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ジャン・ポトン・ド・ザントライユ~傭兵隊長から元帥へ上った百年戦争の勇将

ジャン・ポトン・ド・ザントライユ(” Jean Poton de Xaintrailles”,1390年頃生~1461年10月7日没)は百年戦争後期フランスの傭兵隊長。ジャンヌ・ダルクの親しい戦友の一人。同郷の傭兵隊長ラ・イルことエティエンヌ・ド・ヴィニョルと並ぶ勇将でヴェルヌイユの戦いやオルレアン包囲戦をはじめ対イングランド戦争で活躍し、後にフランス元帥に叙された。

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初期のキャリア

ジャン・ポトン・ド・ザントライユ

ジャン・ポトン・ド・ザントライユ

ザントライユがいつから戦場にでて傭兵を稼業とするようになったかはよくわからないが、レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)によれば1418年頃からラ・イルとともにアルマニャック派の傭兵として戦闘に参加したという(注1)。1423年7月31日のクラヴァンの戦いでイングランドの捕虜となる。また、おそらくこの戦いでのエピソードと思われるが、ブルゴーニュ公フィリップ3世配下の勇猛な武将リニー伯ジャン・ド・リュクサンブールの副官で後にジャンヌ・ダルクを捕らえることになるリオネル・ド・ヴァンドンヌは、1423年にザントライユと斧で戦い顔に傷を負わされたという(注2)。続く、イングランド軍がアルマニャック派軍に決定的な勝利を収めたヴェルヌイユの戦い(1424年8月17日)にも参戦した。

レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)によれば「一四二四年、彼はブルゴーニュ側についてエノーでのイギリス人相手の戦闘に参加している」(注3)という。これはエノー伯領継承をめぐるイングランド王ヘンリ6世の叔父(前王ヘンリ5世の弟)グロスター公ハンフリーとブルゴーニュ公フィリップ3世との係争と思われる。当時、イングランドとブルゴーニュは同盟関係にあったが、グロスター公はエノー伯領の女継承者ジャクリーヌとの婚約を盾にエノー伯領の継承権を主張して、1424年11月エノー伯領に侵攻、翌1425年3月から4月にかけてブルゴーニュ軍がエノー伯領に軍を送りグロスター公軍を撃退した(注4)。グロスター公の身勝手な行動は両国関係悪化の一因となった。

ジャンヌ・ダルクの戦友として

1428年10月12日より始まるオルレアン包囲戦では開始時からオルレアン防衛にあたった。当時の収支記録によれば、ザントライユは1428年9月、騎兵46名長弓兵6名(計52名)を連れてオルレアンに入城し、11月59名、12月48名、1429年1月47名、3月末58名の給与を受け取っている(注5)。1429年2月12日、オルレアン防衛軍がイングランド軍補給部隊を討とうとして反撃された「ニシンの戦い」ではラ・イルとともに殿軍として追撃してくるイングランド軍に反撃して敗走する味方を守った。

ニシンの戦い後、ブルゴーニュ公に対する和平交渉の使者の一人として派遣され、イングランドとの調停を依頼。彼らの依頼を受けたブルゴーニュ公とイングランドとの交渉の結果、包囲網の解除は叶わなかったものの、イングランドの同盟軍としてオルレアンを包囲していたブルゴーニュ軍は4月半ばに撤退した。

ジャンヌ・ダルクのオルレアン入城後から始まるオルレアン解放戦とオルレアン解放後、1429年6月のイングランド追撃およびオルレアン周辺地域の解放を目指した「ロワール作戦」とパテーの戦いにも参加。アルマニャック派軍がイングランド軍に決定的勝利を収めたパテーの戦いではブーサック元帥、リッシュモン元帥らとともに前衛を構成した。

1429年9月8日から翌9日まで行われたパリ攻囲戦にもジャンヌ・ダルクらとともに参加した。1429年7月にシャルル7世がランスで戴冠式を挙行して以降、アルマニャック派=フランスではブルゴーニュ公との和平を目指す侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユ、宰相ルノー・ド・シャルトルら和平派と武力攻勢を唱えるアランソン公ジャン2世やジャンヌ・ダルクら主戦派の路線対立が生じ、前者がブルゴーニュ公との和平交渉を行う一方、後者は首都パリ奪還を目指して軍事行動を起こそうとしていた。このとき、ザントライユは、「私どもは宮廷の会議の意見はとりません。私どもに重要なのは戦場の武勲です」と語ったという(注6)。8月28日にブルゴーニュ公の仲介でフランス、イングランドとブルゴーニュ三者の年末までの休戦協定が成立し、9月9日、パリ攻囲軍へ攻撃中止命令が届く。『ポトン・ド・ザントライユの言葉によると、これは、“国王顧問軍”が“実戦武闘派”に対しておさめたかつてないほどの勝利であった。』(注7)

