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ヘンリ5世~イングランド王歴代最高の名将の栄光と早すぎた死

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幼少期のヘンリ5世

ヘンリ5世はウェールズ南東モンマス(Monmouth)で父ヘンリ・ボリングブロク(ヘンリ4世)、母ヘレフォード伯ハンフリーの娘メアリー・ドゥ・ブーンの間に生まれた。誕生地からヘンリ・オブ・モンマスと呼ばれる。生年月日についてははっきり分かっておらず、1386年または1387年の8月9日か9月16日と言われている(トレヴァー・ロイル,121頁)。幼いころは体が弱かったという。10歳でヘンリ4世の異母弟ヘンリ・ボーフォート(1376生-1447没)に預けられてオックスフォード大学で学んだ。後にシェイクスピアは彼を無頼に描いたが実は歴代イングランド王屈指のインテリである。

生まれて間もなく早世した兄エドワードを除くと、トマス(クラレンス公トマス)、ジョン(ベッドフォード公ジョン)、ハンフリー(グロスター公ハンフリー)の三人の弟と、ブランシュ(プファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世妃)、フィリッパ(デンマーク・ノルウェー・スウェーデン同君連合国王エーリク7世妃)の二人の妹がいる。

1399年、イングランド王リチャード2世が廃位され、彼の父がヘンリ4世として即位し、ヘンリは王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)に立てられた。

ヘンリ5世

ヘンリ5世肖像画

ヘンリ4世肖像画

ヘンリ4世肖像画

反乱鎮圧に活躍

ウェールズはエドワード1世の征服後、エドワード3世の時代に百年戦争の戦費徴収、労役・軍役負担などイングランド人領主による搾取が一層厳しくなっていた。このエドワード3世治世下の搾取と支配者への反感を背景としてリチャード2世の時代になると治安が悪化して度々騒擾事件が起きるようになり、この不満がランカスター朝成立時の混乱で爆発した。

1400年9月、北東ウェールズの小領主オワイン・グリンドゥール(Owain Glyndŵr)がわずかな手勢を率いて蜂起すると、たちまち反乱の火の手はウェールズ全土に広がり、グリンドゥールはプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)を称してカリスマ的な指導力を発揮し、コンウェイ城、カーディフ城などウェールズ内のイングランドの堅城を次々と落城させて1403年までにウェールズ地方をほぼ支配下におさめた。1412年頃まで続く史上最大のウェールズ反乱である。この指導者オワイン・グリンドゥール(Owain Glyndŵr)はウェールズの伝説的英雄として後世まで語られることになる。

もう一人のプリンス・オブ・ウェールズ、王太子ヘンリは1401年、自ら軍を率いてウェールズに侵攻、以後1408年まで陣頭指揮を執りながらウェールズ軍と対峙して苦戦の末に、1405年頃を契機として優位を確立していく。この時期に実戦で用兵を学んでいったことが、彼を超一流の用兵家へと育てることになった。

一方、同時期におきたノーサンバーランド伯の反乱に対しても父王ヘンリ4世の助勢に度々赴いて軍功を挙げた。ノーサンバーランド軍を撃破して敵将ホットスパーを戦死させたシュールズベリーの戦いは、後世ウィリアム・シェイクスピアによって劇的に描かれた。

ノーサンバーランド伯の反乱については以下のヘンリ4世の記事で詳述した。

ヘンリ4世の簒奪~ランカスター朝の幕開けと内乱
プランタジネット朝からランカスター朝へ 百年戦争で勇名を馳せたイングランド王エドワード3世だが、1370年代になると征服地のことごとくを名将ベルトラン・デュ・ゲクラン率いるフランス王軍によって奪還され、愛妾アリス・ペラーズに溺れて政治に興...

1405年末、ヘンリ4世が病に倒れると王太子ヘンリが1406年から自身を長として聖俗諸侯からなる評議会を主催、事実上国政を主導する。1408年にノーサンバーランド伯が戦死したことでノーサンバーランド伯領を接収して北部反乱を完全に鎮定し、1412年まで散発的な蜂起が続くものの1409年までにウェールズの反乱軍をほぼ無力化して体制を安定化させた。

即位

1413年3月20日、長い闘病の末ヘンリ4世が亡くなり即日イングランド王として即位した。即位に先立って、フランスのブルゴーニュ公の年代記作家モンストルレによる記録に、以下のようなエピソードが紹介されている。

