『松平信綱(人物叢書)』大野 瑞男 著

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徳川家光、家綱時代、老中として幕政を主導した松平信綱についての代表的な評伝。松平信綱は知恵伊豆の異名で知られるように非常に優秀な人物であった。本書の彼の事績の総括が端的にまとまっている。

『信綱は最初は土井利勝・酒井忠勝らに次いで阿部忠秋らと老中として、「武家諸法度」の改定、参勤交代制の制定、軍役の制定、老中制の確立、島原の乱の鎮圧、「鎖国」体制の完成に貢献し、寛永飢饉を克服した。家光死後は幼い家綱を補佐して、由比正雪らの慶安事件を処理し、明暦の大火の復興を果たし、幕政の確立に尽力した。

(中略)

信綱は外様大藩などの意向を承けて将軍との取次を務め、その的確な指南によって萩藩や庄内藩などの存立を助け、大名をまさに幕府の藩屏として位置付け、幕府=将軍を中心とした藩が確立できるよう、すなわち幕藩体制の確立を意図したといえる。』(284-285頁)

非常に切れ者で様々なエピソードが残り、行政手腕の高さは特筆される。彼が手腕を発揮したのは島原の乱後の処理や明暦の大火後の復興など危機の混乱を収めて秩序をもたらすべく「正解」に向けて最も効率的な選択肢を選択していくところで、その合理主義的な姿勢の裏返しとして、憎まれ役になることも多かった。

「島原の乱」で幕府軍が苦戦すると総指揮官として派遣され、徹底的な鎮圧を図った。島原の乱の鎮圧に際して彼の合理主義的な顔が次々見られて興味深い。例えば、乱軍が籠る原城に対してオランダ船より砲撃をさせたことで、外国船の力を借りるのは恥だという意見に対し、乱軍は南蛮からの加勢を期待していると思われるので、異国人からの攻撃は一番の衝撃を与えると一蹴した。また、乱軍の死者の腹を裂かせて城内の兵粮が尽きていると判断して総攻撃に移るエピソードや、乱軍の調略を図って裏切りを誘ったりと、知恵伊豆の面目躍如といった趣だ。

島原の乱については冷徹な面が強調されることが多いが、島原の乱時、降伏してキリスト教信仰を捨てた捕虜たちを自身の領内に連れ帰ると、彼らを非常に労わったため強く感謝されている。その中に山田右衛門作という人物がいる。彼は乱時、天草四郎の家老を称して、事実上乱軍のナンバーツーだったが、乱軍壊滅の前に四郎を裏切って乱から離反した、殲滅されたはずの乱軍の生き残りである。島原の乱研究でも彼の証言記録は第一級の史料となっている。彼は南蛮絵師として知られ、一説には現存する「天草四郎陣中旗」(国重文、天草切支丹館蔵)の作者とも思われる人物だが、明暦の大火後、元々煙草嫌いだった信綱は防火対策で家臣に煙草を禁止し、その際、右衛門作に煙草で畳を焦がして成敗される絵を描かせて領内に掲示させたという。一人の絵師を通じて天草四郎と松平信綱が繋がるのは面白いと思う。

また、明暦の大火に際して大奥の女中を移動させるとき、松平信綱は避難がスムーズに進むよう本丸から西の丸へ至る各部屋の畳を一畳ずつ裏返して目印にして経路を示し、女中たちは迷うこと無く避難が出来たという、エピソードが有名だ。事後処理では彼の行政能力が思う存分発揮されて、様々なエピソードで知られる。特に有名なのは、災害後の物価高騰で庶民が困窮していることから、江戸に集中している武士たちを一気に帰国させたことで、これに対して紀伊の徳川頼宣はこのような緊急時こそ人員を多く呼び寄せるべきではないかと異を唱えたが、松平信綱はこう答えたという。

『このようなことを方々と議すると、何かと長談義に日を費やし無益のことです、後日お咎めあれば信綱一人の落度にしようとの覚悟でこのように計らいました。今度の大災害で諸大名の邸宅も類焼して居所もないので、就封させて江戸を発足すれば、品川・板橋から先は家があり、上より居宅を下されたも同じことです。また府内の米蔵はすべて焼けたので、大名が大勢の人数で在府すれば食物に事欠き、飢民も多くなるでしょう。よって江戸の人口を減少させれば飢民を救う一端となります。万一この機に乗じ逆意の徒があっても、江戸で騒動を起こされるより地方で起こせば防ぐ方策もあろうかとこのように致しました。』(242-243頁)

明暦の大火のエピソードとしては保科正之が江戸城天守閣の再建を否定した話が有名なため、保科が総指揮を執っていたように勘違いされることも多いが、老中筆頭として名実ともにリーダーシップを発揮していたのは松平信綱の方である。

また、松平信綱と名コンビとして知られるのが幼いころから共に小姓として勤め同時期に老中となった阿部忠秋で、何かと正しすぎる信綱に対して、人望厚く、バランスの取れた意見を述べる忠秋という面がよく見える。由比正雪の乱後の牢人対策にしても明暦の大火にしても、最終的には阿部忠秋の現実的な案が通っていて面白い。

そんな二人の関係がぐっとくるのが、臨終のときの信綱と忠秋のエピソードである。病に倒れた信綱は忠秋を呼び寄せてこう言った。

『病気故不礼は御免ください。貴殿を招いたのは別儀ではない。貴殿と私は若年より大猷院殿(家光)へ奉公し、軽き者を過分の取り立てに預かり、大禄を賜るのみならず、先祖に抽んで四位に叙せられ侍従に任ぜられ、君恩の忝いこと言い難いことである。二人は心を合わせて天下の政道を行った。それにつき互いに道理を論じ是非を争い、声を高め顔面を赤くしたことが多かったので、世上では貴殿と私と不仲であると沙汰していると聞く。重恩の主君のために忠節を尽くそうとする貴殿と私とが位を争って不快になろうか。世上の人は貴殿と私との心底を知らないからである。自分は死んでも貴殿が残り、公儀の為天下の政道には聊かの思い残すことはない。今日申すことは公用ではなく私の頼み事である。死後愚息輝綱のことを偏に頼み、播州(播磨守正能、忠秋養子)同然に思い諸事遠慮なく意見し指南を頼みます』(256-257頁)

こののちほどなくして信綱は亡くなるが、ここは何度読んでも熱いものがこみ上げる。彼らに限らず信綱と同時期の幕閣は皆有能かつ魅力的な人物が揃っていて、実に良いのである。松平信綱や江戸時代草創期の体制確立の過程に興味ある人にとってはぜひ読んで欲しい一冊である。

松平信綱関連ではこのブログでも多く記事を書いているのであわせて参考にしていただけると。

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