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オルレアン解放後のイングランド軍追撃戦「ロワール作戦」と「パテーの戦い」

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「ロワール作戦」

1429年5月8日、イングランド軍はオルレアン市の包囲を解き退却した。オルレアン包囲戦はフランスの勝利に終わったが、イングランド軍は主力を温存したまま退いたに過ぎない。5月11日、国王シャルル7世が待つロッシュでオルレアン指揮官ジャン・ド・デュノワやジャンヌ・ダルクらも参加の上で善後策が協議された。デュノワの証言(注1)によれば、このとき会議の大勢の意見はノルマンディー地方への侵攻だったが、ジャンヌはランスでの国王戴冠を強く進言したという。

シャルル7世の側近ロベール・ル・マソン(注2)はこのときの様子を『乙女は部屋に入る前に扉をノックした。部屋に招じ入れられるや、ただちにひざまずき、国王の足をかき抱くと、次のように――あるいはだいたい似たようなことを――言った。“気高き王太子さま、そんなに長い間ダラダラと御相談などなさらずに、あなたさまにふさわしい王冠を戴きに、できるだけ早くランスにご出発くださいませ”』(注3)と書き残している。

この意見が入れられ、王族アランソン公ジャン2世を総大将としてロワール川流域のイングランド支配地域を攻略の上で敵方の支配都市であるランスへの道を切り開き兵站を確保するための進撃作戦「ロワール作戦”Loire Campaign”」が行われることになった。

ジャルジョーの戦い”Battle of Jargeau”

ジャルジョーの戦い

ジャルジョーの戦い
Les Vigiles de Charles VII, manuscrit de Martial d’Auvergne


1429年6月8日、アランソン公指揮下槍兵600名を含む約2000の兵が最初の都市ジャルジョーに向けて出発するが、翌日シャトーダンの守備隊長フローラン・ディリエー(注4)が合流したのを始め、ギーとアンドレのラヴァル兄弟(注5)らオルレアン包囲戦勝利の報を受けた諸侯・隊長たちが次々と参集し、アランソン公によれば6月9日の時点で槍兵だけで約2000を数えたという(注6)。6月17日英仏両軍がパテーの戦いの前哨戦で対峙した際には約6000の兵力に上っていたとイングランド軍の武将ジャン・ド・ワヴランが記録している(注7)。

ジャルジョーは先のオルレアン包囲戦でイングランド軍に占領され、オルレアンから退却したイングランド軍残存兵力の一部がサフォーク伯の指揮下で籠城していた。フランス軍は当初敵兵力の多さを考慮してジャルジョーを攻略するか議論があったがジャンヌが「敵の多さを恐れることはない」と神の守護を持ち出して鼓舞したため、ジャルジョー攻略が決定されたという、(注8)

フランス軍の接近を知ったサフォーク伯はジャルジョーから打って出ると、ジャルジョー近郊で戦闘に及び、当初はフランス軍を圧倒したが、ジャンヌが旗印を持って鼓舞したため兵士が奮起してイングランド軍を撃退。イングランド軍はジャルジョーへ退却し、フランス軍はジャルジョー近郊に野営した後、アランソン公指揮下、ジャン・ド・デュノワ、フローラン・ディリエー、ジャンヌ・ダルクらの部隊はオルレアン近郊の都市ジャルジョーの攻略にかかった。

ジャルジョーに退いて防御を固めるイングランド軍に対し、サフォーク伯との交渉を行っていたラ・イルの帰還を待ってジャンヌの提案により総攻撃が決定される。この時、オルレアン市に備え付けられていた大砲がロワール川を使って運び込まれ、ジャルジョーの攻略に活用された(注9)。6月12日、フランス軍の総攻撃によってジャルジョーは陥落、サフォーク伯は捕虜となった。その後、勢いに乗ってフランス軍は17日までにマン、ボージャンシーなど周辺都市を奪還した。

パテーの戦い”Battle of Patay”

パテーの戦い

パテーの戦い
Les Vigiles de Charles VII, manuscrit de Martial d’Auvergne

オルレアン包囲戦の失敗とフランス軍の侵攻の報を受けたイングランドの総帥ベッドフォード公はパリのジョン・ファストルフ(注10)に対し、増援部隊の編制と出撃を命じた。ワヴランによれば約5000の兵を率いて南下するよう命じられたという(注11)。南下の途上、ジャルジョー失陥の報を受けたファストルフはひとまずエタンプに補給用の食料や大砲を置いて最低限の兵力での合流を優先して急いだ。

