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アングロ・サクソン七王国(ヘプターキー)の興亡

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七王国時代の開幕

ブリトン人に代わってブリタニアの支配的勢力となったアングロ=サクソン諸族は六世紀から八世紀にかけて次々と王国を建国して互いに勢力争いをはじめた。この時代は有力な七つの王国――ケント(” Kent “)、エセックス(” Essex “)、サセックス(” Sussex “)、ウェセックス(” Wessex “)、イースト・アングリア(” East Anglia “)、マーシア(” Mercia “)、ノーサンブリア(” Northumblia “)――が次々栄え、覇を競ったことから七王国(” Heptarchy “、ヘプターキー)時代(注1)と呼ばれる。ただし七つの王国だけでなく中小様々な王国も存立しておよそ二十の勢力が割拠していた。

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七王国(エグバート王即位前後)

七王国(エグバート王即位前後)
ウィキメディアコモンズより

この時期、競合の中で諸王国に対し宗主権を握った王はブレトワルダ(”Bretwalda ”、覇者、覇王あるいは上王などと訳される)と呼ばれる。八世紀ノーサンブリアの僧ベーダ『アングル人の教会史』(注2)および九世紀に編纂された『アングロ・サクソン年代記』によれば、最初のサセックス王アェラに始まり、ウェセックス王ケアウリン、ケント王エゼルベルト、イースト・アングリア王レドワルド、ノーサンブリア王エドウィン、同じくノーサンブリア王オズワルド、ノーサンブリア王オズウィ、最後にウェセックス王エグバートの八人が次々と交替していった。(注3)

第一のブレトワルダ・サセックス王アェラは前述のとおりアングロ・サクソンの侵攻初期にブリタニアに襲来してサセックス王国を建国したという人物で、実在したかどうかは不明である。

ケント王国の勃興

最初に隆盛を誇ったのがケント王国である。ケント王国はドーヴァー海峡を望むブリタニア東南端に栄えた王国である。最初にブリタニアを訪れたサクソン人傭兵ヘンギストがブリトン人宗主ウォルティゲルンとの戦いを経て建国したと伝わる(注4)。

同国が勢力を拡大するのが第三のブレトワルダ・ケント王エゼルベルト(560頃?~616年)の頃である。フランク王カリベルト1世の王女ベルタを妃とし、キリスト教に改宗して、エセックスやミドゥル・セックスにも勢力を拡大、イングランド最古の成文法エゼルベルト法典を編纂した。しかし、彼の死後ケント王国は衰退して八世紀にはウェセックス王国、マーシア王国に従属、八世紀後半にはウェセックス王家の傍流がケント王家となっていた。

諸王国の割拠

「サセックス王国」は伝説の始祖アェラによって建国されたと伝わるケント王国の西方に位置したサクソン人の王国である。同地域はアングロ・サクソン的な地名が多くみられることからブリトン人を一掃するほど強力な支配を行っていたと考えられている。マーシア王オファによって滅ぼされた。

「エセックス王国」はケント王国の北、イースト・アングリア王国の南、現在のロンドン周辺を地盤としたサクソン人の王国である。有力都市ロンドンを抱えたことから諸国の侵攻に苦しみ有力国にならないまま、マーシア王オファによって滅ぼされる。

七王国の他、有力アングロ・サクソン勢力として、北部に後にノーサンブリア王国となるバーニシア王国とディアラ王国、リンカンを首邑として七王国に次ぐ勢力をもったリンジー王国、リンジー王国とともに中部に存在したサリ王国、イースト・アングリア王国の西にミドゥル・アングリア王国、エセックス王国の西部にミドゥル・セックス王国、後にマーシア王国へ従属するフウィッケ、マゴンサエテ王国など小勢力が割拠していた。

イースト・アングリア王国の隆盛

「イースト・アングリア王国」はイングランド東部、現在のノーフォーク、サフォーク一帯に勢力を誇ったアングル人王国である。最初ケント王国に従属したがエゼルベルト王死後に独立し、第四のブレトワルダ・レドワルド王(在位:?~624)の頃に強勢となった。レドワルド王はバーニシア王国の侵攻から逃れたディアラ王国の王族エドウィン(後の初代ノーサンブリア王)を庇護して、617年、アイドル河畔の戦いでバーニシア軍を撃破、エドウィンの復権を助けた。

