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オルレアン包囲戦~勃発の背景からジャンヌ・ダルクの登場、終結まで

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前史

フランス王シャルル6世が発狂して統治能力を失って以降、対立していたブルゴーニュ派とアルマニャック派はイングランド王ヘンリ5世に同盟を求め、両者の対立を好機としたヘンリ5世は1415年フランスに侵攻、アジャンクールの戦いでフランス軍を壊滅させ、北フランスを占領した。

イングランドの侵攻に対しブルゴーニュ派とアルマニャック派は手を結ぼうとするが、1419年、ブルゴーニュ公ジャンがフランス王太子シャルルの配下によって暗殺されると、跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランド王ヘンリ5世と「トロワ条約」(1420年)を締結して軍事同盟(アングロ=ブルギニョン同盟)を結び、フランス南東ブールジュへ逃れた王太子シャルル擁するアルマニャック派と対立した。

1422年、ヘンリ5世、シャルル6世が相次いで亡くなり、ヘンリ5世とシャルル6世の娘との間に生まれた生後9か月の王子がイングランド王にしてフランス王ヘンリ6世として即位しイングランド=フランス二元王国(注1)が成立。対する王太子シャルルもフランス王シャルル7世を名乗った。しかし、シャルル7世派は劣勢を余儀なくされ、1424年のヴェルヌイユの戦いで主力を失う大敗を喫し、いよいよ追い詰められることになった。

ヘンリ5世

ヘンリ5世肖像画

ヘンリ6世

ヘンリ6世

オルレアンの戦いまで

ベッドフォード公の決断

1429年頃のイングランド領

1429年頃のイングランド領
エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)331頁より

1428年時点でイングランド=フランス二元王国のフランス摂政(注2)として幼王ヘンリ6世を補佐する事実上の総帥ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターには二つの選択肢があった。一つはアンジュー公領への侵攻であり、もう一つは要衝オルレアン市の攻略である。(注3)

アンジュー地方はランカスター=プランタジネット王家にとって父祖の地であり、ジョン王の失地以来その回復は大きな目標の一つである。また現アンジュー公家はシャルル7世政権最大の支持勢力であった。さらにアンジューを制することで現在の征服地である北フランスとフランス南西部のイングランド領アキテーヌ公領とをつなぐことができる。すでにメーヌ伯領を征服してアンジュー地方進出への橋頭堡は築いていた。

ベッドフォード公は当初アンジュー地方への侵攻を目指していたが、ソールズベリー伯やウォリック伯といった有力貴族の間ではオルレアン攻略の意見が大勢を占めていた。オルレアンを攻略することでシャルル7世の本拠地であるブールジュやシノン城まで一気に軍を進めることが可能となる。すでにヴェルヌイユの戦いで主力を失い退勢著しいシャルル7世政権に止めを刺し、フランス全土の征服も時間の問題となるだろう。また、最近関係が悪化していた同盟国ブルゴーニュ公国にも近いオルレアンならば、その協力を仰ぐことで同盟関係を再確認することも可能である。

結局、ベッドフォード公は彼らの声に押されるかたちでオルレアン攻略を決した。ベッドフォード公は後に苦々しく「成算もなく企てられた」とオルレアン攻囲に反対であったことを回想している(注4)が、クレシー、ポワティエ、アジャンクールと積み重ねてきた成功体験に基づく百年戦争期のイングランドに特徴的な決戦主義的傾向がここに現れている。ソールズベリー伯はオルレアンよりも大きなルーアン攻略時の戦術を再現しようと考えていたようだ。

イングランド包囲軍の出陣

ベッドフォード公は1428年初頭までにはオルレアン攻撃を決断していたと思われる。(注5)ノルマンディーを始め大陸のイングランド領各地で三部会が開催されて資金徴収が決定され、募兵が開始している。また、ベッドフォード公は後顧の憂いを断つため、年初からブルターニュ公、スコットランド王、バール公らと休戦協定を締結するとともにブルゴーニュ公へは同盟軍を要請した。

包囲軍を率いるソールズベリー伯トマス・モンタギュはアジャンクールの戦いを始め多くの戦いで主力として活躍した同時代イングランド軍随一の名将であった。彼の下でサフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、トマス・スケールズら有力武将が補佐する。

1428年6月30日、ソールズベリー伯ら主力がドーヴァー海峡を渡り、7月、ノルマンディーで兵力を増強しつつ、ノジャン・ル・ロワ、ランブイエ、ロシュフォール、などを次々と攻略、シャルトルに兵力を集結させた後、オルレアン周辺の町、ル・ピゼ、トゥーリー、ジャンヴィル、ル・マン、アルトネイ、パテー、シャトーダンを次々と攻略、9月25日、ボージャンシーの占領を最後にオルレアン市包囲の準備が整った。

1428年10月12日、イングランド軍はオルレアン市前面に姿を現しオルレアン包囲戦が始まる。

両軍の兵力

イングランド軍の総兵力について、史料の多くが欠けており正確な数字は出せないため諸説ある。レジーヌ・ペルヌー(注6)によれば、十九世紀の研究としてノルマンディーでの会計報告書に基づく兵員5050(槍兵1000、弓兵4050)とする説と、兵士たちの領収書および閲兵関連史料に基づく兵員3467、従卒897で包囲終結時の総兵員6934名とする説があり後者の方が実数に近いのではないかと言う。また、上田耕造(注7)によればソールズベリー伯が募兵した騎兵400と弓兵2200、ベッドフォード公が閲兵した槍兵400と弓兵1200、ノルマンディーで募兵された槍兵200、弓兵600の計5000という。フィリップ・コンタミーヌ(注8)によると、ブルゴーニュ軍を除いて約3500、最大8000としている。一方、同時代のブルゴーニュ公国の歴史家アンゲラン・ド・モンストルレは包囲軍の総兵力を一万とする(注9)。これらを踏まえると、実数不明のブルゴーニュ軍もあわせて6000~10000前後と考えられる。

