺境伯ら反トゥールーズ伯派諸侯による同盟を構築、ルイ7世からも介入しない約束を取り付けた上で遠征を実施した。これに対しトゥールーズ伯レイモン5世は前フランス王ルイ6世の妹を妻としている関係からフランス王ルイ7世に救援を求め、ルイ7世はヘンリ2世との事前の約束を違えて増援に赴いた。ヘンリ2世はルイ7世に対する臣従礼の存在を根拠として撤兵し、トゥールーズ遠征は終了した。(注16)ただし、トゥールーズ伯領のケルシー地方を併合している。(注17)

対フランス戦争とモンミライユの和約(1169年)

1160年代、フランス王ルイ7世はヘンリ2世の領土拡大をいかに抑えるかに腐心していた。ヘンリ2世のトゥールーズ遠征に介入して企図を挫き、1166年にヘンリ2世によってブルターニュが併合されると、ブルターニュ独立派を支援して反乱を起こさせるが、67年にこれも鎮圧された。ヘンリ2世のオーヴェルニュ伯位継承にも介入してヴェクサン、トゥーレーヌ、さらにアンジュー、メーヌなどでも戦闘が繰り返され、ポワティエでの反乱にも加担した。また、ヘンリ2世とトマス・ベケットの対立が深まるとベケットの亡命を受け入れるなど、ヘンリ2世の領土拡大に立ち向かったが、ヘンリ2世の優位を覆せず、ルイ7世はついに屈服を余儀なくされる。(注18)

1169年1月6日、ヴァンドーム北のモンミライユ城で和平条約が締結され、ルイ7世はヘンリ2世のブルターニュ征服を承認し、ヘンリ2世の子供たちがそれぞれの所領についてヘンリ2世から継承することを容認して臣従礼を受け入れ、ヘンリ2世の嫡男ヘンリ(後のヘンリ若王)はフランス宮廷の五大官職の一つ主膳長(セネシャル “Sénéchal”)に就き、三男リチャード(後のリチャード1世獅子心王)とルイ7世次女アデライードとの婚約がかわされた。(注18)(注19)

アンジュー帝国

アンジュー帝国

アンジュー帝国

1170年、ヘンリ2世は王太子ヘンリを自身とともにイングランド王として即位させ(ヘンリ若王、在位1170~83)、プランタジネット家によるイングランド王位の世襲がなされるが、引き続きヘンリ2世が専制的に権力を独占した。共治王ヘンリ若王にはノルマンディ公領、アンジュー伯領、メーヌ伯領が、第二王子リチャードにはポワトゥー伯領とアキテーヌ公領が、第三王子ジェフリーにはブルターニュ公領が与えられた一方、末子ジョンには何も与えられなかったためジョンはLackland(土地なし)という渾名で呼ばれることになった。

また、ヘンリ2世は子供たちを使った巧みな婚姻外交によって王権の強化を進めた。ヘンリ若王はルイ7世長女マルグリットと結婚したが、結婚当時ルイ7世には男子が無くヘンリ若王がフランス王位を継承する可能性は大きかった。第二王子(三男)リチャードはルイ7世次女アデライードと婚約、第三王子(四男)ジェフリーはブルターニュ公女コンスタンスと結婚して公位を継承し、末子ジョンはモーリエンヌ伯の娘と婚約(のちイングランドの有力者グロスター伯の娘イザベルと婚約)している。長女マティルダは獅子公の異名で知られるドイツ最大の有力者ザクセン公ハインリヒ3世と結婚して後の神聖ローマ皇帝オットー4世を生み、次女アリエノールはカスティーリャ王アルフォンソ8世と結婚、三女ジャンヌはシチリア王グリエルモ2世と結婚するなど、男子はフランス王家や領内諸侯との関係強化、女子は周辺有力王家との関係強化と、綺麗に役割分担がなされている。

こうしてヘンリ2世はブリテン諸島からフランス北部・西部を支配下におさめ、スコットランド王、アイルランド王など周辺諸国から臣従礼を受ける巨大帝国を樹立した。アンジュー伯家(プランタジネット家)を宗主としてその下に諸領邦が連なるこの体制をアンジュー帝国と呼ぶ。

『アンジュー帝国の帝国的権力構造とは、強い支配者が武力で周辺諸国を征服して植民地として統治する構造ではなく、神聖ローマ帝国とカペー家の王国という二つの広域的な権力構造と如何に対峙するかという課題への、一つの回答として、西フランスに形成された権力構造であるといえる。』(注20)

