ウェセックス王エグバート(在位802~839年)~イングランド王家の祖

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七王国時代とマーシア王国の台頭

七王国(エグバート王即位前後)

七王国(エグバート王即位前後)
ウィキメディアコモンズより

エグバート王(1745年)

エグバート王(1745年)

六世紀ごろからブリテン島に侵攻したアングロ=サクソン諸族はブリトン人との激しい戦いを経て支配的となり、六世紀から八世紀にかけて次々と王国を建国して互いに勢力争いをはじめた。この時代は有力な七つの王国――ケント(” Kent ”)、エセックス(” Essex ”)、サセックス(” Sussex ”)、ウェセックス(” Wessex ”)、イースト・アングリア(” East Anglia ”)、マーシア(” Mercia ”)、ノーサンブリア(” Northumblia ”)――が次々栄え、覇を競ったことから七王国(”Heptarchy ”、ヘプターキー)時代と呼ばれる。ただし七つの王国だけでなく中小様々な王国も存立していた。

アングロ・サクソン七王国(ヘプターキー)の興亡
七王国時代の開幕 ブリトン人に代わってブリタニアの支配的勢力となったアングロ=サクソン諸族は六世紀から八世紀にかけて次々と王国を建国して互いに勢力争いをはじめた。この時代は有力な七つの王国――ケント(” Kent “)、エセックス(” E...

この時期、競合の中で諸王国に対し宗主権を握った王はブレトワルダ(”Bretwalda ”、覇者、覇王あるいは上王などと訳される)と呼ばれるが、最初のサセックス王アェラに始まり、ウェセックス王ケアウリン、ケント王エゼルベルト、イースト・アングリア王レドワルド、ノーサンブリア王エドウィン、同じくノーサンブリア王オスワルド、ノーサンブリア王オスウィの七人が次々と交替していった。

このような諸王国の興亡の中で七世紀半ば、力を持ったのが諸王国に属さない中北部から中西部にかけての中小勢力の統合によって台頭したマーシア王国である。マーシア王国は757年に即位したオファ(Offa)王の下で隆盛を誇った。オファ王はエセックス王国、サセックス王国を滅ぼし、イースト・アングリア王エゼルベルトを斬首して同王家も一時途絶え、ケント王国、ウェセックス王国を宗主権下に置いた。

またウェールズとの境界に現在も残る「オファの防塁」を築いたことでも知られる。オファ王は全アングル人の王を称し、諸王に君臨したが、アングロ=サクソン年代記は彼をブレトワルダに数えていない。

「オファの防塁」
ウィキメディアコモンズより
Tim Heaton / Jack Mytton Way and Offa’s Dyke on Llanfair Hill

エグバートの青年期

後のイングランド王家の祖となるウェセックス王エグバート(” Ecgberht ”)だが、彼の生涯の前半期についてわかっていることは少ない。エグバートはケント王エアルフムンドの子である。ケント王エアルフムンドはウェセックス王イネの兄弟インギルドの曾孫にあたり、おそらく婚姻関係を経てケント王となっていたと考えられている。ただエアルフムンド王についてはケント王であったという点しかわからず以後の消息は知れない。

786年、ウェセックス王家が内紛でキネウルフ王が亡くなると、エグバートとウェセックス王族のベオルフトリクが王位を争い、オファ王の支援を受けたベオルフトリクがウェセックス王に即位した。789年、ベオルフトリク王はオファの娘エアドブルフを妻に迎えてウェセックス王国がオファ王の宗主権下に入り、オファの子でオファ王死後一時王位を継ぐエジュヴェルスがケント副王として入るなどケント王国も宗主権下に置かれたことで、エグバートはフランク王国のカール1世の許へ亡命を余儀なくされた。

ウェセックス王エグバート

エグバートがフランク王国の宮廷に滞在したのは789年から792年までの三年ほどであったと言われる。以後10年消息はわからないが雌伏の時代があり、796年、オファ王が亡くなり、続いて802年、ウェセックス王ベオルフトリクも亡くなると、同年、エグバートはカール大帝の支持を背景にブリテン島に戻りウェセックス王として即位した。

エグバートの即位と同じ日、ウスターシャーとグロスターシャーを含むマーシアの勢力下にある一帯のフウィッカス族の太守エゼルムンドがウェセックス王国下ウィルトシャーに侵攻、ウィルトシャーの太守ウェオフスタンと戦闘になり、両軍司令官エゼルムンド、ウェオフスタンともに戦死するという激戦の末これを撃退した。

以後815年にコーンウォールを平定した以外、エグバート王の事績は825年までわからないが、おそらくオファ王亡きあとも未だ圧倒的な勢力を保持するマーシア王国への反撃の体制を整えていたのだろう。

