ナポレオン率いるフランス軍と英・プロイセン・オランダ等連合軍とが戦ったワーテルローの戦いで使われたモン・サン・ジャン(Mont St Jean)の連合軍野戦病院跡の発掘調査で、治療のため切断された足の人骨や使用されたマスケット銃、砲弾などが発見された。
グラスゴー大学トニー・ポラード教授(紛争史・考古学)率いる、考古学者・退役軍人らからなるボランティア団体Waterloo Uncovered の調査チームが発掘にあたっていた。BBC、CNN、FOX他海外主要メディアが報じている。
モン・サン・ジャン野戦病院が置かれていた農場から約90フィート離れた果樹園で発見された。今回発見された人骨は四つ。いずれも足の骨で、いくつかに「壊滅的な傷による外傷」の可能性のある証拠が認められ、別に「外科医による膝上切断手術」に合致する痕跡があるという。
この地域で活動している考古学者にとっての課題の一つは、発見された人骨がワーテルローの戦いに関係があるかどうか見極めることだ。切断された骨が見つかった溝からは、弾薬箱の残骸や剣・銃剣の鞘の金具とみられる多くの金属片も一緒に発見されており、発掘調査に当たったWaterloo Uncoveredの広報グリーンウッド氏は「我々は遺骨が戦いのものであることを確信している」とFOXNEWSに答えている。
ナポレオンの失脚を決定づけたワーテルローの戦いの間、モン・サン・ジャン野戦病院では推定500人の手足が切断され、約6,000人の連合軍兵士とフランス人捕虜が治療を受けた。戦闘中に受けた負傷の65%は手足の負傷だった。(CNN)
また、モン・サン・ジャン野戦病院跡の調査では病院入り口付近に発射されたマスケット銃が発見され、これまで記録されていなかった戦いが野戦病院付近で行われたことを示唆しているという。さらに、野戦病院跡から約600~900フィートのところにある前線に面した畑で6ポンド(2.7キログラム)のフランス製の砲弾も発見された。
CNNは、「この地域で6ポンドのフランス製の砲弾が発見されたことは、ナポレオンが戦闘時、連合軍に痛撃を与えるのに十分な大砲を前線に近づけることができたことを示唆している」と述べている。「しかし、ナポレオンにはその有利な立場を利用するのに十分な歩兵がいなかったため、プロイセン軍が左翼に到着して戦いの流れを逆転させた」(CNN)
発見された骨は、現在ベルギー当局の管理下で保管されている。
ワーテルローの戦い
ロシア遠征の失敗と続くライプツィヒの戦い(諸国民戦争)の敗北によって対仏同盟軍のフランスへの侵攻を許すことになったナポレオンは、1814年、首都パリ陥落を受けて退位を表明、エルバ島へと流されることとなった。
ブルボン朝による復古王政への国民の不満や遅々として進まないウィーン会議という混沌の中、ナポレオンはエルバ島を脱出して兵力を糾合、ブリュッヒャー率いるプロイセン軍を撃破すると、1815年6月18日、ブリュッセルの南、モン・サン・ジャンに防衛陣地を築いて迎え撃つウェリントン公率いる英欄連合軍へ決戦を挑んだ。これが「ワーテルローの戦い」で、当初、ナポレオン軍が連合軍を圧倒したが連合軍はこれを凌ぎ切り、態勢を立て直したプロイセン軍の到着によってナポレオン軍を撃破した。
この結果、ナポレオンの「百日天下」は終わり、ヨーロッパはフランス革命・ナポレオン戦争以前の状態の回復を目指した国際協調体制「ウィーン体制」の時代を迎えることになった。






