スポンサーリンク

ジル・ド・レの生涯――百年戦争後期のある中小領主家の興亡

ジル・ド・レ――フランス王国元帥、ジャンヌ・ダルクの戦友にして数々の軍功を重ねた百年戦争の英雄、フランス王よりも富裕とまでいわれたフランス屈指の大貴族・・・しかして、その栄光の陰で快楽の赴くままに百数十名にも上る子供たちの大量殺戮を行ったとして異端審問裁判により処刑された男。恐怖の民話「青髭」のモデルとも云われる、眩し過ぎる光と深すぎる闇を併せ持った彼の生涯をたどってみよう。

ジル・ド・レについて語られるとき、快楽殺人者、悪魔崇拝、瀆神といった描かれ方が多いが、本記事では少し趣向を変えて百年戦争(1337-1453)の中に彼を位置付けて、中世末期フランスのとある中小領主家の盛衰という視点で見てみようと思う。

  1. 幼少期のジル・ド・レ
    1. ジル・ド・レ誕生
    2. ジャン・ド・クランの領土拡大とレ家
    3. ジル・ド・レと祖父
  2. 百年戦争下で台頭するレの一族
    1. 百年戦争とブルターニュ公国
    2. ブルターニュ内乱とジャン・ド・クランの台頭
    3. 百年戦争下の三勢力鼎立
  3. 表舞台に立つジル・ド・レ
    1. ジル・ド・レ抜擢の背景
    2. リッシュモン改革の挫折とジル・ド・レの登用
    3. ジル・ド・レの栄光
      1. ジャンヌ・ダルクの登場
      2. オルレアン包囲戦
      3. ロワール作戦
      4. シャルル7世戴冠式と元帥昇任
      5. パリ包囲戦
  4. ジャンヌ・ダルクとジル・ド・レ
    1. 本当は不仲だった?
    2. 「いい人」だったジル・ド・レ
  5. ジル・ド・レの没落
    1. ジャン・ド・クランの死
    2. ジル・ド・レ失脚
  6. 破滅への道
    1. 旅するジル・ド・レ
    2. ラ・トレムイユとの訣別
    3. 止まらない浪費と破産
      1. 「オルレアン包囲戦の秘蹟劇(ミステール)」
      2. 一族の確執と禁治産
    4. 外交問題化するレ家の不安定化
  7. 所領にて
    1. ジル・ド・レに仕えた者たち
    2. 魔術師プレラーティと偽ジャンヌ
  8. ジル・ド・レ処刑裁判
    1. ジル・ド・レの逮捕まで
      1. 逮捕の背景としてのプラグリーの乱
      2. サン・テチエンヌ・ド・メルモルト襲撃事件
      3. ジル・ド・レ告発状
      4. ティフォージュ城陥落
    2. ジル・ド・レの逮捕
    3. 世俗裁判所での証言収集――行方不明の子供たち
    4. 宗教裁判の開廷
    5. ジル・ド・レの罪~49項目の起訴状
    6. ジル・ド・レの自白
      1. 否認から自白へ
      2. 中世の異端審問制度概略
      3. ジル・ド・レの自白(1)~法定外自白
      4. ジル・ド・レの自白(2)~公開法廷
      5. 異端審問の陥穽
    7. ジル・ド・レの死
    8. ジル・ド・レは有罪か、冤罪か
  9. ジル・ド・レの娘――モンモランシ=ラヴァル家の終焉
    1. 最初の夫プレジャン・ド・コワティヴィ
      1. ノルマンディー征服とコワティヴィの戦死
    2. マリーの再婚と百年戦争の終結
    3. ジル・ド・レの碑
    4. モンモランシ=ラヴァル家の終焉
  10. 歴史の中のジル・ド・レ
  11. 参考文献
  12. 脚注
スポンサーリンク

幼少期のジル・ド・レ

ジル・ド・レ誕生

イーロイ・フェロン「ジル・ド・レ肖像画」(1853年)

イーロイ・フェロン「ジル・ド・レ肖像画」(1853年)