アンジュー帝国の領土はすべてフランス王に臣従礼を捧げ、封土として認められたものであるという点に特徴がある。アンジュー帝国はフランス王との封建関係に基礎づけられつつも、己の領主権の独立性を重視したい諸侯や都市が、フランス王の宗主権の行使に対する対抗勢力の中核として、また権益を脅かす周辺諸侯・領主との軋轢の調停者として、プランタジネット家へ帰属することを選択したのであり、ゆえにアンジュー帝国の王権の在り様は、帰属する諸侯が自立した緩やかな連合の上に武威で君臨する象徴とならざるを得ない。すなわち、強さを証明し続けなければならないという弱さがあった。

また、1066年のノルマン・コンクエスト以来一貫して、イングランドを支配する権力の中心はイングランド王位には無く、アングロ=ノルマン王国時代にはノルマンディ公領に、ヘンリ2世によるアンジュー帝国の時代にはアンジュー伯領にあって、イングランドは、資源の供給地以上の位置付けではない。

『アンジュー帝国の核となる権力はヘンリ二世時にはフランスのアンジュー伯領にあったが、一二〇四年のノルマンディの喪失以後はプランタジネット家の当主がイングランドに居住するようになったので、そこが核権力の存在地となった。しかし、権力の主体はプランタジネット家であり、イングランド国王ではない。』(注20)

ゆえに、アンジュー帝国はイングランド王が大陸領土を支配していたのではなく、大陸領土を支配していたアンジュー伯家(プランタジネット家)がイングランド王位を兼ねて直轄地とした、というのが実体である。

内政

ヘンリ2世の内政は祖父ヘンリ1世体制への回帰を原則とし、その上で無政府時代の混乱からの回復と平和の維持、効率的な税の徴収と軍事力の動員を可能とする統治機構の構築と改革が目的となっていた。

『ヘンリ2世の統治が彼の祖父のそれをこえたのはたんに力によって諸侯を威圧し、収入をあげるにとどまらず、中央政府と陪臣以下の階層に属する人びととの接触面をいちじるしくひろげ、内政に実質をもたせるにいたった点である。』(注21)

祖父ヘンリ1世が整備した行政組織を再建し、改めて行政長官(” Chief Justiciar”)を頂点とした司法・行政・財政の中央政府機関である財務府を中心とした行政組織を整えて統治にあたらせた。ヘンリ2世期を支えた行政長官としてリチャード・ド・ルーシー(在任1154-79)とラーヌルフ・グランヴィル(在任1180-89)がいる。公文書の作成・管理、国璽の保管などを担う尚書部長官(” Lord Chancellor”、大法官)には親交深かったカンタベリー大司教セアボルドの助祭トマス・ベケット(在任1155~62)を抜擢した。

無政府時代(1135~54)の混乱の原因として「知行封建制の軍事的側面が王権によって適切に統制されていないこと」(注22)にあるとして1166年、諸侯に対し騎士数の推移などを問う調査を実施、調査結果を踏まえた軍役代納金を諸侯に課した。また、1181年、武装条令を施行して自由民に武器を用意させて召集に応じることをもとめ、非封建的軍隊を拡大した。また、地方行政官の不正や汚職についても大規模な調査を実施して大幅な人事の入れ替えを断行した。地方行政の責任者は州長官(シェリフ)と呼ばれた。

ヘンリ2世の改革で特筆されるのは司法改革である。社会の混乱をもたらす諸侯間の武力抗争の原因の最たるものが土地を巡る紛争であった。ヘンリ1世時代、領主裁判所が本格的に運用され、王や中央政府の重臣らによる巡回裁判が行われていたが、領主裁判所には限界があったから、王が領主裁判所に介入する例がみられるようになっていた。

ヘンリ2世はこれをさらに進めて、領主裁判所の遅延の場合や土地所有権の問題に関して王の裁判所が裁判を行うという上訴権を確立した。また、ヘンリ2世は『国王裁判所に上訴されたこれらの訴訟や審問における立証方法として神判、決闘、雪冤宣誓などの非合理的方法にかえて事件発生地住民代表による事実認定を採用した』(注23)、すなわち、陪審制が導入・運用された点において、法制史上の画期といえる。

これら司法制度の改革は内乱の時代を終わらせ秩序を作り上げるとともに、国王にも裁判を通した罰金や没収財産などによる収入の増加にもつながり、貴重な財源のひとつであった。

