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ヘンリ4世の簒奪~ランカスター朝の幕開けと内乱

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プランタジネット朝からランカスター朝へ

百年戦争で勇名を馳せたイングランド王エドワード3世だが、1370年代になると征服地のことごとくを名将ベルトラン・デュ・ゲクラン率いるフランス王軍によって奪還され、愛妾アリス・ペラーズに溺れて政治に興味を失い、その治世の末期には国政の混乱を招いた。1376年、王に先んじて王太子エドワード(黒太子)が亡くなり、1377年エドワード3世が亡くなると後継者となったのは10歳の孫リチャードであった。

リチャード2世の治世初期は集団指導体制が敷かれたが、1381年、前王時代からの百年戦争の戦費負担による重税と悪政への不満が新たな人頭税の施行によって爆発する。ワット・タイラーの乱である。これを弱冠14歳にして高いリーダーシップを発揮して鎮圧したリチャード2世は翌82年より親政に乗り出し、エドワード3世時代に弱体化した王権の回復を目指したが、前王時代のツケは大きく、諸侯との激しい対立の中でアイルランド遠征の失敗を契機として1399年、ランカスター公子ヘンリ・ボリングブロクのクーデターによって廃位され、1154年以来245年続いたプランタジネット朝は終わりを告げる。

ヘンリ4世の青年期

のちのヘンリ4世、ヘンリ・ボリングブロクは1367年4月3日、エドワード3世の第四男ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの子として生まれた。1380年、13歳でヘレフォード伯ハンフリーの娘メアリと結婚、フランスとの百年戦争が休戦となったあとの1390年から92年にかけて大陸に渡りドイツ騎士団に加わってイエルサレム遠征など対イスラーム戦争で勇名を馳せ、帰国後の1397年、諸侯反乱に際し国王リチャード2世に協力したとしてヘレフォード公に叙されている。

子供たちはメアリとの間に長男ヘンリ(後のイングランド王ヘンリ5世)、次男トマス(クラレンス公トマス)、三男ジョン(ベッドフォード公ジョン)、四男ハンフリー(グロスター公ハンフリー)、長女ブランシュ(プファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世妃)、次女フィリッパ(デンマーク・ノルウェー・スウェーデン同君連合国王エーリク7世妃)と、早世した長子エドワードの五男二女がいる。1394年に最初の妻メアリを亡くすとナバラ王カルロス2世の娘ジョーン・オブ・ナヴァールと1403年再婚したが、子供は無かった。

ヘンリ4世肖像画

ヘンリ4世肖像画

ヘンリ5世

ヘンリ5世肖像画

王位簒奪

1398年、ヘンリは同僚ノーフォーク公トマス・モーブレーと前年末に話をしたとき、モーブレーが反逆的発言をしていた旨を父公ジョン・オブ・ゴーントに相談し、これがリチャード2世の耳に入って、モーブレーがヘンリに決闘を申し込む事態に陥った。一旦は両者の決闘を認めたリチャード2世だったが、直前になって中止を命じるとともに、モーブレーに対しては終身追放刑、ヘンリに対しては十年の追放刑を処するに至る。

翌1399年、ジョン・オブ・ゴーントが亡くなっても、リチャード2世はヘンリの継承を認めず、ランカスター公領の没収に出る。同6月、リチャード2世のアイルランド遠征の間隙をついて、わずか15人の手勢とともにイングランドへ帰国したヘンリは、ノーサンバーランド伯ヘンリ・パーシーらの協力を得て、反リチャード2世勢力を結集、留守を預かるヨーク公エドムンド・オブ・ラングリーは諸侯が次々ヘンリ・ボリングブルクに寝返るのをみて、一時兵を引いて国王リチャード2世と合流を目指す――後のヨーク家とランカスター家の対立の種が撒かれた。

