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百年戦争「アルマニャック派」とは何か、成立から消滅まで

アルマニャック派(” Armagnacs”)は1410年、台頭するブルゴーニュ公ジャンへの対抗としてオルレアン公シャルル、アルマニャック伯ベルナール7世、ベリー公ジャンら有力諸侯が結成した反ブルゴーニュ派同盟。イングランド軍の侵攻後は、王太子シャルル(のちのシャルル7世)を擁してブールジュを本拠地とした勢力の総称となった。名称の由来は主力となった南フランスの有力諸侯アルマニャック伯から。1420年代後半、シャルル7世政権内に親ブルゴーニュ派が台頭し、1435年のアラス和約においてフランス王シャルル7世とブルゴーニュ公フィリップ3世との和解が成立したことで消滅した。

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オルレアン公ルイ暗殺事件

1337年に始まったイングランドとフランスの百年戦争は、1385年のフランス軍によるイングランド上陸作戦の失敗を最後に、1389年に結ばれたレウリンゲン休戦条約が随時更新され続けることで恒久的な平和が訪れたかに見えた。しかし、1392年、フランス王シャルル6世が狂気の発作を起こすと、統治の主導権を巡って王弟オルレアン公ルイと先王シャルル5世の弟ブルゴーニュ公フィリップ2世豪胆公との間で政策上の対立もあわさって派閥抗争となった。

思慮深いフィリップ2世存命中は――何度かあわや武力衝突かという危機は訪れたものの――まだ政争の域を出なかったが、1404年、フィリップ2世が亡くなり子のジャン(ジャン無怖公)が跡を継ぐと、互いに強硬な姿勢を崩さない両者の対立は先鋭化することとなった。豪胆公の死によって国政の主導権を握ったオルレアン公ルイに対し、宮廷に支持基盤を持たないジャン無怖公はオルレアン公を国政を壟断する「僭主」として批判するプロパガンダを展開してパリを中心に都市民の支持を集めた。一方イングランドの内戦に介入しようとするオルレアン公がギュイエンヌ方面での軍事作戦に失敗して権力に陰りが見えると、両者の勢力バランスは均衡するようになる。この均衡を崩すべく、ジャン無畏公は短絡的な行動に出た。1407年11月23日、ブルゴーニュ公ジャンは配下を使ってオルレアン公ルイを暗殺したのである。

オルレアン公ルイの暗殺

オルレアン公ルイの暗殺

ブルゴーニュ公ジャン無畏公の専横

ブルゴーニュ公ジャン無怖公

ブルゴーニュ公ジャン無怖公

宮廷はジャン無怖公の追放を決めたが、パリ市民の間ではジャンの人気が高く、1408年、シャルル6世はブルゴーニュ公の赦免を決定し、1409年3月9日、国王・諸侯臨席で赦免の儀式(シャルトルの和平)が行われて公はパリへ帰還する。国政の主導権を握ったジャン無怖公は1409年10月17日、国王宮内府長官ジャン・ド・モンテギュを処刑するなど強権を振るった。

名君として知られたシャルル5世が築いた統治機構は、国王とその嫡流からなる王家、王族ら同輩衆を中心とする有力諸侯、行政を担当するマルムゼと呼ばれた官僚、三者の相互牽制によって成り立っていたが、このとき国王シャルル6世は心神耗弱状態にあり王弟オルレアン公ルイも暗殺されて王家の統治能力は喪失、続いて官僚の代表格だったモンテギュをはじめ有力官僚が次々粛清され、諸侯の中で突出した軍事力をもつジャン無怖公による専横を許すことになった。

ジャン無怖公はただの秩序の破壊者ではなく、大衆からの強力な支持を受けている。オルレアン公ルイの政治は王権の強化を目指したことで、休戦中の対イングランド戦争の再開など対外的積極策が中心で、必然的に増税を伴うため庶民の負担は目に見えて増え支持を失っていた。ジャンはこの批判者として登場したから、庶民からはその手段を択ばぬ暴力性もリーダーシップある改革者としてうつる。知識人の間でも暴力の行使を擁護する意見も少なくなかった。

