ロビン・フッド伝説の誕生と普及の歴史まとめ

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ロビン・フッド(” Robin Hood ”)は中世イングランドの伝説的なアウトローで、現代でも児童文学や映画、ドラマ、ゲーム、アニメなど多岐に渡るジャンルで親しまれている。

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中世のロビン・フッド

ロビン・フッドはまず中世のバラッドで唄われることで民衆の間に広まった。バラッドは中世ヨーロッパに広くみられた、吟遊詩人などを介して口伝えで広がる「物語唄」である。特に中世バラッドで人気を博したのが十五世紀前後に成立したとみられる『ロビン・フッドの武勲(” A Gest of Robyn Hode ”)』であった。

上野美子氏の名訳が実に当時の中世バラッドの雰囲気を感じられてよいので冒頭部分を紹介したい。

いざ聴き召され紳士方
自由生まれの殿方よ、
語りいだすはかのヨーマンの
ロビン・フッドの物語。

ロビンこの世にありしとき
誇りも高きアウトロー、
いまだこの世に見あたらぬ、
礼節ふかきアウトロー。

LYTHE and listin, gentilmen,
That be of frebore blode;
I shall you tel of a gode yeman,
His name was Robyn Hode.

Robyn was a prude outlaw,
[Whyles he walked on grounde;
So curteyse an outlawe] as he was one
Was never non founde.

原文:The Child Ballads: 117. The Gest of Robyn Hode
訳文:上野美子著『ロビン・フッド物語 (岩波新書)』(1998年,23-24頁)より

ヨーク州バーンズデイルの森を根城としたヨーマン出身のアウトロー、ロビン・フッドはリトル・ジョン、スカロック、粉ひきの息子のマッチらを仲間とともに困窮した騎士サー・リチャードを助け、悪事を働くノッティンガム代官を懲らしめる大活躍だが、最後に登場するイングランド王エドワード(何代かは不明)(注1)の威に服して、自身の御猟林を犯した罪の許しを請い、王にその弓の力量や忠誠心を認められて宮廷へ迎えられる。しかし、十五カ月の宮廷生活の後、王に一週間の休暇を願い出てバーンズデイルの森へ戻り、そのまま宮廷へは戻らず仲間たちと暮らした。その後、22年の時が過ぎて、年老いたロビンは奸計にはまって非業の最期を遂げる、というストーリーである。

十五世紀半ばの『ロビン・フッドと修道士』ではロビンの棲む森がお馴染みシャーウッドの森になり、『ロビン・フッドとギズバンのガイ』(中世末期ごろ流布。現存する写本は十七世紀ごろのもの)で以後のロビン・フッド物語の常連となる宿敵ギズバンのガイが登場する。

ロビン・フッドのモデル

ロビン・フッドに関する最も古い言及はウィリアム・ラングランドの寓意詩『農夫ピアズの夢』(1377年頃)の、主の祈りは正しく言えないがロビン・フッドやチェスター伯ランドルフの詩なら知っている、という部分で、ここから、当時すでにある程度ロビン・フッドの物語について広まっていたと考えられている。また、十五世紀初めの諺に「弓を引かぬ輩にかぎってロビン・フッドの話をする(” Many speak (talk) of Robin Hood who never bent (shot in) his bow “)」(知ったかぶりをする)というものがある。

ロビン・フッド伝説の起源としては森の妖精ロビン・グッドフェロー伝説や、豊穣の祭り「五月祭(メーデー)」、チュートン神話の妖精フードキン、その他さまざまな民間伝承に由来する説があり、ガウェインなど円卓の騎士やアーサー王伝説の影響もみられる。ガウェインは聖母マリアの騎士であったが、ロビンも聖母崇拝の念が強い描写が見られ、またロビン・フッドは礼節ふかきアウトローと呼ばれているが、同じくガウェインも礼節の人と呼ばれており、その他多くの一致点から、19世紀末の研究者フランシス・ジェームズ・チャイルドはロビン・フッドを「民衆のガウェイン」と呼んだ。(注2)一方、モデルとなった実在の人物については研究が進んで諸説あるがいずれも確証に欠け、謎に包まれている。