七世紀半ば頃の遺跡サットン・フーの舟葬墓は名高い。サットン・フーは1939年に発見された櫂船型の墓で全長二十九メートル、最大幅四・二五メートルに及び、金で装飾された剣や盾、銀をはめ込んだフルフェイスの兜といった副葬品など多数の出土品で知られ、イースト・アングリア王アンナ(在位?~654)またはエゼルヘレ(在位654~655)、あるいは遡ってレドワルド王の墓ともいわれるが遺体はみあたらない。大規模かつフランク王国やスカンディナヴィア半島、地中海地域、さらにはビザンツ帝国とも交流していたことを浮き彫りにする遺跡で、イースト・アングリア王国の隆盛のほどがうかがえる。(注5)

サットン・フーから発見されたマスクのレプリカ

サットン・フーから発見されたマスクのレプリカ

イースト・アングリア王国は、七世紀後半以降弱体化してウェセックス王国やマーシア王国に従いつつ自立を保ったが、九世紀、ヴァイキング(デーン人)の襲来によって滅亡した。

ブリトン人諸国の守勢

六世紀、アングロ・サクソン人によってウェールズ地方、ブリタニア北部、ドゥムノニア半島へと押し出されたブリトン人諸国は一方的に押されるだけではなくアングロ・サクソン諸王国に激しく対抗して、時に圧倒することもあった。

ウェールズ地方には北部にブリトン人の首長キネザによって五世紀頃に建てられたグウィネッズ王国、ウェールズ中部にはポウィス王国、ウェールズ南部にはグウェント、グラモルガン、ケレディギオンなどブリトン人小王国が分立して、西南部にスコット人のダヴェド王国という情勢になった。七世紀、グウィネッズ王カドワロン(在位625頃~633年)はマーシア王ベンダと同盟を結んでブレトワルダの一人エドウィンを倒すなど武威を示し、カドワロンの子カドワラダ(在位633~664年)はアングルシ島のアベルフラウに王宮を建設した。

ドゥムノニア半島のブリトン人王国はウェセックス王国の圧力に激しく抵抗をつづけたが、614年、にウェセックス軍に大敗してデヴォン一帯を喪失、658年と661年にも敗北し、710年、ウェセックス王イネによってドゥムノニア王ジェイレントが破られ、825年、ウェセックス王エグバートによって征服される。

ブリタニア北部にはエディンバラ西南部からペンドランド湾にかけてブリトン人のストラクスライド王国、その南にはリージット王国があり、ノーサンブリア王国と対立することになるが、リージット王国は730年頃にノーサンブリア王国へ併合され、ストラクスライド王国はスコット人のダルリアダ王国がピクト人と一体化して成立するアルバ(後のスコットランド)王国によって、十一世紀頃に併合されていく。

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ブリタニア中部に存在したブリトン人のエルメット王国は七世紀前半、ノーサンブリア王エドウィンによって征服された後、八世紀半ばの「トライバル・ハイデジ」(後述)にマーシア王国を構成する集団名として挙げられており(注6)、マーシア王国に併合されたものと考えられている。

ノーサンブリア王国の栄光

七王国というが、事実上三つの大国の覇権争奪戦へと収斂していく。その三大国のひとつが北方の雄ノーサンブリア王国(617~867年)である。

六世紀、ハンバー川を越えて北上したアングル人たちはヨークを中心としたディアラ王国と、現在のリンディスファーン城近隣バンバラ砦を中心としたバーニシア王国の二つの王国を建てた。両王国ともアングロ・サクソン系王家が支配しつつも北部に住むブリトン人と共存したアングロ・サクソン=ブリトン統合国家であった点が特徴的である。

バーニシア王国はエゼルフリッド王(在位:593頃~617)の頃に周辺ブリトン人国家と対立してウォタディニ、リージッド、ストラクスライド、ダルリアダなどブリトン人・スコット人国家を次々と撃破し、その勢いに乗ってディアラ王国に侵攻する。ディアラの王族エドウィンはバーニシア王国の侵攻から逃れてイースト・アングリアのレドワルド王に支援を求め、617年、レドワルド王率いるイースト・アングリア軍がアイドル河畔の戦いでエゼルフリッドを敗死させるとエドウィンは帰国してバーニシア王国を滅ぼし、両国を統一してノーサンブリア王国を樹立した。