ジャンヴィユでジョン・タルボットらオルレアン包囲軍の残存兵力と合流したファストルフは、諸将に対し現状危機的状況にあることを警告した上で、『「なるべく有利な条件を引き出して[停戦]協定を結び」、「自軍の城や優位な場所に戻ってから」戦力を立て直すことを進言した。この進言は指揮官から歓迎されず「とりわけタルボット卿は、自分の部隊と望んで従う者たちだけになっても、神とイングランドの守護聖人聖ゲオルギオスの加護のもと、自分は戦うと強硬だった」。ファストルフは、議論しても無駄であることに気づいて席を立った。「そして全部隊の隊長、小隊長に、翌朝出陣の命令が発せられた」』(注12)。もしかすると、タルボットらはオルレアン包囲戦の雪辱を得意の野戦で果たそうという心づもりであったのかもしれない。

フランス軍では、ボージャンシー攻略時、宮廷を追われている大元帥リッシュモン伯アルテュールが合流していた。リッシュモン伯はブルターニュ公ジャン5世の弟で1425年、シャルル7世政権とブルターニュ公国との関係強化のため大元帥としてシャルル7世の宮廷に招聘された人物で、宮廷改革を断行して立て直しに尽力したが、強引な手法が忌避され現王室侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユとの政争に敗れて宮廷を追われた後、独自に対イングランド戦争を行っていた。リッシュモン伯の到着時、総大将アランソン公他諸将は国王に配慮して合流を拒否して兵を退こうとしていたが、ジャンヌ・ダルクの説得により合流を受け入れたという(注13)。

6月17日、マンとボージャンシーとの中間地点でイングランド、フランス両軍が対峙する。イングランド側では集結した軍を見てファストルフが『「フランス軍とは比較にならないほど、戦力が小さいことを指摘し、もし運に見放されれば、亡くなったヘンリ―国王が、長い時間と大変な努力の末にフランスで征服したすべてを、失うことになりかねないと説得を試み、戦力が補強されるまで待機することを要請した」』(注14)が、あらためて退けられた。

イングランド軍の接近を察知していたフランス軍はイングランド軍の様子がよく見える山の上に布陣し、ジャンヌ・ダルク、アランソン公、ジャン・ド・デュノワ、ラ=ファイエット元帥、ポトン・ド・ザントライユ、ラ・イルらが確認できたという(注15)。対するイングランド軍も布陣して弓兵隊を最前列に置き、馬防の杭が植えられた。イングランド軍からフランス軍へ使者二名が送られ、お互い騎士三名を代表とした対戦が提案されたが、これに対しジャンヌの配下と思われる騎士から、時間も遅いので今日はお互い野営して、明日雌雄を決しようという返答がなされた(注16)。

ジャン・ド・デュノワによれば、この夜、アランソン公に意見を求められたジャンヌは「皆、良い拍車を付けておくように」と大声を出し、同席した者から「敵に背を向けるのか」と言われると問いを否定してイングランド軍が敗走するのでこれを追撃するために必要だと力強く答えた(注17)。

6月18日、フランス軍は前衛をジャン・ド・デュノワ、ブーサック元帥ジャン・ポトン・ド・ザントライユらの部隊を中心にアンブロワーズ・ド・ロレやリッシュモン伯軍で構成され、本隊はラ・イルが指揮、殿軍にジャンヌ・ダルクと弩兵隊長グラヴィルらが配され、パテー方面へ移動したイングランド軍を追って進軍を開始した。

ジョン・タルボット、トマス・スケールズ、トマス・レンプストン、ジョン・ファストルフらが指揮するイングランド軍は多くの茂みや森に囲まれたパテーの地形を利用して伏兵を配置、フランス軍が通ると思われる地点にタルボットの本隊を置いて、他の部隊が集結するまで持ちこたえるという計画を立てていたが、「現実はまったく違うようになった」(注18)

フランス軍はイングランド軍を見失っていたが、フランスの斥候兵が、森の中から飛び出した鹿が茂みの中に入り、そこに潜んでいたイングランド軍の伏兵が騒ぎになる様を目撃、イングランド軍の位置を確認して帰陣したことでフランス軍の奇襲攻撃が開始された。フランス軍前衛の急襲を受けたイングランド軍は大混乱に陥ったため、混乱を収拾して前衛の部隊を本隊に合流させるべくファストルフが後退を開始すると、ファストルフが敗走していると勘違いした兵たちが恐慌状態となり、イングランド軍が総崩れとなる。

イングランド軍の戦死2000、捕虜200、将官もタルボット、スケールズ、レンプストンが捕虜となったのに対しフランス軍の戦死者はわずか3名と終わってみればフランス軍の圧勝であった。捕虜となったタルボットとアランソン公が対面し公が「今朝はお前がこうして連れてこられるなど思いもしなかった」と言うと、タルボットは潔く「それが戦いの常だ」と答えたという。(注19)

