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カール・マルテルと見直される「トゥール・ポワティエ間の戦い」の意義

カール・マルテル(独:Karl Martell,英・仏:Charles Martel ,689年生~741年没)は父・ピピン2世(中ピピン)の死後フランク王国のアウストラシア、ネウストリア、ブルグント分王国の宮宰を兼ね、弱体化したメロヴィング王家に代わってフランク王国の実権を掌握したカロリング家の人物。イスラーム勢力の撃退や封建的軍隊の整備などの功績で知られ、彼を継承したピピン3世(小ピピン)はメロヴィング朝を廃し、カロリング朝を創始した。マルテルは鉄槌を意味する異名。

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フランク王国の分裂とカロリング家の台頭

西ローマ帝国の崩壊後、クローヴィス率いるフランク人によってガリア地域一帯にメロヴィング朝フランク王国が建国されるが、クローヴィス王死後、王国は分割相続され、六世紀末までにアウストラシア、ネウストリア、ブルグントの三分王国による分裂が常態となった。分王国間の抗争や地方豪族の台頭と反乱が繰り返されてメロヴィング王家は弱体化し、各王家の家政の長として置かれていた「宮宰(ラテン語:major domus,マヨル・ドムス)」が実権を掌握するようになった。

祖父ピピン1世以来アウストラシアの宮宰であったピピン2世は、687年、テルトリーの戦いでネウストリアの宮宰を破り、続けてブルグントの宮宰職も獲得、フランク王国全土の実権を掌握した。

ピピン2世の死後、後継者を巡ってピピン未亡人プレクトルードが後見する孫テウドアルト、ネウストリア人が宮宰に擁立したラガンフレット、ピピン2世の父方アルヌルフィング家とアウストラシア人が支持するカールの三派が抗争となり、まずラガンフレットがテウドアルトを撃破し、カールがラガンフレットとネウストリア勢力を破って後継者の地位を獲得した。(注1)

見直される「トゥール・ポワティエ間の戦い」の意義

「トゥール・ポワティエ間の戦い」 Charles de Steuben  (1788–1856)

「トゥール・ポワティエ間の戦い」 Charles de Steuben (1788–1856)

学校教育でも「西ヨーロッパのキリスト教世界を防衛」(注2)と高く評価されるカール・マルテルがウマイヤ朝軍を破った732年のトゥール・ポワティエ間の戦いについては、近年見直しが進んでいる。以下、津田拓郎氏の論文「トゥール・ポワティエの戦いの「神話化」と8世紀フランク王国における対外認識」(西洋史学261,1-20頁, 2016年)を参照しつつ、簡単にまとめる。

キリスト教圏の勢力とイスラーム勢力との戦いの中で「トゥール・ポワティエ間の戦い」を殊更特別視することはできない。同戦は711年の西ゴート王国の滅亡以来何度も行われてきたイスラーム軍による西ヨーロッパ侵攻による戦いのひとつでしかなく、決定的な勝利でもない。主な戦いだけでも720年のナルボンヌ包囲、721年のトゥールーズの戦い、724年のイスラーム軍によるカルカッソンヌ占領、732年トゥール・ポワティエ間の戦い、737年ナルボンヌの戦いなどがあり、721年、732年、737年にそれぞれイスラーム軍の指揮官を死亡させ大勝している。(注3)一連の対イスラーム会戦の重要な戦いの一つではあるが決定的な戦いではなく、731年にカール・マルテルが遠征を開始するまで、その前面に立ってイスラーム軍を撃退し続けていたのはアクイタニア(アキテーヌ)公ウードであった。

イベリア半島と接するフランス南西部アキテーヌ地方は六世紀末、フランク王カリベルト2世死後からアキテーヌ大公が支配する事実上の独立国となっていた。(注4)アキテーヌ公は中央で台頭するカロリング家と対立することが多く、中ピピン死後の継承争いでは、719年、アキテーヌ公ウードはラガンフレットの要請に応じて軍を率いてカールと対決していた。(注5)その後もアキテーヌ公家は768年、フランク軍によって滅ぼされるまで一貫してカロリング家と対立し続けた勢力であった。

ウード公はイスラーム勢力の侵攻に対して防衛の最前線に立ち、721年のトゥールーズの戦いでは敵将アンダルス総督アッサムを討ち取っている。また、アフリカ北部でウマイヤ朝に抵抗するベルベル人の長ムンヌズに娘を嫁がせて対ウマイヤ朝同盟を締結、抵抗していた。しかし、731年、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝軍を率いる総督アブド・アッ・ラフマーンによってムンヌズが殺されベルベル人同盟勢力が壊滅、続けてのウマイヤ朝軍の大規模なアキテーヌ侵攻により大敗と、非常に追い詰められることになり、やむなく仇敵カール・マルテルに助けを求める。(注6)このときのウマイヤ朝軍のアキテーヌ侵攻の理由として、『反乱勢力であるムンヌズと同盟を結んでいたウードに対する懲罰遠征』(注7)とみる説もある。

