古代メソポタミア文明~シュメール人・アッカド人の王朝の興亡まとめ

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シュメール(“ Šumeru ”)とはニップル以南(バビロニア南部)を指すアッカド語シュメルム(”Šumerum ”)に由来し紀元前5000年頃から大規模な灌漑農耕が始まり、前四千年から三千年紀末、この地に都市文明が勃興した。この都市文明の担い手となった人々をシュメール人と呼ぶ。シュメール語と呼ばれる膠着語を話し、楔形文字を生み出して様々な記録を残した。

シュメール人の文明は、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルク、ウルなどの都市国家が覇を競った初期王朝時代(前2900年頃~2335年)、アッカド人のサルゴン王に始まるアッカド王朝時代(前2334年~前2112年頃)、シュメール人による統一王朝ウル第3王朝時代(前2112年~前2004年)の三期にわかれ(注2)、ウル第3王朝の滅亡以後、シュメール人は歴史に現れなくなる。

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シュメールかシュメルか

「シュメール」という日本語表記については、小林登志子『シュメル――人類最古の文明』で以下の通り指摘されている。

『なお、我が国では「シュメル」ではなく、「シュメール」と「長音記号」を入れて表記されることが多いが、これには理由がある。第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した。そこで、我が国におけるシュメル学の先達であった中原与茂九郎先生(京都大学名誉教授)が混同されないように音引きを入れて、「シュメール」と表記された。』(はじめにより)

特に古代オリエント史における固有名詞の和訳の問題については小川英雄著『古代オリエントの歴史』でも死語も多い古代語でセム語系や印欧語系を始め多くの言語とも関係している点で、『一定のシステムで音写の仕方を統一することは不可能』(注1)であるため、『古代オリエント史の多くの書物の間にはいろいろな不統一がある』(注1)と指摘している。以上の指摘を踏まえつつ、本記事では日本オリエント学会編『古代オリエント事典』および『図説古代オリエント事典―大英博物館版』(東洋書林 , 2004年)の項目も「シュメール」表記であることや現状の教科書等の表記に準じて「シュメール」として進める。

ウバイド文化とウルク文化

紀元前5000年頃、ティグリス川上流域、中部メソポタミアの沖積平野に栄えたサマラ文化の影響下でメソポタミア南部、ティグリス川・ユーフラテス川下流域に進出した農耕民によって築かれたウバイド文化は、ウバイド遺跡やエリドゥ遺跡など大規模な村落を作り、灌漑農耕の本格的な導入や放牧・漁業・狩猟、彩文土器の製作、周辺との交易など、前3500頃まで長い繁栄を誇った。

続いてウルク期(前3500~前3100年頃)、農業生産力の向上を背景として都市国家が登場する。その中心となったのがウルクである。ウバイド文化期後期からエリドゥなどで登場した神殿は、ウルクで巨大化し、巨大神殿を中心とした都市が生まれる。ウルク後期に楔形文字を使った粘土板への記録システムとこれを使った行政機構が生まれ、人口の集中、支配階級と職業の分化や、独特の芸術様式など、都市文明が誕生する。続くジュムデト・ナスル期(前3100年頃~前2900年頃)にかけて、ウルクの都市文明は周辺に波及して都市国家が次々と誕生していった。

初期王朝時代(前2900年頃~前2335年頃)

初期王朝時代は前のジュムデト・ナスル期にメソポタミアに広がったシュメール人都市国家がセム系アッカド人のサルゴン王によって統一されるまでの約600年に渡って分立し抗争する覇権争いの時代である。

初期王朝時代は考古学的にさらに以下のように四分類される。

第I期(前2900~2750年頃)
第II期(前2750~2600年頃)
第III A期(前2600~2500年頃)
第III B期(前2500~2335年頃)

この分類は、『バグダードの北東のディヤラ川流域にあるテル・アスマル(Tell Asmar)及びカファジェ(Khafaje)の発掘調査からの層位的証拠を基盤にして樹立されたもの』で、『南メソポタミアでも、そのような時期細分を採用し、ディヤラ地域との遺物の比較によってそれぞれの遺跡の層位の時期決定を行うようになっていった』(注3)ものだが、ディヤラ地域以外でII期にあたる土器が出土していないことからII期とせずI期前期・後期と分けることもある。また、第III B期の下限は現状アッカド王朝の成立に求められているが、その一方で、第III B期にあたる土器類がアッカド王朝期にも使われ続けている可能性が高く、この編年は引き続き見直され続けている。(注4)