対するオルレアン市守備隊の兵力はさらによくわからない。有力武将の一人ジャン・ポトン・ド・ザントライユは1428年9月、騎兵46名長弓兵6名(計52名)を連れてオルレアンに入城し、11月59名、12月48名、1429年1月47名、3月末58名の給与を受け取った記録がある(注10)。ペルヌー(注11)による推計では増員分として1429年3月時点で騎兵499名、長弓もしくは弩兵389名、4月の復活祭の頃で騎兵562名、弓兵438名となる。上田耕造(注12)によればこれにオルレアン守備隊と市民兵をあわせて、1429年3月末時点で4000名ぐらいが総数となるという。1429年4月末、ジャンヌ・ダルクとともに増援部隊が到着するのでさらに増えるだろう。また、Paul K. Davis(注13)はフランス軍の総数として兵士2400名、市民兵3000名の計5400名という数字を挙げている。ひとまず3000~6000名ぐらいが守備隊の兵員数と考えられる。

オルレアン市

オルレアン包囲戦時の戦況図

「オルレアン包囲戦時の戦況図」
()上田耕造著「図説 ジャンヌ・ダルク(ふくろうの本」(河出書房新社、2016年)98頁より)

オルレアン市は古くはガリア時代にケナブムと呼ばれた要塞で、紀元前52年ユリウス・カエサルによって占領され、ローマ時代はキウィタス・アウレリアーヌムと呼ばれるガリア統治の拠点となった。フランク時代、初代クローヴィス王死後分割されたオルレアン王国の首都となり、以後ロワール川沿いの要衝として栄えた。1392年、シャルル6世の弟ルイがオルレアン公に叙され、ルイ死後嫡子シャルルが継いだが、1415年、アジャンクールの戦いでオルレアン公シャルル(注14)は捕虜となっていためオルレアン包囲戦時は当主不在の状態で、ルイの庶子ジャン・ド・デュノワ(オルレアン庶子ジャン、バタール・ドルレアン)が当主代行となっていた。

東西に流れるロワール川の北側に築かれたオルレアン市は周囲を五つの城門を備えた城壁に囲まれている。東側にはジアン街道に繋がるブルゴーニュ門、北側には中央付近にパリジ門、北側西端にパリへ向かう街道に面したペルニエ門、西側にブロワ街道に通じるルナール門、南側にはロワール川の川岸にサント・カトリーヌ門があり橋の入り口を押さえている。サント・カトリーヌ門からロワール川を挟んで対岸にあるトゥーレル要塞がオルレアン市にとっては防衛の、攻め手にとっては攻略の最大の要衝となっていた。

オルレアン包囲戦序盤

イングランド軍の包囲網形成

10月12日、オルレアン市の北に姿を現したイングランド軍は包囲陣を築くべく軍を展開させた。ロワール川右岸の主要街道に彼らの支配下にある都市の名前を持った要塞(ロンドン要塞、パリ要塞、ルーアン要塞)を築いてオルレアン市北側を押さえると、ロワール川を渡って左岸の攻略に移る。10月22日、守備隊は防衛のためロワール川に架かる橋を落として中州に防塁を築くが、翌日イングランド軍はトゥーレル要塞を攻略して手中に収めた。

このとき、ジャン・ド・デュノワはまだオルレアンに到着しておらず、守備はオルレアン代官ラウール・ド・ゴークール指揮下、傭兵隊長ジャン・ポトン・ド・ザントライユやボーケール代官アルシャンボー・ド・ヴィラール、ジャンヴィルの守備隊長だったプレジャン・ド・コワティヴィーらが抗戦している。また、ロワール川沿いに備えられていた11台の製粉機もイングランド軍に破壊されたため、市内に同数の製粉機が造られた。

オルレアン守備隊の陣容が整うのは10月24日、デュノワが増援部隊を引き連れてオルレアンに入城してからのこととなる。このときデュノワとともに、ブーサック元帥、ラ=ファイエット元帥、アンジュー公配下ジャン・ド・ビュエイユ、傭兵隊長ジャックとアントワーヌのシャバンヌ兄弟、同じく傭兵隊長ラ・イル(憤怒)ことエティエンヌ・ド・ヴィニョルらが入城して防備が固められた。

デュノワ伯ジャン

デュノワ伯ジャン肖像画(15世紀)

ラ・イル肖像画(1835年)

ラ・イル肖像画(1835年)
wikimedia commonsより

砲撃戦

オルレアン市への攻撃は10月17日から始まっている。ロワール川左岸サン・ジャン・ル・ブラン砦に設置された三台の大砲――そのうち一台は通称「偽兵士」と呼ばれた――から合計124発の砲弾が撃ち込まれオルレアン市内の家や建物に大きな損害を与えた。この攻撃での死者は市民の女性一名で、彼女が最初の犠牲者となった。

1320年代に欧州に登場した大砲は、1350年代以降、野戦・都市攻囲戦など用途は限定されず様々な戦闘で使われた記録が残るが、技術的な限界から戦局を左右するほどの影響を与えることは数少なかった。大砲の存在感が増すのは十四世紀末、火器の鋳造や黒色火薬の生産が本格化してからのことである。1390年代から1410年代にかけて欧州でも硝石の生産が始まり黒色火薬の価格が下がって相場が安定するとともに、鋳造技術が熟練して大砲製造が広がった。特にヤン・ジシュカ率いるフス派は大砲・小火器を活用して火器戦術の革新を起こした。また、イングランド王ヘンリ5世も北フランス征服に際して攻城戦・野戦に大砲を活用している。オルレアン包囲戦は攻城戦で大砲が本格的に活用された最初期の代表的な戦闘となった。(注15)

モンス・メグ砲

「モンス・メグ砲」(1449年ブルゴーニュ公国製の大砲。エディンバラ城収蔵)
(パブリックドメイン画像)

