スポンサーリンク

アングロ・サクソン系最後のイングランド王ハロルド2世

ハロルド2世(” Harold II ” 1022年?生~1066年10月14日没)は最後のアングロ・サクソン系イングランド王(在位1066年1月5日~10月14日)。ハロルド・ゴドウィンソン。クヌート大王の北海帝国時代から前王エドワード証聖王の時代にかけて権力を振るったウェセックスの伯ゴドウィンの次男。武勇に優れ、父伯亡きあとゴドウィン家当主として義兄エドワード証聖王政権を支えた。

同王死後イングランド王に即位したが、王位継承をめぐって周辺諸国と争いになり、弟トスティとノルウェー王ハーラル3世の連合軍をスタンフォード・ブリッジの戦いで撃破したものの、続けて侵攻してきたノルマンディー公ギヨーム2世ヘースティングズの戦いで激戦の末に敗死した。彼の死によってアングロ・サクソン王権は終わり、ノルマン人のイングランド支配が始まった。

妻はエディス・スワンネックという女性だが素性は知れない。また、1063年、ウェールズを平定した際にウェールズ王グリフィズ・アプ・サウェリンの妃でマーシアの伯エルフガの娘エアルドギース(エディス・オブ・マーシア)も妻としている。子供はわかっている範囲でエディス・スワンネックとの間に三男(ゴドウィン、エドムンド、マグヌス)二女(グンヒルド、ギータ)、エアルドギースとの間に子供がいたかは不明だが、他に母親が不明のハロルド、ウルフという二人の男子がいる。

十一世紀ノルマン朝成立までのイングランド王略系図

十一世紀ノルマン朝成立までのイングランド王略系図

スポンサーリンク

ゴドウィン家の台頭

バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』(鶴島,2015,214頁)によれば、ゴドウィン家の者が史料上初めて登場するのは、後のゴドウィン伯の父ウルフノース・チャイルドという人物であるという。以下同書214-217頁を中心にゴドウィン家の台頭についてまとめる。1008年、イングランド王エセルレッド2世がデーン人に対抗して海軍力を強化、サンドウィッチに船団を配備した際、マーシア人の伯エアドリック・ストレオナの兄弟ブリフトリックとサセックスのウルフノース・チャイルドとの間で諍いがおき、ブリフトリックが国王に訴えたことで、ウルフノース船団が離脱して戦闘となり、ウルフノース船団はブリフトリック船団を壊滅させ、国王船団も撤退を余儀なくされた。

1017-18年、クヌート大王の証書にウルフノースの子ゴドウィンはすでに伯として登場する。1019年、ゴドウィンはクヌート大王の義兄弟であるウルフ伯の姉妹と結婚してデーン王家の縁戚に名を連ね、以後北海帝国下で急速に地位を確立した。

サセックス地方の一領主に過ぎなかったゴドウィン伯はクヌート大王の信を背景にサセックス地方を勢力下に治め、さらにウェセックス、ケントと、ほぼハンバー川以南を支配するようになった。クヌート大王はイングランドを統治するにあたって全土をノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリア、ウェセックスに四分割して四人の新貴族を伯に任じたが、その四大貴族の一人としてゴドウィンはイングランド南部ウェセックス・サセックス・ケント一帯を伯として治め、後にイースト・アングリアもその支配下に置いている。

クヌート大王死後の1035年、クヌートの二人の子の間で王位継承の対立が起こり、その間隙をぬってエゼルレッド2世の二人の遺児アルフレッドとエドワードが王位奪還のためイングランドへ侵攻してくると、ゴドウィン伯はこれを撃退してアルフレッドを死に至らしめている。

1042年、ハーデクヌーズ死後、サセックス家に王統が戻りエドワード証聖王が即位することになるが、同王即位に際してゴドウィン伯は娘エディスを嫁がせて外戚として権力を確立する。権力基盤の脆弱なエドワード証聖王政権下、ゴドウィン家一門の勢威は大きくなる一方だった。

ハロルド・ゴドウィンソン

後のイングランド王ハロルド2世、ハロルド・ゴドウィンソンはゴドウィン伯の次男として、1020年から1022年の間に生まれた。1043年、兄スウェイン・ゴドウィンソンがヘレフォードシャーなどミドランズの伯となるのとあわせて、ハロルドはイースト・アングリアの伯に就き、以後父伯とともにゴドウィン家一門の隆盛に尽力する。