第八の覇王

825年、エグバート王は自ら軍を率いてウィルトシャーに進軍、エランドンの地でマーシア王ベオルンウルフ王率いるマーシア軍と激戦となりこれを撃破した。マーシア軍は多くの犠牲者を出して大敗している(エランドンの戦い)。戦勝後すぐにエグバートは長男エゼルウルフに司教エアルフスタンと太守ウルフヘアルドをつけてマーシア王国の支配下にあるケント王国へ派遣、マーシア王国支配下のベアルドレッド王を破り故国ケントを解放した。この勝利でケントとともにマーシアの支配下にあったエセックス、サリー、サセックスもエグバート王の傘下に入る。さらに同年、マーシア王ベオルンウルフはイースト・アングリア王国の反乱によって殺害され、827年にはベオルンウルフの後を継いでいたマーシア王ルデカンが殺害されるなどマーシア王国は弱体化していった。

829年、エグバートはマーシア王ウィラフを破ってついにマーシア王国全域を征服した。アングロ=サクソン年代記はこのときをもってエグバートを第八のブレトワルダとする。さらにエグバートは軍を率いて七王国最北のノーサンブリア王国ダービーシャーのドルへ進軍してノーサンブリアを服従させ、ハンバー川以南を支配下におさめている。

830年、エグバート王は西部を脅かすウェールズ征討に向かうが、その間隙をついて前マーシア王ウィラフが復位を果たした。以後、復活マーシア王国は918年まで存続するがウェセックス王国を凌駕することはできないまま、アルフレッド大王の時代にウェセックス王の宗主権を受け入れていく。

デーン人(ヴァイキング)の侵攻

八世紀末、アングロ=サクソン年代記787年の条(この時期同年代記は年代に混乱があり、正しくは789年)、ブリテン島に最初のデーン人の侵攻があって以来、830年代から本格的なデーン人の信仰が始まり、エグバート王の晩年はデーン人の撃退に忙殺されることになった。

835年、デーン人がケントのシェピー島を侵略、836年、エグバート王はドーセットシャーのチャーマウスに来襲したデーン人の三十五隻の船団を撃破したが、デーン人はその地を後に占領した。838年、デーン人の大船団がコーンウォールに襲来、エグバート王に対戦を求めたため、エグバート王はこれを迎え撃ち、ヒングストンの戦いで彼らを敗走させた。

エグバート王時代、辛うじてデーン人の襲来を押し止めていたが、まだまだこれは始まりにすぎずエグバート王死後850年代からデーン人の本格的な侵攻が始まる。

エグバート王の死

839年、エグバート王は亡くなった。在位37年7カ月であったという。ウェセックス王位は彼の長男アゼルウルフが継ぎ、以降、彼の直系が代々アングロ=サクソン王朝として続く。アゼルウルフ王の末子アルフレッド大王からその孫アゼルスタン王にかけての時代に統一王権イングランド王国が誕生する。ところで、エグバートの王妃をレドブルガという女性だとする説もあるが、レドブルガという名は同時代の史料には現れずその名前も後世の創作だと考えられており、王妃については不明である。

エグバート王によってウェセックス王国の優位が確定し、ウェセックス王権によるイングランド統一の道が切り開かれた。彼が覆したマーシア王権は全アングル人の王というアングロ=サクソン諸族を一つに束ねうる観念を芽生えさせていた点でエグバート王がアングロ=サクソン諸王国の上に君臨する体制を準備していた。マーシア王オファの王権からウェセックス王エグバートの覇権が生まれたと言えるのかもしれない。

エグバートとアストルフォ

エグバート王の、フランク王カール1世の許へ亡命したブリタニアの王子というエピソードで思い出されるのは、中世盛期ヨーロッパで知られる武勲詩の人気ジャンル、シャルルマーニュ物語群の登場人物であるシャルルマーニュ十二勇士の一人イングランド王子アストルフォであろう。

アストルフォはイングランド王オットーという架空の人物を父としてシャルルマーニュに従うイングランドの王子とされるが、そのイングランド王オットーについてはマーシア王オファが推定されている。オファやエグバートらの存在にも少なからず影響を受けてアストルフォというキャラクターが造形されたのであろう。

ちなみにアストルフォという名前はカール大帝(シャルルマーニュ)の父ピピン3世に敗れて領地を奪われ教皇領として献上された「ピピンの寄進」で有名なランゴバルド王アイストゥルフのイタリア語読みがそのままアストルフォである。同時代の人物が色々混ざっていて面白い。

参考文献

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・桜井俊彰著『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 (歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館,2010年)
・大沢一雄著『アングロ・サクソン年代記』(朝日出版社,2012年)
・アッサー著(小田卓爾訳)『アルフレッド大王伝(中公文庫)』(中央公論新社,1995年)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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