一方、ファストルフは虜囚となることなく、残兵をまとめて敗走した。ワヴランによれば「サー・ジョン・ファストルフは、ごく少数の仲間だけを連れ、前代未聞の大声を発して滂沱と涙を流しつつ、戦場から姿を消した」(注20)という。こののち、ファストルフは他の首脳陣が皆虜囚となっていたこともあって、敗北の責任をとってガーター勲章を返上した。(注21)

パテーの戦いの結果

この敗戦によって大陸側兵力を喪失したイングランドは、本土からの補充部隊到着までの間フランス軍の進撃になすすべなく、7月17日、シャルル7世のランスでの戴冠式を許すことになった。この戴冠式によってシャルル7世はフランス王として急速に権威を確立する。7月25日、イングランド本土からの補充部隊がようやくパリに到着すると、ベッドフォード公自ら兵を率いて出陣。以後、ブルゴーニュ公も介入して三つ巴の激しい戦いが展開されることとなった。

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オルレアン包囲戦からパテーの戦いまでの一連のイングランド軍の敗北によって、窮地にあったシャルル7世政権が戴冠式を行いフランス王としての正当性を獲得、百年戦争でイングランド=ブルゴーニュ同盟に傾いていた勢力バランスが三勢力の鼎立状態へと変わることとなった。こののち、シャルル7世政権とブルゴーニュ公国の関係改善が進み、1435年の「アラスの和約」によってイングランドは孤立し、百年戦争は最終局面を迎えることとなる。

参考文献

・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・上田耕造著『図説 ジャンヌ・ダルク(ふくろうの本』(河出書房新社、2016年)
・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)
・フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)

脚注

注1)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)113頁/レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)172頁

注2)Robert Le Maçon, 1365-1443。シャルル7世が幼少期からの忠実な守役でフランス宰相” Chancelier de France”を1419年から1422年まで務め、その後も1436年に老齢で引退するまで側近として不遇な時代のシャルル7世を支え続けた。

注3)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)113頁

注4)Florent d’Illiers,シャトーダンの守備隊長。オルレアン包囲戦にも参戦。

注5)兄ギー14世・ド・モンフォール=ラヴァル(” Guy XIV de Montfort-Laval”,1406-1486)は後のラヴァル伯。非常に筆まめな人物でジャンヌに関して多くの記述を残しており彼の文書は貴重な史料となっている。弟アンドレ・ド・モンフォール=ラヴァル(”André de Montfort-Laval”,1408-1486)は後に軍才を大いに発揮して元帥となり、ロエアック元帥の名で知られる。カスティヨンの戦い(1453年)でジョン・タルボット率いるイングランド軍を撃滅し百年戦争を終結させた。モンモランシ=ラヴァル家のジル・ド・レとは従兄弟にあたる。

注6)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)187-188頁

注7)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)/フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)270頁

注8)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)188頁

注9)レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)183頁

注10)John Fastolf,1380頃-1459。当時のイングランド軍を代表する知勇兼備の武将。商人の家に生まれ、ヘンリ5世の弟クラレンス公トマスの小姓からキャリアを積み重ねて1415年アジャンクールの戦い以降北フランス遠征で活躍。ベッドフォード公ジョンの騎士団長として重用されヴェルヌイユの戦い(1424年)ではアランソン公を捕らえる戦功をあげた。オルレアン包囲戦ではニシンの戦いでフランス軍を撃破してオルレアン市を窮地に追い込んだ。彼について多くの記録が残るパストン家史料は中近世英国社会史・家族史の重要史料として知られる。シェイクスピア作品の登場人物フォールスタッフのモデルの一人。

注11)フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)267頁

注12)フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)268-269頁

注13)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)190頁。リッシュモン伯を「仲間として受け入れないようにという命令」が出ていたが、ジャンヌは、リッシュモン伯の到着を聞いて引き揚げようとするアランソン公に「今は助け合うことが必要なときです」と言って説得したという。

注14)フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)269頁

注15)フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)270頁/レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)120頁

注16)フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)270頁/レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)120-121頁

注17)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)171頁

注18)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)122頁

注19)レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)191-192頁

注20)フランシス・ギース著(椎野淳訳)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』(講談社,2017年)271頁

注21)ブルゴーニュ公国の年代記作家アンゲラン・ド・モンストルレを始め当時の記録でもパテーの戦いの敗北の責任をファストルフに帰する風潮が強く、これが後にシェイクスピアがフォールスタッフという臆病で怠惰な人物を生み出すことに影響を及ぼしたと考えられている。しかし、パテーの敗戦後すぐにカーンの総督として派遣されるなどベッドフォード公の信頼は変わらず要職にあって前線で指揮を執り続けていた。ただしタルボットは解放後、彼の責任を問うて訴訟を起こしているが棄却されている。(ギース272頁)

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