イングランド軍同様オルレアン市も防衛用に、名人の評判高い技術者ギヨーム・デュイジーが製作した120リーヴル(約60キログラム)の砲弾を発射できる重砲と、それより軽量の一つは「リファール」、もう一つは「モンタルジス」と名付けられた三台の大砲を備えていた。オルレアン包囲戦ではオルレアン側の大砲の射手として “親方ジャン”の異名で知られたジャン・ド・モンテクレールの活躍が良く知られている。

これらの大砲からの砲撃が思わぬ戦果を上げたのは、1428年10月24日または27日のことだ。イングランド軍総司令官ソールズベリー伯が戦況把握のため要塞の一つの見張り台に上って視察していたとき、偶然、砲弾の一つが頭部に命中、瀕死の重傷を負って、八日後(11月1日または3日)に亡くなった。

イングランド軍の再編と戦況の停滞

ソールズベリー伯戦死後、副将サフォーク伯が後任となったが、サフォーク伯は前任者ほどの軍才は無く、後にヘンリ6世の寵臣として国政を担うことになるように、政治力に秀でた調整型の人物である。12月、“イングランドのアキレス“の異名で知られる勇将ジョン・タルボットが増援として着任し事実上の指揮官となるが、彼も攻城戦より野戦で力を発揮するタイプの武将である。これまで数々の都市を攻略し、緻密な作戦を実行できたソールズベリー伯の戦死は非常に大きな影響を与えることになった。

11月8日、イングランド軍はトゥーレル要塞を守るウィリアム・グラスデール部隊500名と各要塞の守備隊を残して一時兵を退いて再編に取り掛かる。この間にオルレアン守備隊は兵を出してイングランド軍に利用されないようにオルレアン周辺の町や建物を破壊して回った。

あらためてベッドフォード公よりサフォーク伯、タルボット、スケールズに対して作戦の続行が指示され、12月、タルボットの着任と同時期にブルゴーニュ軍が到着、包囲戦が再開される。イングランド軍はトゥーレル要塞の南にオーギュスタン要塞を築き、トゥーレル要塞の防備を固め、ロワール川沿岸にも複数の砦を築くなど、サフォーク伯はオルレアン市の補給網を断ち兵糧攻めを行おうとしていたが、包囲網の形成は遅々として進まなかった。後にジャンヌ・ダルク到着後に攻略されるオルレアン市東側の要衝サン・ルー砦が築かれたのは1429年3月のことである。

作戦指揮能力が衰えて包囲網形成が進まないイングランド軍と兵力が少なくオルレアン市の専守防衛に手いっぱいで決め手を欠くオルレアン軍との間で一進一退の攻防が続き、戦況は停滞していた。

オルレアン包囲戦中盤

ニシンの戦い

戦況が大きく動いたのが1429年2月であった。防衛側としてはイングランド軍の包囲網形成が遅れていることは不幸中の幸いであり、この包囲網が完成する前に決定的な行動を起こす必要があることは明らかであった。1月28日、シャルル7世の命を受けた使者がオルレアンに到着すると、同30日にはデュノワ自らブルボン公の嫡子クレルモン伯シャルル(のちのブルボン公シャルル1世)を訪れて増援を要請、さらに同盟関係にあったスコットランド人部隊が2月8日に到着して、一転攻勢の準備を整えていた。

1429年2月10日、増援としてオルレアンに向かっていたクレルモン伯シャルル軍と連携して、ジョン・ファストルフ率いるイングランド軍補給部隊を叩くべく、オルレアン防衛司令官デュノワ指揮下の軍がオルレアンを出撃し、2月12日、交戦に及んだ。

このとき、指揮権を巡ってクレルモン伯が主導権を握ろうとしたのがそもそもの失敗であった。彼は自軍が到着するまでイングランド補給部隊への攻撃を待つよう要求、合流を待たされることになったオルレアン軍は移動中の補給部隊への奇襲の機会をみすみす逃し、その間に敵の動向に気付いたファストルフは輸送用の荷車三百台を使って防御を固めた。さらに悪いことに、イングランド軍の動向に焦ったスコットランド部隊が増援を待ちきれず攻撃を開始してしまう。イングランド軍は万全の態勢で迎え撃ちスコットランド部隊指揮官ジョン・スチュアートらが戦死し、続けてファストルフはオルレアン軍の混乱を見てとって攻勢に転じると、これを一気に撃破した。防衛軍は指揮官デュノワも負傷するなど手痛い敗戦を喫することになった。

この敗戦の中で勇戦したのがラ・イルザントライユら傭兵部隊であった。二人は兵をまとめると雪崩を打って敗走するオルレアン軍の中で追撃してくるイングランド軍を迎え撃った。当時の記録であるオルレアン籠城日誌には『心ならずも一旦は不名誉な退却をしたが……あとに随いてきた六〇ないし八〇名の兵士を集めてイングランド軍に打ってかかり……何人かの敵兵を倒した。すべてのフランス兵が同じように取って返していたなら、この日の名誉と勝利は彼らのものになっていたかもしれない』(注16)と、その活躍が記録されている。とはいえ、籠城日誌の記録者が「もしすべてのフランス兵が同じように取って返していたなら・・・」と書いているのは結果論でしかないので、あくまで殿軍として勇戦したというところである。

一方、無様だったのがクレルモン伯軍である。彼の増援部隊は、それでもイングランド軍補給部隊より圧倒的に数的優勢を誇っていたが、フランス軍の敗走を知ると驚き戦わずしてオルレアンに逃げ込んだ。『彼らはイングランド軍が勝利を占めたことを知ると、オルレアンに向けて引き返した。それはかなり不名誉で恥ずかしいことだったが、退却する時間は充分にあった。』(注17)と籠城日誌の記録者も苦々しく書き記している。

