クリュニー修道院の改革運動(十~十一世紀)まとめ

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クリュニー修道院

「クリュニー修道院」
Rillke [CC BY-SA 3.0] Wikimedia Commonsより

「クリュニー修道院運動」は十~十一世紀にかけてのヨーロッパでおきた、フランス・ブルゴーニュ地方のクリュニー修道院を中心とした世俗・司教権力からの自由と修道士たちの倫理的刷新を目的とした改革運動で、この結果、世俗権力から独立した教皇直属の修道院の下に多数の分院を抱える「修道会」制度が成立し、クリュニー修道院傘下の修道士たちから「グレゴリウス改革」を主導する人材を多く輩出した。フランス革命時に敵視され1791年に解散、1823年までに建物も取り壊された。

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前史~修道院制の成立と変容

ローマ帝国時代の四世紀初期頃、エジプトに登場した、砂漠に隠棲して禁欲的な生活を送る修行方法をとる世俗のキリスト教徒は修道士と呼ばれ、彼ら修道士の共同生活の場としての修道院がエジプトを中心に建てられるようになった。修道院制は五~六世紀頃にヨーロッパに伝わり、イタリア、ガリア、イベリア半島、そしてアイルランドなどで修道院が増えていった。

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五世紀末~六世紀前半の修道士ヌルシアのベネディクト(”Benedict of Nursia”羅:Benedictus Nursiae,480頃~550頃)は後に「ベネディクト会則(戒律)」と呼ばれる厳格な規則を定めてイタリアのモンテ・カッシーノに修道院を建てて仲間とともに厳しい禁欲生活を送ったが、その死後、モンテ・カッシーノ修道院はランゴバルド人の襲撃によって廃され、「ベネディクト会則」は北ガリアなど一部に広まるにとどまっていた。「ベネディクト会則」が西ヨーロッパ世界に広がるのは九世紀以降のことである。

アイルランド出身の修道士聖コルンバヌス(小コルンバ “Columbanus ” 543-615)が591年にガリアに到着して、フランス各地に修道院を建設したことでアイルランド系修道院がヨーロッパに広がり、主流となった。七世紀末までにガリアだけで550の修道院が建てられたという。(注1)

修道院は世俗の君主や大土地所有者の支援を受け、彼らの所領の寄進を受けることで誕生していったが、なぜ彼らは修道院の創設を支持したのか。

『死後の魂の行方は、罪と贖罪の観念が人々の内面で重みを増すとともに、ますます大きな関心事となった。コルンバヌス修道制の影響の拡大と手を携えるように展開した、メロヴィング王家や、とりわけ貴族層のあいだで盛んとなった修道院創建の動きは、後者の貴族門閥のアイデンティティ確立の一環であるとともに、物故した一門の先祖たちの、魂の彼岸の旅への支えを意図するものでもあった。』(注2)

大土地所有者となった修道院は西ローマ帝国崩壊後のヨーロッパで農地再開発の原動力となった一方、修道院長職は王族・貴族層が独占・世襲することとなり、世俗化が進むこととなった。

メロヴィング朝に代わってカロリング朝フランク王国となるとカール大帝(在位768-814)の治世下で教会・修道院は王国の下に置かれて聖俗の一体化が進み、カール大帝の跡を継いだルートヴィヒ敬虔帝(在位814-840)はアニアーヌのベネディクト(” Benedict of Aniane ” 羅: Benedictus Anianensis,747頃-821年)に命じて「ベネディクト会則」の厳格化と各修道院への導入を進め修道院制度は改めて興隆の兆しを見せた。

九世紀から、北海沿岸からはヴァイキング、イベリア半島・地中海沿岸からはイスラーム勢力、東欧からはマジャール人という外敵の侵攻によって各地の修道院は大きな被害を受けた。さらに、ルートヴィヒ敬虔帝死後、フランク王国は分裂して抗争状態となり、ヨーロッパは荒廃、修道院も多くが廃絶を余儀なくされ、十世紀以降修道院の復興運動が始まることになる。

クリュニー修道院の創建と修道会ネットワークの成立

修道院改革を主導したクリュニー修道院は、910年、アキテーヌ公ギョーム1世敬虔公とその妃インゲルベルガの寄進によって、ベルノンを初代院長として創建された修道院である。創建時の寄進文書には『いかなる地上の権力の軛にも従属しないこと』、その権力とは『世俗の君侯、すべての伯、すべての司教、上記ローマの首座たる教皇』(注3)であることが明記された。927年に第二代修道院長となったオドの下で修道院運営の基礎が整えられ、998年、オディロン修道院長の代に司教の監督から解放される特権を教皇より得て、教皇直属の独立した修道院としての地位を確立した。

彼らはベネディクト会則の遵守と典礼重視の厳格な修道生活を実践し、建築活動や写本作成など活発な活動を行った。また、クリュニー修道院の独自性として、死者供養のための祈願が行われたことが挙げられる。彼らの修道生活は平信徒の労働によって支えられたが、これは後にシトー派による批判を呼ぶことになる。

クリュニー修道院の修道生活は聖俗問わず多くの支持を集め、各地でクリュニー修道院のやり方を導入しようという動きが始まる。従来、修道院長が別の修道院の院長を兼職することは禁じられていたが、オドはスイスやブルゴーニュの修道院の院長に就任して、それぞれの修道士団を一体化させ、十一世紀までに、クリュニー修道院は傘下に200の分院を抱えるほどに成長(注4)した。これが「修道会」の始まりである。