こうしてノーサンブリア王国初代国王となったエドウィン王(在位:616~632)が第五のブレトワルダである。626年、暗殺者(注7)を送ってきたウェセックスへの遠征を敢行して勝利すると、続いてブリトン人の残存王国エルメットを征服、グウィネッズ王国に侵攻して北ウェールズ一帯からマン島に及ぶ一帯を支配下においた。同時期マーシアも同国の従属下にあったと考えられている。また、ノーサンブリアで最初にキリスト教に改宗して文化を保護した。事実上イングランド全土に強力な影響力を及ぼした最初のブレトワルダといえる。

しかし、彼に敗れたグウィネッズ王カドワロンとマーシア王ベンダが同盟を結び、632年ハトフィールド・チェイスの戦いでノーサンブリア軍が敗れエドウィンが戦死すると、ノーサンブリア王国はグウィネッズ、マーシア両国に蹂躙されバーニシアとディアラに分裂した。

エドウィンに敗れて亡命していたバーニシア王家の一族オズワルドが、エドウィンの敗死の直後にグウィネッズを破ってカドワロン王を討ちノーサンブリア王国を再統一して、二代目のノーサンブリア王となった。第六のブレトワルダ・オズワルド王(在位:633~641)である。オズワルド王は最後に残ったブリトン人国家ウォタディニを滅ぼしてエディンバラを支配下に置くなど支配領域を拡大したが、641年、マーシア王ベンダに敗れて戦死、短い政権となった。

オズワルド王死後、ノーサンブリアは再びバーニシアとディアラに分裂するが、651年、バーニシア王位を継いだオズワルドの弟オズウィがディアラ王オズウィンを破り、オズウィン王が部下に殺害されると、その子ディアラ王エゼルワルドはマーシア王ベンダの庇護を求め従属。勢力を拡大していたマーシア王ベンダはイースト・アングリア、グウィネッズと同盟してオズウィに攻勢をかけた。一時、北方に逃れたオズウィは軍を整えて、654年、マーシア王国率いる連合軍を撃破してマーシア王ベンダを敗死させる。あらためてノーサンブリアを統一したオズウィ王(在位:641~670)が第七のブレトワルダとなった。

オズウィ王の統一以後、周辺諸勢力に脅かされつつも安定した治世が続いて、七世紀末から八世紀にかけて「ノーサンブリア・ルネサンス」と呼ばれる文化復興時代が訪れた。エドウィン王死後、ノーサンブリアを再統一したオズワルドがアイオナ修道院にキリスト教宣教師の派遣を求め、修道士エイダンがリンディスファーン修道院を開いたことで、キリスト教文化が花開くことになった。七世紀末に製作された装飾写本の傑作「リンディスファーンの福音書」やベーダが著した『アングル人の教会史』などが名高い。

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ベーダ「アングル人の教会史」(8世紀)

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ウェセックス王国の台頭

北方を制したノーサンブリア王国に対しイングランド南部を支配下においたのがウェセックス王国である。「アングロ・サクソン年代記」によればウェセックス王国は495年にハンプシャーに上陸したサクソン人の首長チェアディッチが、508年に創始したと伝わる。ただし、考古学上はハンプシャー一帯にアングロ・サクソン人の活動は十分には見られず、テムズ上流域に定住の跡が多くみられることから、『テムズを溯上したか、あるいはウォッシュ湾から西南に諸河川をさかのぼり、またはイクニールド道を進んでテムズ上流に至った』(注8)と考えられている。チェアディッチの孫ケアウリン(ツェアウリン)の代に勢力を拡大し、ケント王エゼルベルトを破るなどして第二のブレトワルダに数えられた。

六世紀後半から七世紀前半にかけて、ウェセックス王国はドゥムノニア半島とウェールズ地方へ侵攻して勢力を拡大したが、626年、勢力を拡大するノーサンブリア王エドウィンに暗殺者を送るが失敗し、エドウィン王の遠征を招いて敗北、続く628年にはマーシア王ベンダにも敗れ、王位継承の内紛も起こり、急速に台頭していたマーシア王国の圧力の前に一時衰退した。

