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古代ヨーロッパの鉄器時代とケルト人(大陸ケルト)の盛衰

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青銅器時代から鉄器時代へ

ヨーロッパにおける青銅器時代のはじまりは、地中海地域で前3000年頃、アルプス以北ではまず前3000年から前2000年にかけて銅器時代があり、前2300年から前1800年頃にかけての時期に青銅器時代に移行した。まずボヘミアやアルプス地方を中心とした中部ヨーロッパで最初の青銅器文化(ウニェティチェ文化)が出現、二百年ほど遅れてアルプス西部、ローヌ河源流近くのフランス・スイス国境地帯と、アルモリカ半島ブルターニュ地方の二か所を中心とした西ヨーロッパでも青銅器時代が始まる。

前2000年ごろ、アナトリア地方中部で誕生した冶金術によって鉄器の使用が始まり、そのの担い手となったヒッタイト帝国が滅亡すると、鋳鉄技術の拡散がはじまった。おそらくインド・ヨーロッパ語族のドーリア人を通じて、黒海北岸に棲む騎馬遊牧民キンメリア人に伝わり、キンメリア人がスキタイ人に追われて中央ヨーロッパへ移住していくことで、紀元前1000年~前800年頃、ヨーロッパでも鉄器の使用が本格的に始まった。

ハルシュタット文化

ヨーロッパにおける鉄器時代は大きく分けてハルシュタット文化期とラ・テーヌ文化期に分けられる。ハルシュタット文化期は、1846年、オーストリア西部ザルツブルクの東南ハルシュタット一帯で発見された多くの出土品にちなむ名称で、年代区分については諸説あるが、青銅器時代後期の前1200年頃から前450年頃までの時期に取り、前800年頃で青銅器時代と鉄器時代とを分けることが多い。

A期:前1200~前1000年(後期青銅器時代)
B期:前1000~前800年(後期青銅器時代)
C期:前800~前600年(初期鉄器時代)
D期:前600~前450年(初期鉄器時代)

また、アルモリカ半島では鉄器への移行は二百年ほど遅れて前600年頃まで青銅器時代(アルモリカ文化期)が続き、鉄器の使用が始まることになる。

ハルシュタット文化はハルシュタットを始めとしたオーストリア周辺を中核に、ドイツ南部、スイス、イタリア北部、フランス東部一帯のドナウ川水源地帯を中心とした西文化圏と、スロヴァキア、ハンガリー西部、ルーマニア西部、クロアチア、スロヴェニア、チェコなど東欧・バルカン半島に至る東文化圏に分けられ、地中海方面との交易で栄えた。特にハルシュタットで産出した岩塩や農産物を輸出し、ワインなど贅沢品を輸入することで富を集積した。前600年ごろ、マッサリアにギリシア植民地が出来たことで繁栄の中心は西文化圏へ移り、このマッサリアとの交易ルートを中心に、ハルシュタット文化に代わって新たにラ・テーヌ文化が誕生する。

ハルシュタット文化期を代表する遺跡が「ヴィクスの女王」の墓である。1953年、フランス・パリの東ブルゴーニュ地方コート・ドール県のセーヌ川流域ラソワ山の麓の町ヴィクスで発見された前600年頃の墓で、年齢三十代半ば~四十歳前後の女性が安置されていた。黄金の冠をかぶり、首飾りや腕輪などを身につけ、ギリシア産のクラテル(混酒器)やオイノコエ(注酒器)、エトルリア産のテーブルセットやワイン壺、アッティカ産の杯など多くの副葬品とともに葬られており、当時の高貴な人物であったと考えられている。また、ドイツ南西部バーデン=ヴェルテンベルク州のホッホドルフの墳墓は前530年頃のケルト人首長と思われる40歳前後の男性の墓で、青銅製の長椅子の上に遺骸が安置されていた。こちらも同時代を代表する遺跡で、当時の首長の富と権力の大きさを示す。

「ヴィクスの女王」墓の酒混器

「ヴィクスの女王」墓の酒混器

ホッホドルフの首長墓の復元

「ホッホドルフの首長墓の復元」
jnn95 [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)]