ヘンリ2世の治世下、無秩序時代の混乱が収拾され国内に秩序がもたらされた結果、イングランドでは経済活動が活性化した。『経済的変化の指標を具体的に提示するのは困難である』(注24)ものの、新たな土地が開墾され、牧草地が増えて家畜が放牧されて、土地が譲渡可能な財産へと変化していった。さらにフランドル地方で成長する毛織物製造の原産地として羊毛輸出が活発化、銀が流入することで市場規模が急拡大した。市場を活用するため都市が建設され、農民たちは新たな土地を獲得して植民活動を繰り返して村落共同体が次々と誕生し、それら開拓農民や村落共同体から所領を買い取りあるいは傘下におくことで領主層が強化されるという好循環が十二世紀イングランドの経済成長を実現し、ヘンリ2世の帝国を支えた。

また、ヘンリ2世の事績として築城技術の革新がある。ヨーロッパの城塞は十世紀頃に北フランス一帯で見られるようになった人工的に作られた小丘の頂上に築かれた木造の天守塔の周囲を取り囲む円形の防壁からなるモット・アンド・ベイリー式と呼ばれる建築様式が一般的であったが、十二世紀頃からこれらは石造りの強固な城塞へと姿を変えていく。十~十一世紀のアンジュー地方で見られ始める石造城塞の建築を一気に推し進めたのがヘンリ2世であった。石造りの城の建設には高度な技術、多数の労働力と資材が必要であるが、これを用意するだけの強力な権力と技術力がヘンリ2世によって可能となったのである。王宮となったシノン城や後に難攻不落の城塞として知られるドーヴァー城をはじめ各地のモット・アンド・ベイリー式城塞が石造の中世的城塞へと姿を変えていった。まさに彼の手によって現在われわれが目にする中世的なヨーロッパの石造りの城塞が姿を現したのであった。(注25)

クラレンドン法とトマス・ベケット暗殺事件

1161年、カンタベリー大司教セオバルドが亡くなり、ヘンリ2世は尚書部長官トマス・ベケットを後任に据えると、懸案だった聖職者に対する裁判権の導入を進めるべく、1164年1月、クラレンドン法を制定、司教たちに同意を求めた。(注26)

クラレンドン法は全十六条、イングランド王の封臣・官吏の破門手続きや教皇庁への上訴制限、国王裁判所と教会裁判所の管轄区分などを定めたもので、特に第三条において、教会裁判所で有罪となった聖職者を国王裁判所が刑罰を科す手続きが争点となった。最終的に国王が聖職者に対する刑事裁判権の主張を放棄し、イングランド教会から教皇庁への上訴権が認められるという聖職者特権が確立、一方で国王は聖職禄保有者推挙権や教会保有の世俗封への裁判権などが認められることになった。(注26)

導入に向けた教会と王との調整役と期待されていたトマス・ベケットはここでヘンリ2世に反してクラレンドン法の徹底的な批判を展開する。ヘンリ2世にとってこれらクラレンドン法は慣習と考えられる条項だが、ベケットにしてみると教会の権利を脅かす罪悪とうつる。上記の第三条をベケットは強く批判し、ヘンリ2世もベケットの態度に怒り、両者は深刻な対立に陥った。1164年、ベケットはフランスへ亡命、フランス王も介入して両者の対立は国際問題に進展する。

1170年、ヘンリ若王の戴冠の後、ようやく両者の和解が成立してベケットは帰国が許されるが、同年12月29日、ウィリアム・ド・トレイシー、レジナルド・フィッツ・アース、ヒュー・ド・モーヴィル、リチャード・ル・ブレットの四騎士(注27)がベケットの許を訪れて激しい口論となり、やがて四人によってベケットは殺害されることになる。

ベケット殺害の報を受けたヘンリ2世は『三日間寝室に閉じこもり、食事もとろうとせず、誰からも慰めを受けようとしなかった』(注28)と当時の記録は伝える。時の教皇アレクサンデル3世もベケット司教の報を聞いて一週間、イングランド人と話そうとしなかったという。ヘンリ2世は教皇に向けて使節団を派遣して両者の和解が図られ、1172年5月21日、アヴランジュで聖地防衛のための軍隊派遣やカンタベリー教会の保護などを約束する和約が結ばれ、翌年ベケットは列聖された。しかし、このトマス・ベケット殺害事件によってヘンリ2世の権威は失墜し、王権に陰りが見えることになる。