『しばしば「ベネディクト会」という名称のもと、これに先行する時代にも修道会が存在したかのように語られることがある。しかしそれはここでいうような厳密な意味での「修道会congregatio,ordo」ではない。それはベネディクト戒律という同じ戒律を共有しているという程度の、漠たる意味あいでしかないのである。真の意味での修道会は、クリュニーをもって嚆矢とすることを強調しておきたい。』 (注5)

以後、クリュニー修道会に倣って修道院は再編されて多くの修道院を傘下とする修道会ネットワークがヨーロッパに登場することとなった。しばしば、このクリュニー修道会の体制は「帝国」に例えられる(注6)。クリュニー修道院とその直属の五大修道院を頂点として、所属修道院は十二世紀初頭で1500を数え(注7)、大規模な財が集積され、広大な所領では農奴が働かされて、修道士の修行生活を支えていた。

修道院改革運動からグレゴリウス改革へ

神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世(在位1039~56)はクリュニー修道院長オディロンとも親交深く、ドイツにおけるクリュニー改革最大の庇護者となった。また、フランス王ロベール2世敬虔王(在位996~1031)もクリュニーの支持者として知られる。君主権力が修道院改革の支持者となったのは、世俗貴族層による教会支配への対抗という点で一致していたからである。十世紀、ローマではトゥスクルム伯家やクレシェンツィ家といった都市貴族がローマ教皇位を世襲して事実上支配下においており、地方の司教位も多くが貴族たちの支配下にあって、彼らは君主を脅かすほどだった。

『修道院の改革者の目指すところと君主権の目指すところとの間には根本的な対立は見られなかった。神聖な職務を自覚していた王は、俗人貴族の締め付けから教会を解放しようという改革者たちにとって、最も期待できる同盟者であった。他方で、改革者たちは、教会に対する王の権限を多くの点で容認し、それらの権限は長らく行使されるにつれて神聖化され、十一世紀前半に通用していた教会法集成で承認されていた。』(注8)

このような、クリュニー修道院に代表される改革運動の担い手となった修道士たちの間で、「聖職売買(シモニア)」「聖職者の妻帯(ニコライズム)」に対する批判の声が高まり、十一世紀から始まる教会改革「グレゴリウス改革」の動きを後押しするとともに、教会改革運動を主導した人材を多く輩出した。

ただし、「グレゴリウス改革」への影響はクリュニー修道会よりもロタリンギアでの修道院改革運動の影響力の方が重視されており、教会改革の進展とともに、当初協力的だったクリュニー修道会は教皇権の強化を目指す教皇グレゴリウス7世と対立するようになっていく。

脚注

注1)佐藤 彰一 著『贖罪のヨーロッパ – 中世修道院の祈りと書物 (中公新書) 』(中央公論新社,2016年)105-106頁

注2)佐藤 彰一 著『贖罪のヨーロッパ – 中世修道院の祈りと書物 (中公新書) 』(中央公論新社,2016年)95頁

注3)佐藤 彰一 著『贖罪のヨーロッパ – 中世修道院の祈りと書物 (中公新書) 』(中央公論新社,2016年)224頁

注4)ヘンリー・R・ロイン編(魚住昌良監訳)『西洋中世史事典』(東洋書林,1999年,原著1989年)178頁

注5)佐藤 彰一 著『贖罪のヨーロッパ – 中世修道院の祈りと書物 (中公新書) 』(中央公論新社,2016年)231頁

注6)アニェス・ジェラール、ジャック・ル・ゴフ著(池田健二訳)『ヨーロッパ中世社会史事典』(藤原書店,1991年,原著1986年)106頁

注7)佐藤 彰一 著『贖罪のヨーロッパ – 中世修道院の祈りと書物 (中公新書) 』(中央公論新社,2016年)233頁

注8)ジェフリー・バラクロウ著(藤崎衛訳)『中世教皇史』(八坂書房,2012年)118頁

参考文献

・佐藤 彰一 著『贖罪のヨーロッパ – 中世修道院の祈りと書物 (中公新書) 』(中央公論新社,2016年)
・佐藤 彰一 著, 池上 俊一 著『世界の歴史〈10〉西ヨーロッパ世界の形成 (中公文庫) 』(中央公論新社,2008年,原著1997年)
・柴田三千雄編『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』(山川出版社, 1995年)
・アニェス・ジェラール、ジャック・ル・ゴフ著(池田健二訳)『ヨーロッパ中世社会史事典』(藤原書店,1991年,原著1986年)
・ジェフリー・バラクロウ著(藤崎衛訳)『中世教皇史』(八坂書房,2012年)
・ヘンリー・R・ロイン編(魚住昌良監訳)『西洋中世史事典』(東洋書林,1999年,原著1989年)

杉崎 泰一郎「関口武彦著, 『クリュニー修道制の研究』」(史学雑誌,115巻2号,2006年,218-227頁)

Kousyou

「Call of History ー歴史の呼び声ー」管理者。個人ブログはKousyoublog。英独仏関係史、欧州中世史、近世日本社会史、鎌倉幕府史などに興味があります。

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