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新元号「令和」と同じイニシャルRの元号「霊亀、暦仁、暦応」まとめ

新元号「令和」と同じく、イニシャルRで始まる過去の日本の元号のまとめです。

「令和」©いらすとや

「令和」©いらすとや

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霊亀(れいき)

和銅八年九月二日(715年10月3日)~霊亀三年十一月十七日(717年12月24日)

和銅八年九月、先帝元明天皇が自らの老いと疲労を理由に譲位の意向を示し、皇太孫首皇子(のちの聖武天皇)が若年であったため、娘の氷高皇女が元正天皇として即位しました。女性天皇から女性天皇への継承という初の事例です。元正天皇の即位にあわせて、瑞祥である亀にちなみ霊亀と改元されました。

続日本紀には同八月二十八日の記録として『丁丑。左京人大初位下高田首久比麻呂献霊亀。長七寸。闊六寸。左眼白。右眼赤。頸著三公。背負七星。前脚並有離卦。後脚並有一爻。腹下赤白両点。相次八字。』と、左京職高田首久比麻呂が長さ七寸幅六寸(体長約20cm)、左目が白で右目が赤、背中に七つの星が描かれた霊亀を献上したと記録されています。

主な出来事
霊亀元年または霊亀三年:郷里制の施行
霊亀三年:第八次遣唐使の派遣(阿倍仲麻呂・吉備真備ら)

霊亀三年九月、元正天皇は美濃国多度山を訪れ、そこで養老の滝に感銘を受けたことで、十一月、養老と改元、霊亀は三年で終わりました。

前天皇元明の時代に平城京に遷都して新時代が始まり、母帝を継いだ元正天皇は即位および霊亀改元に際して民を撫育し、国家の安寧を図る旨高らかに宣言し、藤原不比等ら藤原氏の補佐を受けて、郷里制の施行、遣唐使の派遣、養老律令の制定、三世一身法の制定など内政整備に注力して律令国家の基礎を築き、英君として名高い聖武天皇に引き継ぎました。

「中継ぎ」などと言われる彼女ですが、その実績は申し分なく奈良時代を代表する優秀な女帝ではないかと思われます。「霊亀」は新しい時代を象徴する元号であったと言えるでしょう。

暦仁(りゃくにん)

嘉禎四年十一月二十三日(1238年12月30日)~暦仁二年二月七日(1239年3月13日)

承久の乱後、鎌倉幕府は後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を配流、即位前の順徳上皇の皇子を廃して(九条廃帝または仲恭天皇)、新たに後鳥羽上皇の兄で出家して行助と名乗っていた守貞親王を上皇に就け(後高倉院)、その子茂仁を後堀川天皇として即位させ、後高倉院政が確立します。後高倉院の死後、後堀川天皇は親政を経て、寛喜三年(1231)、皇太子秀仁(四条天皇)が生まれると、貞永元年(1232)、譲位して院政を敷きます。文暦元年(1234)、後堀川院が亡くなると、幼き四条天皇を外祖父の前関白九条道家と関東申次の西園寺公経ら親幕有力公家が補佐していました。

四条天皇が生まれてから十二年で貞永、天福、文暦、嘉禎、暦仁、延応、仁治といずれも天災や凶兆など些細な理由でしたが、七回も改元が繰り返されます。その七つの元号のひとつが暦仁で、わずか三カ月と史上最も短い期間で終わった元号でした。この頻繁な改元からは彼の成長と皇統の存続を非常に心配していたことが伺えます。

これだけ朝幕ともにその成長を見守っていた四条天皇ですが、不幸にも仁治三年(1242)、十二歳で事故死してしまいます。女官たちを驚かせようと内裏の廊下に滑石をまいて滑りやすくするいたずらを仕掛け、自らそれに足を取られて転倒したともいわれます。

四条天皇の死はドジっ子幼帝の不幸な事故でとどまらない大問題となりました。承久の乱に関わったものを除くと唯一の皇統だったからです。皇統断絶の危機に朝廷は乱の首謀者の一人順徳天皇の子忠成王の即位を希望し、幕府は難色を示して土御門院の皇子邦仁親王を擁立することとします。これが後嵯峨天皇です。後嵯峨天皇にしてみれば、皇族とは名ばかりの、あばら家住まいで不遇をかこっていたところに皇位を与えられたわけで、幕府に対しては感謝感激でした。親幕を貫き安定した朝廷運営を行って文永九年(1272)亡くなりますが、幕府を好きすぎて、最後に後継者の決定まで幕府に委ねて亡くなってしまいます。

後嵯峨帝には第三皇子後深草上皇とその弟亀山天皇という二人の後継者がいました。ともに父帝の院政下で天皇となり亀山天皇は現職です。後継者決定を丸投げされ困った幕府はさらに二人の母で後嵯峨の皇后大宮院にたらい回しすることにしました。「後嵯峨帝はどっちがいいと考えていたんですかね?奥さん決めてくださいよ。」「たぶん亀山の方かなぁ・・・」というわけで弟の亀山天皇が引き続き親政することになります。

文永十一年(1274)、亀山天皇は当時八歳の皇太子世仁親王に譲位して後宇多天皇とし、自らは上皇となって院政を開始しますが、これに不満一杯なのが兄後深草上皇でした。すっかり意気消沈して出家するなどと言いだした後深草に同情も集まり、朝廷が動揺する中、建治元年(1275)、時の執権北条時宗は両者の調停に乗り出し、後深草院の皇子煕仁親王を後宇多天皇の皇太子に立てました。九歳の天皇、十一歳の皇太子という奇妙な親子関係がここに誕生します。

