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ブリテン諸島へのキリスト教布教の歴史まとめ

ブリテン諸島へ最初にキリスト教が伝播したのがいつごろかはよくわからない。中世以降に広まった伝承としては、西暦63年、キリストの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフがグラストンベリに教会堂を創始したことに始まるとする物語や、166年、ブリタニア王ルキウスの要請に応じたローマ教皇エレウテリウスが2名の宣教師を派遣したことを起源とする物語などがあるが、いずれも架空の物語にすぎない。

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ローマ属州時代

三世紀から四世紀頃にかけてのローマ属州時代にある程度広まっていたことは確かで、296年、西方ローマ副帝コンスタンティウス1世がブリタニアで皇帝を僭称していたアレクトゥスを破ったとき、ブリタニアは四つの司教区に分かれていたという。(原聖,183頁)

コンスタンティヌス1世によるキリスト教公認直後の314年に開かれたアルル教会会議にはロンドン、ヨーク、ロチェスター各都市の司教が出席、325年の第1ニカイア公会議の決定事項はブリタニアにも伝達され、347年のサルディカ宗教会議、395年のリミニ宗教会議にもブリタニアから司教が参加している。(青山編,48頁)(川成編,53-54頁)

同時代の遺跡からも、キリストを表す文字が刻まれた壁画やモザイク画、小教会の跡、十字を刻んだスプーン、ブローチ、指輪などの他、洗礼盤など信仰を示す遺物が出土しているという。(青山48-49頁)

異端として断罪されたペラギウス主義を唱えた司教ペラギウスはブリタニア出身であったと伝わり、彼の教えがブリテン島に広がっていたため、431年、オーセール司教ゲルマヌス( ” Germanus ” 378頃-448)が派遣されペラギウス主義の鎮圧にあたった。属州時代以来ブリテン島の先住民ブリトン人のキリスト教化は大いに進んでいたとみられており、彼らの中から多くのキリスト教伝道者が誕生することになった。

聖パトリックとアイルランド布教

「アイオナ修道院」

「アイオナ修道院」(パブリックドメイン画像

435年頃からアイルランドで精力的に布教を行ったのがパトリキウス(聖パトリック “ Patricius , Saint Patrick ” 390頃-461)である。ブリテン島西南部のキリスト教徒の子として生まれ、十六歳で海賊に捕らえられて北アイルランドへ売られたが、脱出してフランスへ行き、オーセールでゲルマヌスの弟子となり、トゥールの聖マルティヌスの修道院で修業、彼に先んじてアイルランドに渡っていたパラディウス(” Palladius ” 457/461頃没)に続いて布教のためアイルランドへ渡った。後に「アイルランドの使徒」と呼ばれアイルランドの守護聖人とされた。

聖パトリックはイー・ネール家の支援を受けてアイルランド北部アーマーの司教となってアイルランド各地を布教していった。現地のドルイドたちとの対決が記録されているが、このドルイドについては、ガリアのドルイドとは大きく違い、卜占・呪術を中心とする祭祀を行うものたちのことであったとされる。(原聖,208-209)現地の異教信仰と対決して、教会の組織化に努め、以後アイルランドに修道院が多く作られた。後に聖パトリックの命日とされる3月17日は「聖パトリックの日」と呼ばれて祝われている。

パトリックに続くキルデアの聖ブリジット( ” Brigid of Kildare ” 525頃没)はアイルランド南東部レンスターのスコット人の王女で、聖パトリックに師事した修道女の草分け的な存在であり、キルデア修道院を創設したという。続くアイルランド出身の聖コルンバ(大コルンバ ” Saint Columba ” 521-597)はスコットランド西岸ヘブリディーズ諸島のアイオナ島にアイオナ修道院を建て、同修道院はアイルランドからブリテン島全土にかけての布教の中心となった。

聖パトリック、聖ブリジット、聖コルンバ(大コルンバ)の三人がアイルランドの三大守護聖人として様々な伝説が語られることになった。彼らに続く聖コルンバヌス(小コルンバ “Columbanus ” 543-615)はアイルランド出身、大コルンバに師事してスコットランド、イングランドからブルターニュ、ガリア、さらにスイスから北イタリアに至る広い範囲に布教活動を行った。

彼らの宣教によってアイルランドでは大陸における教会の役割を修道院が担うこととなり、教会の指導者は司教ではなく修道院長であった。大規模な修道院を中心として都市が形成され、九世紀頃には王侯貴族と一体化してアイルランド社会で支配的な地位を獲得していくことになった。