ロビン・フッドを実在の人物であるとした最初の記録は1408年から20年にかけて書かれたスコットランドの修道院長ウィントンによる『オリジナル・スコットランド年代記』の1283年から85年の項でリトル・ジョンとロビン・フッドがイングルウッドとバーンズデイルに住んでいた名高い狩人だったとするものだという。続いて1440年、同じくスコットランドの修道院長ウォルター・パワーはシモン・ド・モンフォールの乱(1264~67)で追放されたロバート・フッドがリトル・ジョンらと徒党をなして頭角を現したとスコットランド年代記の1266年の条に加筆した。1521年に出版されたジョン・メイヤー著『大ブリテン史』ではロビン・フッドがリチャード1世時代(1189~99)に活躍した義賊であったとし、1569年のエドワード・ホール著『年代記』ではロビン・フッドことロバート・フッドがリチャード1世時代に没落した伯爵だったとする。これらの記録は同時代に流布していたロビン・フッド物語の影響が強く、史料の裏付けはない。(注3)

近年の研究では、十三世紀頃をロビン・フッド登場の起源とする。研究者たちの史料調査によって、十三世紀の裁判史料から多数の「ロビン・フッド」が確認できるのである。

『例えば1261〜62年のバークシャーの強盗犯 William Robehod 、1272年のエセックスの 窃盗犯 Alexander Robehood 、1272年のハンプシャーの殺入犯でアウトローになった John Rabunhood 、1284年サフォークの刑事犯で、保証人を立てて釈放された Gilbert Robinhood 、1294 年のハンプシャーの羊泥棒 Robert Robehood 、1296年のサセックス の上納金記録集 Subsidy Roll 中に現れるフレッチング Fletching の ’Gilbert Robynhod ’、1325年のロンドンの Katherine Robynhed 、1381年のサセックスのウィンチェルシー Winchelseaの Robert Robynhoud などである。』(高野要,2007年,72頁)

当時、刑事犯に対して裁判記録上ロビン・フッドやリトル・ジョンという渾名が与えられていたらしい。上記の William Robehod は1261年の記録ではWilliam son of Robert le Fevere (ロバート・ル・フェーヴルの息子ウィリアム)とされていたのが、1262年の記録でウィリアム・ロウブフッドに書き換えられていた。父の名ロバートの短縮形がロビンであり強盗団の一員であったことからロビン・フッドが連想されて書記によって書き換えられたと考えられている。記録上最初のロビン・フッドは1225年7月のヨーク国王裁判所で逃亡者として記録され、翌年の記録で Hobbehod という異名が与えられている Robert Hod という人物である。ただ、この人物はこれ以外記録に残っておらずどのような人物であったかは定かではない。(注4)

十三世紀、強盗や犯罪者とロビン・フッドが結びつけられ、あるいはアウトローでロビン・フッドにあやかって自称する者たちも登場していたという以上に実在のモデルを遡ることはできない。

ロビン・フッド伝説の背景~御猟林、アウトロー、ヨーマン

1066年のノルマン人による征服以降、イングランドの森林は御猟林法(のち御猟林憲章)によってイングランド王家の管理下におかれ、御猟林指定地域での植物の伐採や開墾、狩猟、無断での侵入などは死刑や両腕の切断などの身体刑や権利の剥奪で厳しく罰された。御猟林を巡る政府と庶民の対立は中世を通して大きな問題であり、悪政の一つとして庶民の不満の種であった。御猟林については下記の記事で詳しくまとめている。

御猟林法/御猟林憲章~中世イングランドの森林を巡る対立
” Forest Law “” Charter of the Forest ”のForestの訳語としては御料林と御猟林があり論文や研究書でも記述が分かれるが、この記事では特に狩猟場としての役割を鑑み、また日本の明治憲法下の皇室財産を指す御...