当時、日本は未曽有の危機に見舞われていました。元寇と呼ばれるモンゴル軍の侵攻です。文永五年(1268)、元帝国からの初の国書が届き幕府はこれを黙殺、文永十一年(1274)、ついにモンゴル軍の最初の侵攻となりました。辛うじてこれを退けることができたものの、いつまた再侵攻があるかわからないという状況下で挙国一致体制を築かなければならないのに、些細なことであっても朝廷にもめられていては困るわけです。

こうして、後深草院の皇統(持明院統)と亀山院の皇統(大覚寺統)とで交互に朝廷の最高権力者「治天の君」を出し合う歴史上「両統迭立」と呼ばれる体制がはじまります。このように、最初は危機的状況下で皇統が安定的に続くように配慮された結果として始まった体制でした。幕府は皇位継承について朝廷の自主性に委ねる姿勢で一貫していましたが、どうしても調停役を担わざるを得ません。しかし、交互にではなく自分の皇統で永続的に皇位を継承し続けたいと願う人物が出てくるのも必然でした。そして、いつしか、彼――後醍醐天皇は「幕府がある限り自分の皇統を永続的に継承させることはできないのだ」と考えるようになるのです。

「暦仁」はこのような歴史的転機の中の特筆すべきことは無い多くの元号のひとつにすぎませんが、わずか三か月しか続かなかった「暦仁」はその短さゆえに危うい幼帝の時代を反映し、この元号を含めた多くの時代を経て歴史が大きく動いていくことになりました。

暦応(りゃくおう、れきおう)

建武五年八月二十八日(1338年10月11日)~暦応五年四月二十七日(1342年6月1日)

正慶二年/元弘三年(1333年)、鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇による建武の新政が始められましたが、建武二年(1335年)中先代の乱を契機として建武政権から離反した足利尊氏は大覚寺統の後醍醐天皇に対抗して持明院統の後伏見天皇第二皇子豊仁を擁立、光明天皇に即位し、兄の光厳上皇の院政が敷かれました。これに対して後醍醐天皇は吉野に下って、朝廷は分裂、室町幕府が支持する光厳上皇・光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝が並び立つ南北朝時代となります。

このとき、北朝で最初の元号として制定されたのが暦応でした。出典は暦応 – Wikipediaでは「帝王代記」という書籍の「堯時有草、夾階而生、王者以是占暦、応和而生」の箇所からとされていますが「帝王代記」という書籍は見つけきれませんでした。検索した範囲では同様の一文は「路史」巻四十四「尭時蓂莢夾階而生每月朔則生一莢至月半而十五莢十六日後日落一莢至晦而盡若月小盡則餘一莢厭而不落王者以之占歴應和氣而生」が見つかります。(路史 : 卷四十四 – 中國哲學書電子化計劃

同じくwikipediaには改元時のエピソードとして、久水俊和「室町時代の改元における公武関係」(2009年)を参照した記述として以下のようにあります。

『なお、江戸時代に柳原紀光が書いた歴史書『続史愚抄』によれば、「暦応」改元の決定を朝廷が室町幕府に伝えなかったために、足利尊氏ら室町幕府の人々が改元の事実を知ったのは9月4日のことであったという。このことは、洞院実夏の『実夏公記』暦応元年8月28日条からも裏付けられる。もっとも、以後においても改元詔書到達後に幕府側の施行手続であった室町殿(将軍)の吉書始と管領の沙汰始が諸般の事情で速やかに行い得ない場合には公武間にて新旧別元号が用いられる場合もあった[1]。』暦応 – Wikipedia(2019年4月26日閲覧)

主な出来事
暦応元年:足利尊氏、征夷大将軍に任じられる
暦応二年:後醍醐天皇崩御、後村上天皇即位
暦応二年:北畠親房『神皇正統記』執筆
暦応二年:足利尊氏、夢窓疎石を開山として京都に暦応寺(のち天龍寺に改名)造立を決定
暦応三年:暦応雜訴法制定
暦応四年:夢窓疎石の請により天龍寺船を元に派遣

南北朝時代の始まりであると同時に、森茂暁著「足利尊氏」では暦応三年の暦応雜訴法の制定を高く評価して、暦応元年を室町幕府における足利尊氏と弟直義による二頭政治のはじまりとしています。室町幕府の草創期、尊氏・直義が権限を分掌していたとする二頭政治論は佐藤進一氏が提唱して以来日本中世史でも通説の地位を占めていましたが、一方で、最近ベストセラーとなった亀田俊和著「観応の擾乱」はこれに疑問を呈し、足利直義に権限が偏っていることを指摘して「直義が事実上の最高権力者として主導する体制だった」(9頁)としています。

暦応への改元が南北朝時代そして室町時代という新しい時代の始まりとなる画期であったことは間違いないでしょうが、あらためて暦応時代をどのように評価するかは日本中世史でも今とてもホットな話題と言えるでしょう。

参考書籍・リンク

・黒田日出男 監修『図説日本史通覧』(帝国書院,2017年)
・日本史広辞典編集委員会 編『山川 日本史小辞典』(山川出版社,2016年)
・笠原英彦 著『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(中公新書)』(中央公論新社,2001年)
・関幸彦 著『承久の乱と後鳥羽院 (敗者の日本史)』(吉川弘文館,2012年)
・森茂暁 著『足利尊氏 (角川選書)』(KADOKAWA,2017年)
・亀田俊和 著『観応の擾乱 – 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い(中公新書)』(中央公論新社,2017年)
青斑石鼈合子と仙薬七星散 – 正倉院 – 宮内庁
暦応 – Wikipedia
『続日本紀』国史大系版 巻第六
路史 : 卷四十四 – 中國哲學書電子化計劃

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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