『国王が病床にあるときには、王冠を寝台の脇のクッションに置き、臨終の際に王位継承者がそれを取るというのがイングランドの習わしであった。側近たちから国王が亡くなったと知らされた王太子は、王冠を持ち去った。しかし、その直後に国王がうめき声を上げたため、彼の顔を覆っていた布は取り外された。王冠の置かれていた場所に目をやった彼は、無くなった王冠の行方を尋ねた。侍従たちは「陛下、王太子が持って行かれました」と答えた。「父上」と王子は言った。「ここにいる侍従たちは、父上が亡くなられたと私に告げました。陛下の崩御の後には、その王冠と王国は長子たる私のものとなります。それゆえ私は王冠を持ち去ったのです。」国王は深くため息をつくと言った。「我が息子よ、この王冠に対してそなたがどのような権利を持っているというのか。そなたもよく知っているように、朕はいかなる権利も持っていなかった。」すると王太子は答えた。「陛下は剣によって王権を保たれました。私も自らの剣に賭けて王の座を守り抜くつもりです。」』(ロイル,112-113頁)

何分フランスでの記録のため伝聞に過ぎず、このようなやり取りがあったこと自体疑問視されているが、同時にランカスター朝の不安定さや正統性への疑問、国王と王太子の緊張関係など当時の雰囲気をよく伝える内容であるとも評される。そして、最後の言葉通り、ヘンリ5世はその剣によってイングランドに勝利と栄光をもたらしていくことになる。

オールドカースルの乱とロラード派

即位直後の1414年1月、異端ロラード派の騎士たちを中心にしたヘンリ5世暗殺計画が発覚し、即座にその一味が捕らえられたが、その中にウェールズ反乱でも活躍し、ヘンリ5世の信任厚かった騎士サー・ジョン・オールドカースルがいた。

ロラード派は神学者ジョン・ウィクリフの教えを奉じる一派で、フス派と並んで中世西欧の代表的な異端集団である。十四世紀末、イングランドの民衆の間で広がる過程で、下級貴族も取り込んで当時の王政への批判勢力として勢力を拡大した。いわば反体制運動の受け皿として成長しており、次第に反体制的な行いを指す『社会的に受け容れられないと裁断された者たちへのレッテル』(ロイル,2014年,114頁)として使われるようになっていた。前王ヘンリ4世は1401年、異端火刑法を制定してロラード派の本格的な弾圧に乗り出し、あわせて民衆内の反体制勢力を粛清する手段として活用された。

捕らえられたオールドカースルは審問でもロラード派への信仰を隠さず教皇や教会への批判を繰り返したことから、異端であることは明白となった。ヘンリ5世が彼の処断を悩む中、10月19日、彼は捕らえられていたロンドン塔から姿を消し、行方が知れなくなった。彼は逃亡生活を経て三年後の1417年に捕らえられ、改めて裁判にかけられて火刑に処されることになる。

オールドカースルは後に実名でシェイクスピア作品『ヘンリー4世第一部、第二部』に登場して滑稽な役回りが与えられるが後にフォールスタッフへと名が変えられた。フォールスタッフもヘンリ5世の配下の武将ジョン・ファストルフをもじった名前である。オールドカースルは刑死したとはいえ子孫が存命で、これに対してファストルフは後継者がいなかったことなどで都合にあわせて変えられたと言われる。ちなみにジョン・ファストルフはフォールスタッフとは似つかぬ当時のイングランド軍を代表する有能な人物であった。

サウサンプトンの陰謀

1415年夏、内乱下にあるフランスへの侵攻準備を整えているヘンリ5世の元にマーチ伯エドムンド・モーティマーが訪れ、国王暗殺計画の存在が伝えられた。首謀者はケンブリッジ伯リチャード・オブ・ラングリー、サー・トマス・グレイ、ヘンリ・スクロープらである。

陰謀計画を明らかにしてきたマーチ伯エドムンドは国王エドワード3世の次男クラレンス公ライオネルの娘を祖母とし、彼の父と叔父は先のノーサンバーランド伯の反乱にも加担して王権に反旗を翻していた。エドムンドは父や叔父から離反してランカスター王家に従ったことで乱後マーチ伯位を継承していた。

ケンブリッジ伯はヨーク公エドムンドの次男で国王の従兄にあたり、マーチ伯の姉アンと結婚してマーチ伯の義兄となっている。彼はノーサンバーランド伯の縁戚にあたるサー・トマス・グレイ、先のノーサンバーランド伯反乱に加担していたヨーク大司教リチャード・スクロープの子で元財務府長官ヘンリ・スクロープらと謀り、ヘンリ5世を暗殺の上でマーチ伯エドムンドを国王に擁立する反乱計画を立てていたのである。ちょうどフランスへの侵攻のため軍の召集・集結は怪しまれることがない。この陰謀に巻き込まれることをよしとしないマーチ伯エドムンドがヘンリ5世に報告することで、反乱計画は露見した。

