『春日局 今日は火宅を遁れぬるかな (ミネルヴァ日本評伝選) 』福田千鶴 著

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徳川幕府三代将軍家光の乳母として知られる春日局に関する代表的な評伝である。

春日局こと稲葉福は明智光秀の重臣として本能寺の変を起こして織田信長を討った後刑死した斉藤利三の娘として生まれ、父の死後、母方の稲葉家で養女として育ち、長じて江戸城の女中として働くようになり、やがて三代将軍となる徳川家光の乳母として権勢を振るった。生涯家光に忠実で、大奥の基礎を築いた人物として知られている。

大河ドラマを始め幾度となくテレビドラマ化や映画化されたことで江戸時代でも屈指の知名度を誇る女性だが、そのイメージのほとんどは近代以降、演劇や小説などで形作られたものだ。現在も後世の伝承や二次史料が中心となる春日局の姿を、同時代の一次史料に基づき再検討して描くのが本書である。

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春日局=家光生母説

家光の乳母となる過程については諸説あって本書でも夫正成との離婚時期も含めて比較検討されているが、著者は家光の生母が江ではなく、福自身だったのではないかという春日局=家光生母説の再検討を行っている。

古くから春日局が家光の生母だったのではないかという俗説はあったが、著者はあらためて史料等を検討して、秀忠に江以外の女性から生まれた子がいたことが明白であることや、江と秀忠が家光出産の前年は伏見と江戸で離れて暮らしていたこと、当時の庶出子・嫡出子の相続慣行などを踏まえ、江が家光の生母ではない可能性が高い点を指摘する。その上で家光の生母は『江戸城における奥女中(秀忠の侍妾)の一人である、ということで十分に説明できるというのが、筆者の基本的な考えである』(63頁)とし、福が家光の生母であるという説を『史実として認定するためには、よほどの慎重さが求められる』(71頁)としつつも、福が夫稲葉正成と離縁した時期を『慶長六年以前と考えるのが妥当』(71頁)で、慶長九年生まれの福の末子正利は養子と考えられることから、同じ慶長九年に生まれた家光に誰の乳を与えていたのかという問題提起を行った上で、『家光の生母はやはり福であったと考える』(71頁)と、あらためて春日局=家光生母説を提唱する。

これはかなりエキサイティングな説である。家光の生母が誰であったのかという問題は江とするのが定説だが、秀忠の側室の有無や庶出子・嫡出子の存在、そして家光と忠長の確執などの読み解きも含め、福と家光の関係について裏付けることは困難だとは思われるのだが、一つの可能性としてとても興味深い論である。

大奥制度の確立

もう一つ本書で注目なのが大奥制度成立過程の検討である。

従来、春日局は大奥制度の確立者として語られてきた。江死後、福が「大奥総取締」という役職について大奥の制度を整えたというものだが、『「大奥総取締」という役職名で呼ぶためには、「大奥」という用語の初出を同時代史料から確定していく必要があるが、今のところ福の生存中に「大奥」と呼ぶ例を確認できていない』(97頁)という。また『福は家光付の女中(表の局)であるから、江の死後は御台所(鷹司孝子)付の奥女中筆頭(奥の局)が江戸城奥を取り仕切る立場につくのが順当である。つまり、福が継ぐべきポストは、秀忠の乳母の大姥、さらには秀忠付の本丸表の局の役であったということになる』(97-98頁)として、実際、そのように家光付の表の局であった。

大奥制度は元和四年(1618)正月朔日付で出された御奥方ノ御法度五カ条に始まり、秀忠・江の主導の下に整備された。江死後も、奥を統括したのは家光の正室鷹司孝子の筆頭奥女中の女性であったが、孝子が病に臥せってしまい、本丸奥を出て中の丸に移ると、奥で存在感を発揮したのは家康の愛妾であった雲光院(阿茶)と英勝院であったという。この二人とともに、江の姉初(常高院)も含めた集団指導体制を経て、福が奥を統括するようになるという経緯を辿る。