ヘンリ若王の反乱

ベケット殺害の報に最も衝撃を受けたのはイングランド王に即位したばかりのヘンリ若王であった。ヘンリ若王ら子供たちは幼いころベケットに師事し、彼自身もベケットを敬愛していたからである。1170年6月14日のヘンリ若王の戴冠式は本来カンタベリー大司教によって執り行われるべきものだったが、ヨーク大司教がこれを代行しており、この点でもヘンリ若王は残念な思いを抱いていた。(注29)

1172年、アイルランド遠征から帰ったヘンリ2世は教会との和睦に続いて9月27日、先延ばしにしていたヘンリ若王の妃マルグリットの女王戴冠式を挙行、ルイ7世との和睦を進め、すべての懸案を解決させ、版図は最大になり、いよいよ絶頂期を迎えようとしていた。

1173年2月、ヘンリ2世はリモージュに王族・諸侯を集めて末子ジョンにアイルランド宗主権を与えることを宣言、続く3月には同じくジョンに対してシノン・ルーダン・ミルボーの三城を譲ることをヘンリ若王に求めた。かつて王弟ジョフロワとの紛争でも問題となった三城だが、アンジュー伯領の主要城塞で、同伯領の相続を認められているヘンリ若王にとっては到底飲める条件ではない。ヘンリ若王はこの父王の求めを拒否した上で、かねてから父王が王権を専制的に独占することに不満を抱えていたから、自身の王としての権限の拡大を求め、これに対してヘンリ2世は嫡男の非礼に怒り、両者は決別してしまう。このときヘンリ若王を後押ししたのが母アリエノールであった。ヘンリ2世が美姫ロザムンド・クリフォードへ寵愛を向けるようになったため王妃アリエノールとは不仲になっていたからである。

1173年3月8日、ヘンリ若王はヘンリ2世とともにいたシノン城を出奔、追跡を振り切ってフランス王領へと逃れ、ルイ7世や母アリエノールらの支援を背景としつつ、次々と諸侯と結び、第二王子リチャード、第三王子ジェフリーも合流して一気に大規模な反乱軍を組織する。ヘンリ若王のアンジュー伯領、ノルマンディ公領、メーヌ伯領、リチャードのポワトゥー伯領、アキテーヌ公領、ジェフリーのブルターニュ公領とそれらの傘下の諸領主をはじめ、イングランドからはノーフォーク伯、レスター伯、チェスター伯、ダービー伯、ハンティントン伯の五伯、フランス諸侯としてはフランドル伯、ブロワ伯、ブーローニュ伯ともちろんフランス王ルイ7世、さらにスコットランド王ウィリアム獅子王もこれに加わり、一大包囲網が形成された。

ヘンリ2世はまずルイ7世にヘンリ若王を送り返すよう使者を送った。このときのフランス王ルイ7世の返答は実に面白い。

ルイ七世は持ち前のおだやかなユーモアを示す新たなチャンスをつかんで、礼儀正しく使者にこう尋ねた。
「だれがこの申し出をしたのだ?」
「イングランド王でございます。」
「イングランド王だと?」この上もない驚きの表情をしてルイ王は言う。
「イングランド王は余とともにここにおる。王は余に、汝らを通して何も申し出ておらぬが。」
それから使者たちの面前で少しばかり当惑して、「汝らは王の父のことを『王』と呼びつづけるおつもりだろうが、その王はかつてはイングランドの王であった。しかしその王はもはや王ではないと御承知あれ。王と呼ぶのはやめられた方が良かろう。というのも前王は公式に王国を息子に与えられたのだから」(注30)

――これまでヘンリ2世に苦杯をなめさせられ続けたルイ7世はこれ以上ない必勝の包囲網に得意の絶頂にあった。

1173年6月29日、反乱軍の総攻撃が開始された。フランドル伯軍がノルマンディに侵攻、ヘンリ若王・ルイ7世連合からなる反乱軍主力はヴェルヌイユを攻撃し、イングランド北部、ブルターニュのドルなどで次々とヘンリ2世派の城が落とされ、アキテーヌで反乱の火の手が上がり、ウィリアム獅子王率いるスコットランド軍が南下を開始する。

絶体絶命の危機に諸侯が誰も信用できないと判断したヘンリ2世は自らの戴冠式に使った宝剣をも惜しげなく現金に換えると豊富な資金で二万のブラバント人傭兵を雇い、自らその傭兵部隊を率いて一気にノルマンディを駆け抜けた。