報告を受けたヘンリ5世は即座に行動を起こしてサウサンプトンに軍を集結させようとしていた首謀者三人を捕らえると、サー・トマス・グレイとケンブリッジ伯リチャードは斬首、ヘンリ・スクロープは四つ裂きの上で晒し首にされた。

かくして、国内の平定にようやく成功し、いよいよフランスへと軍を進めることになる。

フランス侵攻~百年戦争の再開

1377年にエドワード3世が、1380年にシャルル5世が亡くなり、それぞれリチャード2世とシャルル6世が若くして後継すると、両国間で休戦の機運が高まり、1385年、フランス軍がリースに上陸してリチャード2世に撃退されたのを最後に翌86年に休戦協定が結ばれ、1389年に締結されたレウリンゲン休戦協定を以後更新し続けることで恒久的な平和が訪れたかに見えた。

1392年、フランス王シャルル6世が狂気の発作に陥り統治能力を喪失すると、王弟オルレアン公ルイと前王の弟ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公との間で主導権争いが激化。1407年、フィリップ豪胆公の後を継いだジャン無畏公によってオルレアン公ルイが暗殺され、オルレアン公遺臣と有力諸侯アルマニャック伯らからなるアルマニャック派とブルゴーニュ派との間で内戦状態となる。

百年戦争「アルマニャック派」とは何か、成立から消滅まで
アルマニャック派(” Armagnacs”)は1410年、台頭するブルゴーニュ公ジャンへの対抗としてオルレアン公シャルル、アルマニャック伯ベルナール7世、ベリー公ジャンら有力諸侯が結成した反ブルゴーニュ派同盟。イングランド軍の侵攻後は、王太...

1411年頃からアルマニャック派、ブルゴーニュ派ともに自勢力を優位とするため、イングランド王との同盟を求めて交渉を開始し、ヘンリ5世は両者の対立を存分に利用できる立場となった。ヘンリ5世がいつからフランス侵攻を考えていたのかはわからないが、1414年夏の対フランス政府(アルマニャック派)との交渉でシャルル6世と同等のフランスの統治権の譲渡や多数の領土の割譲など過大な条件を出し、翌1415年3月にフランス政府がこれを拒絶すると、フランス側の不誠実な態度を批判して、フランス侵攻を全土に布告した。

上記のサウサンプトン事件の鎮圧などを経て兵を整えたヘンリ5世は、1415年8月14日、ノルマンディのシェフ・ド・コーに上陸する。

アジャンクールの戦い

イングランド軍は約一万でセーヌ川河口の要衝アルフルールの攻囲に取り掛かるが、想定以上の抵抗にあって陥落させるまで一か月を要して総兵力の五分の一を失う大損害を被ったため、陣容を立て直すべく一時撤退を開始するが、これにフランス軍が追撃軍を編成して、10月25日、フランス軍とイングランド軍はカレーの南50キロ、アジャンクール村とタームクール村の間の斜面で対陣した。イングランド軍約8000に対し、フランス軍は約三倍、24000~30000超であったという。

イングランド軍は指揮命令系統をヘンリ5世に一元化した上で地形と防御柵、長弓兵を的確に活用して、フランス軍の重装騎兵軍団を撃破した。死傷者には諸説あるが、最大値で死者数はフランス軍11000名に対しイングランド軍25~100名、フランス軍の捕虜5800名を数え(グラヴェット,2002年,133頁)、フランス政府=アルマニャック派の首脳陣がことごとく戦死または捕虜となっている。

同戦闘の詳細については以下の記事でまとめた。

「アジャンクールの戦い(1415年10月25日)」イングランド軍、三倍のフランス軍に圧勝
アジャンクールの戦い(フランス語: Bataille d'Azincourt、英語: Battle of Agincourt、またはアザンクールの戦い、英語読みでアジンコートの戦いともいう)は1415年10月25日、百年戦争中の主要な戦いの...
アジャンクールの戦い

アジャンクールの戦い
(マーティン・J・ドアティ著『図説 中世ヨーロッパ武器・防具・戦術百科』(原書房,2010年,258頁)

北フランス征服

1429年頃のイングランド領

1429年頃のイングランド領
エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)331頁より

 