中世イングランドでは刑罰の一つとして、法の庇護下から除外される状態に置かれるというものがあった。彼ら「アウトロー」は共同体から排除され、アウトローに対しては財産を奪おうと、危害を加えようと、さらには殺害しようとも加害者は処罰されることがない。十三世紀までにアウトローへの加害を無罪とする規定は廃止されるものの、中世イングランドの社会問題として残り、十四世紀後半には過酷な労働から逃げた小作人たちがアウトロー化し、1381年の大規模農民一揆ワット・タイラーの乱でもアウトロー制度の撤廃は要求の一つとしてあげられていた。(注5)

ゆえに「アウトロー」の多くは社会から逃れ、その多くが森林に隠れ住むことになった。王家の管理する森林に立ち入ると過酷な処罰が待っているがゆえに、容易に手を出すことができないため、逆説的にアウトローにとっては絶好の隠れ家、アジールとなる。(注6)「アウトロー」たちは御猟林の獣たちを狩り、司直の手を逃れ、街道をゆく人々や近隣の村々を襲うなどして恐れられたが、同時に法から外れ権力に従わない彼らを英雄視する風潮も強まっていった。

そのような反権力の象徴としてのアウトローの活躍を描くバラッドが十四世紀から十六世紀にかけて多くみられるようになる。ロビン・フッドものをはじめ、イングルウッドの森に潜むクラウズリーのウィリアムらの活躍を描いた『アダム・ベル』や、ジョン王に仕えたアウトロー『修道士ユースタシュ』、征服王ウィリアム1世に抵抗した実在のアングロ・サクソンの英雄ヘリワード・ザ・ウェイクを主人公にした『ヘリワードの武勲』などが人気を博した。(注7)

また、ロビン・フッドの出自として語られるのがヨーマン(” Yeoman ” 独立自営農民)である。ヨーマンは古くは貴族の従者を指していたが、十四世紀後半、年に四十シリング以上の収入のある富裕な土地保有者として登場し、貨幣地代の一般化や黒死病の流行による人手不足などにより小作人たちが次々とヨーマンに昇格して、十五世紀頃には騎士に次ぐ社会階層の一つとして台頭、十六世紀以降、エンクロージャーの進展によって両極分解しつつ下層領主身分から生まれたジェントリとともに中間層を形成して、近世以降イングランド社会を大きく左右する勢力になっていく。(注8)

ヨーマンのような土地保有農民にとって御猟林の存在は土地の拡大を阻む最大の要因である。そのヨーマンの地位向上を大きく反映させ、ロビン・フッドの出自という設定が形作られた。

近世以降のロビン・フッド物語

十六世紀から十七世紀にかけて、ロビン・フッド物語は豊穣の祭り「五月祭(メーデー)」で上演される劇として人気となった。この演劇の中で、後のロビン・フッド物語のヒロインとなるメイド・マリアンや修道士タックなど中世バラッドには登場しなかったキャラクターが登場する。マリアンについても起源ははっきりせず、豊穣の祭り由来とする説やフランスの五月祭で上演されていた喜劇『ロバンとマリオンの戯れ』の羊飼いカップルが輸入されたとする説などがあるようだ。

1590年代、エリザベス朝演劇が興隆してウィリアム・シェイクスピア作品を代表に様々な戯曲が作られ、ロビン・フッド劇も多く上演された。後世大きな影響を与えたロビン・フッド劇がアントニー・マンディの二部作『ハンティンドン伯爵ロバートの没落』『ハンティンドン伯爵ロバートの死』で、本作ではロビン・フッドはヨーマンではなくリチャード1世時代の貴族ハンティンドン伯で、没落してシャーウッドの森でアウトロー生活を送る。マリアンもフィッツウォーター伯爵令嬢とされ、王弟ジョン親王(のちのジョン欠地王)に言い寄られるなど、地位の向上が見られるという。以後、エドワード王時代だったりヘンリ3世時代(シモン・ド・モンフォールの乱)だったりしたロビン・フッド物語はリチャード1世時代でほぼ固まることになった。

以後十七世紀に印刷技術の発展とともに流行ったブロードサイド・バラッドと呼ばれる一枚の二折判の紙の表裏に書かれたロビン・フッドの俗謡や、十七~十八世紀に隆盛を迎える音楽劇などを経て十九世紀にはロマン主義の流行とともに中世バラッドの復興が起こり、1819年、サー・ウォルター・スコット『アイヴァンホー』で主人公アイヴァンホーを救うためにリチャード1世に従うサクソン人の義賊ロクスリーとしてロビン・フッドが描かれた。(注9)