アルマニャック派の形成

オルレアン公ルイ死後あとを継いだオルレアン公シャルル(シャルル・ドルレアン)とオルレアン公ルイの遺臣たちをはじめとして、前王シャルル5世の弟ベリー公ジャンや南フランスの領主アルマニャック伯ベルナール7世などが対ブルゴーニュ公批判の急先鋒となった。人望厚いシャルル5世の義兄ブルボン公ルイ2世がブルゴーニュ公派と反ブルゴーニュ公派との間で調停役となっていたが、1409年末、老齢から所領に退き、1410年8月10日に亡くなった。ブルボン公の引退によって両派の亀裂は決定的となる。

1410年4月15日、ベリー公は保有する城の一つジアン城にオルレアン公シャルル、アルマニャック伯ベルナール7世、アランソン伯ジャン1世、クレルモン伯ジャン(ブルボン公ルイ2世の子、のちのブルボン公ジャン1世)ら反ブルゴーニュ派諸侯を招いてジアン同盟を締結させた。オルレアン公シャルルはベリー公の孫娘でアルマニャック伯ベルナール7世の娘であるボンヌ・ダルマニャックを妻に迎えることで協力関係が成立し、これによって結成された反ブルゴーニュ公同盟がアルマニャック派と呼ばれることになる。

内戦の開始

1410年中にアルマニャック派軍がパリへ進軍を開始してアルマニャック、ブルゴーニュ両派は戦争に突入した。1413年5月、パリで不平を持った職人らを中心とした暴動「カボシュの乱」が勃発し、8月、ジャン無怖公はパリから脱出を余儀なくされる。一方、パリに入城したアルマニャック派も市民の支持を得られず、両派決め手を欠く中で、ともに支援を求めたのがイングランド王だった。

イングランド王ヘンリ5世は両派からの同盟交渉に対して非常に過大な要求を提示しつつ侵攻の準備を整え、1414年夏、アルマニャック派フランス政府との交渉でシャルル6世と同等のフランスの統治権の譲渡や多数の領土の割譲など過大な条件を出し、翌1415年3月にフランス政府がこれを拒絶すると、フランス側の不誠実な態度を批判して、フランス侵攻を開始した。

1415年10月25日、アジャンクールの戦いでアルマニャック派を中心とするフランス軍約3万余が三分の一のイングランド軍に大敗、オルレアン公シャルル、ブルボン公ジャン1世らが捕虜となりアランソン公(1415年伯から公へ陞爵)ジャン1世が戦死するなどアルマニャック派首脳陣が壊滅、さらに1417年までに王太子ルイ、第二王子ジャン、ベリー公ジャンも病死してフランス政府は機能不全に陥った。

残ったアルマニャック派の首魁アルマニャック伯ベルナール7世は大元帥に就任して暴力的な統治体制を築いたため、1418年5月29日、パリ市民の不満が爆発して暴動が勃発、ブルゴーニュ公軍が招き入れられ、その混乱の中でアルマニャック伯ベルナール7世を含むアルマニャック派が多数虐殺された。オルレアン公の家臣だったパリ市長タンギー・デュ・シャテルらが王太子シャルルをパリから脱出させてベリー公の旧領ブールジュに落ち延び、王太子シャルルを擁したアルマニャック派残党の拠点を築いた。

ブルゴーニュ公ジャン暗殺事件

パリを占領したジャン無怖公だったが、そのころ、ヘンリ5世率いるイングランド軍は破竹の勢いでノルマンディ地方とその周辺を攻略し、北フランスをほぼ支配下においていた。イングランド軍の勢いを恐れたジャン無怖公はアルマニャック派との和解を考えるようになる。