アジャンクールの大勝利後、一時イングランドに戻ったヘンリ5世は軍を再編成した上で、満を持して1417年8月1日より再侵攻を開始する。

この間、1416年にはフランスとイングランドの戦闘再開の調停に神聖ローマ皇帝ジギスムントがイングランドを訪れているが、ヘンリ5世は皇帝の仲介を丁重に退け、同時期に王弟ベッドフォード公ジョンがアルフルール奪還のために集結したフランス艦隊を撃滅している。また1417年の再侵攻の際にもフランス艦隊を壊滅させ、英仏海峡は完全にイングランドが制した。

1417年からのヘンリ5世の親征は破竹の勢いという形容がぴったりな快進撃で、9月のカーン攻略を皮切りに以後アランソン、ルーヴィエ、シェルブール、エヴルーを陥落させ、1419年1月にノルマンディー公領の首府ルーアン、そして7月31日にポントワーズ陥落と、瞬く間に北フランスを制圧していった。

混乱のフランス

一方、首脳陣を失ったアルマニャック派フランス政府は政権維持能力を喪失、アジャンクールの敗戦直後、1417年までに第一王子、第二王子が次々と病死して後にのこったのは弱冠14歳の第三王子シャルル(後のシャルル7世)だけだった。1418年7月、ブルゴーニュ公ジャン無怖公によってパリが陥落すると、アルマニャック派の残存勢力は王太子シャルルを守って南方ブールジュに落ち延び、亡命政権を樹立する。

ブルゴーニュ公ジャン無怖公は当初ヘンリ5世と同盟を結ぼうと考えていたが、予想以上のヘンリ5世の強力さに恐れをなし、対立していたアルマニャック派との和解を目指して交渉を開始する。1419年9月10日、モントローでブルゴーニュ公ジャン無怖公と王太子シャルルの会談が実現し、両者が手を組むかにみえたそのとき、かつてジャン無怖公によって殺害されたオルレアン公ルイの遺臣たちが彼を襲撃し殺害に至る。

ブルゴーニュ派とアルマニャック派の和解は雲散霧消し、ブルゴーニュ公ジャン無怖公の遺児フィリップ3世(善良公)はイングランドとの同盟に向かうことになる。

トロワ条約~フランス王位継承権の獲得

1420年5月21日、イングランド王ヘンリ5世、ブルゴーニュ公フィリップ3世、フランス王家代表として病床のシャルル6世を代行する王妃イザボー・ド・バヴィエールの三者でトロワ条約が締結される。

イングランド王とブルゴーニュ公の休戦およびイングランド=ブルゴーニュ同盟の締結。フランス王シャルル6世の王女カトリーヌとヘンリ5世の結婚、ヘンリ5世が、シャルル6世存命中はフランス摂政に就き、シャルル6世の死後はヘンリ5世とその相続者がフランス王位を継承することなどが定められた。

百年戦争「トロワ条約(1420年5月21日)」の内容と問題点、影響について
前史 フランス王シャルル6世が狂気に陥り統治能力を喪失した後に主導権を握ったブルゴーニュ公ジャン無怖公と反ブルゴーニュ派諸侯からなるアルマニャック派との内乱に乗じてフランスに侵攻したイングランド王ヘンリ5世は1415年10月25日、ア...

ヘンリ5世の版図はエドワード3世を超え、ヘンリ2世のアンジュー帝国に迫らんばかりに膨れ上がった。それだけでなくフランス王位継承権も獲得して、英仏は一つの王冠の下に統一されるのも時間の問題となった。あとはフランス南部に逃れた王太子シャルルとその一党アルマニャック派残党を掃討するだけである。

1420年12月1日、ヘンリ5世はシャルル6世、ブルゴーニュ公フィリップ3世とともにパリに入城してパリ市民の歓呼に迎えられ、翌1421年2月1日、新妻カトリーヌ(キャサリン・オブ・ヴァロワ)をともなってイングランドに帰国、彼女を王妃に戴冠させた。同年12月6日、王妃は待望の男児を出産、ヘンリと名付けられる。後のイングランド王にしてフランス王ヘンリ6世である。