エドワード証聖王初期の治世は、即位前に亡命していたノルマンディ時代からの家臣団に支えられつつ、ゴドウィン伯、ノーサンブリアを治めるシワード伯、マーシアを治めるレオフリック伯の三大貴族の均衡の上に成り立っていたが、ゴドウィン一門の力は増す一方であったことから、1051年、エドワード証聖王はシワード、レオフリック両伯と謀ってゴドウィン家排除に動き、ゴドウィン家は一時イングランドからの脱出を余儀なくされた。

1051年の政変について詳しくは以下

エドワード証聖王の時代~アングロ・サクソン王権の再興と終焉
エドワード証聖王(” Edward the Confessor “、1003年頃生~1066年没)はウェセックス朝イングランド王(在位1042年6月8日~1066年1月5日)。父はイングランド王エセルレッド2世、母はノルマンディー公リシャー...

このときハロルドはアイルランドのレンスター王ダーマット・マック・マエル・ナンボ(”Diarmait mac Máel na mBó ”,在位1042-1072)の下に逃れると、翌1052年6月、船団を編成して父ゴドウィン伯らと合流してイングランド南岸の旧支配地域を奪還して回り、復権に貢献した。

エドワード=ハロルド体制の確立

1052年に兄スウェインが、翌1053年に父ゴドウィンが亡くなったことでハロルドはゴドウィン家の当主となり、エドワード証聖王政権は事実上ゴドウィン家と一体となることで、安定を見た。

ゴドウィン家と並ぶ二大貴族はともに排除されていく。1055年、シワード伯が亡くなるとノーサンブリアはゴドウィン一門のトスティに与えられた。同年、マーシアの伯レオフリックの子エルフガが謀叛の疑いで追放処分となり失脚。彼の旧領であったイースト・アングリアはやはりハロルドの弟ギリスに与えられた。エルフガはアイルランドに逃れて翌年復権を果たすが、すぐにまた宮廷を追われ、1057年、エルフガの父マーシアの伯レオフリックが死去して伯位を継ぎ、以後、ウェールズとの協力関係を築いてゴドウィン一門と戦闘を繰り返した。

『レオフリックが亡くなった1057年以降の王国統治は、エドワード王とハロルドを中心とするゴドウィン家の連携によって維持されていった。しかし、これによって、マーシア、ノーサンブリア地域とのあいだに、大きな亀裂が生まれ始めたのである、これは統合王権のもろさを露呈していた。王権の下達文書である令状は、ハンバ川の北にはほとんど届かず、イースト・アングリアとマーシアを含む旧ウェセックス王国領域を中心に発給された。宮廷の移動範囲もそれにほぼ重なるものである。
1066年にウィリアムが対峙したのは、実質的には「ウェセックス」の王であった。』(鶴島,2015,233-234頁)

ハロルドは武勇に優れ、王権維持のため諸方面に出征して外敵の撃破や内乱の鎮圧に奔走している。1055年、前述のマーシアの伯レオフリックの子エルフガがウェールズの王グリフィズ・アプ・サウェリン(” Gruffydd ap Llywelyn ”, 在位1055-1063)と同盟して反乱を起こすと、これを迎えうち和平を結んでいる。グリフィズ王はのちに1063年、イングランドに再侵攻するが、ハロルドはこれを撃破し、さらにウェールズに侵攻してグリフィズ・アプ・サウェリン王政権を滅ぼしている。

父レオフリック伯死後、マーシア伯位をついだエルフガは度々ハロルドと戦った後、1060年頃に亡くなり、1062年、その子エドウィンがマーシア伯位を継承して一旦落ち着くが、まだ火種はくすぶっていた。

ノーサンブリアの反乱

ハロルドの弟トスティに与えられていたイングランド北部ノーサンブリア伯領だが、領民はトスティの支配にたびたび反抗して蜂起し、隣国スコットランドの介入が繰り返され、不安定な状態が続いていた。