以後、近代文学の中で多くのロビン・フッド作品が作られ、1883年、アメリカの児童文学作家ハワード・パイルの『ノッティンガム州の高名なるロビン・フッドの愉快な冒険』が、現代まで続くロビン・フッドの定番ストーリーを確立、現代まで読み継がれている。

同作で形作られたロビン・フッドイメージを元に現代では児童文学、絵本、映画、ドラマ、アニメーションなど多岐のメディアに渡ってロビン・フッド物語が繰り返し描かれている。

ロビン・フッドはなぜ語り継がれたか

前述の通り、ロビン・フッドの由来は定かでなく実在の人物であったかどうかもわからないが、十三世紀頃には「アウトロー」の代表格としてロビン・フッドという人物像が広まっていた。裁判官たちは忌々しい犯罪者にロビン・フッドの渾名を与え、吟遊詩人はロビン・フッドの活躍を称え、民衆は恐れと憧れを持って彼を反権力の英雄とした。

中世バラッドの世界ではロビン・フッドは多くいるアウトローの代表格に過ぎなかったが、後にロビン・フッド以外の中世バラッドで唄われたアウトローは皆忘れられていき、ロビン・フッドだけが現在まで語り継がれることになる。

このロビン・フッド伝説だけが生き残り、語り継がれている理由について、上野美子は『ロビン・フッドはヨーマンや小作人、貧者を助けるいっぽうで、国王とも友好関係を保とうとする存在であった。このためロビン・フッド伝説は、変幻自在に姿を変え、今日にいたるまで多様なヴァリアントを生成するとともに、支持層も上から下の階層までひろがりをもちえたのである。』(上野美子,1998年,225頁)という。また、他の中世バラッドの主人公が実在の人物をモデルとしていることが多いのに対して、ロビン・フッドはいつの時代なのか、実在かどうかすらあきらかでない点も理由として挙げている。

『こうした曖昧さが、逆に物語を自在につくりだす可能性、可塑性をあたえているのである。はっきりとした歴史的枠組みがないので、多様な物語を生成しうるのである。この抽象性、不定形であることが、ロビン・フッド伝説に永続性をあたえ、普遍的なアウトロー・ヒーロ―にしたてあげたのである。』(上野美子,1998年,226頁)

参考文献・リンク

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・上野美子著『ロビン・フッド物語 (岩波新書)』(岩波書店,1998年)
・上野美子著『ロビン・フッド伝説』(研究者出版,1988年)
・世界史小辞典編集委員会 編『山川 世界史小辞典』(山川出版社, 2004年)
・川崎寿彦著『森のイングランド―ロビン・フッドからチャタレー夫人まで』(平凡社,1987年)
・高野要論文「ロビン・フッド伝説と時代背景 The Robin Hood Legend and its Historical Setting」(拓殖大学論集. 人文・自然・人間科学研究 18, 57-82, 2007-10)
The Child Ballads: 117. The Gest of Robyn Hode (英語)
Robin Hood – Wikipedia(英語)
Yeoman – Wikipedia(英語)

脚注

注1)『ロビン・フッドの武勲』が成立したころまでに当てはまるエドワード王としてはエドワード1世(在位1272-1307)、エドワード2世(在位1307-27)、エドワード3世(在位1327-1377)。オーソドックスに考えるなら名君として名高い1世で、同じ中世バラッドの『アダム・ベル』もエドワード1世時代として描かれているが、研究者の中ではエドワード2世とする説もあるようだ。

注2)上野美子,1998, 34-35頁

注3)上野美子,1988年,9-16頁、高野要,2007年,67頁

注4)上野美子1998年,217-218、高野要2007年,67-68頁

注5)上野美子1988年,30-32頁、川崎寿彦1987年,66頁

注6)川崎寿彦1987年,67頁

注7)上野美子1998年,49-50,221-223頁,上野美子1988年,383-386頁、

注8)上野美子1988年,26頁、青山吉信編著396頁、『世界史小辞典』726頁、

注9)近世以降の流れについては上野美子前掲書二冊を参考にまとめ。

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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