ランカスター派は遠征から急遽反転してきたリチャード2世を迎え撃ち、これを捕らえた。ヘンリの宮廷復帰かリチャード2世の廃位かでかなりの駆け引きが行われたが、結局、9月28日、議会によってリチャード2世は廃位され、9月30日、ヘンリ・ボリングブロクが新イングランド王ヘンリ4世として即位した(在位1399~1413)。リチャード2世はロンドン塔からリーズ城、そして各地の城を転々としたあと、ポンティフラクト城で死に至らしめられた。

ノーサンバーランド伯の反乱

こうして即位したヘンリ4世だったが、政治的手腕でいえば彼が弑したリチャード2世の方が遥かにマシだったといえよう。王朝交代を契機として1400年にウェールズの豪族オワイン・グリンドゥール(Owain Glyndŵr)に率いられてこれまでの搾取と悪政への怒りが爆発したウェールズ反乱(1400~12)を皮切りに、失政を重ねて民心が離れ、最大の諸侯ノーサンバーランド伯(パーシー家)の反乱(1403~06)をはじめとした諸侯の離反を招く。ウェールズ反乱に対しては王太子ヘンリ(後のヘンリ5世)があたり、ヘンリ4世は同時に起きたノーサンバーランド伯(パーシー家)の反乱への対応に追われた。

ノーサンバーランド伯ヘンリ・パーシーと弟ウスター伯トマスは元々ヘンリ4世による王位簒奪の最大の功臣だったが、ヘンリ4世がグリンドゥールの捕虜となった甥サー・エドムンド・モーティマー解放交渉を渋ったこと、ヘンリ4世即位と同時におきたスコットランド軍の侵攻に際して援軍要請をしたがヘンリ4世はウェールズ反乱に兵を投入して援軍を送るのが遅れ単身で迎え撃たざるを得なくなったこと、簒奪に協力したにもかかわらずかねてからのヘンリ4世による冷遇など様々な理由が重なって、1403年、ヘンリ4世打倒の兵を挙げる。

指導するのがヘンリ・パーシーの子シェイクスピア作品でもお馴染みヘンリ・ホットスパーである。ホットスパーは前王リチャード2世が生存しており自軍が擁立しているなどと喧伝してパーシー家や反ランカスター朝勢力の糾合を目指した。ヘンリ4世は彼らの集結前に鎮圧することを目指してウェールズから王太子ヘンリ軍を呼び寄せると自ら軍を率い、1403年7月21日、シュールズベリーの戦いで王太子ヘンリらの活躍により反乱軍を撃破し、ホットスパーは戦死、ウスター伯トマスらを処刑した。ノーサンバーランド伯ヘンリは反乱軍に遅れたことで助命された。

しかし、息子と弟を殺されたノーサンバーランド伯は再び反乱を起こすとアニック城、ウォークワース城を占拠してイングランド北部に影響力を及ぼし、これに呼応して甥のサー・エドマンド・モーティマーがグリンドゥールから解放された上でウェールズと同盟を結んで反旗を翻した。1405年2月、ノーサンバーランド伯ヘンリ・パーシー、サー・エドムンド・モーティマーと同名の甥マーチ伯エドムンド・モーティマー、ウェールズ大公オワイン・グリンドゥール三者で、グリンドゥールはウェールズとイングランド西部、ノーサンバーランド伯はイングランド北部、マーチ伯はイングランド南部を分割支配する「三者協約」が結ばれ、いよいよ内戦の様相を呈してくる。

1405年6月8日、王子ジョン(ヘンリ4世の第三王子、後のベッドフォード公ジョン)とウェスモランド伯がヘンリ4世からマーチ伯への譲位を約束する偽りの条約交渉を開催し、ノーサンバーランド伯派で大規模な民衆反乱を指揮していたヨーク司教リチャード・スクロープらを騙し討ちにして民衆反乱を鎮圧すると、ノーサンバーランド伯らはスコットランドへ逃走して一気に反乱軍が瓦解、同じころウェールズの王太子ヘンリ軍も勝利を重ねてウェールズ地方での優位を確立していった。

ロラード派の弾圧

ロラード派はジョン・ウィクリフの教えを奉じる一派だが、次第に反体制的な行いを指す『社会的に受け容れられないと裁断された者たちへのレッテル』(ロイル,2014年,114頁)として使われるようになっていた。体制に不満を持つ民衆や反乱諸侯を支持する騎士・領主層も「ロラード派」とされたのである。

