アルバ王国の成立とスコットランド王国の形成(9~11世紀)

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ピクト人とスコット人

カレドニア地方(スコットランド)の先住民ピクト人の出自は謎に包まれている。ケルト系の言語を使い、巨石文化を持ち、エディンバラの北、フォース湾一帯に定住した。精強さで知られ、ブリテン島に進出したローマ帝国は彼らピクト人の侵攻に備えて長大なハドリアヌスの長城とアントニヌスの長城を築いた。ピクト人とは「彩色人・刺青の民」を意味するラテン語で、ローマ人がそう呼んだに過ぎない。

三世紀頃からヒベルニア(アイルランド)のスコット人がブリテン島に移動してくるようになり、四~五世紀、ローマ帝国の属州支配が終わるとともにスコット人の大移動が本格化した。スコット人はヒベルニア北部からブリタニア北部に至る一帯にダルリアダ王国を建て、ピクト人とともにポスト・ローマ期~七王国時代のブリトン人やアングロ・サクソン人を脅かした。

ポスト・ローマ期(5~6世紀)のブリテン諸島の歴史
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アルバ王国の成立

八世紀末までにカレドニア地方には主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、ブリトン人、アングル人(アングロ・サクソン系)、ノース人(スカンディナヴィア半島出自)である。その他さまざまな人々が移住してきており、それぞれ複数の王国、部族に分かれて争っていた

九世紀半ばにスコット人のダルリアダ王ケニス・マカルピンがピクト人を支配下に治め、あるいはスコット人とピクト人の統合によって、アルバ王国が成立することになるが、その過程はよくわかっていない。

統合を促した大きな要因として考えられているのは当時本格化していたヴァイキング(デーン人)の襲来である。ヴァイキングの脅威への対抗か、あるいはヴァイキングによってピクト人が弱体化してスコット人政権に吸収されたかはわからないが、デーン人とノース人とが一体化して強化されるなど、その勢力は強大であった。一方でスコット人王家とピクト人王家とは積極的に通婚しており、婚姻関係によって支配地域が統合された結果だともいわれる。

伝説のケニス・マカルピン王

後のスコットランド王国であるアルバ王国の初代王ケニス・マカルピンの事績については半ば伝説化されているため、不確かなことが多く事実関係も明らかではないが、概ね以下のような過程で統一に成功したと伝わっている。

ケネスの父ダルリアダ王アルピンはピクト人王女を母にもっていたが、ピクト人王家が断絶したことにともない、王位相続を求めたため両国間の戦争となって834年、捕えられて殺害された。後述するように、このような王位継承要求自体当時の慣習には全くなかったからピクト人を怒らせたと言われる。ケネス・マカルピンは839年または841年あるいは843年、ダルリアダ王に即位し、父の復讐のため、847年、ピクト軍に大勝してアルバ王国初代国王ケネス1世となり、統一王朝アルバ王国を建国した。歴代ダルリアダ王が即位に使っていた巨石「運命の石」をピクト人勢力の中心地スクーンに運び、以後代々のスコットランド王はこの「スクーンの石」の上で戴冠することになった――これらアルピン王殺害やピクト人征服エピソードは十六世紀に人文学者ジョージ・ブキャナンによって描かれたもので、ほぼすべて史実かどうか疑わしい。

わかっていることは、九世紀半ばに実在した王であること、武勇に優れて周辺諸地域に六度に渡り軍を派遣したことである。後世、ケネス・マカルピン王は伝説化して、彼を始祖とするアルピン王朝がスコットランド王国最初の統一王家として権威付けられた。

アルピン王家の王位継承法「タニストリー」

ケネス・マカルピンが亡くなると、王位は長子ではなく弟ドナルドを継ぎ、ドナルドが亡くなるとケネス・マカルピンの長子コンスタンティン2世が継いだ。コンスタンティン2世が亡くなると長子ではなく弟のエイ、続いてその妹の子ヨーカが継ぎ、ヨーカが亡くなるとコンスタンティン2世の長子がドナルド2世に即位した。その後もコンスタンティン2世から始まる系統とエイから始まる系統の二つの王統から交互に王位に就き、エイの系統が絶えると、マルカム1世の二人の子ダフ王とケニス2世の二つの王統から交互に王を出していていくことになった。

このような、長子相続ではなく、王が亡くなると横にスライドして前王の弟たちが王位を一巡する王位継承法式を「タニストリー」と呼ぶ。これは「『国王は王家一族のなかの王位継承候補者の間から選ぶ』のを原則とし、その『王位継承候補者』は、在位の国王の孫までを含む適齢以上の男子すべて」(森,1988年,22頁)を対象としている。概ね、候補者の最長老あるいは最有力者がつくことになるが、候補者には王殺しのインセンティブが働くことになり、アルピン王家十五代のうち、十人が殺害され二人が廃位されている。

アルピン王家最後の王マルカム2世(在位:1005年~34年)によって長子相続に改められたが、そうして継いだマルカム2世の娘の子ダンカン1世(在位:1034~40年)に対し、伝統的王位継承法の復活を望んで暗殺の凶行に走ったのが、シェイクスピア作品で有名なマクベスであった。

アルバ王国からスコットランド王国へ

このような王位継承を巡る血で血を洗う争いは続いたが、アルバ王国は徐々に拡大していった。アルバ王国の拡大は880年頃から970年頃まで続いており、デーン人の侵攻で秩序が崩壊したノーサンブリア北部、ツイード川からエイヴォン川の間を獲得、続いて十一世紀に入ってロージアン王国やストラスクライド王国を従属させた。概ね十一世紀までに、現在のスコットランド地方はほぼアルバ王国の傘下となり、中世スコットランド王国の版図が確立した。

元々スコウシア(スコットランド)とはアイルランドを指し、十世紀に入ると『グラスゴーとスターリングを結ぶ線の北側を意味』(青山他編著,1991年,122頁)するようになった。アルバ王国をスコウシア(スコットランド)王国と呼び始めるのはマルカム2世治世下の1018年のことで、ダンカン1世の治世下で定着したという。(森,1988年,32頁)

名実ともにスコットランド王国が安定するのは、マクベス王やルーラッハ王を討ってアサル王家を創始する歴代スコットランド王屈指の英傑マルカム3世カンモー(在位:1058~93年)の治世下であった。マルカム3世の異名のカンモーは「大頭」あるいは「偉大なる首長」を意味するというから、「大王」と呼んでもよいのかもしれない。同王以降、まずは次代の王を王の存命中に指名して諸侯の支持を取り付けて王位継承を安定させることから始まり、十二世紀、ウィリアム1世獅子王以降長子相続が定着した。

このスコットランド王国安定化のタイミングは絶妙であった。おりしも1066年、ノルマンディ公ギョーム2世によってアングロ・サクソン王権が倒され、イングランドに強大なアングロ・ノルマン王国が誕生する。スコットランド地方がノルマン・コンクエストを免れたのは、征服するには難敵すぎる王権が誕生していたからであった。

ここから、ブリテン島を南北に分けた長い戦いが始まるのである。

1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史
スコットランド王国成立前史 およそ八世紀頃までにスコットランドには主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、アングル人、古代ブリトン人、ノース人である。他にもノルウェー人やデンマーク人なども移住してきており、それぞれ複数...

参考書籍・リンク

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・森護著『スコットランド王国史話』(大修館書店,1988年)
・森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)
・原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈(講談社学術文庫)』(講談社,2016年)
・ロザリンド・ミチスン著(富田理恵,家入葉子 訳)『スコットランド史―その意義と可能性』(未来社,1998年)
Kenneth MacAlpin – Wikipedia

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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