結局ファストルフは補給の任を全うしてイングランド軍は意気上がり、オルレアン軍の士気低下は著しかった。2月18日、不名誉で居たたまれなくなったか、クレルモン伯は軍をまとめてオルレアンから出て、それとあわせて多くの武将たちもオルレアンを離れている。補給物資であったニシンが戦場に散乱していたことから後世「ニシンの戦い」と呼ばれることになった。

ブルゴーニュ公との和平交渉

「ニシンの戦い」の敗戦でクレルモン伯の他、ラ・イル、ルイ・ド・キュラン提督らほとんどの指揮官がオルレアンを離脱、一方、イングランド軍は日に日に増強されていき、物資の欠乏も目立つようになる。

不安に思ったオルレアン市民らはジャン・ポトン・ド・ザントライユの他複数の市民を代表として、ブルゴーニュ公フィリップ3世およびブルゴーニュ軍の有力武将リニー伯ジャン・ド・リュクサンブールへ停戦と包囲の解除の仲介を願う使者を送った。

元々オルレアン包囲に乗り気ではなかったブルゴーニュ公はこれを口実にしてベッドフォード公を相手にイングランドとオルレアン市の停戦交渉を仲介、ベッドフォード公に断られると、4月半ば、ブルゴーニュ軍を撤退させてしまった。イングランドはオルレアン市を陥落寸前に追い詰めながら、決め手を欠くうちにブルゴーニュ軍という包囲網の一角が崩れてしまうことになった。

ブルゴーニュ公フィリップ3世善良公

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作『ブルゴーニュ公フィリップ3世善良公の肖像画』(1450年頃)

ジャンヌ・ダルクの登場からオルレアン入城まで

ロレーヌ地方ドンレミ村の富農ジャック・ダルクの娘ジャンヌがヴォークルール城下に現れてシャルル7世への面会を求めて騒ぎを起こすようになったのは1428年5月頃のことだ。最初は追い返していたヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールは、後に多くの支持者を獲得するようになったジャンヌの意見を聞き入れて、1429年2月22日、シャルル7世の居城シノン城へと送り出すことになる。

この少女ジャンヌの噂は早い時期からオルレアンでも噂になっていたようだ。彼女の噂がオルレアン市内に広まったと一次史料である「オルレアン籠城日誌」に書かれるのが1429年2月17日のことである。この噂を確認するために総司令官デュノワはアルシャンボー・ド・ヴィラール他一名をシノン城に派遣して情報収集にあたっている。

1429年3月6日、シノン城でシャルル7世と面会を果たしたジャンヌは王の信頼を勝ち取ると、武備を整え直属部隊を編成して、同4月半ば、オルレアンへ向けてシノン城を進発、4月21日、ブロワの補給基地へ到着した。

ブロワの補給基地ではニシンの戦い後オルレアンを離れて増援部隊の編制や物資の調達に尽力していたブーサック元帥によって補給・増援部隊の準備が完了していた。よくジャンヌ・ダルクの活躍が強調されるが、オルレアンの勝利の最大の功労者は、攻勢に出ることが可能なほどの十分な兵力・物資を準備したブーサック元帥である。後のシャルル7世のランス戴冠式で上位のラ=ファイエット元帥を差し置いて四騎士(注18)の一人に選ばれていることからも、彼の功績は高く評価されていたようだ。

4月27日、ジャンヌ・ダルク部隊を始めとした増援・補給部隊がブロワからオルレアンに向けて出発した。ジャンヌ・ダルク部隊の他、ブーサック元帥ジル・ド・レ、ラ・イルことエティエンヌ・ド・ヴィニョル、アンブロワーズ・ド・ロレ、海軍提督ルイ・ド・キュランなどの部隊が同行している。

4月29日、補給部隊は包囲網の手薄な東側に迂回するためロワール川を渡河、デュノワに迎えられた。ジャンヌはこのとき入城前にイングランド軍本隊へ攻勢を掛けたかったようだが、安全な補給物資の輸送を重視したデュノワは当然イングランド軍から距離を置かせるよう配慮したため進軍ルートを巡ってデュノワとジャンヌの間で衝突があり、同夕刻、オルレアン市に入城、ジャンヌ・ダルクは市民に大歓迎され城内の士気が大いに上がったという。

5月4日、ジャンヌら補給部隊を送った後ブロワにとんぼ返りしてあらためて増援部隊を引き連れてきたブーサック元帥ジル・ド・レの部隊がオルレアンに到着(注19)。またジャンヌらブロワ方面からの推定千数百名の部隊とは別に、4月末までにシャトーダン守備隊長フローラン・ディリエー率いる400名の部隊やアラン・ジロン率いるブルターニュ騎兵100名らも増援としてオルレアンに入城しており、攻勢の準備が整えられていた。

ヘンリー・シェーファー作「1429年5月8日、ジャンヌ・ダルクのオルレアン入城」(1843)

ヘンリー・シェーファー作「1429年5月8日、ジャンヌ・ダルクのオルレアン入城」(1843)

オルレアンの解放

到着早々、出撃を主張するジャンヌ・ダルクに対して自重を促すデュノワというやり取りが展開された。4月30日夜、ジャンヌはトゥーレル要塞に向かって降伏を呼びかけ、これに対しトゥーレル要塞守備隊長ウィリアム・グラスデールは罵倒で答え、ジャンヌが激高して引き上げた。5月1日、日曜日のため休戦日となる。ジャンヌは街中を行進して市民の歓声を受け、そのままあらためて城壁からトゥーレル要塞へ降伏を呼びかけ、やはりイングランド兵が嘲笑と罵倒で答え、ジャンヌが激高するというやり取りが繰り返された。

サン・ルー砦攻略

「オルレアン包囲戦を描いた1484年の写本」

「オルレアン包囲戦を描いた1484年の写本」(パブリックドメイン画像)