ジャンヌ・ダルクが捕らわれると、ジャン・ド・デュノワラ・イルが救出のため資金集めや軍事行動を行おうとしており、ザントライユもこれに加わっていたようだが救出計画は上手くいかなかった。

後半生

1431年8月11日、ベルジェの戦いでイングランドの捕虜となる。ベルジェ”Berger”は「羊飼い」の意味で、ジャンヌ・ダルク捕縛後、フランス宰相ルノー・ド・シャルトルが見出した羊飼いギヨームという少年のことである。彼も天啓を受けたと称していたがシャルトル曰く「乙女ジャンヌよりは可もなく不可もない程度に役に立つ」(注8)というもので、活躍することは全くなく、シャルトルによって連れ出されたこの戦いでザントライユらとともに捕虜となった。ギヨーム少年は1431年12月16日、イングランド王ヘンリ6世の戴冠式の行列の中に引きまわされたあと革袋に詰め込まれてセーヌ川に沈められた(注9)。

捕虜となったザントライユは以前ジャンヌ・ダルクが捕らえられていたルーアン城に監禁されたが、ジャンヌ・ダルクの処刑裁判時にジャンヌの監視役を担っていたウォリック伯リチャード・ビーチャムはザントライユを娘婿ジョン・タルボットとの捕虜交換要員と考えていたらしく、ジャンヌと違い賓客として遇された。史料上は1432年2月9日でザントライユ虜囚の記録が途絶えるのでこれ以降に解放されたと考えられている。(注10)

1435年5月9日、ジェルベロワの戦い( “Bataille de Gerberoy” )でラ・イルとともにイングランド軍を撃破し、ノルマンディー攻略の橋頭堡を築いた。また、同年ノルマンディー地方での農民反乱に助力。1444年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世がフランスから流れ込んだ帝国内の盗賊化した傭兵たちを鎮圧する際、皇帝に協力する王太子ルイに従って遠征した。1445年、勅令隊の部隊長として登用されている。以後、ノルマンディー地方や、ギュイエンヌ地方の奪還に活躍し、1449年にはシャルル7世のルーアン入城に従った。

フランス王に忠実だった一方、シャルル7世からは略奪行為をやめるよう繰り返し注意されているもののあらためることは無かった。「相変わらず野盗を働いて、大量の牛や羊や、それに大勢のあらゆる身分の捕虜を得ていた」(注11)と記録されている。

1454年、百年戦争終結後、これまでの功績に応えて元帥に叙され、サン・マケール市を与えられた。他、リムーザンのセネシャル、ベリーのバイイなどを歴任。ガスコーニュ(現在のヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ロット=エ=ガロンヌ県)にザントライユ城を築いた。1461年10月7日、ボルドーのトロペット城で亡くなった。

ザントライユ城

ザントライユ城
© Jibi44 [CC BY-SA 4.0]

参考文献

・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)
・フィリップ・コンタミーヌ著「百年戦争 (文庫クセジュ)」(白水社,2003年)
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)
・レジーヌ・ペルヌー著「ジャンヌ・ダルクの実像 (文庫クセジュ)」(白水社、1995年)
Jean Poton de Xaintrailles — Wikipédia
Bataille du Berger | Batailles – montjoye.net

脚注

注1)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)314頁

注2)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)176-177頁

注3)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)322頁

注4)エノー伯領継承問題については城戸城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)256-262頁参照

注5)レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)105頁

注6)レジーヌ・ペルヌー著「ジャンヌ・ダルクの実像 (文庫クセジュ)」(白水社、1995年)72頁

注7)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)150頁/パリ包囲戦については『1429年夏の英仏ブルゴーニュ外交とジャンヌ・ダルクの「パリ包囲戦」

注8)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)262頁

注9)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)263頁/ Bataille du Berger | Batailles – montjoye.net

注10)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)322-323頁

注11)レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)324頁

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