レ男爵家はブルターニュ公に臣従してロワール川河口付近一帯に領土を持った有力領主であったが、十四世紀末、賢女(ラ・サージュ)との異名を持つ女当主ジャンヌ・ド・レ” Jeanne de Retz la Sage, Jeanne Chabot”(注1)には後継者がなく断絶の危機にあった。

1400年、賢女ジャンヌが後継者としてまず選んだのが同じくブルターニュの名門、モンモランシ=ラヴァル家のギー2世・ド・モンモランシ=ラヴァル” Guy II de Montmorency-Laval”という人物である。ギーを養子に迎えてレ家の後継者とする約束だったが、1402年、賢女ジャンヌはこの養子縁組を突如撤回し別の候補を見出した。それが、ラ・シュズ領主ジャン・ド・クラン” Jean de Craon”の母カトリーヌ・ド・マシュクール” Catherine de Machecoul”という女性であった。クラン家はかつてテンプル騎士団総長ロベール・ド・クランなどを輩出した名家でアンジュー地方の有力領主家である。

この変心に納得いかないのがギーである。彼は養子契約破棄の撤回を求めてパリ高等法院に訴訟を提起、全面的に争う姿勢を見せた。そこに仲裁者として登場するのがカトリーヌ・ド・マシュクールの子ジャン・ド・クランであった。ジャン・ド・クランは賢女ジャンヌとギーに、自身の娘でありカトリーヌ・ド・マシュクールの孫にあたるマリー・ド・クラン” Marie de Craon”をジャンヌの養女とした上でギーと結婚させ、生まれた子に家督を与えてはどうかという仲裁案を出す。かくして、1404年2月、ギー2世・ド・モンモランシ=ラヴァルとマリー・ド・クランが結婚、1404年末あるいは1405年初頭、待望の長男が産まれジルと名付けられた。レ男爵ジル・ド・モンモランシ=ラヴァル” Gilles de Montmorency-Laval”、通称ジル・ド・レ” Gilles de Rais ( Gilles de Retz )”(注2)の誕生である。

ジャン・ド・クランの領土拡大とレ家

ジル・ド・レ関連地図(清水正晴著『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4768466788/coh00-22/" target="_blank" rel="nofollow"><青髭>ジル・ド・レの生涯</a>』(現代書館,1996年))より

ジル・ド・レ関連地図(清水正晴著『<青髭>ジル・ド・レの生涯』(現代書館,1996年))より


ジル・ド・レというとフランス随一の資産家として知られているが、この資産を築いたのがジルの母方の祖父ジャン・ド・クランである。その中核となるレ男爵領は、十四世紀後半、ブルターニュ公家とフランス王家の対立の狭間で賢女ジャンヌ・ド・レの手腕によって所領と資産の集中が進められていた。これを受け継ぎ、ジャン・ド・クランは積極的な拡大を図る。上記のレ家継承問題に関しても賢女ジャンヌ突然の変心は、彼の策によるともいわれる。結果、ジャン・ド・クランはクラン家、レ家、モンモランシ=ラヴァル家の統合に成功したのであった。

1415年初頭、ジル・ド・レ10歳のとき母マリーが亡くなり、続いて父ギーも狩猟中の事故で死去、ジルと弟ルネ(1407年生まれ説と1414年生まれ説がある)の兄弟はジャン・ド・クランの庇護下に置かれた。続く10月25日、アジャンクールの戦いでジャン・ド・クランの嫡子アモーリが戦死し、ジルが名実ともに一族を後継する立場となった。

一族の当主ジャン・ド・クランは後継者であるジルに教育を施しつつ、早くから結婚相手を探し始めた。1417年1月、12歳のジルの最初の婚約者候補となったのがノルマンディー地方アンビュイおよびブリクベックの領主フルク・ペーネルの娘ジャンヌ・ペーネル” Jeanne Paynel”である。ジャンヌ・ペーネルは当時わずか四歳、父フルクはすでに亡くなっており、結婚が成立すれば富豪として知られたペーネル家の所領・財産が手に入ることになる。しかし婚約には至らなかった。ジャンヌ・ペーネルがほどなくして亡くなったからである。次いで、1419年、ジャン・ド・クランが見つけてきたのがブルターニュ公ジャン5世の姪ベアトリス・ド・ロアン” Béatrice de Rohan”である。これも婚約前にベアトリスが亡くなり成立に至らなかった。