同時代の史料でのトゥール・ポワティエ間の戦いの扱いは、キリスト教世界の防衛といった大層なものではない。『フレデガリウス年代記続編』(736~768成立)ではカール・マルテルを倒すためウード公がイスラーム勢力をカールにけしかけたという話にされるなどアキテーヌ公ウードとカール・マルテルの対立抗争を主軸として、イスラーム勢力の扱いは脇役にすぎないものとなっている。(注8)また、同時代のイスラーム側史料でも「トゥール・ポワティエ間の戦い」の扱いは小さく、『8世紀までのアラビア語史料にはこの戦いへの言及は一切現れず、9世紀以降の史料においても簡潔に言及されるにとどまっており、イスラーム世界内部においてはこの戦いはそれほど大きな反響を呼ばなかったとの印象が生まれている』(注9)

『1)(カール・マルテルの一連の対イスラーム戦争をどのように評価するにせよ)この戦いのみが決定的な重要性を持ったかのように捉える態度は不適切である、2)宗教的対立・ヨーロッパ世界とアラブ世界の対立といった視覚は、当時の情勢を観察する際に有益ではなく、同時代人においてもこうした対立軸が常に意識されていたわけではなかった』(注10)

イスラーム勢力がイベリア半島からさらに西ヨーロッパ世界に入らなかったのは、740年ごろからのウマイヤ朝の内紛によって外征が中止された影響が大きい。トゥール・ポワティエ間の戦いの意義については、従来言われているようなキリスト教世界の防衛ではなく、この戦いの後カール・マルテルおよびカロリング家が南フランスへと勢力を広げるきっかけとなったこと、および、同戦を含む一連の戦争での活躍でフランク王国内での権力を確実なものとし、後のカロリング朝成立への道を切り開いたことにあるだろう。

騎兵部隊と家臣団の編成

後の中世騎士につながる騎兵部隊の編成をはじめておこなったのがカール・マルテルである。その契機として、「トゥール・ポワティエ間の戦い」の直後の時期であることから、カール・マルテルがイスラーム軍の騎兵の精強さに感銘を受けて見習ったとする説があったが、現在では、イスラーム勢力の騎兵部隊の大規模な編制が八世紀後半で、むしろフランク軍との戦いに対応してのものだったとされている。(注11)

これに対して、七世紀後半~八世紀初頭にヨーロッパで「あぶみ」の使用が広まり、あわせて戦斧など歩兵向けの武器に代わり長剣とウィングスピアやランスなど騎兵に有利な武装が取り入れられたことに求める説が唱えられたが、これについても実証性の面で異論も多く、諸説ある。(注12)

『封建制はカール・マルテルの軍事的ニーズによって突然出現したわけではなく、ドイツとローマの社会組織が合流するなかで、キリスト教教会という第三の力の強い影響も受けつつ、徐々に成長していった。』(注13)

彼にすべての成果を帰することはできないが、機動力のある騎兵部隊の創設を通じて、のちに封建貴族へと発展する家臣団の育成を図り、封建社会へと完成されていく改革期間のはじまりに位置すると評価することはできる。

教会との関係

カール・マルテルは他に、教会領の還俗を進め、教会・修道院領を収公して家臣に配分し、その代わり、教会・修道院に対して家臣たちから一定の地代を払わせるようにした。また、司教や修道院長への俗人の任命を行い、教会の世俗化が進む一方で、教会収入が増加して、教会改革の財政的基礎となった。(注14)

七世紀末、中ピピンがフリースラントの支配権を獲得するのとあわせてアングロ・サクソン人宣教師によるフリースラント布教が始まり、中ピピン、カール・マルテル二代に渡ってキリスト教伝道の支援を行った。代表的な宣教師ボニファティウスに対してカール・マルテルは保護状を与え、ヘッセン、テューリンゲンなどへの布教を通じて同地域への支配を拡大した。(注15)

739年、ローマ教皇を脅かし続けていたランゴバルド王リウトプランドがついにローマを包囲したため、教皇グレゴリウス3世はカール・マルテルに助けを求めた。カール・マルテルは次男ピピンをランゴバルド王リウトプランドの養子とするなどランゴバルド王と友好関係を保ち、737年のプロヴァンスでの対イスラーム戦争では同盟を結んで対抗していた。彼は使者を送って和平を仲介し、ランゴバルド王の撤退を斡旋している。(注16)

カール・マルテルの死

カール・マルテルは「フランク人の元首”Princeps Francorum”」を名乗り(注17)、737年に国王テウデリク4世が亡くなると後継を立てず、自ら王国統治を行った。741年、その死に際しても、『メロヴィング家の国王たちが行ってきた原則にのっとって』(注18)、長子カールマンと次子ピピンに王国の分割相続を行った。

彼の死後、各地で起きた反乱を鎮圧した兄弟は743年、空位だった国王位にキルデリク3世を擁立。747年、カールマンが修道院に隠棲してピピンに世俗の権利を全て委譲し、751年、宮宰ピピンはフランク国王に選出され、カロリング朝フランク王国が誕生する。

ピピン3世~カロリング朝の創始と「ピピンの寄進」
ピピン3世(小ピピン,”Pipin III”, 714年生~768年9月24日没)はカール・マルテルの子。メロヴィング朝の王キルデリク3世を廃し、自らフランク王位に就いてカロリング朝を創始した。754年、イタリアに遠征しランゴバルド王アイス...