八月十二日、ルーアンを出撃したヘンリ2世軍は詩人ヴァースが『彼は飛んでいると家来たちは思ったものです』(注31)と歌うほどの迅速さで、八月十九日までにロワール地方のサン・ジャムまで一日平均三十キロメートルの距離を移動して人々を驚愕させた。ドランクール、ヴェルヌイユ、ドルと瞬く間にノルマンディ公領の敵をことごとく撃破して一か月と経たずに同公領の支配を取り戻してみせる。

ヴェルヌイユで一蹴されたヘンリ若王がフランドルに退いて反乱軍を再編成している間に、ヘンリ2世は翌74年1月、一気にポワトゥーに軍を動かして王妃アリエノールの腹心ラウル・ド・ファイが籠るファイ=ラ=ヴィヌーズを陥落させた。この反乱の黒幕の一人とヘンリ2世が考えていたアリエノール王妃をはじめ、ヘンリ若王妃マルグリット、リチャードの婚約者アデライード、ジェフリー妃コンスタンスら反乱王子たちの妻をことごとく捕虜とすると、同7月、全員イングランドへと送って軟禁する。以後、王妃アリエノールだけはヘンリ2世が亡くなるまで軟禁状態に置かれ続けることになった。

王妃たちとともにイングランドに渡ったヘンリ2世は7月12日、トマス・ベケットの墓に参り、その夜、腹心ラーヌルフ・グランヴィルからスコットランド王軍を撃破してウィリアム獅子王を捕虜としたとの報告を受ける。ウィリアム獅子王の虜囚によってスコットランドは降伏、あらためて宗主権下に置かれることになった。

ヘンリ2世はイングランドに渡る前、リチャードからマン、ポワティエ、サントなど諸都市を奪還しており、74年9月、イングランドから大陸に戻るとあらためて、ポワトゥーに籠るリチャードを包囲してこれを降伏させた。9月23日、リチャードは武具もつけず父王に面会して許しを請い、同月末までに抵抗していたブルターニュ公ジェフリー、そして反乱首謀者のヘンリ若王も父王に下り、大反乱劇は終結、ヘンリ2世の武威を思う存分見せつける結果に終わった。

一方、フランス王ルイ7世はまさかの敗北に心痛大きく、以後病気がちになって臥せる様になり、76年、王太子フィリップ(のちのフランス王フィリップ2世尊厳王)を共治王として戴冠させた後は国政から退いて1180年、失意のうちに亡くなっている。

乱の戦後処理とコモン・ローの萌芽

王子たちは皆許されてヘンリ若王は実権無き副王に留まり、リチャード、ジェフリーらも同様であった。三王子降伏後も散発的に続いた領主反乱は75年頃までに鎮圧され、行政機構の再編成が行われた。反乱時もヘンリ2世と常にともにあり王軍を率いて鎮圧に最大の軍功があった行政長官リチャード・ド・ルーシーが事実上摂政として政務をつかさどった。1176年、ノーサンプトン法令で巡回裁判が制度化され、翌77年、聖職者二名と俗人三名の計五名からなる常設の国王裁判所がロンドンに設置されるなど、国王裁判権の強化が進められた。

79年、ルーシーが亡くなると法学者でやはり先の反乱でスコットランド軍を撃破したラーヌルフ・グランヴィルが後任として行政長官となった。グランヴィルが1187~89年頃に著したのが『イングランドの法と慣習』というコモン・ローの体系を解説した法律書である。彼の下で慣習法定着化が進み、コモン・ロー形成の第一歩が標される。(注32)

ヘンリ若王の死

1182年、ヘンリ若王はあらためて父王に後継者として権力の拡充を求めてリチャードの支配するポワトゥー伯領でくすぶる反乱諸侯と同盟して要求すると、今度はヘンリ2世もこれを受け入れて、同年のクリスマスにリチャード、ジェフリー、ジョンにヘンリ若王への臣従礼を求めた。ジェフリー、ジョンは素直に受け入れたが、リチャードはこれを拒否して頑強に抵抗を始めた。もともと、リチャードが婚約者アデライードとの結婚を先延ばしにしていた件で兄ヘンリ若王との対立が深まっていた。

1183年初頭、ヘンリ若王とジェフリーが軍を率いてポワトゥーに侵攻、リチャードも応戦して兄弟の戦闘となった。ヘンリ若王・ジェフリー連合軍対リチャードという兄弟の争いにさらに介入したのがフランスの新王フィリップ2世であった。フィリップ2世はヘンリ若王を支援して軍を送り、リチャードが苦境に陥るとこれを仲裁するべくヘンリ2世がリチャード側に立って軍を送った。