1420年、ジャン・ド・クランが狙いを定めたのがミエ・ド・トアールとベアトリス・ド・モンジャンの娘カトリーヌ・ド・トアール” Catherine de Thouars”であった。トアール家の所領はティフォージュ、プゾージュ、サヴィネ、コンフェラン、シャバネなどに広がり、彼女をジルの妻とすれば一気に所領は拡大する。クランとトアール家との交渉も難なく進んだが、ジルとカトリーヌが近親婚にあたるとして教会から差し止められることになった。11月24日、業を煮やしたクランはジルと兵を連れてトアール家に乗り込むとカトリーヌを誘拐し司教を脅して強引に結婚を進めてしまう。その後、教会との協議を重ねて1422年、二人の結婚は正式に認められた。このような略奪婚は各種法令や社会通念としても禁じられていたが、守られることは少なく、中世社会でもよくある例の一つといえる。続いて、ジャン・ド・クランの妻ベアトリス・ド・ロシュフォールが亡くなると、クランはカトリーヌの祖母アンヌ・ド・シエ” Anne de Sillé”と再婚し、有力な豪族シエ家の所領も吸収している。

1423年、カトリーヌの父ミエ・ド・トアールが亡くなると未亡人となったカトリーヌの母ベアトリス・ド・モンジャンは、トアール家の領土奪取を狙うジャン・ド・クランに対抗するため、フランス王シャルル7世の侍従を務めたジャック・メシャン・ド・ラ・ローシェ・エロと再婚する。これによってカトリーヌとジルとの婚姻を通じたトアール家の領土獲得が閉ざされたジャン・ド・クランは実力行使に出た。クランはティフォージュ城の守備隊長ジャン・ド・ラ・ノエを買収してベアトリスとその妹を誘拐すると、地下牢に監禁して領地の相続権放棄を求めた。このときジルとカトリーヌ立ち合いでベアトリスを革袋に入れて川に沈めるなどの拷問も行ったというが、結局、ベアトリスは頑として首を縦に振らなかったから、いよいよ軍を率いてティフォージュ城を攻略、実力でトアール領を制圧する。

これに対しジャック・メシャンが抗議の使者を送るとこの使者三人も監禁、メシャンがフランス王シャルル7世に訴え出て、シャルル7世の使者が送られるがこれも追い返してしまう。当時、シャルル7世政府はイングランドの攻勢でフランス南部に追われた亡命政権でしかなく、このような中小領主の横暴に懲罰を与える力すら無かった。結局、武力制圧は追認され、示談が成立してティフォージュかプゾージュどちらかの城をベアトリスに返還する約束がされたが、これも履行されることはなく、ジャン・ド・クランはトアール領を我がものとした。

「ジル・ド・レ関連略系図」

「ジル・ド・レ関連略系図」

ジル・ド・レと祖父

ジル・ド・レの幼少期についてわかっていることはほとんどない。十二歳まで二人の家庭教師がつけられて教育が施され、青年期以降の文学や芸術への造詣の深さやラテン語の理解、教会音楽の愛好などから、その内容はかなりの高等教育であっただろうと考えられている。青年期以降は十五歳から十八歳にかけて祖父の指導の下で軍事技術を学んでいたこと、掠奪や女性・非戦闘員への暴力行為なども含む手段を択ばぬ祖父の領土拡大政策の忠実な実行者であったこと、上記の通り十五歳で結婚したことなどが挙げられるのみである。