大きく事態が動くのは5月4日、ブロワからの増援部隊が到着し、あわせてこれを迎えに出ていた総司令官デュノワが帰還してからだ。5月4日夜、ジャンヌの宿舎を訪れたデュノワはジョン・ファストルフ率いるイングランド軍増援部隊が接近している情報をジャンヌに伝えた。これを聞いたジャンヌは「ファストルフが近づいたらただちに私に報告させなさい」と強く伝えた。両者の会談が終わった後、ジャンヌと副官ジャン・ドーロンらは就寝しようとしていたが、このときオルレアン軍の一部が勝手に出陣、眠りかかっていたジャンヌらは急いで武装を整えて遅れて合流、勢いに乗ってオルレアン市の東にあるサン・ルー砦を陥落させてしまった。

5月5日は祝日のため休戦日となる。この日オルレアンでは首脳陣・部隊長による作戦会議が行われ、ジャンヌも参加が認められた。フランス王家の重臣シモン・シャルルが復権裁判で伝聞として証言しているところによれば、持久戦に臨むべきという消極策を唱えるラウール・ド・ゴークールとさらなる攻勢を唱えるジャンヌ・ダルクの間で議論となったという。このときジャンヌは「あなたが望もうが望むまいが、兵士たちはやってきて、他でも獲得したものをここで手に入れるでしょう」(注20)と言ったとされる。出撃を唱えるジャンヌの意見が通りサン・ジャン・ル・ブラン砦とオーギュスタン砦の攻略が決定した。

同日、ジャンヌはあらためてイングランド軍に降伏勧告の書状(注21)を矢文で投げ込むが、イングランド軍は大声で「アルマニャックの淫売からだ」と挑発、これを聞いたジャンヌは涙を流して悲しんだという。この書状に以前送った伝令二名の解放を求める内容が書かれていることから、この日までにジャンヌからの書状(現存せず)を持った伝令が送られていたことが分かる。

オーギュスタン砦攻略戦

5月6日、前日の作戦会議通り、ジャンヌ・ダルク部隊とラ・イル部隊はサン・ジャン・ル・ブラン砦攻略を開始している。上記の通り同砦はイングランド軍の重砲三門が配置されていた要地である。両部隊の接近によって、イングランド軍は早々に砦を放棄し、オーギュスタン砦へと退却した。

サン・ジャン・ル・ブラン砦を奪取したオルレアン軍は、続けてオーギュスタン砦の攻略を開始する。オーギュスタン砦は要衝トゥーレル要塞南側前面に築かれた橋頭堡となる砦で、激しい戦いが展開された。この攻略戦については後に復権裁判でジャン・ドーロンが詳しく述べている。

オーギュスタン砦の攻防に際し、トゥーレル要塞からのイングランド軍の支援もあって激しい抵抗が起きた。攻略は難しいと考えたオルレアン軍は態勢を立て直すため一時退却を決断し、ゴークール隊、ヴィラール隊とジャンヌ隊副官ジャン・ドーロンの指揮で各部隊の撤退支援を行っていた。オルレアン軍の撤退が進む中、何を考えたかジャンヌ・ダルクとラ・イルの二人が騎馬で前進を開始したことから、兵士たちもつられて追撃してくるイングランド軍に襲い掛かる。その中でジャンヌ隊の一員アルフォンス・ド・パルタダという戦士と同僚(名前不明)との間で口論になり、「二人とも同時に敵の砦に打ち掛かる」ことで「どちらが一番勇敢か、二人のうちどちらが義務を尽くしたかわかるだろう」というやり取りが行われ、二人が敵に向かって駆け出し敵中突破を敢行する。

これをみたジャン・ドーロンはジャン・ル・キャノニエーという射手にイングランド側防御柵を守る兵士たちに矢を撃ちかけることを指示して彼らを援護、二人の突撃をみたジャンヌ・ダルクとラ・イルも部隊に攻勢を指示し、勢いに乗ったオルレアン軍によってオーギュスタン砦は陥落、イングランド軍はトゥーレル要塞に退却した。(注22)

トゥーレル要塞の攻防

「オルレアン包囲戦を描いた1484年の写本」(パブリックドメイン画像)

「オルレアン包囲戦を描いた1484年の写本」(パブリックドメイン画像)


ジャンヌの聴罪司祭(専属司祭)であるジャン・パスクレルはオーギュスタン砦陥落の夜の話として、夕食後、ジャンヌの元をある「勇ましく高貴な一人の騎士」が訪れて「隊長たちや兵士たちが集まって相談した結果、自分たちはイギリス兵に比べ数も少なく、すでに神は充分な戦果を与えて下さったことがわかりました」と語った上で国王からの援軍を待ちながら持久戦を続けるべきだという意見を述べ、これに対しジャンヌは「私には私の意見があります。しかしわが主の意見こそ果たされ、維持され続けて、私たちの意見は消え失せるでしょう」と答えたという。(注23)

慎重な意見はあったものの、5月7日早朝、オルレアン軍諸部隊が集結、トゥーレル要塞攻略が開始された。

同時代史料である『オルレアン籠城日誌』は激しい攻防戦の様子を克明に記している。

『フランス兵たちは橋頭堡のトゥーレルを攻めたてた。これに対しイングランド兵は砦を強化して対抗した。果敢な攻撃の間に、攻撃側にも守る側にも素晴らしい戦いぶりが見られた。というのはイングランド側は兵士の数も多く強力であるうえ、あらゆる防禦施設で護られていたのである。また兵士たちもよく防ぎ戦った。というのは、フランス兵は砦の壁の各所にたくさんの梯子を立てかけ、これをよじ登って高い砦に正面から攻撃を仕かけた。その態度は自分たちは不死身だと信じこんでいるかのような果敢さであった。しかもイングランド兵は彼らを数度にわたって追い返し、大砲や矢、それに斧、様々な形の槍や鉛の鎚、さらには手まで使ってフランス兵を下に追い落とし、かなりの数のフランス兵を殺したり負傷させた』(注24)