しかし、兄弟の対立終わらぬ1183年5月末頃、ヘンリ若王は病に倒れ、同年6月11日、28歳の若さで亡くなってしまった。その死に際して、ヘンリ若王は罪を告白して、全財産を分け与え、父王ヘンリ2世へ許しを乞う使者を送り、ヘンリ2世はサファイアが埋め込まれた金の指輪を渡した。ヘンリ若王は「わが父が与えてくれた許しの証拠を神の御前で証明するためだ」(注33)と言って指輪をはめたまま、亡くなった。その死後、家臣が遺体から指輪をはずそうとしたが抜けなかったという。

後継者リチャード

ヘンリ若王死後、後継者とされたのが第二王子、ポワトゥー伯にしてアキテーヌ公のリチャードである。ヘンリ2世はリチャードを後継者とするにあたって、リチャードにかわって末子ジョンにポワトゥー伯・アキテーヌ公位を与えるつもりであったため、リチャードが反発、アキテーヌで軍を招集して臨戦態勢に入り、ジョンとジェフリーの二人の弟と対立関係に陥った。ヘンリ2世はリチャードを宥めるため王妃アリエノールを一時解放してリチャードとの面会を許し、ひとまずアキテーヌの宗主権をアリエノールに返還した上でリチャードによるアキテーヌの支配を継続することで妥協が成立するが、リチャードの共同王としての戴冠は先延ばしにされた。

1186年8月、ブルターニュ公ジェフリーが馬上槍試合で事故死した。これを主催したフランス王フィリップ2世の関与が噂されたが、むしろ王はジェフリーとは信頼関係で結ばれており、この死をひどく悲しんでいた。ジェフリーはフィリップ2世との個人的な友情を背景としてフランスとアンジュー帝国との和平関係をもたらしうる紐帯となる人物であったから、両国関係にとっても大きな損失であった。

ジェフリーの死を受けてフランス王との関係改善の必要性を感じたヘンリ2世は1187年3月25日、フランス王フィリップ2世と休戦条約の締結で合意し、フランス王国とアンジュー帝国の和平が期待されたが、リチャードはこれを無視して戦闘を継続、教皇ウルバヌス3世の仲裁でようやくリチャードとフィリップ2世間の和平が成立したが、それぞれ一触即発の緊張関係は続いた。

フランス王との和平は成立したものの、リチャードはトゥールーズ伯レイモン6世との間で紛争状態が続いていた。フランス王にもアンジュー帝国にも属さない第三勢力と化していた南フランスのトゥールーズ伯領はリチャードのアキテーヌ公領と接しており、1188年に入ると、お互いの捕虜交換を巡るトラブルから、リチャードがトゥールーズ伯領に本格的に侵攻を開始し、レイモン6世はフランス王フィリップ2世に助勢を求め、フィリップ2世も介入を決断、ベリー地方のリチャードの所領へ派兵し攻撃を開始する。

この事態収拾のため、ヘンリ2世は仲裁に介入、ひとまずトゥールーズ伯とリチャードとの戦闘の原因となった捕虜交換問題を解消させたうえで、フランス王との会談に臨むが、1188年八月に行われたヘンリ2世=フィリップ2世会談で、ヘンリ2世が連れた護衛の中からフィリップ2世に向かって矢が撃ち込まれフィリップ2世が避難するという事件が起こり、和平交渉が難航した。

リチャードの反乱

1188年11月18日、ボンムーランで行われたヘンリ2世とフィリップ2世の会談はヘンリ2世にとって想定外の事態が展開することになった。フィリップ2世と一緒にリチャードが現れたからである。その上でフィリップ2世はヘンリ2世に対してこう宣言する。

『ここに出席しているリチャードはポワトゥー伯領の外に、彼固有のものとして約束されているすべての地方、即ちトゥーレーヌ、アンジュー、メーヌ、ノルマンディ――つまりフランス王フィリップが領主として持っている地方――を所有すべきである。』(注34)

その上でリチャードは跪いてフィリップ2世に臣従礼を捧げて忠誠を誓った上で、クリスマスを父王ヘンリ2世とではなくフィリップ2世と過ごすことを宣言して、フランス王の助力と保護を求め、フィリップ2世とともに立ち去ることでヘンリ2世への反乱を明確なものとした。