幼少期のジル・ド・レについて、祖父ジャン・ド・クランの悪影響を強調する説は根強い。ジョルジュ・バタイユはジル・ド・レ裁判記録集の序文として書き起こした「ジル・ド・レ論」(1959年/1965年)で「このようなジルとその祖父を見ていると、ナチスの残虐行為が思い起こされてくるのだ」(注3)として「彼はこの老封建貴族から手ほどきを受けた犯罪の道を続ける。(中略)そしてクランが死ぬと、幻覚につかれたような一連の少年殺害を始めるのだ」(注4)と、クランにより教えられた”ナチス的な暴力性”が歯止めを失い、祖父のような利害でなく快楽を目的とするようになって少年殺害に至ったとする。

しかし、ジャン・ド・クランの事績について、確かに暴力的ではあるが、同時代の領主層の人物として何か特別残虐だとか暴力性が強いということは無いように思う。彼のような目的のために手段を択ばず時に残酷な暴力を用いてでも勢力拡大に邁進する人物など、中世ヨーロッパに限らず歴史上に数えきれないほどいるし、むしろ全く珍しくないタイプである。殊更ジャン・ド・クランの暴力性を強調して怪物的なイメージを持たせるのはジル・ド・レが後に幼児大量殺人で処刑されるという結果から遡って原因を見出そうというこじつけでしかないのではないか。

また、ジル・ド・レが幼少期に読んだ本の影響を指摘する見解も根強い。レナード・ウルフによればジルが祖父から相続した蔵書としてヴァレリウス・マクシムスの手稿、聖アウグスティヌスの『神の国』、オヴィディウスの『変身譚』とスエトニウスの『皇帝列伝』などがあった (注5) 。この『皇帝列伝』に注目したのが十九世紀のジル・ド・レの伝記作家シャルル・ルミールで、ルミールは『皇帝列伝』で描かれたローマ皇帝たちの残虐行為に影響を受けて幼児期の人格形成の過程でジルが幼児殺害に悦びを見出すようになったとの説を唱え(注5)、二十世紀に入ってもこのような本の影響論が根強く残された。清水正晴も『<青髭>ジル・ド・レの生涯』(1996年)でスエトニウスの皇帝列伝での暴君らの描写を引用しつつ『好奇心旺盛で感受性のするどい少年ジルは、ティベリウスやカリグラ、ネロなどの物語に強い刺激を受け、これが彼の精神形成におおきな影響をおよぼしたことはじゅうぶんにありうることである』(注6)とする。

これらの見解も「ジル・ド・レの犯罪」という結果から遡って原因を見出そうというこじつけでしかないのではないか。そもそも1432年に亡くなった祖父の財産の中の蔵書なのでジルが幼少期に読んだかどうかも怪しい。レナード・ウルフは皮肉たっぷりに『しかし、スエトニウスの小さな歴史書が書かれて千二百年以上経つが、私の知る限りでは、この本はジル以外の怪物は一人も生んでいないのである。』(注7)と書いた上で、『いずれにしても、ジル・ド・レーがネロやカリギュラをモデルにしたという議論は空想的すぎる』(注8)と退けている。現代でもアニメやゲーム、映画などの描写が犯罪行為に影響を及ぼすとして語られるのと同様、ジル・ド・レの幼児殺害へ影響を及ぼしたとして古典歴史書の残酷描写が結びつけて語られてきたのである。

百年戦争下で台頭するレの一族

百年戦争とブルターニュ公国

百年戦争は1337年、フランス王フィリップ6世によるイングランド王エドワード3世のアキテーヌ公領没収宣言に対する、エドワード3世によるフィリップ6世への臣従礼放棄宣言に始まったが、当初小競り合い程度であった両者の冷戦を一気に熱い戦争へと燃え上がらせたのがブルターニュ公位継承戦争(1341-1364)であった。