前ノーサンブリア伯シワードは妹シビリアをスコットランド王ダンカン1世に嫁がせていたがそのダンカン1世が有力貴族マクベスに殺害され、そのマクベスが王となると、シワード伯はダンカン1世の子マルカム・カンモーを支援し、1054年、シワード=マルカム連合軍はスクーンの戦いでマクベス軍を撃破した。1057年、マルカムはマクベスを殺して復讐を成し遂げ、スコットランド王マルカム3世に即位する。シェイクスピアの有名な戯曲『マクベス』で知られる事件である。新スコットランド王マルカム3世にとって義父にあたるシワード伯家からノーサンブリア伯位を簒奪した格好なだけに、関係は悪化せざるを得ない。

1065年10月3日、ノーサンブリアでトスティ伯の苛斂誅求に対してついに領民の不満が爆発、大規模蜂起が勃発する。領民はトスティに代わって前マーシアの伯エルフガの次男モーカを新たにノーサンブリア伯に擁立して徹底抗戦を挑んだ。

乱は1065年末まで続くが、これに対してハロルドは意外にもモーカのノーサンブリア伯就任を認めるなど大幅な譲歩で臨んでいる。というのも、このころエドワード証聖王が病に臥せっていたからである。しかし、ノーサンブリア伯位剥奪という処置はトスティにとって、とても承服しかねるものであった。トスティはフランドルへ亡命する。

もう一つ、北方の動乱を早期に鎮圧したい意図があった。それがブリテン島の南方、ドーヴァー海峡を挟んだ対岸のノルマンディー公領である。内紛をおさめ、フランス王アンジュー伯などの脅威を取り除き、ブルターニュ地方を従属させるなど勢力を増すノルマンディー公ギヨーム2世の眼がイングランドに向きはじめていたのである。

ハロルド・ゴドウィンソンとノルマンディー公ギヨーム2世

バイユーのタペストリ」はエドワード証聖王の命を受けたハロルドがノルマンディへ旅立つところから始まる。『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』(鶴島,2015,22頁)によれば、これは1064年8月5日以前、おそらく春ごろのことだという。五人の護衛とともにノルマンディー公領ルーアンへ向けて出港したハロルド一行だったが、ポンチュー伯領に漂着してしまいポンチュー伯ギーに捕らえられてしまった。その後ノルマンディー公ギヨーム2世はポンチュー伯ギーの元に使者を派遣してハロルドを解放させると、ノルマンディまで招待して賓客として遇し、ブルターニュ遠征にも同行させている。

バイユーのタペストリ」はその後、ハロルドがギヨーム2世に宣誓して臣従を誓う様子を描くが、元々ウィリアム1世の征服を正当化する内容の作品なので、事実関係はわからない。百年ほど後、ヘンリ2世時代の1155年頃に書かれたウェイス『ロロの物語』ではこのときハロルドがエドワード証聖王崩御の後すみやかに公に王位を譲る約束をしたとする。この「約束」と、これにさかのぼって1060年頃エドワード証聖王から後継の約束がされたという説が後世、ウィリアム1世の子孫たちによって「ノルマン人の征服」の大義名分として主張されることになった。実際の会談内容がどのようなものであったかはわからないが、ハロルドは帰国直後からドーヴァー城の増強を命じるなど明らかにノルマンディー公への警戒を強めた。

1064年8月から9月ごろハロルドは使者の任を全うして帰国したという。エドワード証聖王はこの頃から健康を害して病気がちとなり、1066年1月5日、崩御する。生前の指名に従ってハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王ハロルド2世として即位した。

イングランド王位継承戦争

アングロ・サクソン年代記によれば1066年4月24日、ハレー彗星の接近に人々は驚いて凶事の前兆ではないかと噂したが、確かに空に輝くこの彗星が動乱のはじまりだった。

ハロルド2世即位後、最初に動いたのが復権を目論む弟トスティ・ゴドウィンソンである。ハレー彗星があらわれた直後、彼は船団を率いてイングランド南岸を劫略、ハンバー河口に上陸するが、ノーサンブリア伯モーカとマーシア伯エドウィンの連合軍に敗れ、スコットランドへと逃走した。

続いて登場するのがノルウェー王ハーラル3世である。ハーラル3世はクヌート大王のノルウェー征服によって国を追われたあとキエフ公国からビザンツ帝国などを渡り歩き、ビザンツ帝国ではミカエル4世にヴァリャーグ親衛隊として仕えて勇名を馳せた。北海帝国崩壊後、ノルウェーに戻って王位につくと、北海帝国の再建を目指してデンマーク王スヴェン2世と激しく争った。その勇猛さから苛烈王の異名を持つ。血統としての正統性はないが、北海帝国時代の版図を取り戻さんとする野心からイングランド王位を請求した。ハーラル苛烈王はトスティを支援して、9月、三百隻の船団を要してハンバー川からヨークへと向かった。

