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「公会議主義」の登場から退潮まで~中世末期教会改革の挫折

公会議(ラテン語” Concilium Oecumenicum”,英語” Ecumenical council”)は以下のように定義される。

『カトリック教会において全世界の司教が教会の最高指導者として集まり、信仰とキリスト教生活に関して規範となるような議決を行う教会の最高会議。教皇が召集・主宰し、決議を承認すると規定されている』(注1)

325年の第1ニカイア公会議を最初の公会議として、教皇の下で教義の制定や教会行政上の決定、異端の排斥などの機能を担ったが、十一世紀以降の教会改革を経て教皇権が強化されると、教皇の悪政を抑止する機能を公会議が持つとする見解が生じ、十三世紀頃から教皇至上権に対し公会議こそ教皇より高位の権力を持つとする理論が提唱されるようになり、1378年から「教会大分裂(大シスマ)」時代に入ると、公会議が教会における至上権を持つとする「公会議主義(” Conciliarism ”)」が多くの教会関係者から支持を受けるようになった。(注2)

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背景~「アナーニ事件」から「教会大分裂(大シスマ)」まで

ローマ教皇の権威は十一~十二世紀の教会改革を経てインノケンティウス3世(在位1198-1216)の下でフランスと神聖ローマ帝国という二つの帝国的王権に対し紛争の調停者として振舞うことで絶頂期に達した。しかし、神聖ローマ皇帝の退潮の中で、勢力を伸ばすフランス王フィリップ4世(在位1285-1314)は教皇権との対決姿勢を明らかにし、対イングランド戦争の戦費調達を目的とした聖職者への課税の是非を巡って教皇ボニファティウス8世(在位1294-1303)と衝突、1303年、ついにボニファティウスを監禁するまでに至る(「アナーニ事件」)。

ボニファティウス8世死後、教皇クレメンス5世(在位1305-1314)は1309年、フランス王権の脅威に抗しきれず、南フランスのアヴィニョンに教皇庁を移さざるを得なくなった(「教皇のバビロン捕囚」(1309~1377年))。アヴィニョン教皇庁は行政機構が整い文化の中心となったが、聖職禄授与権の濫用や聖職者の堕落を招き多くの批判を受けた。

1377年、教皇グレゴリウス11世(在位1371-1378)はローマへの帰還を果たし、その死後の1378年、イタリア・ナポリ出身のウルバヌス6世(在位1378-1389)が新教皇に選出されるが、親フランスの枢機卿団はこれを不服として、アヴィニョンに対立教皇クレメンス7世(在位1378-1394)を擁立、互いを破門して、以後ローマとアヴィニョンに教皇が分立する「教会大分裂(大シスマ)」(1378~1417年)時代を迎えた。両教皇とも正当な手続きに沿って選出され、諸国の支持も二分されたため、この分裂を解消するのは容易ではないと思われた。

公会議主義の台頭

このような大シスマを解決する主張として登場するのが、司教の代表者による公会議こそ教皇の上位にあるとする公会議至上権を唱える「公会議主義(” Conciliarism ”)」であった。

公会議主義はインノケンティウス3世期の教皇権に制限を加えようとする教会法学者フグッキオ(” Huguccio ”)らの議論を淵源とし、十四世紀初頭、パドヴァのマルシリウスやオッカムのウィリアムらが唱えた公会議の至上権を支持する見解を土台としている。(注3)

パドヴァのマルシリウス(ラテン語”Marsilius”,伊語”Marsiglio da Padova”,英語”Marsilius of Padua”,1280頃~1343頃)は1324年の著書「平和の擁護者”Defensor Pacis”」で、アヴィニョン教皇時代のイタリアの荒廃の原因が、教皇権が世俗の権威を侵害したことで教会と国家の秩序を混乱させたことにあるとして、信者の総体としての公会議を教皇の高位に置いた。(注4)

『教会は聖職者と俗人から後世されるものと規定され、その内部においては、権威の究極的な源泉は、信者の総体である。これは公会議によって代表される。教皇はこの公会議のもとにあり、これによって廃位され得る。マルシリウスは、教皇が全面的に権力を有するという教義を否定するばかりではない。教皇の優位性を否定しつつ、教会の神政構造全体崩して、教皇と公会議の間に確立された関係を逆転させるものである。』(注5)