昼過ぎ頃、この激しい戦いの最中でジャンヌの胸の上を矢が貫いた。パスクレルの証言によれば、『負傷したと気づいた時彼女は恐ろしがり、涙を流しましたが、彼女が言っていたようにすぐに元気を回復しました』(注25)という。前日、パスクレルはジャンヌから乳房の上に矢を受けるという予言を聞いていた。周りの人々が呪術を施そうとするのをジャンヌは断り、パスクレルは彼女の傷口にオリーヴと豚の血を塗ってやった。

ジャンヌ負傷の報を聞いて心配したデュノワ他複数の部隊長が見舞いに訪れると、ジャンヌは冷静に全軍に休養を提案、夜明けから戦い続けていた兵士たちは食事を取って力を回復させた。このときジャンヌは、トゥーレル要塞は必ず陥ちると断言して兵士を鼓舞したという。

しかし、トゥーレル要塞は堅固な守りで日が沈んでも陥落させることが出来なかったため、デュノワは今日中に攻略することは不可能と考え、撤退を指示しようとしたが、そこにジャンヌが現れてもう少し待つように提案した。デュノワはこのときの印象的な彼女の行動を証言している。

『攻撃は朝から夕方の八時ごろまで続き、その結果この日の勝利はおぼつかないほどでした。そのため、私は攻撃をやめて部隊を市内に引き揚げさせようと思いました。その時乙女は私のところに来て、もう少し待ってくれと要求しました。そして彼女自身は直に馬に乗って、兵士たちからかなり離れた葡萄畑に入っていきました。この畑の中で彼女は十分間近くお祈りをしていました。そしてここから戻ると、直に自分の旗印を手にして堀の縁に立ちました。すると、彼女がそこに立った瞬間、イングランド兵は震え上がって恐怖に打たれました。一方フランス国王の兵士たちは勇気を取り戻し、砦をよじ登って攻撃を加えましたが、何の抵抗も受けませんでした。そのためこの堡塁は占領され、そこにいたイングランド兵たちはここから逃れてみんな殺されました。』(注26)

トゥーレル要塞の堀の縁に自ら旗印を持って立つジャンヌの姿について、副官ジャン・ドーロンも証言している。ジャン・ドーロンによれば、この頃、もう時間も遅く今日の内に落とせるとは思えなかったため、ジャンヌ部隊も含め個々の部隊が退却を開始していた。その退却中、ジャンヌの旗印を持った兵士が疲労困憊であったので、近くにいた友軍ヴィラール隊のル・バスクという勇敢さで知られる兵士に旗印を一時持ってもらうことにしたという。

このときジャン・ドーロンは実にジャンヌ・ダルクの副官らしい考えを思い付き実行に移した。

『私はもしジャンヌの旗印が前線に立てられたら、居合せた兵士たちは彼らが間違いなくもっている情熱にかけて、堡塁の奪取を果たすだろうと想像しました。そこで私はル・バスクに向かい、私が壕に降りて堡塁の城壁の下まで歩いていったら、後に付いてきてくれるように頼みますと、彼はそうしますと答えたのです。』(注27)

そうしてル・バスクを引き連れたジャン・ドーロンはトゥーレル要塞へと近づいていくが、そこにジャンヌが戻ってきた。ジャンヌは自身の旗印が敵に奪われたものと勘違いして彼らを追いかけル・バスクを押し倒して旗印を奪うと「おお私の旗印、私の旗印」と叫んで激しくこれを振り回したのである。

この様子に撤退にかかっていたジャンヌ部隊が彼女の周りに集結し、改めて旗印をル・バスクが預かると攻略を開始、ジャンヌ隊につられて反転攻勢に出た他の部隊とともに要塞に襲い掛かりそのままの勢いで一気にトゥーレル要塞を陥落させてしまった。要塞司令官ウィリアム・グラスデール他多数の死者の遺体でロワール川が埋め尽くされたという。

オルレアン攻防戦最大の要衝であったトゥーレル要塞の失陥によってイングランド軍の包囲網は完全に破綻し、翌5月8日、イングランド軍は包囲を解いて撤退を開始。オルレアン市は解放された。

オルレアン包囲戦の敗因・勝因

イングランド包囲網の問題点

イングランドがアルマニャック派に止めを刺すべく総力を挙げて臨んだオルレアン包囲戦は失敗に終わった。これについては当時から現在まで一貫して決定的な戦術レベルでの失敗原因が指摘されている。すなわち兵力の分散である。

オルレアン包囲戦に参戦した当時23歳、アンジュー公配下の若い騎士で後のフランス海軍提督ジャン・ド・ビュエイユ(1406~1478)は後年に著した半自伝的小説「ジュヴァンセル” Le Jouvencel”」 (1466)で、イングランド軍の敗因を封鎖戦術に求め、それが「兵力を分散しすぎる」と指摘した(注28)。

イングランド軍はオルレアン攻略にあたって周囲に11の砦を築いた。兵力を6000と考えてまんべんなく配置――実際は要所に多く集中させるなど「まんべんなく」はありえないが――すると一つの砦に500人前後となる。しかもその包囲網は全く徹底されず穴だらけでオルレアン市の補給を断つことも、増援を阻止することも出来ていなかった。包囲網は完成されていればともかく、このような状態では確かに兵力が分散されてその力を発揮できない状態が続いていた。

最初にオルレアン包囲軍を率いていたのは攻城戦に長けた名将の誉れ高いソールズベリー伯だったが彼の唐突な事故死によってイングランド軍は名目上の後任にサフォーク伯、事実上の指揮官としてジョン・タルボットと集団指導体制に移行したことで指揮命令系統が一貫せず、封鎖戦術を選択しながらその形成は遅々として進まなかった。

積極策に出られない守備隊

一方守備側もこのような敵包囲網の問題点は承知していたから、その穴を突いて補給物資や増援を迎え入れていた。出撃して順次撃破していけば良いのではないか、というのは言うは易しだが実行するとなると様々な困難がある。一つには兵力で、やはり包囲されている側が打って出るには十分な兵力が無かった。これが増援によって一時解消された1429年2月に敵補給部隊攻撃のために攻勢に出て致命的な失敗をしている。