ノルウェー軍襲来の報を受けたハロルド2世は軍を率いて昼夜を問わず強行軍でヨークへ向かうが救援間に合わず、9月20日、ノーサンブリアの伯モーカ、マーシアの伯エドウィン率いるイングランド軍はヨークの南フルフォードでノルウェー軍を迎え撃つが大敗を喫し、ヨーク市も降伏した(フルフォードの戦い)。

この大勝利を受けハーラル3世、トスティはともにハロルド2世の来襲はまだ先だろうと油断していた。しかし、この頃、ハロルド2世軍は驚異的な進軍速度で迫っていたのである。『戦闘技術の歴史2 中世編』(2009,128頁)によれば一日32~40キロという速さである。9月24日、すっかり武装を解いてダーウェント川のほとりスタンフォード・ブリッジ付近で休憩するノルウェー軍にハロルド2世軍が奇襲攻撃をかけ、死闘の末にこれを殲滅する。ハーラル3世、トスティ・ゴドウィンソンはともに戦死した。

『この戦いは、九世紀以来二世紀余にわたるヴァイキングとの、最大しかも最終ともいうべき決戦であった。イングランドは劇的な勝利をもって掉尾をかざり、ここに長年くりかえされた北からの重圧は去ったのである。』青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年,201頁)

ウィリアム1世時代に若干のヴァイキングの侵攻がありウィリアム1世の親征が行われるが、事実上、このスタンフォード・ブリッジの戦いをもってヴァイキングの脅威は取り除かれた。

しかし、勝利を祝う暇もなくハロルド2世はすぐに南へ軍を戻さねばならなかった。まさにこのとき、ついにノルマンディ軍が英仏海峡を渡ってきていたのである。中世ヨーロッパを代表する一大決戦がいよいよ始まろうとしていた。

ヘースティングズの戦い

ノルマンディ軍侵攻の報を受けたハロルド2世は急ぎロンドンへ取って返した。ノルマンディ軍はヘースティングズに城を築き長期戦の構えを見せている。退却を促す使者を送ったが、ノルマンディー公ギヨーム2世ギヨーム2世は王位を求めて譲らない。ハロルド2世に忠実な王弟イースト・アングリアの伯ギリスは、王はロンドンに留まり、代わりに自身が軍を率いて出陣すること、また焦土戦術をとることでノルマンディ軍の補給を断ち撤退させることを進言して、家臣たちもこれに同意したが、王は進言を退けてこう言ったという。

『ハロルドなしに戦場に行くことも戦うこともない。』(鶴島,2015年,144頁(ウェイス「ロロの物語」(1155年頃成立)より))

そして自ら軍を率いて決戦の地ヘースティングズへ出陣したのである。後世、ハロルド2世の敗因として『彼があまりに性急に決戦をはやったことにあった』(201頁)という指摘がされるが、この猛々しい勇敢さを示す決断によって、彼は自らが王たるにふさわしいことを示し、そして歴史に名を遺すことになるのである。同じころ、ノルマンディー公ギヨーム2世もまた、籠城を唱える家臣の進言を退け、決戦に出るべく進軍を開始していた。

ヘースティングズの戦いについて詳しくは以下の記事

「ヘースティングズの戦い(Battle of Hastings)」(1066年10月14日)
決戦への道 1066年、エドワード証聖王の死後、戦上手で知られる有力貴族ハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王ハロルド2世に即位すると、これに異を唱えてノルウェー王ハーラル・ハルドラーダとノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世)が...