1341年、ブルターニュ公ジャン3世が亡くなると、公の異母弟ジャン・ド・モンフォールと、公の姪ジャンヌ・ド・パンティエーブルの夫シャルル・ド・ブロワが公位を主張して争い、モンフォール派をイングランド王が、パンティエーブル派をフランス王が支援して両国の主力が投入されブルターニュ地方は百年戦争の主戦場となった。百年戦争は当初イングランド軍がエドワード黒太子らの猛攻でフランス軍を圧倒するも、名将ベルトラン・デュ・ゲクランの活躍でフランスが占領地を悉く奪還して休戦、という経緯をたどるが、ブルターニュでは1364年、イングランドが支援するジャン・ド・モンフォールの同名の子ジャンがパンティエーブル派=フランス連合を撃破してブルターニュ公ジャン4世として継承し、1379年に再侵攻してきたフランス軍を駆逐して1381年、フランス王との休戦協定が成立。フランス諸侯としてフランス王に臣従礼を捧げる親イングランド政権という絶妙な体制がブルターニュに確立されることになった。

パンティエーブル家はブルターニュ公国内の親仏派として残り、対立の火種はくすぶり続けた。1392年には、ブルターニュ貴族で継承戦争時ジャン4世から離反してパンティエーブル派に鞍替えし、後にフランス王に仕えて元帥となったオリヴィエ・ド・クリッソンがパンティエーブル家と結んで公位を脅かしたことで、ジャン4世の意をくんだ暗殺者(注9)に襲撃され重傷を負うという事件が起きた。これに激怒したフランス王シャルル6世がブルターニュ征討軍を起こすが、遠征の途上、王は精神錯乱の発作を起こして軍を退き、以後シャルル6世は度々発作を起こすようになり、次第に狂気状態の時間が長くなって統治能力を喪失、国政の主導権を巡ってブルゴーニュ派とアルマニャック派に分裂して内乱となりフランスは再び混乱に陥っていく。

ブルターニュ内乱とジャン・ド・クランの台頭

1420年2月13日、ブルターニュ公国で事件が発生した。ブルターニュ公ジャン5世(賢明公,在位1399-1442)がパンティエーブル派の待ち伏せに遭い誘拐されたのである。

背後にはフランス王太子シャルル(後のフランス王シャルル7世)を擁するアルマニャック派の働きかけがあった。1415年、アジャンクールの戦いでイングランド軍によってアルマニャック派を主力としたフランス軍が壊滅させられ、1418年、王太子シャルルはブルゴーニュ公派の攻撃を受けて王都パリを脱出、王太子シャルルを擁するアルマニャック派残党はフランス東南部旧ベリー公領の主邑ブールジュを拠点とした亡命政権を樹立した。ブルゴーニュ公ジャン(無怖公,在位1404-1419)との和睦交渉が進められたが、1419年、王太子シャルルとジャン無怖公との会談の場でシャルルの配下によりジャン無怖公が暗殺(モントロー橋暗殺事件)され両者は完全に決裂、ジャン無怖公の後継者ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公,在位1419-1467)はイングランドとの同盟に傾いた。

百年戦争「アルマニャック派」とは何か、成立から消滅まで
アルマニャック派(” Armagnacs”)は1410年、台頭するブルゴーニュ公ジャンへの対抗としてオルレアン公シャルル、アルマニャック伯ベルナール7世、ベリー公ジャンら有力諸侯が結成した反ブルゴーニュ派同盟。イングランド軍の侵攻後は、王太...

そのような中、アジャンクールの戦いでイングランド軍の捕虜となったままのブルターニュ公弟リッシュモン伯アルテュールに続いて、現ブルターニュ公の実母で前公ジャン4世と死別した後、イングランド王ヘンリ4世と再婚していたジャンヌ・ド・ナヴァールが、1419年に入ってイングランド王ヘンリ5世暗殺未遂の疑惑をかけられて幽閉され、ジャン5世はこれら親族の捕虜を盾にされてイングランド寄りの政策を余儀なくされつつあった。このブルターニュ公のイングランドへの接近を恐れたアルマニャック派がパンティエーブル家に働きかけたことで実行されたのがこの誘拐事件である。

この危機に立ち上がったのがブルターニュ公妃ジャンヌ・ド・フランス――その名の通りフランス王家出身、シャルル6世の次女で王太子シャルルの姉にあたる――である。公妃は幼い二人の公子を抱えてブルターニュ議会に姿を現すとパンティエーブル家打倒を訴え、貴族たちも満場一致でこれに従うことが決議された。