七世紀後半、カドワラ王(在位685~688年)は精力的に外征に乗り出してマーシアに奪われたワイト島を奪還し、サセックス王国、ケント王国をマーシアの宗主権から解放した。続くイネ王(在位688~726年)はさらに勢威を増すマーシア王国に対抗して自立を守り、ドゥムノニア王ジェレイントを破ってドゥムノニア半島への影響力を拡大、イネ法典を制定してウェセックス王国の体制を強化した。後にイングランドを席捲するマーシア王国の圧力に耐えて自立を維持するだけの強さを両王の治世下で確立できていたことが大きい。

マーシア王国の制覇

ここまでの諸国は沿岸地域にそれぞれ成立していたが、ブリテン島中央部は小規模部族が乱立した状態が続いていた。七世紀前半、その中の一つマーシア王国の王ベンダ(在位:632頃~654)によって、このミドランズ中北部から西部にかけての諸部族が統一され、リンジー、ミドゥル・アングリア、フウィッケなど周辺諸国を傘下に収めて強大な王国が誕生する。

ベンダ王はその治世下で周辺諸国と争い、その治世下で二人のブレトワルダ・ノーサンブリア王エドウィンとオズワルドを破って敗死させ、さらに三人のイースト・アングリア王を死に至らしめるなど勢威を誇った。マーシア王国は諸国の中でキリスト教への改宗が最も遅く、ベンダ王死後の658年、ウルフヘレ王の頃だったという。以後、ブリタニア中央部の強国として周辺諸国への脅威となる。

八世紀半ばに即位したオファ王(在位:757~796年)の時代にマーシアはブリタニアを事実上支配下におさめた。即位直後、リンジー、フウィッケ両王国を併合、続いて七王国の一つエセックスを併合してロンドンを支配下とし、771年サセックス王国へ侵攻して併合、764年から攻略を続けていたケント王国も785年、ついに屈服させ宗主権下においた。さらに、779年、ウェセックス王キネウルフを撃破、794年にはイースト・アングリア王エゼルベルト2世王の斬首を命じて王家を一時断絶させ、ウェセックス王家とノーサンブリア王家とは婚姻関係を結ぶことで影響力を強めるなど、諸国に君臨した。

またウェールズ地方のブリトン人諸国との間に784年から796年にかけて総延長193キロメートル、ハドリアヌスの長城とも比肩する「オファの防塁」を築いてその権力の強大さを誇示した。九世紀後半、アルフレッド大王に仕え。『アルフレッド大王伝』を著したアッサーは『彼はウェイルズとマーシャの間を海から海へ及ぶ大規模な土防壁を造らせた』(注9)とその壮大さを語っている。

「オファの防塁」
ウィキメディアコモンズより
Tim Heaton / Jack Mytton Way and Offa’s Dyke on Llanfair Hill

事実上七王国を制覇したオファ王の治世下でイングランドは統一王権への道を歩み始める。オファ王あるいはその前王エゼルバルド(在位716~757年)の代に作成されたと考えられている「トライバル・ハイデジ」は『マーシア王が自国と宗主権下の諸国に、貢税のみならず軍役、築城、架橋などの軍事的負担(「トゥリノダ・ネケシタス」)の公的な賦課を意図して、徴税、賦課の単位たるハイド数をそれぞれに割り当て明記した文書』(注10)で、これまでの王権が戦士の第一人者的地位であったのに対し、統治王権としての性格を強めていた。オファ王はさらに現存していないが法典を整備し、貨幣制度改革を行って商業を活性化し、治世の最晩年にあたる796年のものとしてフランク王国のカール大帝と通商協定を結ぶ文書が残っている。(注11)

また、オファ王ははじめて「全アングル人の王」を名乗った王でもある。ノーサンブリア・ルネサンスを代表するベーダ『アングル人の教会史』は大陸のフランク人に対してイングランドの教会形成過程に、アングロ・サクソン人共通の歴史を見ていたように、七王国時代と言う分裂状態の中、この頃からアングロ・サクソン人たちは自らの同質性を自覚し始めていた。七王国諸国にとって辺境とみられていたマーシア王国から全アングル人の王を称する王が登場するのは象徴的である。