思わぬ事態に呆然としたヘンリ2世はすぐに気を取り直してリチャードの反逆に備えて軍を起こす。1189年初頭、ヘンリ2世とリチャード=フィリップ2世連合軍との戦端が開かれたが、ヘンリ2世はかつての強さはどこへいったのか、リチャードの猛攻でル・マンから追われ(注35)、トゥールをフィリップ2世に奪われ、と精彩を欠いて敗北を繰り返した。

ヘンリ2世の死

1189年7月4日、ヘンリ2世はフィリップ2世に降伏を申し出てトゥールとアゼ=ル=リドの中間コロンビエで両者の会談が行われたが、そこに現れたヘンリ2世は見るからに瀕死の病人であった。あまりの衰弱ぶりに見かねたフィリップ2世は自らの上着を脱いで四つ折りにしてそこに座るよう申し出るが、ヘンリ2世はこれを断り、両勢力に加担した諸侯のリストを交換、降伏を受諾して会見は終了した。

シノン城に戻ったヘンリ2世はそのまま床に臥せり、側近ギョーム・ル・マレシャル(ウィリアム・マーシャル)にフィリップ2世から渡された反逆者リストを読み上げるよう命じた。ル・マレシャルが最初に読み上げたのは、ジョン――ヘンリ2世最愛の末子の名であった。

『もうよい、うんざりだ』(注36)

そう言ってヘンリ2世は読み上げを遮り、これが彼の最期の言葉になった。そのまま目を閉じて眠ると二度と起き上がることは無く、1189年7月6日、ヘンリ2世は56年の波乱の生涯を終えた。

ヘンリ2世という常勝の帝王を敗北させたことで、リチャードは自らがアンジュー帝国の後継者たるにふさわしい武威を示したといえるのだろう。父を弑して子は王となった。ここより獅子心王の時代が始まる。

ヘンリ2世の遺産

ヘンリ2世は一時代を築いた卓越した君主であった。その領土の大半は確かに相続や婚姻によってもたらされた幸運なものであったが、彼個人の君主としての資質や能力の高さは疑う余地がなく、内政、外交、軍事とあらゆる面で傑出した成果を残した改革者であった。また、彼の統治下で十二世紀ルネサンスという知的運動が花開き、文芸の擁護者としても名を残している。

『精力に溢れる男で、必要な時には大胆に決然たる態度をとり、かつ時間稼ぎ戦略の妙手でもあった。優れた教育を受けており、口にしたのはフランス語とラテン語だけであったが(英語は話さず)、多くの言語を理解した。しかし、彼の天賦の知的才能にもかかわらず、王としての統治は、本質的に実利的なものであった。』(注37)

君主としては同時代の中で傑出し、帝国を双肩に担った上で統治者として君臨するだけの能力も勤勉さも持っていたが、同時に猜疑心が強く、自らを恃むところ強く、不寛容であった。全てを自らが決しようとするその専制的な態度は、子供たちにとっては信頼されていないと映っていて、そのすれ違いから悲劇が生まれた。彼の美点がアンジュー帝国を帝国たらしめていたが、彼の欠点が同時に帝国の支配を動揺させ、ついには突き崩すことになった。

ヘンリ2世の帝国はこの後、リチャードとジョンという二人の後継者の争いの中で瓦解していくことになる。そしてヘンリ2世の遺産を継ぐに最もふさわしい人物は、アンジュー家ではなくフランス王家に生まれていたのである。

脚注

注1)森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年,44頁)

注2)アンリ・ルゴエレル著(福本秀子訳)『プランタジネット家の人びと (文庫クセジュ)』(白水社,2000年,原著1999年,34頁)

注3)エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年,79頁)

注4)キング前掲書(79頁)

注5)ルゴエレル前掲書(35頁)

注6)このとき、ユースタスはルイ7世の支援を受けて父王との共治王に即位しようとしたが、カンタベリー大司教セオバルドに阻止されている。ヘンリ2世戴冠の際に王冠を被せたのがセオパルドであり、その腹心がトマス・ベケットであった。(君塚直隆著『物語イギリスの歴史(上) – 古代ブリテン島からエリザベス1世まで (中公新書)』(中央公論新社,2015年,64頁,75頁)

注7)ルゴエレル前掲書(35-36頁)

注8)レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『王妃アリエノール・ダキテーヌ』(パピルス,1996年,原著1965年,116-117頁)、ルゴエレル前掲書(37頁)

注9)青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1991年,228-229頁))

注10)ルゴエレル前掲書(40頁)

注11)ルゴエレル前掲書(44-45頁)、原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈(講談社学術文庫)』(講談社,2016年,258頁)