ジャン・ド・クランはパンティエーブル派に属していた。それも豊富な資金と精強な兵を持つパンティエーブル派の主力である。ところが、機を見るに敏なクランは孫ジルとともにパンティエーブル家を見限り公妃の下に参陣したのである。2月23日付でジャン・ド・クランとジル・ド・レはジャン5世への忠誠を誓っている(注10)。クランの裏切りに怒り心頭のパンティエーブル家はレ家の所領を攻撃・掠奪したが最早悪あがきでしかなく、7月15日、居城シャントソー城が陥落、ジャン5世は救出され、パンティエーブル家は所領を没収されてブルターニュ公国の火種であった両家の対立は解消された。

この内乱の際、ジャン・ド・クランは公妃から信頼を得て事後処理として公弟リッシュモン伯アルテュールの解放交渉を任されイングランドへ派遣、同年リッシュモン伯の期間限定での一時帰国が実現している。15歳のジル・ド・レがこの内乱に参戦したかどうかについては参戦したとする説と参戦していないとする説があるが、初陣には丁度良い年頃でもあるので参戦しただろうと考えるのが自然ではある。

その後、上記のようなジルの結婚とクラン家の領土拡大を経て、ジャン・ド・クランがさらに百年戦争下の国際関係で存在感を発揮していくことになり、ジル・ド・レもそれに引き上げられるかたちでいよいよ表舞台へと登場する。

百年戦争下の三勢力鼎立

1429年頃のイングランド領

1429年頃のイングランド領
エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『中世のイギリス』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年)331頁より


この時期の百年戦争下の政局の動きは目まぐるしい。ブルターニュ内乱と同時期の1420年5月21日、トロワ条約が結ばれて王太子シャルルは廃嫡、イングランド王ヘンリ5世(在位1413-1422)がフランス王シャルル6世の王女カトリーヌと結婚の上でフランス摂政に就任、フランス王位継承権を獲得して英仏統一への第一歩を標し、さらにブルゴーニュ公フィリップ3世との軍事同盟(アングロ=ブルギニョン同盟)が締結された。ところが21年3月、王弟クラレンス公トマス率いるイングランド軍がアルマニャック派にボージェの戦いで敗れクラレンス公が戦死する。これを憂慮したヘンリ5世はアンジューに遠征してドルー、エベルノン、ボージャンシーを次々と陥落させていく。アンジューからブルターニュ一帯までを脅かすイングランド軍の快進撃はブルターニュ公を震え上がらせた。

イングランドの一方的な展開を危惧したブルターニュ公ジャン5世は密かにアルマニャック派に加担、21年夏、ブルターニュ公と王太子シャルルとの間でサブレ条約が締結されイングランド王のフランス王位継承の否定やブルターニュ公ジャン5世の妹を母に持つアルマニャック派の有力諸侯アランソン公ジャン2世とオルレアン公シャルルの娘ジャンヌ・ドルレアンとの結婚が進められた。22年8月31日、卓越した戦争指揮でフランス制覇も時間の問題と思われたヘンリ5世が急死し、続いて10月21日、フランス王シャルル6世も長い闘病の果てに亡くなると、イングランド王にしてフランス王として生後9か月の幼児ヘンリ6世が即位、これに対して王太子シャルルもフランス王シャルル7世(勝利王,在位1422-1461)を名乗ったことで、政局は非常に流動的となった。

フランス北部と南西部アキテーヌ公領を支配しながら稀代の軍略家だった王を失い統治能力のない幼児を推戴せざるを得ないイングランド=フランス二元王国、反英・反ブルゴーニュ派諸侯の寄り合い所帯なフランス王を自称するフランス南部のシャルル7世亡命政権、フランドルとブルゴーニュという富裕な経済先進地帯を領し低地地方(ネーデルラント)から中欧へと着実に領土拡大を図って二勢力を凌ぐ勢いのブルゴーニュ公国の三大勢力が鼎立し、この三強の狭間で、弱体化したフランス王から独立を果たした(注11)第四勢力ブルターニュ公国と数多の中小領主たちという状況になった。