ラ・テーヌ文化とケルト人の登場

「前四世紀のワイン注ぎ(フラゴン)」(大英博物館像)

「前四世紀のワイン注ぎ(フラゴン)」(大英博物館像)

前450年頃から前50年頃の好機鉄器時代は、1858年、スイスのヌーシャテル湖畔ラ・テーヌで発見されたラ・テーヌ遺跡にちなんで、ラ・テーヌ文化期と呼ばれている。ラ・テーヌ文化期は以下の三期に分けられる。

前期:前450~前250年
中期:前250~前150年
後期:前150~前50年

ラ・テーヌ文化の担い手となるのがケルト人であった。

「ケルト人」の指す範囲は非常に広く曖昧である。インド・ヨーロッパ語族のひとつで、紀元前10~8世紀頃ライン川・エルベ川・ドナウ川流域から出て、紀元前5~4世紀頃にガリア一帯、前3世紀にはアナトリア地方にまで広がった言語的共通性を持つ人々の総称だが、統一的な民族は存在せず、一定しない。

前六世紀、ヘロドトス『歴史』でイベリア半島からドナウ川に至る広範囲に住む人々を「ケルトイ」と呼んだのが史料上の初出で、同時代のイタリア北部、ローマ近郊の町で発見されたエトルリア産に特徴的なセラミック製の杯に「ケルテー」と刻まれているのが考古学的な初出となる。ハルシュタット文化期後半(C・D期)からラ・テーヌ文化期にかけて支配的な勢力となり、前1世紀、カエサル「ガリア戦記」第一巻一に自らをケルタエ人と呼ぶ人々が登場する。

『ガリアは全部で三つにわかれ、その一にはベルガエ人、二にはアクィーターニー人、三にはその仲間の言葉でケルタエ人、ローマでガリー人と呼んでいるものが住む。』(近山金次訳25頁)

ここではフランス北西端から南西端にかけて住んでいた諸部族の総称として使われており、ヘロドトスが指したケルタエとは違う集団である。

吉田育馬「民族と言語からみたケルト人」によればインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語的共通性としては『(1)形容詞の最上級-isamos’ (2)同士の受動語尾-r’ (3)印欧祖語の*pの消滅が挙げられる』(木村正俊編,吉田育馬著25頁)という。ケルト語の起源は諸説ありはっきりとしないが、他のインド・ヨーロッパ諸語同様、『西アジア地方からヨーロッパに入り、中央ヨーロッパで発達し、ヨーロッパ全域に広まったと推測される』(木村正俊48頁)。

『歴史時代区分としての鉄器時代と古代ケルト人は、一九世紀には同一視されていたが、今では区別されるようになった。ケルト人の文化的時代区分としてのハルシュタット期とラ・テーヌ期もケルト人そのものの区分としてではなく、時代と場所が限定されて使われるようになった。すなわちハルシュタットとラテーヌは中部ヨーロッパに限定され、ハルシュタット後期(前八世紀から前五世紀)にケルト人が出現するのである。前六世紀にはケルトという固有名詞の言語的な証拠があり、前五世紀には歴史的ケルトとして、その史実が語られるようになるので、確証をもってケルト人の文化に言及できるのは、前五世紀以降ということになる。』(原聖126頁)

「古代ケルト世界の地図」

「古代ケルト世界の地図」
鶴岡 真弓/松村 一男 著『図説 ケルトの歴史: 文化・美術・神話をよむ (ふくろうの本/世界の歴史)』(河出書房新社,2017年)10-11頁より転載

ケルト人の社会と文化

ケルト人はハルシュタット後期、世襲制の王を頂点とした小集団の部族社会として始まり、やがて文明化の進展とともに、アルウェルニ族など一部の部族では選挙王制に移行した。選ばれた王は強大な権力を行使したが、やがて王に代わり上位の貴族集団が支配者となった。ボヘミアからフランス中部の中央ヨーロッパの諸部族では貴族階級も消滅して、毎年指導者が選ばれるようになったという。