「シュメール王朝表」

シュメール王朝表

「シュメール王朝表」
(wikimedia commonsより)

「シュメール王朝表」(注5)はウル第三王朝時代に成立したと考えられている有力都市の歴代の王とその統治期間を粘土板に記録した文書である。王朝表によれば最初に王権がエリドゥに下ったあと五都市八人の王で24万1200年の統治が行われ、その後、大洪水が起きてすべてを押し流した後、都市国家キシュに王権があたえられ、以後ウルクを経て最後のウル第3王朝、イシン王朝まで多くの都市国家へ王権が移ったことが描かれている。

初期の王たちに異常に長い統治期間が与えられていること、記録されている王たちも実在の不確かな者が多いこと、実際には並立していた諸都市が順番に王権を継承したように描かれていることなど問題点は多いが、『北部(とりわけキシュ)からウルクへ、そしてウルへという王権文書を記述することがこの文書の主目的』(注6)と捉えられ、初期王朝時代の都市国家の興亡を辿る上で参照される有力史料のひとつとなっている。

地域国家の分立から統一へ

ウルのスタンダード

「ウルのスタンダード」(前2600年頃)

初期王朝時代前半はほとんど史料が無くよくわかっていない。「シュメール王朝表」に従うなら、I期はアッカド地方の都市国家キシュを中心としたキシュ第一王朝が栄え、II期のころにウルクに王権が移ってエンメルカル王やギルガメシュ王といった神話・伝承の主人公たちによるウルク第一王朝が、III A期にはウル第一王朝が始まったと思われる。この頃に築かれた「王墓」が1924~32年の発掘で見つかっている。

ある程度都市国家の興亡が見えて来るようになるのが前2500年以降、初期王朝第III B期のことである。この頃、メソポタミア南部における諸都市国家の抗争の中でキシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルクの七都市が台頭して他の都市を従属させて地域国家化するようになった。後にウル第三王朝を興すウルは七都市に次ぐ都市だがウルクに従属していた。七都市の抗争と合従連衡の中で宗主権的地位を占める都市の王は「キシュ市の王」という称号を名乗った。

『この王号は、地上の支配権に与る最高神エンリルではなく、戦闘の女神イナンナから授与されており、直接的には領域支配を明示する王号ではなく、覇権を争う諸王の中で他を圧する武力に秀でた王であることを示すに過ぎない。』(注7)

「キシュ市の王」は象徴的なもので実際にキシュ市を支配したとは限らない。

「国土の王」ルガルザゲシのシュメール統一

この覇権争いの中でウルク王エンシャクシュアンナが主導権を握るが、前2370年頃にウンマ王となったルガルザゲシ王はラガシュを滅ぼしウルクを征服してウルク王に即位、前ウルク王エンシャクシュアンナが称した王号「国土の王」を受け継いでシュメール諸都市の統一に成功した。

メソポタミア統一王権成立へ向けた動きが始まるが、ルガルザゲシ王はキシュの北で勢力を拡大するアッカド王サルゴンと激しく争い、ついにルガルザゲシ王はサルゴン王に敗れ、シュメール人による初期王朝時代は終わり、アッカド王によるメソポタミアの統一王権が誕生する。

アッカド王朝時代(前2334年~前2112年頃)

セム人の登場

後に西アジア一帯で大勢を占めるセム系言語を話す人々(セム語派)は前3000年紀頃から南メソポタミアの北部地方に定住するようになり、キシュ市一帯に勢力を誇った。彼らはセム語派に属するアッカド語を話しアッカド人と呼ばれた。初期王朝時代から有力都市として知られたキシュはアッカド人によって支配されており、その近くにアッカド市があったと伝わるが、現在までその遺跡は見つかっていない。