表舞台に立つジル・ド・レ

ジル・ド・レ抜擢の背景

ヘンリ5世死後、幼君ヘンリ6世の摂政として事実上英仏二元王国を指揮するのが、前王ヘンリ5世の弟ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターである。1423年3月、ベッドフォード公は後にジャンヌ・ダルク処刑裁判の裁判長を務めるボーヴェ司教ピエール・コーションをブルターニュへ派遣しサブレ条約の破棄を求めた。4月17日、アミアンでベッドフォード公、ブルゴーニュ公、ブルターニュ公、フォア伯(南フランスの親英派有力諸侯)の四者が集まり同盟関係の確認と政略結婚による関係強化が取り決められた。ベッドフォード公ジョンとブルゴーニュ公フィリップ3世の妹アンヌとの結婚、ブルターニュ公ジャン5世の弟リッシュモン伯アルテュールとブルゴーニュ公フィリップ3世の妹マルグリットの結婚である。これにより反シャルル7世包囲網が誕生したかに見えた。

この劣勢を逆転させる一手を考えていたのが、アンジュー公母ヨランド・ダラゴンであった。アンジュー公国はフランス王シャルル5世の弟ルイ1世から始まる親王領である。ヨランド・ダラゴンはイベリア半島アラゴン王国の王女でアンジュー公ルイ2世妃、時のアンジュー公ルイ3世はヨランドの長子、長女マリーはシャルル7世妃と事実上シャルル7世派の主力となっていた諸侯国家であった。その政治力で知られるヨランド・ダラゴンは的確にこの状況下のキーパーソンを見抜く。それがリッシュモン伯アルテュールである。ブルターニュ公の実弟、ヴァロワ王家の王族でシャルル7世派の有力諸侯アランソン公ジャン2世の叔父、今回のアミアン条約でブルゴーニュ公の義弟にもなった、高い戦闘指揮能力で知られる武将である。諸勢力のネットワークの中心にいるではないか。彼をシャルル7世の下に迎えることができれば、この勢力図は一気に裏返るのではないだろうか――

この交渉役としてヨランドが抜擢したのがジャン・ド・クランであった。ブルターニュ公の信頼厚く、アンジュー公国にも所領を持ち、その政治力は申し分が無い。ジャン・ド・クランはヨランドの命を受けてシャルル7世の宮廷とブルターニュ公国との間で調整を進め、リッシュモン伯もこれに前向きだったこともあり、ヨランドがシャルル7世にリッシュモン伯登用を進言することで決した。1425年3月7日、リッシュモン伯アルテュールはシャルル7世によって王国軍最高司令官に任命され、ブルターニュ公、ブルゴーニュ公はともにこれを容認、フォア伯もイングランドから離反してシャルル7世についた。前年1424年8月17日のヴェルヌイユの戦いでアルマニャック派軍が壊滅し軍事バランスが一気にイングランド優勢に傾いたことや、エノー伯領継承問題によるブルゴーニュとイングランドの関係悪化の影響も大きい。様々な要因で勢力均衡が求められ、包囲網はわずか一年で瓦解したのである。

この交渉成功でヨランドの信を得たジャン・ド・クランは続けてアンジュー公ルイ3世と ブルターニュ公ジャン5世の長女イザボー・ド・ブルターニュとの婚約交渉を任された(注12)。1425年10月7日のシャルル7世とブルターニュ公ジャン5世の会見ではブルターニュ公のトロワ条約破棄が約束されたが、このときジャン・ド・クランとともにジル・ド・レも同席しており、シャルル7世にも拝謁している。これがジル・ド・レの表舞台への初登場となる。