『このように、大御台(浅井江)が没した後、御台所(鷹司孝子)がその役割を果たせないなかで、江戸城奥を取り仕切っていたのは、江付の奥女中たちやその親族(常高院)であった。加えて、家康の没後に駿府から江戸に移り住んだ家康の別妻(雲光院・英勝院)の存在も無視できなかった。そのなかで、将軍家光付として表の局と呼ばれていた福が、江戸城における地位を浮上させるきっかけとなったのは、寛永六年に家光の名代として上洛し、後水尾帝から「春日」の局号と位階を拝領したことにあろう。』(115頁)

稲葉福が春日局となったことで他の女性たちを凌ぐ地位と権威をもつようになり、明確な責任者を欠いていた奥の局を表の局とあわせて統括するようになったということのようだ。

『寛永十一年(一六三四)、家光は老中職務規定を定め、大名たちからの御用や訴訟といった案件は表向きには老中を通じて将軍家光に伝達され、老中を通じて大名側に命令するという正式の意思決定ルートを定めた。』(174頁)

これによって老中制が確立するが表向きのルートだけでは政治は動かない。内証ルートというのも必要で、表向きのルートは松平信綱・阿部忠秋・阿部重次の三老中が、内証ルートは堀田正盛と、堀田の親族でもある春日局が窓口としてともに内証ルートを担当することで、諸大名と家光とを繋ぐ役割を担った。春日局は諸大名との信頼関係を築くため、城外各地に屋敷を持ち、頻繁に面談を行っていたという。本書を読むとかなり辣腕の外交官・政治家ぶりがうかがえる。

家光を守る薬断ち~春日局の最期

春日局の晩年のエピソードとして印象的なのが、薬断ちの件である。かつて、春日局は病気がちだった家光を案じて、『家光の病気平癒と息災のために、春日は薬を服用しないとの立願を立て、生涯にわたり薬を飲まなかった』(207頁)。春日局は特に健康だったわけではなく病気も少なからず患っているがそれでも断固として服用しなかったといい、壮絶な覚悟が伝わる。最晩年、病に臥せり重篤な状態になった春日局に対し、家光自ら、服薬を命じる手紙が残っており、実に感動的な内容である。

『久しい年月、私(家光)に薬が効き、息災となるようにとの立願のため、薬を飲まないということだが、死期に及び薬を飲むのは、自身の養生のために飲む道理と同じではない。今度、竹千代(家綱)の気合に精を尽くして(薬を飲まず)、またもや其方に不慮のことがあれば、様々な苦労を(家光が)尽くすことになるので、そうなれば(家光の)精も尽き、命も尽きてしまう。天下のため、身(家光)のためなので、このたびは薬を飲み、命を延ばすのが大きな孝行となるので、はやく城内でも薬を飲み、その上で奉公の心を持つべきである。薬を飲まないよりは、飲むことが奉公になる。この言葉を無にして、薬を飲まないのであれば、死んだのちまでも不届き者と思うので、そのように心得よ(家光)』(208頁)

病床の老乳母を気遣う真摯で思いやり溢れる文面で家光の人柄、そして両者の信頼関係がよく伝わる内容だ。「薬断ち」によって家光の病を自ら引き受け、その死の寸前まで天下を守ろうとしていた。

このように春日局の生涯やそれをとりまく人々の姿がよく伝わる、充実した内容の評伝である。なお、本書の副題は春日局の辞世の句から取られている。

けふまてハ かわくまもなく うらみわひ 何しにまよふ あけほのゝそら
(今日までは 乾く間もなく 恨みわび 何しに迷う 曙の空)
にしニ入 月おいさない のりをゑて けふはくわたくおのかれぬるかな
(西に入り 月を誘い 法師を得て 今日は火宅を遁れぬるかな)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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