注12)青山・飯島・永井・城戸(303-305頁)

注13)朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年,221-223頁))

注14)山本正著『図説 アイルランドの歴史 (ふくろうの本)』(河出書房新社,2017年,23頁)

注15)青山・飯島・永井・城戸(332-334頁)、森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年,393頁)

注16)ペルヌー1996年前掲書(155-157頁)

注17)朝治・渡辺・加藤(37頁)

注18)朝治・渡辺・加藤(37頁)、ルゴエレル前掲書(48-49頁)、

注19)このあと9歳のアデライード姫はイングランドへ送られ、リチャードとの結婚の約束が履行されないまま、1191年に婚約破棄されるまで21年に及ぶ事実上の人質生活を送ることになる。

注20)朝治・渡辺・加藤(268頁)

注21)青山・飯島・永井・城戸(233頁)

注22)青山・飯島・永井・城戸(230頁)

注23)青山・飯島・永井・城戸(235頁)

注24)キング前掲書118頁

注25)堀越宏一著「第4章 戦争の技術と社会」(堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房,2013年,91-98頁)、J・E・カウフマン・H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年,原著2001年,105-107頁)

注26)青山・飯島・永井・城戸(236-237頁)

注27)ベケットを殺害した四騎士の名前についてはキング前掲書105頁

注28)キング前掲書(106頁)

注29)1173年のヘンリ若王の反乱についてはルゴエレル55-57頁、レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年,36-43頁)、ペルヌー1996年192-200頁を中心にその他参考文献一覧の書籍を随時参照してまとめている。

注30)ペルヌー1996年195-196頁

注31)ペルヌー2005年40頁

注32)ルゴエレル前掲書58頁, 青山吉信他編著前掲書(276頁)

注33)ペルヌー2005年63頁

注34)ペルヌー2005年75頁

注35)このとき、撤退するヘンリ2世軍を追撃しようと、鎧を身につけずに出陣したリチャードの前にギョーム・ル・マレシャル(ウィリアム・マーシャル)が立ちはだかった。ル・マレシャルはリチャードの武術の師でありヨーロッパ随一の騎士と誉れ高い。彼の気迫に思わずリチャードは「待て、殺すな」と叫び、ル・マレシャルはリチャードの馬を刺殺した。後にリチャードが即位するとき帰順したル・マレシャルに、リチャードが「過日汝は余を殺そうとした。もし余が汝の槍を腕でそらさらかったならば、汝は目的と達していたであろう」と問うと、ル・マレシャルは平然としてこう答えたという。「殿を殺そうとは思いませんでした。私は私が望む所へ正確に槍を向ける技を持っています。殿の身体を狙うことは殿の馬を刺すのと同じくらい私にとってはたやすいことです。私は殿の馬を殺しましたが、悪いことをしたとは思っていませんし、何の後悔もしていません。」リチャード1世はこの応答に喜んで「余、汝を許す。恨みは持たぬ」と言ったという。(ペルヌー2005年82頁)ル・マレシャルは後にその武勇で滅亡寸前のイングランドを救うことになる。

注36)ペルヌー1996年227頁

注37)バーバラ・ハーヴェー編著(鶴島博和日本語版監修、吉武憲司監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈4〉 12・13世紀 1066年~1280年頃』(慶應義塾大学出版会,2012年,原著2001年,268頁)

参考文献一覧

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・君塚直隆著『物語イギリスの歴史(上) – 古代ブリテン島からエリザベス1世まで (中公新書)』(中央公論新社,2015年)
・柴田 三千雄, 樺山 紘一, 福井 憲彦 編著『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』山川出版社,1995年)
・佐藤賢一 著「カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)」講談社,2009年
・原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈(講談社学術文庫)』(講談社,2016年)
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』(ミネルヴァ書房,2013年)
・森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)
・山本正著『図説 アイルランドの歴史 (ふくろうの本) 』(河出書房新社,2017年)
・アンリ・ルゴエレル著(福本秀子訳)『プランタジネット家の人びと (文庫クセジュ)』白水社,2000年
・エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)
・J・E・カウフマン・H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年,原著2001年
・バーバラ・ハーヴェー編著(鶴島博和日本語版監修、吉武憲司監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈4〉 12・13世紀 1066年~1280年頃』(慶應義塾大学出版会,2012年,原著2001年)
・レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『王妃アリエノール・ダキテーヌ』(パピルス,1996年,原著1965年)
・レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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