ヘンリ5世の死

ヘンリ5世はイングランドで悲報を受け取った。王弟クラレンス公トマスが王太子派軍との戦いで戦死したのである。

1421年3月21日、ヘンリ5世に代わってフランスにおけるイングランド軍総司令官を任されていた王弟クラレンス公トマスは、王太子派の軍がアンジェ近郊ボージェ村に軍を集結させつつあるとの報告を受け、自ら軍を率いて出撃する。そこにはラ=ファイエット元帥率いる王太子軍とまさかのパハン伯ジェームズ・スチュアート率いるスコットランド軍が待ち受けていたのである。短気なクラレンス公は敵情偵察を行わず、奇襲攻撃を敢行するが、パハン伯は巧みに兵を引いてクラレンス公本隊が突出して分断されるタイミングを見計らって総攻撃をかけ包囲殲滅に乗り出した。この乱戦の中でクラレンス公トマスは戦死し、多くのイングランド軍将兵が捕虜となった。(ボージェの戦い)

ときのスコットランド王ジェイムズ1世はヘンリ5世の宮廷で捕虜となっていたが、留守を預かるスコットランド摂政マードック・スチュアートがイングランドの伸長に対抗して王太子シャルル派の本格的な支援に乗り出したのである。以後、スコットランド軍は王太子シャルル派との同盟関係だけに留まらず主力として力を発揮することになる。

事態を重く見たヘンリ5世は捕虜のジェイムズ1世を連れてフランスに戻り王太子派のスコットランド軍に降伏勧告を出させるが、彼らは自身の王の勧告を退ける。さらに王太子派軍は弱者の戦略の王道として決戦を避けて巧みに逃げまわっていた。

ヘンリ5世はあらためて着実な領土拡大を図るべくパリ近郊の要衝モーの攻略にかかった。ここを陥落させればセーヌ河流域は完全に彼の支配下となる。ヘンリ5世はモーの補給路を断って兵糧攻めを行い、1422年5月、しぶとく抵抗していたモーを陥落させた。

このモーの攻略中に、ヘンリ5世は体調を崩した。おそらく赤痢であったと考えられているが、病を押して軍の指揮を取り、包囲終結後サンリスでイングランドから戻った王妃と王弟ベッドフォード公ジョンと面会。さらに、8月、ブールジュで王太子派と交戦中のブルゴーニュ公フィリップからの増援要請にも応えて、自ら軍を率いて救援に向かおうとする。

いくら頑健な王でも、無理が過ぎた。行軍中病状が悪化して危篤状態になり、8月31日、ヴァンセンヌで亡くなった。死に際しても平静を保ち、傍らに控える弟ベッドフォード公ジョンに、自身の死後のことなどを細かく指示したという。

イングランド=フランス二元王国

ヘンリ5世の早すぎる死は歴史を劇的に変えることになった。衰弱して今にも死にそうだったフランス王シャルル6世よりも、若くて精強なヘンリ5世の方が先に死んだからである。シャルル6世の死はヘンリ5世の死のわずか二か月後、1422年10月21日のことだった。

この両王の死によって、生後9か月の王太子ヘンリがイングランド王にしてフランス王ヘンリ6世として即位した。二つの王冠は生後間もない幼児がかぶることになったのである。また、ヘンリ5世の遺言により王弟ベッドフォード公ジョンがフランス摂政に、末弟グロスター公ハンフリーがイングランド護国卿として幼君を補佐する。しかし、この異例の事態は王位継承の正統性に疑義をもたらさざるを得ない。ヘンリ5世という強力なリーダーの喪失は大きい。

一方、王太子シャルルもフランス王シャルル7世を称して反イングランド勢力を結集しようと力を増した。そして、同盟者ブルゴーニュ公フィリップ3世はヘンリ5世の死を契機に、フランスでの戦争から距離を置いてブルゴーニュ公国周辺の攻略にかかる。まずは低地地方(ネーデルラント)、そしてアルザス・ロレーヌなど中欧へと版図を拡大して、第三勢力としての地位を確立していった。

ヘンリ5世によるフランス統一の夢は崩れ、百年戦争後半は三勢力鼎立の時代へと移り変わっていくのである。しかし、この情勢も長くは続かず、ヘンリ5世に後事を託されたベッドフォード公ジョンの指揮下であらためてイングランドが優位に立ち、シャルル7世派が窮地に追い込まれたとき、ジャンヌ・ダルクが登場することになる。

参考書籍

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』刀水書房,2010年
・森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)
・トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『薔薇戦争新史』(彩流社,2014年,原著2009年)
・エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)
・マーティン J.ドアティ著(日暮雅通監訳)『図説中世ヨーロッパ武器・防具・戦術百科』(原書房,2010年)
・クリストファー・グラヴェット著(須田武郎・斉藤潤子訳)『イングランドの中世騎士―白銀の装甲兵たち (オスプレイ戦史シリーズ)』(新紀元社,2002年)

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