10月14日、イングランド・ノルマンディ両軍はヘースティングズ近郊カルドベックの丘で対戦した。丘の稜線にそって「盾の壁」と呼ばれる鉄壁の防衛線を敷くハロルド2世軍はノルマンディー公ギヨーム2世の猛攻を凌ぎ続け、一時、ノルマンディー公戦死の誤報が流れてノルマンディ軍が瓦解寸前まで追い込まれるほどだったが、ここで公自ら兵を鼓舞して立て直すと、劣勢を覆すべく偽装撤退戦術を敢行、これにつられてイングランド軍の防御線が崩れ、一気に戦局がひっくり返る。乱戦の中片目を射抜かれると自らこれを引き抜いて指揮を執り続けたハロルド2世だったが、夕刻、ついに壮絶な戦死を遂げた。

アミアン司教ギー「ヘイスティングズの戦いの詩」はノルマンディー公がブーローニュ伯ユースタス、ポンチュー伯相続人ヒュー、騎士ギファードとともに王に戦いを挑み倒したとするが、この著者アミアン司教ギーはポンチュー伯の叔父でブーローニュ伯とも親しい人物で、その両者がわざわざ入っている点など記述の信憑性に疑問が持たれている(鶴島,2015年,185頁)。別の史料ウェイス「ロロの物語」では単に「ある騎士が面頬を切りつけた。ハロルドは地面に倒れた。彼が立ち上がろうとしたとき、1人の騎士が腿を切り裂いたので彼は再び倒れた」(鶴島,2015年,184頁(ウェイス「ロロの物語」(1155年頃成立)より))としている。同じウェイス「ロロの物語」に従えば、前述の通り王弟で副将のギリスの戦死もこのとき、ノルマンディー公ギヨーム2世手ずからの槍の一突きによってであった。

ハロルド2世の遺体はアミアン司教ギー「ヘイスティングズの戦いの詩」によれば、公の持っていた上質の紫のリネンの布に包まれ、葬儀が執り行われた。その上で、海の傍ら、崖の上に埋葬されたという。このとき、「半分ノルマン人、半分イングランド人」の公の側近がこの役目を務めた。また、ウィリアム・ポワティエ「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」によると、埋葬の役目を務めたのはウィリアム・マレットという人物であったといい、公は「ハロルドの遺体は海と海岸の守護としておくべき」と語ったという。(鶴島,2015年,187頁)

公はハロルド2世を王として、戦士として丁重に葬ることで、新王権の守護者として呪術的な役割も持たせようとしていたように見える。

アングロ・サクソン王権の終焉

デーン人による征服王権からアングロ・サクソン王権へと戻ったエドワード証聖王の体制でゴドウィン家は最大の権門として勢力を拡大し、政争を経て王権を支える原動力となった。事実上ウェセックス地方を中心とするイングランド南部の政権ではあったが、安定的な体制を築いたのである。武勇に優れてエドワード証聖王の体制を軍事面で支えた。特にウェールズを平定し、ヴァイキングを殲滅するなど外敵の脅威を取り除いた点は特筆される業績である。

一方、彼の王位継承は必ずしも正統性あるものではなく、その対立関係の起源は十一世紀初頭のエセルレッド2世とノルマンディー公女エマの結婚にさかのぼるものではあったのだが、王としての力は強いが王としての正統性は弱い、という点が激しい戦いを呼び、アングロ・サクソン王権の終焉をもたらすことになった。

彼の死をもってアングロ・サクソン王権は終わり、ノルマン人の征服が始まる。そして彼を倒してイングランド王に即位したウィリアム1世を始祖とした王統が現代まで続くことになるのである。

また、ハロルド2世の子供たちだが、ゴドウィン、エドムンド、マグヌスの三人はアイルランドのレンスター王ダーモットの下に逃れてウィリアム1世に抵抗をつづけたが1070年頃以降史料に現れなくなる。グンヒルドはウィルトン修道院に入った後、ウィリアム1世配下の貴族アラン・ルーファスと結婚。ギータはキエフ大公ウラジーミル2世モノマフの妃となり、三人のキエフ大公を生んだ。ハロルドはノルウェーに逃れてノルウェー王マグヌス3世に仕えた。ウルフはウィリアム1世の征服過程で捕虜となり、1087年、ウィリアム1世の死にともなう恩赦で釈放されたという。

参考文献・リンク

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・鶴島博和著『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社,2015年
・近藤和彦編著『イギリス史研究入門』(山川出版社,2010年)
・森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)
・大沢一雄著『アングロ・サクソン年代記』(朝日出版社,2012年)
・バーバラ・ハーヴェー編(鶴島博和監修・吉武憲司監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史〈4〉 12・13世紀 1066年~1280年頃』慶應義塾大学出版会,2012年)
・マシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』(創元社,2009年)
Harold Godwinson – Wikipedia

タイトルとURLをコピーしました