カエサル「ガリア戦記」では『ガリアを通じて尊敬され問題にされる人間は二種類ある』(近山金次訳,226頁)として僧侶(ドルイド)と騎士をケルト人社会の支配的階層に挙げる。ドルイド・騎士・民衆の三身分があり、知識階級としてドルイドの外にウァテス(予言者)、バルド(吟遊詩人)があった。

ケルト人の信仰

彼らは霊魂の不死を信じ、オークの木を神聖視して、聖泉崇拝があり、ドルイドによる供犠が行われ、人身御供の風習があった。動物や植物など自然由来の多神教の神々がいて、部族ごとに部族神を信仰していた。主な神々として天空神タラニス、動物主ケルヌンノス、馬の女神エポナ、治癒の女神セクアナなどが知られる。

ドルイドは高度な知識を持ち、宗教儀式では祭司の役割を務めていたことで、部族社会で高い地位を持った。ドルイドは「多くのことを知る人」の意とされる。ドルイドになるためには約20年の修業期間が必要であった。ケルト社会では書き言葉が無かったため、口承で知識が継承された。原聖はドルイドの信仰にギリシアのピュタゴラス学派の影響を指摘する。現在のヤドリギの木を持った森の賢者イメージは近代になって創られたもので、実体とは大きくかけ離れている。

「オッピドゥム」

ケルト人は「オッピドゥム」と呼ばれる都市型要塞を築いて集住した。

『「オッピドゥム」とは古代ケルト人の支配者が防御壁を設けて生活した丘砦の総称である。とくにラ・テーヌ後期のものを指し、ハルシュタット期の「丘砦」とは区別されている。前三~四世紀の「移動期」に地中海世界の都市型住居を手本としたともいわれる』(鶴岡76頁)

フランス・ブルゴーニュ地方のビブラクト、プロヴァンス地方のアントルモン、バイエルン地方ケルハイムのオッピドゥム、スイス西部ジュラ地方のヴィットナウアー・ホーンなどが代表的で、木材と土石で固められた城壁「ガリア壁」に囲まれ、入り口には土塁が築かれた。

ケルト人の農耕・牧畜と暦

ケルト人は農耕牧畜を営んでいる。紀元前一世紀までに森林地の開墾が進み、鉄器農具の使用によって大幅な生産拡大が見られ、特に穀物の中でも大麦・小麦が重要な農作物であった。無輪犂利用の一般化や、後に中世ヨーロッパの農業生産を増大させる有輪犂の発明も中央ヨーロッパのケルト人によって発明されたものであった。また、牛・豚・馬・羊・山羊などの家畜が育てられ、特に馬は重要視されていた。戦場でもケルトの騎馬兵の精強さが知られている。

1897年フランスで発見された、前一世紀頃と思われるケルト諸語のガリア語で書かれた「コリニーの暦」からは当時のケルト人の暦が伺える。

『一六段×四カ月に分かれ、五年周期(六〇太陽月一二閏月)を表している。各月は二九日か三〇日で、善月(MAT)か悪月(ANM)に分けられている。また六カ月が夏で六カ月が冬という区別もある。』(鶴岡80頁)

このような太陰太陽暦の暦が使われていたと考えられ、夏から冬にかわる十一月一日のサヴァン祭、冬から夏に代わる五月一日のベルティネ祭が前夜から祝われた。後にキリスト教の暦にも受け継がれ、現在までメイデイ、ハロウィンの習慣として残る。

ケルト人の拡大と衰退

ホッホドルフの首長墓の金メッキされた短剣

ホッホドルフの首長墓の金メッキされた短剣

前七~六世紀頃にはケルト語を話す人々(ケルト人)がイベリア半島に移動して先住イベリア人と同化して後にケルト・イベリア語が誕生した。

イタリアでは紀元前八世紀頃から前350年にかけてゴラセッカ文化・エステ文化と呼ばれる鉄器文化が栄え、ケルト語派のレポント語の碑文も多く発見されていることから、この担い手がケルト人であったと考えられている。ハルシュタット文化・ラ・テーヌ文化のケルト人たちは北イタリアのエトルリア人との交易で栄えたが、エトルリア人がローマ人の攻勢で衰退すると、ケルト人とローマ人とが次第に対立するようになった。