あだ名「マルテル」の由来について

カール・マルテルの異名マルテル(Martell)については岡地稔氏の著書『あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』(八坂書房,2018)が詳細に検討しており、ここでは岡地氏の論を参考して簡単にまとめる。

マルテル(Martell)は「槌、かなづち、ハンマー」を意味するラテン語”malleus”の変形で、通常「鉄槌」と訳される。(注19)しかし、彼が生前マルテルの異名で呼ばれたことは無い。カールの異名として最初に登場するのは死後130年ほどたった875年頃に著されたフルリィ修道院の修道士アドレヴァルト『聖ベネディクトゥスの奇跡』でやはり鉄槌を意味するトゥディテスと呼ばれているのが最初である。(注20)続いて888~895年に著された『ランス司教リゴベルト伝』で、カールの荒々しい気性からマルテルと呼ばれたとの記述がマルテルの初出であるという。(注21)

以後、「トゥディテス」と「マルテル」がそれぞれカールの異名として使われた後、両方併記されるようになり、やがてマルテルの使用が優勢となってカール・マルテルで定着した。(注22)その由来は対イスラーム戦争ではなく、彼の性格や行動に由来するものであったという。(注23)

『カールの「鉄槌」(マルテル、トゥディテス)というあだ名が表すものは、このあだ名の登場の当初から、勇猛さ、戦いの技量に優れているさま、恐れを知らぬさま、など、カールの性格・行動様式に対する一般的なイメージであったと思われ、具体的な逸話や戦闘行為に引き付けられて想起された確証はない。
(中略)
また、近現代の歴史叙述に時おりみられる、このあだ名を七三二年のトゥール・ポワティエ間の戦いでの勝利と結びつける説明は、史料的根拠をもたないまったくの過誤である。』(注24)

脚注

注1)佐藤彰一「第3章 フランク王国」(柴田三千雄編『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』(山川出版社, 1995年))154頁/オイゲン・エーヴィヒ(瀬原義生訳)『カロリング帝国とキリスト教会』(文理閣,2017年,原著1973年)9-10頁

注2)全国歴史教育研究協議会編『世界史用語集』山川出版社,2014年,87頁

注3)津田5頁および同6頁の表1より

注4)佐藤彰一,158頁

注5)佐藤彰一,154頁

注6)津田9頁

注7)津田9頁脚注

注8)津田8-9頁

注9)津田3-4頁

注10)津田10頁

注11)ベネット他編著,99頁

注12)ベネット100-101頁/ギース,19-20頁

注13)ギース,21頁

注14)渡部治雄「第2章 フランク時代」(成瀬治他編『ドイツ史〈1〉先史~1648年 (世界歴史大系)』(山川出版社,1997年))108頁/佐藤彰一,155-156頁

注15)渡部治雄,66-67頁,エーヴィヒ,15-16頁

注16)エーヴィヒ,30頁

注17)エーヴィヒ,10頁

注18)五十嵐修著『地上の夢キリスト教帝国―カール大帝のヨーロッパ (講談社選書メチエ)』(講談社,2001年)32頁

注19)岡地稔 著『あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』(八坂書房,2018)51頁

注20)岡地,55頁

注21)岡地,56頁

注22)岡地,59頁

注23)岡地,61頁

注24)岡地,65頁

参考文献・リンク

・岡地稔 著『あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』(八坂書房,2018)
・柴田三千雄編『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』(山川出版社, 1995年)
・成瀬治他編『ドイツ史〈1〉先史~1648年 (世界歴史大系)』(山川出版社,1997年)
・五十嵐修著『地上の夢キリスト教帝国―カール大帝のヨーロッパ (講談社選書メチエ)』(講談社,2001年)
・オイゲン・エーヴィヒ(瀬原義生訳)『カロリング帝国とキリスト教会』(文理閣,2017年,原著1973年)
・フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年,原著,1984年)
・ヘンリー・R・ロイン編(魚住昌良監訳)『西洋中世史事典』(東洋書林,1999年,原著1989年)
・マシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』(創元社,2009年)
・津田拓郎「トゥール・ポワティエの戦いの「神話化」と8世紀フランク王国における対外認識」(西洋史学261,1-20頁, 2016年)

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