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古代オリエント世界を席巻した「海の民」とは何か

「海の民(英語” Sea Peoples”,フランス語” Peuples de la mer”」は紀元前十三世紀から十二世紀にかけて、東地中海地域を移動した様々な民族集団の総称。古代の史料には一括して表すような言葉はなく、十九世紀フランスの考古学者・エジプト学者ガストン・マスペロ(1846年生~1916年没,” Gaston Camille Charles Maspero”)が名付けた。

ラムセス3世「メディネット・ハブ神殿」の「海の民」

ラムセス3世「メディネット・ハブ神殿」の「海の民」
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「海の民」の登場

主な「海の民」の構成民族はデンイェン、シャルダナ(シェルデン)、ルッカ、メシュウェシュ、テレシュ(トゥルシャ)、エクウェシュ、シェケレシュ、ペレセト(ペリシテ人)、チェケル、ウェシェシュなどである(注1)。シャルダナ人はサルディーニャ人、ルッカ人はリュキア人、シェケレシュ人はシチリア人、テレシュ(トゥルシャ)人をエトルリア人、エクウェシュ人をアカイア人(注2)などとする説が有力だが諸説あり確実なものではない。唯一、ペレセト人は後世のペリシテ人だと特定されているが(注3)、いずれも出自不明の集団である。

紀元前1360年頃の古代エジプトの外交書簡集「アマルナ文書」にルッカの海賊やシャルダナ、デンイェンの王たちについての言及があるのが史料上の最初の例で、前1274年(前1286年)頃にヒッタイト王国とエジプト新王国との間で戦われたカデシュの戦いに、ヒッタイト軍にはルッカ人が、エジプト軍にはシャルダナ人が従軍していたという(注4)。

前十三世紀から前十二世紀にかけて、ミタンニ、ヒッタイト、カッシート朝バビロニアが相次いで滅亡し、エジプトとアッシリアが弱体化してともに混乱の時代を迎え、エーゲ海に栄えたミケーネ文明が瓦解するなど東地中海沿岸地域で大規模な都市の破壊や国家の崩壊が相次いだ。「前1200年の破局(英語” Late Bronze Age collapse” 後期青銅器時代の崩壊)」と呼ばれるこの事件に、同時期に東地中海沿岸に向けて大規模な移動と襲撃を開始した「海の民」は大きな関係があると考えられている。

「海の民」がこれらの「前1200年の破局」への影響について、以前は「海の民」がミケーネ文明を瓦解させ、ヒッタイトを滅ぼし、エジプトの弱体化や諸都市の滅亡の直接的要因とされていたが、近年はこれらの見解は見直されている。

エジプト新王国と「海の民」の戦い

エジプト第19王朝メルエンプタハ王(前1213年~前1204年)の治世五年(注5)、エジプトへ侵攻してきたリビア人と「海の民」の連合軍を撃退した。このとき侵攻してきた「海の民」はシャルダナ(シェルデン)、シェケレシュ、エクウェシュ、ルッカ、テレシュ(トゥルシャ)であった。(注6)

次にエジプトに「海の民」が襲来したのが第20王朝ラムセス3世王(前1184年頃~前1153
年頃or前1187年頃~前1156年頃)の治世八年(注7)のことで、 シャルダナ(シェルデン)、シェケレシュ、テレシュ(トゥルシャ)、ルッカ、ペレセト(ペリシテ人)などが含まれていた(注8)。ラムセス3世は「海の民」を撃退してエジプトから「海の民」の脅威は取り除かれた(デルタの戦い)が、捕虜となった者たちは別の戦いで捕虜となったリビア人などとともにナイルデルタ地域に定住してエジプト国内で影響力を持つようになった。

エジプトは東地中海地域で盛んに劫略をくりかえした「海の民」の活動を鎮め、脅威を取り除いた。この後進むエジプト新王国の弱体化は「海の民」によるものではなく内部の問題に求められる。

シリア・パレスティナ地域での「海の民」

シリアの地中海沿岸にあった有力都市ウガリットが破壊されたのは前1190年から前1185年頃のことで、破壊後復興することはなく放棄された。ウガリットの王宮跡で発見された書簡が名高い。

『わが父よ、とうとう敵の船がやって来ました。かれらはわが国の各都市に火を放ち、国土に損害を与えてきました』(注9)