「全土の王」サルゴンと「四方世界の王」ナラム・シン

サルゴン王の頭部像

サルゴン王の頭部像

ナラム・シン王の肖像

ナラム・シン王の肖像

キシュ王ウルザババに仕えていたサルゴンはキシュ王から独立してアッカド市を中心とした王権を確立、キシュ王位を簒奪すると、シュメール地方を統一したルガルザゲシ王と激しく争った。サルゴン王は5400人の直属常備軍を編成すると、三十四回に渡る戦闘でシュメール諸都市を次々と陥落させ、前2335年、ウルクを包囲してルガルザゲシ王を捕虜として、ついにメソポタミアの統一に成功する。サルゴン王は「全土の王」を称して、アッカド王朝を創始した。

アッカド王朝は四代目ナラム・シン王(在位:前2254~2218年頃?)の時代に最大版図を実現して最盛期を迎えた。周辺諸族へ軍を派遣して征服、「四方世界の王」を称するとともに、自らを神格化して「アッカドの神」を名乗った。当時の行政文書では彼の名は神を表すサイン(ディンギル)がつけられている。

ナラム・シン王は「四方世界の王」とあわせて「アッカドの王」を名乗ったが、この点からナラム・シン王治世下でニップル以北、キシュ市の近くにあったと考えられている王都アッカド市を中心としたアッカド地方とニップル以南のシュメール地方という二つの地理概念が生まれたと考えられている。(注8)後にウル第三王朝を開いたウル・ナンム王は「シュメールとアッカドの王」を名乗っている。

アッカド王朝の衰退と滅亡

アッカド王朝五代シャルカリ・シャリ王の治世以降、王朝表は「だれが王であり、だれが王でなかったか」と、王の権威の失墜を記録する。以後ウルクやメソポタミア南部を支配したグティウム族(グティ人)の王朝、グデア王などに代表されるラガシュ王朝が繁栄するなど複数の独立王朝が並立、アッカド王朝はサルゴン王以来十一人の王で181年続いて滅亡した。この衰退期の独立王朝については年代を比定することが困難である。

ウル第3王朝時代(前2112年~前2004年)

ウル第3王朝の支配領域

ウル第3王朝の支配領域
前田徹著『メソポタミアの王・神・世界観』(山川出版社,2003年,82頁の図より転載)

アッカド王朝時代末期、メソポタミア南部に侵入して長期王朝を立てたグティウム族を、前2100年代、ウルク王ウトゥ・ヘガルが撃退してメソポタミア南部の支配権を確立する。アッカド王朝はこの頃には王権は絶えていたか著しく衰退していたと思われる。アッカド王朝の混乱期からウル第3王朝成立までの期間がどの程度の長さであったかは諸説あり、アッカド王朝の弱体化の中で勢力を誇ったラガシュ王朝のグデア王がいつ頃在位していたのかについても、アッカド王朝時代からウル第3王朝期まで幅がある。

初代ウル・ナンム王と最古の法典

前2112年、ウトゥ・ヘガル王の武将または一族であったウル・ナンムが独立してウル王となりメソポタミア南部の政治的混乱を収拾してシュメール人初の統一王朝ウル第3王朝が成立した。ウル・ナンム王(在位:前2112~2095年頃)はアッカド歴代の王が名乗った「四方世界の王」ではなく「シュメールとアッカドの王」を称したが、二代目シュルギ王からは「四方世界の王」をあらためて名乗った。

現存する最古の法典がウル・ナンム王治世下でまとめられたと考えられているウル・ナンム法典である。ニップル、ウルなどで出土した断片などあわせて序文と30の条文からなり、殺人や暴行・強姦などに関する条項や結婚・離婚・不倫、奴隷の扱い、神明裁判の手続きなどが取り決められている。後世のハンムラビ法典と反対に同害復讐法を取らず、傷害罪には賠償金を支払うことが定められている点が特筆される。

シュルギ王の治世と行政機構の整備

ウル第3王朝は二代目のシュルギ王(在位:前2094~2047年)の時代に最盛期を迎える。48年の長きに渡り王位にあり、在位20年頃から盛んに外征に乗り出して周辺諸国を臣従させ、内政改革を断行して行政機構を確立し、文書形式を整え、度量衡の統一や学校の設立などの成果で、英君として知られる。シュルギ王以降の歴代王は皆神格化されている。

『ウル第3王朝の支配は中核と周辺という二文法にもとづいていた。王権は、中心地域では伝統的な都市組織を利用しつつ、灌漑にもとづく農業生産を行わせて、その余剰を吸いあげた。いっぽう周辺地域からは、大量の家畜を中心地域に運びこませたのである。』(注9)