イングランドのフランチェスコ会の神学者オッカムのウィリアム(”William of Occam”)は、マルシリウスとともに教皇ヨハネス22世(在位1316-1334)と対立してドイツ王・神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世(ドイツ王:在位1314-1347,神聖ローマ皇帝:在位1328-1347)のもとに逃れ、教皇の俗権を批判した。彼は、普遍的教会(”Universal Church”)は異端に陥ったことは無いが、教皇は異端となったことがあるとして、教皇が異端に陥った場合には公会議を開催してこれを裁くことができると主張した。(注6)

公会議主義運動の隆盛――コンスタンツ公会議とシスマの解消――

1380年、二人の神学者ゲルンハウゼンのコンラートとランゲンシュタインのハインリヒが大シスマの解消を目的とした公会議の開催を提唱、彼らの主張は『教会の無謬性は教皇において具現化するのではなく、信者の共同体においてであり、公会議は信者共同体の代表として教皇に優越する』(注7)というものであった。1394年、パリ大学はシスマ解消の方法として第一に協議による調停「事実の道」、第二に両教皇の自主的退位による「譲位の道」、第三に公会議によって解決を図る「公会議の道」の三つの解決法を提言した。(注8)

1409年、教皇グレゴリウス12世(在位1406-1415)とアヴィニョン対立教皇ベネディクトゥス13世(在位1394-1417)の両枢機卿団は共同してピサ公会議を開催、両教皇へ退位を促すとともに新教皇アレクサンデル5世(在位1409-1410)を選出したが、両教皇とも退位を拒否したため、三教皇が並立することとなった。

1414年、神聖ローマ皇帝ジギスムント(在位1410-1437)の主導で開催されたコンスタンツ公会議(1414-1418)はヤン・フスの処刑とあわせて三教皇の退位および新教皇マルティヌス5世の選出による教会大分裂の終結という成果を収めたが、同公会議ではパリ大学総長ジャン・ジェルソン(” Jean de Gerson ”)や神学者ピエール・ダイイ(” Pierre d’Ailly ”)らが公会議主義の理論を主導し、以下のように公会議主義に基づく教令「聖なる公会議は(ハエク・サンクタ・シノドゥス” Haec Sancta Synodus ”)」が発された。

『これは聖霊において正統に集められ、普遍的公会議を構成し、カトリック教会を代表し、キリストから直接権限を授けられている。したがって、どのような身分・位階にある者でも、たとえ教皇位にある者でも、信仰、シスマの根絶、頭と肢体にわたる教会の改革に関する事柄については服従の義務を負う。』(注9)

公会議主義の退潮――バーゼル公会議の失敗と教皇権の勝利――

前述の通り、コンスタンツ公会議では大シスマの解消と教会に対する批判の急先鋒であったヤン・フスの処刑が行われたが、根本的な問題である教会改革の具体的施策については先送りされ、1423年、教皇マルティヌス5世は改めてパヴィア公会議を開いたが、諸国は再開された百年戦争とフス処刑に端を発したフス戦争に忙殺され何の成果も残せなかった。

1431年から開催されたバーゼル公会議では、フス派の軍事的成功を背景に、フス派に対抗するためには教会改革が最重要課題であるとして、枢機卿ジュリアーノ・チェザリーニ(” Giuliano Cesarini ”)を中心に教会改革案が提出されたが、マルティヌス5世を継いだエウゲニウス4世(在位1431-1447)は公会議主義者との対決姿勢を露わにして公会議の解散を図った。バーゼル公会議で公会議主義を主導した神学者としてニコラウス・クザーヌス(” Nicolaus Cusanus”)が名高い。

エウゲニウス4世はオスマン帝国の圧迫を受けたビザンツ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴス(在位1425-1448)からの軍事援助の求めとその条件としての東西教会の再統一の打診を受けたことで、1438年、バーゼル公会議の解散とフェラーラでの公会議再開催を宣言、翌39年、フィレンツェへ公会議の場を移した。バーゼルに残った公会議主義者の司教たちはエウゲニウス4世に対抗して対立教皇フェリクス5世(在位1439-1449)を擁立、再分裂状態となる。

この頃、世俗権力はいずれも国内事情から教会改革への興味を失い教皇エウゲニウス4世との融和を図った。神聖ローマ帝国は皇帝ジギスムント死後帝位を継承したハプスブルク家が弱体な権力基盤を整えるため教皇との関係を重視し、1446年、一部の司教任命権を認められたことで教皇支持に回った。イングランドではコンスタンツ公会議でのマルティヌス5世との協定を引き続き継承することで満足し、百年戦争を優位に進めるようになったフランス王権とは、1438年に国王シャルル7世(在位1422-1461)が発した教会に対する国王の監督権などを宣言した「ブールジュの国事詔書」を容認することで折り合いがついた。以後フランスではガリカニズムの発展がみられるようになる。