双方の歩み寄りを経て、1419年7月8日から13日にかけて両派の間で和約が締結され、同9月10日、王太子シャルルとブルゴーニュ公ジャンとがパリの南エヴルーに近いモントローのヨンヌ川にかかる橋の上で面会することになったが、その面会の場で王太子に随行していた一団が公を襲撃し殺害した。実行犯はタンギー・デュ・シャテルだったと言われる。

アルマニャック派による復讐は果たされたが、この結果、ブルゴーニュ公との和解は水泡に帰し、ブルゴーニュ公位を継いだフィリップ3世はイングランド王ヘンリ5世との同盟に傾いた。

その後のアルマニャック派

シャルル7世

シャルル7世

1420年5月21日、トロワ条約によってイングランド王とブルゴーニュ公は同盟を締結し、王太子シャルルの廃嫡が決定した。1422年、ヘンリ5世とフランス王シャルル6世が相次いで亡くなり、ヘンリ5世の生後九か月の赤子がイングランド王にしてフランス王ヘンリ6世として即位し、対するアルマニャック派も王太子シャルルがフランス王シャルル7世を称した。

イングランド=フランス二元王国、ブルゴーニュ公国との三勢力鼎立の中、苦境に立たされたアルマニャック派は、1424年、シャルル7世妃マリー・ダンジューの母前アンジュー公ルイ2世妃ヨランド・ダラゴン主導で、ブルターニュ公ジャン5世の弟リッシュモン伯アルテュールの招聘を決定。大元帥に就任したリッシュモン伯はブルゴーニュ公ジャンの娘マルグリットを妻としており、以降、ブルゴーニュ公国との和睦を進める親ブルゴーニュ派がアルマニャック派の中に形成された。リッシュモンはピエール・ド・ジアックら寵臣を粛清、タンギー・デュ・シャテルも宮廷を追われ、アルマニャック派残党はほぼ一掃されることになった。

しかし、リッシュモン大元帥の急進的な宮廷改革は反発を生み、1428年、リッシュモンの協力者として頭角を現したジョルジュ・ド・ラ・トレムイユによってリッシュモンも宮廷を追われたが、親ブルゴーニュ路線は継続された。

反ブルゴーニュ同盟として始まったアルマニャック派は、ブルゴーニュとの和睦派が主流となった1420年代後半までに事実上消滅していたが、以後も主にイングランド=ブルゴーニュ同盟からシャルル7世政権を表す蔑称としてアルマニャック派が使われた。

1429年7月17日、ジャンヌ・ダルクの活躍により、シャルル7世がランスで戴冠式を挙行し、フランス王としての権威が確立する。1432年、ラ・トレムイユ侍従長がクーデターによって宮廷を追われリッシュモンが復帰すると、ヨランド・ダラゴンとその子たち――アンジュー公ルネ、メーヌ伯シャルル・ダンジューら――を中心としたアンジュー公派とリッシュモン大元帥との協力関係によってブルゴーニュ公国との和平交渉が進み、1435年9月21日のアラス和約でシャルル7世政権とブルゴーニュ公国との和平が成立、名実ともにアルマニャック派は消滅した。

以後、シャルル7世政権ではアラス和約で手腕を発揮したブルボン公シャルル1世を中心としたブルボン公派とアンジュー公派の主導権争いがあり、1440年、プラグリーの乱を経て、内政はメーヌ伯シャルル・ダンジューを中心としたアンジュー公派、軍事はリッシュモン大元帥の下でブルボン公派が中核となるという役割分担が確立。強力な王権を築いたシャルル7世は1453年、イングランド軍をフランスから駆逐して百年戦争を終結させた。

参考文献

・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』(晃洋書房,2014年)
・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)
・佐藤猛著『百年戦争期フランス国制史研究』(北海道大学出版会,2012年)
・ジョセフ・カルメット著(田辺保訳)『ブルゴーニュ公国の大公たち』(国書刊行会,2000年,原著1949年)
・ベルナール・グネ著(佐藤彰一,畑奈保美訳)『オルレアン大公暗殺――中世フランスの政治文化』(岩波書店,2010年,原著1992年)

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