守備を預かるジャン・ド・デュノワはオルレアン私生児ジャン(ジャン・ル・バタール・ドルレアン)の別名通り先代オルレアン公ルイの庶子で、当主である義兄オルレアン公シャルルがアジャンクールの戦いで虜囚となって以降、当主不在のオルレアンを守っていた。庶子であるので公位を継ぐことはできない。あくまで代行していただけだ。当主不在のオルレアン市を守るというのは彼にとって大きな使命であり、そこにオルレアン市だけでなくアルマニャック派の存亡も賭かっているとなれば、その重圧は想像するに余りある。

後にノルマンディー征服からアキテーヌ平定まで対イングランド戦争でほぼ常勝の勢いで勝ち続ける名将となる人物だが、すでに軍才を発揮して将来を嘱望されているとはいえ当時まだ26歳の青年である。大きすぎる責任を背負い、失敗が許されない状況で、守りを重視してしまうのも十分に理解できるだろう。

勝敗を決した転機

不徹底な封鎖戦術で兵力分散状態が長々と続く包囲側、兵力不足と守備重視に固執するあまり攻勢に転じられない守備隊という状況で、小競り合いに終始して決定的な戦闘が起こらないままずるずると続くというのがオルレアン包囲戦の展開であった。

イングランド側の好機は1429年2月のニシンの戦い時に訪れた。このとき封鎖戦術は諦めて兵力を集中させて総攻撃に出れば、それなりに被害は出たにしても、時間をかけずオルレアン市を陥落させられていただろう。しかし首脳陣は封鎖戦術の継続を選び、包囲網を完成させるためにさらなる増援を待つ方針を取ったことで、みすみすチャンスを逃すことになった。

苦境に立っていたオルレアン側の転機はやはりブーサック元帥による大規模な増援部隊の編制である。これはシャルル7世宮廷とオルレアン守備隊との連携で整えられ、この増援部隊の他にも小規模な募兵が続けられていた。また、交渉の成果として結果的にブルゴーニュ軍の離脱を招くことが出来たのも奏功した。劣勢ではあることに変わりはないが、1429年4月末の時点で、攻勢に出ることが出来る程度に彼我の兵力差を縮めることが出来たことが大きい。ジャンヌの華々しい活躍の陰に隠れてきたが、実のところ地道な努力を続けていた結果が出たといえるのである。

ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー作「オルレアン包囲戦のジャンヌ・ダルク」(1886-1890)

ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー作「オルレアン包囲戦のジャンヌ・ダルク」(1886-1890)

ジャンヌ・ダルクという存在のオルレアン解放に対する貢献は戦闘指揮ではなく、専ら士気の向上にある。彼女は<神の声>として、イングランド軍への全面攻勢を唱え、その勝利を力強く断言した。後がないという状況は変わらないが、首脳陣から兵士たちに至るまで一丸となって攻勢に出る勇気を与えた。わかりやすく人気作品のセリフに例えるとジャンヌ・ダルクの<神の声>は「わが軍は包囲殲滅の危機にあるのではない。各個撃破の好機にあるのだ!」と言っていたわけである。

ジャンヌ・ダルクが振る旗を目にした兵士たちは死を恐れぬ強兵となって勝利を掴んだ。オルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルクという想定外の女性の存在意義は、それまでの積み重ねた努力を、リスクを恐れず乾坤一擲の勝負に出るよう促すという意味で確かに勝敗を決定的に左右した。ジャンヌ・ダルクという象徴を得て最高の士気を持つ兵士を獲得した彼らが、勝利を勝ち取るために戦場で様々な工夫を行っていたことはこの記事で紹介した通りである。

オルレアン包囲戦の意義とその後

オルレアン包囲戦の敗戦によってイングランドは劣勢となり百年戦争の終結へと至る、とよく言われるがこれは適切ではない。オルレアン包囲戦終了時、イングランド軍は五百名ほどの被害に留まり主力を温存していた。オルレアン包囲戦に限るなら、その結果はアルマニャック派の主要都市オルレアン市が失陥せず、アルマニャック派の決定的な敗北が回避されただけである。

百年戦争史の中でオルレアン包囲戦に関連して決定的だったのはその後に行われた、撤退中のイングランド軍に対する追撃作戦「ロワール作戦」最後の会戦「パテーの戦い」の方である。

オルレアン解放後のイングランド軍追撃戦「ロワール作戦」と「パテーの戦い」
「ロワール作戦」 1429年5月8日、イングランド軍はオルレアン市の包囲を解き退却した。オルレアン包囲戦はフランスの勝利に終わったが、イングランド軍は主力を温存したまま退いたに過ぎない。5月11日、国王シャルル7世が待つロッシュでオルレア...

1429年6月9日、アランソン公ジャン2世を総大将としジャンヌ・ダルクら有力諸将を含めたフランス軍は撤退中のイングランド軍追撃を開始する。進撃の過程でこれまで日和見を決め込んでいた諸侯がオルレアンの勝利を受けて続々と参集して一万を超える大兵力に膨れ上がっていた。ジャルジョーの戦いでサフォーク伯を捕らえ、オルレアンの前哨戦で占領されていた諸都市を次々奪還してまわる。

タルボット率いるイングランド軍主力とファストルフ率いる増援部隊が合流するが、このときフランス軍との決戦を主張するタルボットと、兵を温存して迅速に撤退するべきと主張するファストルフの間で議論が起こり(注29)、ベッドフォード公の腹心であり知将として名高いファストルフの意見が完全に正しかったが、結局タルボットの意見が通ることになった。その結果は散々なもので、6月18日、フランス軍に伏兵を見破られて奇襲攻撃を受けたイングランド軍は壊滅、タルボット、スケールズが捕らわれ、ファストルフは残兵をまとめて敗走することになった。(パテーの戦い)