このような支配体制を効率的に運用するために、シュルギ王の時代に文書行政が発展した。現在発見されているウル第3王朝時代の粘土板のほとんどは行財政文書でおよそ四万点の公文書が刊行されている。裁判文書や契約文書の書式が定型化され、「王の名において誓う」という文言が定まった。シュルギ王は属州で大規模な検地を実施して耕地を一定の広さに分割して耕作させ、租税と再分配のシステムを確立、諸都市支配者に管理させた。また主要都市に最高神エンリルの神殿への奉仕義務や中央政府の役人・軍への食糧補給体制の整備も課している。

ウル第3王朝の滅亡

シュルギ王のあとを継いだアマル・シン王(在位:前2046~2038年)は貴族層の財産没収を繰り返すなど集権化を進めたが、兄弟のシュ・シンと王位を争い、わずか九年の治世で亡くなった。後世、無能と批判される。第四代シュ・シン王(在位:前2037~2029年)の時代にはフリ人、アムル人、エラム人ら周辺諸国からの圧力が増して彼らの軍事的侵攻や移民としての流入、それにともなう国内反乱の対応に追われた。

第五代イッビ・シン王(在位:前2028~2004年)の時代になると、ウル・ナンム王、シュルギ王が整えた行政機構が機能しなくなり、現在出土している行政文書は治世五年目で途絶えている。治世六年目には大飢饉が発生するなど国内は混乱。将軍として登用したマリ出身のアムル人イシュビ・エッラが反乱を起こして独立、イシン王朝を立てたことで、イシン王朝、アムル人、エラム人という内憂外患を抱え、前2004年、ついにエラムの攻勢でイッビ・シン王は捕われ、ウル第3王朝は滅亡した。

以後、バビロン第一王朝のハンムラビ王による再統一まで約200年、イシン王朝とそれに続くラルサ王朝を中心にメソポタミアは群雄割拠の時代を迎え、この過程でシュメール人は歴史から消えていった。

参考書籍・論文

・大貫 良夫 , 前川 和也 , 渡辺 和子 , 屋形 禎亮 著『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント(中公文庫)』(中央公論新社,2000年,原著1998年)
・小川英雄著『古代オリエントの歴史』(慶應義塾大学出版会,2011年)
・小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』(中央公論新社,2005年)
・日本オリエント学会編『古代オリエント事典』(岩波書店,2004年)
・前川和也編著『図説メソポタミア文明』河出書房新社,2011年
・前田徹著『メソポタミアの王・神・世界観』(山川出版社,2003年)
・前田徹著『初期メソポタミア史の研究 (早稲田大学学術叢書)』(早稲田大学出版部,2017年)
・ピョートル・ビエンコウスキ, アラン・ミラード 編集(池田 潤, 山田 恵子, 山田 雅道, 池田 裕, 山田 重郎 翻訳)『図説古代オリエント事典―大英博物館版』(東洋書林 , 2004年)
・小口裕通「メソポタミア考古学研究の近年の歩み」(西アジア考古学 第9号,2008年,19-25頁)
・前田徹「シュメールにおける地域国家の成立」(早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第4分冊 54, 2008年, 39-54頁)

脚注

注1)小川英雄, 2011年,150頁

注2)三区分の時期については小林登志子, 2005年,18頁

注3)小口,2008年,19頁

注4)小口,2008年,19-22頁

注5)「シュメール王名表」と表記する場合もあるが、前川和也は中原与茂九郎が「シュメール王朝表」と呼んだ趣旨が『諸都市王朝による縁起的な南部メソポタミア支配がこれらのテキストの基本主題』(『人類の起源と古代オリエント』中央公論新社,2009年,原著1998年,187頁)としていたことを紹介しており、本記事でもこの指摘を踏まえて「シュメール王朝表」とした。

注6)日本オリエント学会編『古代オリエント事典』岩波書店,2004年,526頁

注7)前田徹「シュメールにおける地域国家の成立」(早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第4分冊 54, 2008年39-54頁)45頁

注8)前田徹2003年54-55頁,同,2008年,52頁

注9)前川和也『図説メソポタミア文明』河出書房新社,2011年,42頁

Kousyou

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