「ケルズの書」

「ケルズの書」(8世紀)

スコットランド地方への布教

スコットランドへの布教は大コルンバに先立って、五世紀、ブリトン人の聖ニニアン( ” Saint Ninian ” 432頃没)がスコットランド南西部から北部にかけて宣教を行ったのが最初である。彼はギャラウェイにカンディダ・カサ修道院を創設、ピクト人、ブリトン人への布教を行った。同修道院は六世紀になると修道士の教育の中心となった。

以後順に、アイオナの聖オラーン( “ Oran of Iona ” 543/548頃没)、聖コルンバ(大コルンバ)、聖モルア( “Saint Moluag “592没)、リンディスファーンの聖エイダン( ” Aidan of Lindisfarne ” 651没)、聖カスバート( “ Cuthbert ” 634-687)らの布教が続くが、特に上記の大コルンバによる布教はスコット人とピクト””人の融和に大きな影響を及ぼし、後のスコットランド統一に向けた下地となった。スコット人とピクト人の統一アルバ王国(のちのスコットランド王国)の伝説的な初代王ケネス・マカルピンはアイオナ修道院に埋葬されていた大コルンバの遺骸をアルバ王国の中心スクーンの北西ダンケルドに移し、キリスト教信仰の中心とした。(森譲,19-20頁)

アルバ王国の成立とスコットランド王国の形成(9~11世紀)
ピクト人とスコット人 カレドニア地方(スコットランド)の先住民ピクト人の出自は謎に包まれている。ケルト系の言語を使い、巨石文化を持ち、エディンバラの北、フォース湾一帯に定住した。精強さで知られ、ブリテン島に進出したローマ帝国は彼らピクト人...

ウェールズ地方への布教

ウェールズ地方ではローマ時代にすでにキリスト教徒が存在してはいたが、伝統的な多神教信仰が多数派であった。五世紀、ガリアからウェールズ南東にキリスト教がもたらしたのが聖ドブリキウス(” Dubricius ” 465-550)で、続いて聖カドック(” Cadoc ” 497-580)、聖イルトゥド(” Illtud ” 6世紀)が続いた。カドック、イルトゥドは後にアーサー王伝説の登場人物として描かれている。

彼ら三聖人によって南東ウェールズを中心に布教が行われ、続いて南西ウェールズを中心に聖デイヴィッド(” Saint David ” 589/601没)、聖タイロ(” Saint Teilo ” 560頃没)が布教を行い、強い影響力を持った。特に聖デイヴィッドはウェールズの守護聖人とされている。

『ケルト教会の組織はローマ教会のそれとかなり違っていた。母教会とその配下の娘教会の管理は母教会の司教を中心とする聖職者集団、クラスがになっていたが、教会も司教もローマ教皇を頂点とするヒエラルヒーとは無関係で、実体は中世の修道院とその長に近かった。』(青山編146頁)

概ね八世紀までにウェールズ全体のキリスト教化が進んだ。

アングロ・サクソン人への布教

五世紀半ばから六世紀末にかけてアングロ・サクソン人の征服によってイングランド全域はほぼゲルマンの伝統的な自然崇拝の多神教信仰が中心となり、キリスト教信仰は大きく衰退した。

ポスト・ローマ期(5~6世紀)のブリテン諸島の歴史
ポスト・ローマ期とは以下のように定義される。 『「ポスト・ローマ」とは、皇帝権がのちにヨーロッパとなる地域から消滅した5世紀末から、8世紀末年のシャルルマーニュの戴冠と、812年アーヘン和約によって「西の帝権」がコンスタンチノープルの...

イングランドのアングロ・サクソン人への布教はアイルランドの修道士による北からの布教と、ローマ教皇が派遣した宣教師による南からの布教という二つのルートで行われた。

597年、ローマ教皇グレゴリウス1世はベネディクト派修道士アウグスティヌスを派遣、アングロ・サクソン七王国のひとつケント王国のエゼルベルト王(616頃没)の改宗に成功し、ケント王国の首邑カンタベリーに司教座が置かれた。以後イングランドにおいてカンタベリーは宗教的中心として栄えることになる。続いてエゼルベルト王の甥エセックス王サベルト(616頃没)、一時エゼルベルト王に庇護されていたイースト・アングリア王レドワルド(624頃没)などが改宗した。