この敗戦によって大陸側兵力を喪失したイングランドは、本土からの補充部隊(注30)到着までの間フランス軍の進撃になすすべなく、7月17日、シャルル7世のランスでの戴冠式を許すことになった。この戴冠式によってシャルル7世はフランス王として急速に権威を確立する。7月25日、イングランド本土からの補充部隊がようやくパリに到着すると、ベッドフォード公自ら兵を率いて出陣。以後、ブルゴーニュ公も介入して三つ巴の激しい戦いが展開され、その戦いの中でジャンヌ・ダルクは捕われ若い命を散らすことになる。

ジャンヌ処刑後もイングランド軍はまだ劣勢とは言えず一進一退の攻防を繰り広げていた。イングランドが劣勢に転じるのは1435年、ベッドフォード公死後、フランス王シャルル7世政権とブルゴーニュ公国および諸侯との和平条約「アラス和約」が成立してアングロ=ブルギニョン同盟が破綻し、外交的孤立に陥ってからである。

参考文献

・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社,1991年)
・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・上田耕造著『図説 ジャンヌ・ダルク(ふくろうの本』(河出書房新社、2016年)
・上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』(晃洋書房,2014年)
・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)
・佐藤賢一著『英仏百年戦争』(集英社,2003年)
・コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)『幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会』(昭和堂、2014年)
・トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『薔薇戦争新史』(彩流社,2014年)
・バート・S・ホール著(市場泰男訳)『火器の誕生とヨーロッパの戦争』(平凡社,1999年)
・フィリップ・コンタミーヌ著「百年戦争 (文庫クセジュ)」(白水社,2003年)
・フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)
・Davis, P.K. (2003). Besieged: 100 great sieges from Jericho to Sarajevo. Oxford University Press.

脚注

注1)” Dual monarchy of England and France”。「二元王制」「二重王国」「合併王国」とも訳される。1422年のヘンリ6世即位から1453年のボルドー陥落に依るカレーを除く大陸領土喪失までのヘンリ6世がイングランド王位とフランス王位を兼ねた体制。大陸領土喪失後も、1801年までイングランド王および後継のグレートブリテン王はフランス王を称し続けた。

注2)フランス摂政としてベッドフォード公ジョン、イングランド護国卿としてグロスター公ハンフリーが就き統治を分けたが、グロスター公とウィンチェスター司教ヘンリ・ボーフォートとの政争でイングランド統治は混乱したため、ベッドフォード公がこの仲裁に当たり(バット議会など)事実上全体を統帥した。

注3)フィリップ・コンタミーヌ(坂巻昭二訳)「百年戦争(文庫クセジュ)」109頁/レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」86頁によると、アンジュー地方征服後、ベッドフォード公はアンジュー公領を獲得する予定となっていた。

注4)レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」86頁

注5)レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」84頁

注6)レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」99頁

注7)上田耕造著「図説 ジャンヌ・ダルク(ふくろうの本」(河出書房新社、2016年)93-94頁

注8)フィリップ・コンタミーヌ(坂巻昭二訳)「百年戦争(文庫クセジュ)」112頁

注9)レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」100頁。なおこの一万と言う数字は具体的な兵員数を指すのではなく「大人数」を漠然と表す意味と考えられている。

注10)レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」105頁

注11)レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」106頁

注12)上田耕造著「図説 ジャンヌ・ダルク(ふくろうの本」(河出書房新社、2016年)94頁

注13)Davis, P.K. (2003). Besieged: 100 great sieges from Jericho to Sarajevo. Oxford University Press.

注14)1394年生~1465年没。シャルル・ドルレアンの名で十五世紀フランスを代表する詩人として知られる。後のフランス王ルイ12世の父。1415年から1440年までイングランドの捕虜となっていた。オルレアン包囲戦は当時の当主不在の都市を攻めてはいけないという戦時慣習を破るものでもあった。

注15)詳しくはバート・S・ホール著「火器の誕生とヨーロッパの戦争」参照

注16)レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」122頁

注17)レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」122頁

注18)シャルル7世の戴冠式に侍した四騎士はブーサック元帥、新任の元帥ジル・ド・レ、ルイ・ド・キュラン提督、グラヴィル弩兵隊長の四名。

注19)ジャンヌ・ダルクの副官ジャン・ドーロンの復権裁判での証言によると、デュノワ、ラ・イル他諸隊長とジャンヌ・ダルクとで街の防備について相談し、ブロワから残兵をさらに来援させることで意見が一致し実行に移されたとのこと。(レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」198頁)

注20)レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」138-139頁

注21)書状の文面についてはレジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)参照。→「ジャンヌ・ダルク書簡まとめ~書状でみるジャンヌ・ダルク」に文面を掲載している。

注22)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」202-203頁

注23)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」223頁

注24)レジーヌ・ペルヌー著(高山一彦編訳)「オルレアンの解放」167頁

注25)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」224頁

注26)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」169頁

注27)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)「ジャンヌ・ダルク復権裁判」204-205頁

注28)佐藤賢一著「英仏百年戦争」154頁

注29)ファストルフ配下のジャン・ド・ワヴランの記録として、ファストルフは諸将に『「なるべく有利な条件を引き出して[停戦]協定を結び」、「自軍の城や優位な場所に戻ってから」戦力を立て直すことを進言した。この進言は指揮官から歓迎されず「とりわけタルボット卿は、自分の部隊と望んで従う者たちだけになっても、神とイングランドの守護聖人聖ゲオルギオスの加護のもと、自分は戦うと強硬だった」。ファストルフは、議論しても無駄であることに気づいて席を立った。「そして全部隊の隊長、小隊長に、翌朝出陣の命令が発せられた」』(フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)268-269頁)

注30)元々はヘンリ・ボーフォートが対フス派十字軍としてボヘミアへ派兵すべく募兵した兵力で、強引にフランス戦線へ転用された。

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