これが「海の民」の攻撃によるウガリットの滅亡を描いたものだと信じられてきたが、『この書簡は敵の船や、おそらくは侵略者の存在を論じるのに使うことはできても、ウガリット最後の日々、あるいはその直前のものかどうかわからない』(注10)。

ウガリット、ラキシュ、メギドなどのシリア・パレスティナ沿岸諸都市が前十二世紀に破壊されたのは確かだが、どこまで「海の民」によるものかは現状はっきりしていない。

『パレスティナ南西部のエジプトの要塞都市が滅んだのは、“海の民”のせいかもしれない。しかし、この国のほかの地域の遺跡については、“海の民”以外の集団が破壊したという可能性も考えるべきだ』(注11)

ミケーネ文明の瓦解と「海の民」

ミケーネ文明の瓦解について古くはドーリア人の襲来によるものとされていたがこれはすでに否定され、ドーリア人説に代わって「海の民」の侵攻によるとする説が浮上した。

ミケーネ文明崩壊の契機とされるのがピュロスの王宮の焼失だが、前1180年ごろに火災が起きたのは確かだが、海の民による破壊かどうかは定かではなく、その原因は不明のままだ。また他のミケーネ諸都市についても同様に、前1200年前後に破壊が起きたのは確かだが、それらが天災によるものか人為的なものかはっきりしていない。ミケーネ文明の中心都市ミケーネやティリンスの破壊は地震によるものと考えられており、キプロスの破壊は「海の民」以前の別の集団、例えばヒッタイトによる攻撃の可能性が指摘されている(注12)。

ミケーネ文明諸都市への「海の民」の侵攻は少なからずあったとは思われるが、これが文明を崩壊させるような致命的なダメージを与えたとは考えられていない。

「海の民」はヒッタイトを滅ぼしたか

ヒッタイトの滅亡は前十二世紀に入った頃、シッピルリウマ2世の代に「海の民」の攻撃を受け首都ハットゥシャが陥落したことによるとされてきた。考古学的調査では確かに前十二世紀に入って間もなく破壊され放棄されたことは間違いないのだが、ハットゥシャの陥落自体はトゥドハリヤ4世(前1245年頃)の代、おそらく内乱によるものか、海の民ではなく隣国カシュカによるものではないかと考えられるようになった。

『最近の発掘の指揮をとっているユルゲン・ゼーベアは、この都市はまず放棄され、その少しあとに攻撃を受けたのではないかと述べている。王家一族は所持品をすべて持ち出し、最終的な破壊が起こるずっと前によそへ移していたというのだ。とすれば実際に破壊したのは“海の民”ではなく、ヒッタイトの長年の敵カシュカだと考えるほうがしっくり来る。ただしそれも、その他の要因、たとえば干ばつ、飢饉、国際交易ルートの遮断などによって、ヒッタイト帝国が大幅に弱体化したあとのことだったのではないかと思われる。』(注13)

前十二世紀初頭の最終的な破壊が「海の民」の攻撃であったとしても、おそらく廃墟に近い状態の都市への攻撃であり、王国滅亡の致命的な一撃にはなっていない。

わからないことが多い「海の民」

近年、考古学的調査の進展から「海の民」はミケーネ文明を崩壊させたわけでもなく、ヒッタイトを滅亡させた直接的な要因でもなく、諸都市の破壊に及ぼした範囲は未知数で、以前ほど強大なものとは考えられなくなってきている。『略奪を繰り返しながら、西方から東方へ、そしてその東方から南方へと「暴力をともない通過した」』(注14)が、決定的な役割をどれほど果たしたのか、民族的出自とあわせて、未だよくわからないというのが現状である。

その上で、「海の民」は暴力を伴う大規模な移動を経て、半世紀かけてカナン南部への移住を行った。それがペリシテ人で、彼らが移り住んだ「フィリスティア(ペリシテの地)」は後にパレスティナと呼ばれることになる。

現在、海の民=ペリシテ人のカナン南部への入植は段階的な移住の過程を経たとする説が有力となっている。クライン2018はテルアビブ大学イズレイル・フィンケルシュタインの以下の説を引用して、『ほとんどの研究者がフィンケルシュタインに賛同している』(注15)という。