しかし、彼らの改宗は基本的に政治的な意図を背景とした表面的なもので、王が変わると信仰は受け継がれず異教復興を繰り返した。このような中で布教にあたっては『キリスト教と矛盾しないかぎりで改宗者に従来の慣習や祭儀を認め、異教の偶像は破壊するが祠は存続させてキリスト教の礼拝堂に変えるという現実的な方策が取られ』(105頁)るなど大幅な譲歩をしつつ、教会組織を整備していった。

南からの布教が行き詰まりを見せつつあったとき、アイルランド修道士たちは北方で成果を出していた。625年、ノーサンブリア王国を建国したエドウィン王はケント王エゼルベルト王の娘エゼルベルガを妃に迎え、627年彼女に同行していた司教パウリヌスの勧めでキリスト教に改宗した。一時は七王国全土に号令せんばかりの勢いをもったエドウィン王だが、632年、戦死してしまう。

635年、内乱を抑えてノーサンブリアを再統一したオズワルド王の招きによって、大コルンバの弟子でスコットランド布教にも尽力していた聖エイダンがアイオナ修道院からノーサンブリア王国を訪れ、リンディスファーン修道院を設立した。同修道院はイングランド北部のキリスト教信仰の中心地となり、ノーサンブリア・ルネサンスと呼ばれる文化の隆盛をもたらした。聖エイダンとその弟子たちはここから布教活動を展開して、マーシア王国やエセックス王国なども彼らの力でキリスト教への改宗・再改宗が進んだ。

ベーダ「英国民教会史」(8世紀)

ベーダ「英国民教会史」(8世紀)

アイルランド修道士による北からの布教とともに、イタリア出身のビリヌスやブルゴーニュ出身のフェリクスら大陸からの宣教師たちの渡来・布教活動による南からの改宗が活発となり、七世紀末までに、アングロ・サクソン人への布教改宗が進んでイングランド全土にキリスト教が広がった。

アイルランド系修道士が広めたキリスト教信仰とローマ・カトリック的キリスト教信仰とは様々な点で相違があった。

『ローマ教会では司教が管轄する司教区を教会行政の単位とし、修道制度はベネディクト派で中庸を旨としていた。アイルランド系では修道院を活動の拠点とし、修道生活は公卿的である一方、流浪して説教・布教に従事するなど規制されない一面があった。』(川成編57頁)

このような両派の対立と乖離を解消するため、ノーサンブリア王オズウィによって召集されたのがウィットビー教会会議である。復活祭の算定方法を巡る対立を主要議題としつつ、アイルランド派はイースト・サクソン司教チェド、リンディスファーン司教コルマン、ローマ教会派はドーチェスター司教アギルベルフト、リボン司教ウィルフリッドらを代表として両派は激しく議論の末に、ローマ・カトリック方式の導入で結論付けられた。ノーサンブリアの教会がローマ・カトリック方式に切り替えたことで、以後イングランドの教会はローマ教皇の権威を受け入れローマ・カトリックの秩序下に位置づけられることになった。

この方針は669年、カンタベリー大司教となった司教テオドロスによってローマの慣習が確認され、カンタベリー大司教の首位権を確認し、全土を数数個の司教区に分けて組織化が進むことになった。

アングロ・サクソン七王国(ヘプターキー)の興亡
七王国時代の開幕 ブリトン人に代わってブリタニアの支配的勢力となったアングロ=サクソン諸族は六世紀から八世紀にかけて次々と王国を建国して互いに勢力争いをはじめた。この時代は有力な七つの王国――ケント(” Kent “)、エセックス(” E...

参考書籍

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・川成 洋 編著『イギリスの歴史を知るための50章 (エリア・スタディーズ150)』(明石書店,2016年)
・桜井俊彰著『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 (歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館,2010年)
・波多野裕造著『物語 アイルランドの歴史 欧州連合に賭ける“妖精の国” (中公新書)』(中央公論新社,1994年)
・原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈(講談社学術文庫)』(講談社,2016年)
・森護著『スコットランド王国史話』(大修館書店,1988年)
・ヘンリー・R・ロイン編(魚住昌良監訳)『西洋中世史事典』(東洋書林,1999年,原著1989年)
・ロザリンド・ミチスン著(富田理恵,家入葉子 訳)『スコットランド史―その意義と可能性』(未来社,1998年)

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