前四世紀になるとガリアのケルト人がイタリアに侵入するようになり共和政ローマを脅かした。最大の事件は前387年(または前390年)、セノネス族を中心としてブレンヌスという指揮官に率いられたケルト・ガリア軍がローマ軍を破って一時ローマを占領、ローマの将軍カミッルスの反撃で撤退するが、精強さを示した。その後も幾度となくローマを脅かしたが紀元前225年のテラモンの戦いでの大敗後劣勢となり、カルタゴの将軍ハンニバルとともにローマと戦い、ハンニバルの敗北後イタリアからの撤退を余儀なくされていく。

前三世紀前半、ケルト人はバルカン半島からギリシアへと侵入、アレクサンドロス大王死後の弱体化したマケドニアでプトレマイオス・ケラウノス王を捕らえ斬首した。さらにテルモピュライを越えてデルフォイを目指して進軍し、ギリシア軍と激闘の末撤退、聖地は辛うじて守られた。以後諸部族がバルカン半島に進出、ケルト人がトラキアなどに広がった。

アナトリア半島に侵入したケルト人はセレウコス朝と激しく争いフリギア一帯に定住してガラティア人と呼ばれるようになった。ガラティア人は前230年頃から台頭してきたベルガモン王国と三つ巴の争いになり、ベルガモン王国とセレウコス朝との対立の中で弱体化、両国に従属して傭兵あるいは奴隷としての立場に追いやられ、後にローマの進出でガラティアは属州となった。

ガリアではおそらく紀元前六世紀ごろまでにはケルト人が支配的となっていたと思われる。ガリアの歴史的な事実・事件については前二世紀頃からしか詳しくわかっていないが、前二世紀後半からガリアでは諸部族がキウィタスと呼ばれる政治的単位に統合された。この中でガリア南部に進出したローマと結んだハエドゥイ族が強大化し、これにアルウェルニ族とセクァニ族が同盟して対抗、セクァニ族はゲルマン人を傭兵としてまねきいれ、ハエドゥイ族を打ち破った。前61年、窮地に立たされたハエドゥイ族はローマに救援を求め、かくしてカエサルのガリア遠征が始まる。

カエサルのガリア遠征の直接的な契機はゲルマン系スエビ族の圧迫を受けたケルト系ヘルウェティイ族の西漸で、カエサルはハエドゥイ族を脅かすヘルウェティイ族へ攻撃を加えて押し戻すと、続けてハエドゥイ族の脅威となっていたアリオウィストゥス率いるゲルマン人傭兵を撃滅する。これを恐れて蜂起したベルガエ人たちの反乱を鎮圧すると、カエサルはガリア全土の平定に乗り出し前55年までにブリタニア遠征を行うまでになる。しかし、ローマ軍のガリア征服は、これまで分裂していたケルト人諸族に統一と反抗の機運をもたらし、前52年、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスを指導者として大規模反乱を起こした。激戦の末、アレシアの戦いでガリア連合軍は敗北、ウェルキンゲトリクスも捕らえられ、ケルト人はローマの支配下に入ることになった。

前27年、カエサルの後を継いで初代ローマ帝国皇帝となったオクタヴィアヌスによってガリア属州が確立、他のケルト人居住地域も順次ローマ帝国の支配下となり、以後ゆっくりと同化が進められて古代ケルト人とその文化は消えていった。

参考書籍・リンク

・木村 正俊 編著『ケルトを知るための65章 (エリア・スタディーズ162)』(明石書店 2018年)
・柴田三千雄編『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』(山川出版社, 1995年)
・鶴岡 真弓/松村 一男 著『図説 ケルトの歴史: 文化・美術・神話をよむ (ふくろうの本/世界の歴史)』(河出書房新社,2017年)
・原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈(講談社学術文庫)』(講談社,2016年)
・バリー・カンリフ(蔵持不三也 監訳)『図説 ケルト文化誌』(原書房,1998年)
・ロイド・ラング/ジェニファー・ラング(鶴岡真弓 訳)『ケルトの芸術と文明』(創元社,2008年)
・カエサル著(近山金次 訳)『ガリア戦記 (岩波文庫)』(岩波書店,1942,2010改版)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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