七王国の統一

796年、オファ王が亡くなり、続いて802年、親マーシア政策を続けていたウェセックス王ベオルフトリクも亡くなると、同年、フランク王国へ亡命していたケントの王子でウェセックス王家の血を引くエグバートがカール大帝の支持を背景にブリテン島に戻りウェセックス王として即位した。

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オファ王死後、マーシアは短命の王が続いており、その間エグバートは力を蓄えつつ、コーンウォールを征服して懸案のドゥムノニア半島を平定、825年、満を持してエグバート王がマーシアに侵攻してマーシア軍を撃破すると、勢いにのってケント王国を解放してウェセックス王国の支配下に置き、829年、ついにマーシア王国を征服してイングランドをその宗主権下に置いた。この最後のブレトワルダ・エグバート王の征服をもって七王国時代は終わりをつげ、アルフレッド大王に始まるウェセックス王国による統一国家イングランド王国建設の歩みが始まることになる。

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一方、八世紀末の789年、ブリテン島に最初のデーン人が来襲し、以後その侵攻は激しさを増していく。デーン人とウェセックス王国を中心としたアングロ・サクソン人との対立の中で867年にノーサンブリア王国が、870年にイースト・アングリア王国がいずれもデーン人の侵攻によって滅び、エグバート王に倒されたのち王政が復活、ウェセックス王国の宗主権下にあったマーシア王国もデーン人の攻勢で荒廃し879年に最後の王が亡くなるとウェセックス王国に併合された。かくして、アルフレッド大王以降ウェセックス王家がアングロ・サクソン唯一の王として「七王国の玉座」に君臨することになった。その後、デーン人の征服王朝「北海帝国」時代からエドワード証聖王の一時的安定を経て、「ノルマン人の征服」によって、イングランドは統一されていくことになる。

脚注

注1)七王国時代の時代区分については、『世界史用語集』は『アングロ・サクソン年代記』の記述に基づくサクソン人首長ヘンギストとホルサのブリテン島来訪年である449年からウェセックス王エグバートがマーシア王国を滅ぼす829年とするが、449年という来訪年には諸説あり、世界歴史大系など概説書では、ブリトン人王国が終焉地域へ追われアングロ・サクソン人王国がイングランド中央部・南部の支配権を確立した七世紀から九世紀というように具体的な年代を挙げず幅を持たせた記述になっている。

注2)ベーダの著作名(ラテン語:Historia ecclesiastica gentis Anglorum, 英語: Ecclesiastical History of the English People)については「イングランド教会史」「アングル人の教会史」など邦訳がいくつかあり、講談社学術文庫からは『ベーダ英国民教会史』というタイトルで邦訳されている。

注3)ベーダは最初の七人を挙げ、『アングロ・サクソン年代記』は八人目としてウェセックス王エグバートを追加した。

注4)青山編89頁

注5)青山編92頁、桜井80-85頁

注6)青山編88頁

注7)ベーダ「アングル人の教会史 第二巻 8」によれば、626年、ウェセックス王によってエオメルという暗殺者が送られ、言葉巧みにエドウィン王に拝謁すると毒を塗った両刃の短剣で王に襲い掛かるものの、リッラという王の従士が身を挺して防ぐものの、彼を貫いて王に軽傷を負わせた。(高橋博訳『ベーダ英国民教会史』(91-92頁)

注8)青山編著97頁

注9)アッサー71頁

注10)青山編101頁

注11)桜井145-146頁にシャルルマーニュからオファ王への書簡の文面が紹介されている。『あなたが心配する商人の安全については、彼らはわが王国において保護されることを保障します。もしあなたの国の商人がわが国において不当な扱いを受けるなら、彼らは我々に訴えることを許されます。同様に、わが商人は貴国において公正な判断を求めることを要求します。』

参考文献

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・大沢一雄著『アングロ・サクソン年代記』(朝日出版社,2012年)
・桜井俊彰著『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 (歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館,2010年) rel=”noopener”
・高橋博訳『ベーダ英国民教会史 (講談社学術文庫)』(講談社,2008年)
・アッサー著(小田卓爾 訳)『アルフレッド大王伝 (中公文庫)』(中央公論新社,1995年)

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