1401年、『一定の宗派に属する諸々の誤った倒錯者たち』(ロイル,2014年,114頁)すなわちロラード派の弾圧のため悪名高い「異端火刑法」が制定され、宗教裁判によって有罪とされた異端者は州長官に引き渡されて火刑に処されることになった。十三世紀南フランスでの異端審問制度誕生以来、異端に対する火刑は一般的な処刑方法であったが、ヘンリ4世によってイングランドに導入された。以後、異端に対する宗教弾圧の体裁だがその実反体制派の庶民の粛清手段として活用されることになり、多くのロラード派とされた人々が弾圧された。

そして、このとき制定された異端火刑法に基づいて、後にジャンヌ・ダルクが火刑となるのである。

ヘンリ4世の最期

ウェールズ反乱はいまだ激戦が繰り広げられつつ1412年頃まで続くが、諸侯反乱を鎮圧した直後の1405年頃から病におかされて、政務がほとんど取れない状態になる。病名はあきらかではないが「らい病」であったと言われ、腫瘍が顔や手足に出て手足の指が崩れ落ちるようになり、1411年頃に一旦持ち直すものの、騎乗はおろか歩行もままならなくなった。ヘンリ4世に代わって王太子ヘンリ(後のヘンリ5世)が1406年から事実上の王として政務をとり、ヘンリ4世の記録はほぼ無くなっていく。

1413年、おそらく死期を悟ったゆえかヘンリ4世はウェストミンスター寺院を訪れたが、その際聖堂内で倒れ、数日後の3月20日、ウェストミンスター寺院で亡くなった。

ヘンリ4世の事績

王となったのも何か壮大な計画や高い志があったわけではなく、簒奪の意図すらあいまいで、単に追い詰められての行動でしかなく、その過程でいくつかの偶然と幸運が重なったにすぎなかった。若いころは騎士道の華と謳われ軍事的才能と勇敢さが称えられていたが、その一方で政治力に欠けていたことは否めず、即位後は失政を重ねて反乱を呼び、その鎮圧に忙殺されて体調を崩した。

また功績らしい功績もなく、おそらく少しでも正統性を主張したかったのだろうフランス王家を真似て戴冠式に塗油の儀式を導入したこと、またエドワード3世のガーター騎士団に続いて新たにバース騎士団を創設した事などに留まる一方、ロラード派の弾圧など政権確立のために手段を択ばず苛烈な手法で圧制を敷いた。

確かに苛烈な手法を取らざるを得なくなるほど社会が疲弊した遠因はエドワード3世期に始まる対外戦争とその戦後処理の失敗のツケなのだが、功罪相半ばするとはいえリチャード2世の統治が続いていた方がまだソフトランディングさせうる可能性があったように思われる。ランカスター政権の安定実現には彼の子ヘンリ5世の卓越した軍才に頼るところが大きく、いわば力業で成し遂げられたのである。

王位についたことが果たして彼にとって本当に幸福であったのか、と思わされる人生だが、シェイクスピアも彼のこのような生涯に興味を持ったか、代表作の一つ『ヘンリ―四世』では簒奪によって王位についたが故の彼の苦悩を存分に描いた。

ともかく彼によって動乱の新王朝ランカスター朝が始まり、彼の子、ヘンリ5世という稀代の軍略家が世に送り出されることになった。

ヘンリ5世~イングランド王歴代最高の名将の栄光と早すぎた死
幼少期のヘンリ5世 ヘンリ5世はウェールズ南東モンマス(Monmouth)で父ヘンリ・ボリングブロク(ヘンリ4世)、母ヘレフォード伯ハンフリーの娘メアリー・ドゥ・ブーンの間に生まれた。誕生地からヘンリ・オブ・モンマスと呼ばれる。生年月日に...

参考文献

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)
・トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『薔薇戦争新史』(彩流社,2014年,原著2009年)

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