『エジプトの文献ではただ一度の事件として記述されているが、“海の民”の移住には少なくとも半世紀かかっており、それも数段階に分けておこなわれている。・・・・・・最初の集団は前一二世紀の初め、フィリスティア北部を含むレヴァント地方の沿岸部を荒らしまわり、ラムセス三世によりその治世第八年に打ち負かされた。その結果、かれらの一部はデルタ地帯のエジプト守備隊の駐屯地に定住させられた。“海の民”の後期の集団は、前一二世紀の後半、カナン南部を支配していたエジプトを駆逐することに成功した。エジプトの要塞都市を破壊したのち・・・・・・かれらはフィリスティアに定住して、アシュドット、アシュケロン、テル・ミクネなどに主たる都市を建設した。これらの人々――のちの聖書に言うペリシテ人――は、その物的文化に見えるエーゲ海地域由来の特徴によって、容易に識別できる。』(注16)

ただし、カナン南部への移住について、暴力的な過程を辿ったのか、平和的な過程を辿ったのかで異論があり、考古学的調査ではアシュドットやアシュケロンに破壊の後は見られず、『エーゲ海地域と地元の文化的伝統が共存していることから、これは植民地の建設ではなく、エーゲ海地域からの移民と地元の住民との共同建設だったと考えられる』(注17)とするハイファ大学のアッサフ・ヤヌル=ランダウの説をクラインは紹介している。

『しかし、後期青銅器時代の末におけるカナンの状況については、まだ通説が固まったとは言えない』(注18)というのが現状で、「海の民」の研究は途上であり、その姿は謎に満ちている。

脚注

注1)「海の民」(日本オリエント学会編『古代オリエント事典』(岩波書店,2004年))

注2)小川英雄,山本由美子 著『世界の歴史4 – オリエント世界の発展 (中公文庫)』(中央公論新社,2009年,原著1997年)53頁/大城道則 著『古代エジプト文明 世界史の源流 (講談社選書メチエ) 』(講談社,2012年)151頁

注3)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)17頁

注4)小川英雄,山本由美子 著『世界の歴史4 – オリエント世界の発展 (中公文庫)』(中央公論新社,2009年,原著1997年)52頁

注5)メルエンプタハ王の在位年は大城道則 著『古代エジプト文明 世界史の源流 (講談社選書メチエ) 』(講談社,2012年)による。一方、エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)は治世五年を前1207年とする。

注6)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)23頁

注7)ラムセス3世王の在位を前1184年頃~前1153年頃とするのはクライン、前1187年頃~前1156年頃とするのは大城。この治世八年が何年かは、クライン著の原注によれば前1186年説、前1177年説、前1175年説などがありクラインは前1177年説を取るが、大城著の在位年に従うなら前1180年になるだろう。

注8)大城道則 著『古代エジプト文明 世界史の源流 (講談社選書メチエ) 』(講談社,2012年)151頁

注9)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)172頁

注10)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)173頁

注11)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)188頁

注12)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)204~205頁

注13)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)194頁

注14)大城道則 著『古代エジプト文明 世界史の源流 (講談社選書メチエ) 』(講談社,2012年)157頁

注15)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)241頁

注16)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)240-241頁

注17)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)242頁

注18)エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)189頁

参考文献

・大貫良夫,前川 和也,渡辺和子,屋形禎亮 著『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント(中公文庫)』(中央公論新社,2000年,原著1998年)
・小川英雄,山本由美子 著『世界の歴史4 – オリエント世界の発展 (中公文庫)』(中央公論新社,2009年,原著1997年)
・大城道則 著『古代エジプト文明 世界史の源流 (講談社選書メチエ) 』(講談社,2012年)
・日本オリエント学会編『古代オリエント事典』(岩波書店,2004年)
・伊藤貞夫 著『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と衰退 (講談社学術文庫) 』(講談社,2004年)
・長谷川修一 著『聖書考古学 – 遺跡が語る史実 (中公新書) 』(中央公論新社,2013年)
・エリック・H・クライン著(安原和見訳)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』(筑摩書房,2018年)
・ピョートル・ビエンコウスキ, アラン・ミラード 編集(池田 潤, 山田 恵子, 山田 雅道, 池田 裕, 山田 重郎 翻訳)『図説古代オリエント事典―大英博物館版』(東洋書林 , 2004年)

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