以上のように、公会議主義勢力が推進しようとする教会改革の動きは世俗権力の支持を失い、世俗権力の後ろ盾を失ったことで彼らは急進的に改革を進めようとして、世論から乖離し、結果的に『教皇の権限を統制はするが破壊はしないという保守的な性格を強めることになった』(注10)。1449年、公会議主義の牙城だったバーゼル公会議は解散、対立教皇フェリクス5世は退位し、公会議主義運動は退潮を余儀なくされていった。(注11)

教皇権が公会議主義に勝利してローマ教皇が集権的権力を回復した結果となったが、反面、カトリック教会が抱える諸問題はなんら解決されず、中世末期の教会改革は挫折した。かくして次の世紀、宗教改革の時代を迎えることになる。

脚注

注1)「公会議」(大貫隆, 宮本久雄, 名取四郎, 百瀬文晃編著『岩波キリスト教辞典』岩波書店,2002年))

注2)「公会議主義」(大貫隆, 宮本久雄, 名取四郎, 百瀬文晃編著『岩波キリスト教辞典』岩波書店,2002年))

注3)「公会議主義」(大貫隆, 宮本久雄, 名取四郎, 百瀬文晃編著『岩波キリスト教辞典』岩波書店,2002年))なお、同項目ではフグッチョ表記だが、ここではフグッキオに改めた。

注4)ヘンリー・R・ロイン編(魚住昌良監訳)『西洋中世史事典』(東洋書林,1999年,原著1989年)513頁

注5)ヘンリー・R・ロイン編(魚住昌良監訳)『西洋中世史事典』(東洋書林,1999年,原著1989年)514頁

注6)ヘンリー・R・ロイン編(魚住昌良監訳)『西洋中世史事典』(東洋書林,1999年,原著1989年)514頁/Conciliarism – Wikipedia

注7)ジェフリー・バラクロウ著(藤崎衛訳)『中世教皇史』(八坂書房,2012年)294頁

注8)野口洋二「第9章 中世のキリスト教」(柴田三千雄他編『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』山川出版社, 1995年))466頁、ジェフリー・バラクロウ著(藤崎衛訳)『中世教皇史』(八坂書房,2012年)298頁

注9)松本宣郎編『キリスト教の歴史〈1〉初期キリスト教~宗教改革 (宗教の世界史)』(山川出版社,2009年)229頁

注10)ジェフリー・バラクロウ著(藤崎衛訳)『中世教皇史』(八坂書房,2012年)313頁

注11)公会議主義の退潮の展開については、ジェフリー・バラクロウ著(藤崎衛訳)『中世教皇史』(八坂書房,2012年)308-314および松本宣郎編『キリスト教の歴史〈1〉初期キリスト教~宗教改革 (宗教の世界史)』(山川出版社,2009年)228-231頁、野口洋二「第9章 中世のキリスト教」(柴田三千雄他編『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』山川出版社, 1995年)467-469頁、P・G・マックスウェル・スチュアート(高橋 正男 監修, 月森 左知, 菅沼 裕乃 訳)『ローマ教皇歴代誌』(創元社,1999年,原著1997年)187頁などを参照してまとめている。

参考文献

・大貫隆, 宮本久雄, 名取四郎, 百瀬文晃編著『岩波キリスト教辞典』岩波書店,2002年)
・柴田三千雄他編『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』山川出版社, 1995年)
・松本宣郎編『キリスト教の歴史〈1〉初期キリスト教~宗教改革 (宗教の世界史)』(山川出版社,2009年)
・アニェス・ジェラール、ジャック・ル・ゴフ著(池田健二訳)『ヨーロッパ中世社会史事典』(藤原書店,1991年,原著1986年)
・ジェフリー・バラクロウ著(藤崎衛訳)『中世教皇史』(八坂書房,2012年)
・ヘンリー・R・ロイン編(魚住昌良監訳)『西洋中世史事典』(東洋書林,1999年,原著1989年)
・P・G・マックスウェル・スチュアート(高橋 正男 監修, 月森 左知, 菅沼 裕乃 訳)『ローマ教皇歴代誌』(創元社,1999年,原著1997年)
Conciliarism – Wikipedia

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