リッシュモン改革の挫折とジル・ド・レの登用

シャルル7世の宮廷に迎えられた大元帥リッシュモン伯アルテュールは旧勢力の一掃に乗り出した。寵臣ピエール・ド・ジアックを処刑し、タンギー・ド・シャテルら旧臣を追放、「正義の人」の異名通り宮廷内の大改革を断行する。しかし、彼の仮借ない姿勢は同時に新たな政争の火種にもなった。彼によるシャルル7世勢力の強化はブルターニュ公国内の親英派の反発も招いた。親英派のブルターニュ公国宰相ナント司教ジャン・ド・マレストロワと親仏派の公弟リッシュモンとの対立に、ブルターニュ公ジャン5世はどっちつかずの態度を取ったため、リッシュモンの地位が揺らぐ。

リッシュモン改革に協力することで頭角を現したのがジョルジュ・ド・ラ・トレムイユ” Georges I de La Trémoille”である。以前はブルゴーニュ公に仕えていた官僚で、クラン家の縁戚にあたり、ジル・ド・レとは従兄弟同士であった。弁説に優れたラ・トレムイユはシャルル7世の寵を得るとリッシュモンと対立するようになり、1427年8月、シャルル7世はラ・トレムイユの進言を受けてリッシュモンを宮廷から追放、ラ・トレムイユは王室侍従長に就任して宮廷を掌握する。

このシャルル7世政権の政争で最も恩恵を得たのがジャン・ド・クランとジル・ド・レである。1427年6月、ジャン・ド・クランはアンジュー公国軍副司令官に就任し公国軍の実働部隊はジル・ド・レが指揮することとなった。これらはヨランド・ダラゴンが宮廷での政争を見て有力なクラン家を中核に据えることでの王国軍の再編成を図る一貫であった。メーヌ地方での対イングランド戦争に出撃したジル・ド・レは、後にジャンヌ・ダルクの戦友の一人としても知られるアンブロワーズ・ド・ロレ率いるフランス軍と共同でイングランド軍の城をあわせて四城奪還することに成功している。

リッシュモンの失脚によって新たな軍の中核が必要となる。そこで白羽の矢が立ったのがジル・ド・レであった。ラ・トレムイユにとってはリッシュモンより御しやすく若くて戦闘力も証明済み、何より自身の従弟である。また、ジャン・ド・クランの関係から宮廷の重鎮ヨランド・ダラゴンの同意を得やすい。権力を掌握したばかりのラ・トレムイユにとって支持者も多い政敵リッシュモン伯を掣肘できる実に都合の良い人材であった。こうしてジル・ド・レはシャルル7世の宮廷に迎えられるのである。そして、「リッシュモン大元帥の敵」という役割を与えられて軍事キャリアを始めたことは、彼の運命を決定づけることにもなるのであった。

ジル・ド・レの栄光

リッシュモン伯の招聘というアルマニャック派シャルル7世政府の外交的勝利は、その後のリッシュモン大元帥の失脚によって、ブルターニュ、ブルゴーニュ両公国があらためてシャルル7世政府と距離を置く結果となったため、大局的に見ればささやかな影響しか与えなかった。また、1424年8月17日のヴェルヌイユの戦いで主力が壊滅したことが尾を引いており、軍事的劣勢は顕著であった。

ジャンヌ・ダルクの登場

1428年、ベッドフォード公は”反乱軍”に対していよいよ決定的一撃を加えるべく軍を集結させると、イングランド随一の名将との誉れ高いソールズベリー伯トマス・モンタキュートに要衝オルレアン市の攻略を命じた。オルレアンを攻略すれば、シャルル7世が拠るロワール川以南へ一気に進軍できる。1428年10月12日、周辺都市を次々と攻略したイングランド軍がオルレアン市前面に姿を現した。序盤で英軍指揮官ソールズベリー伯が事故死するハプニングもあったが、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、ジョン・タルボットらが指揮を引き継ぎ、1429年2月のニシンの戦いでオルレアン防衛軍の主力が撃破されると市内は諦めムードが漂い、防衛指揮官ジャン・ド・デュノワの下、耐え忍んではいたが陥落はもはや時間の問題となっていた。とある少女の噂が聞こえてくるまでは――

1429年3月4日、シャルル7世の居城シノン城に到着したジャンヌ・ダルクは同6日、シャルル7世との面会を許される。城内の大広間に通された彼女は並み居る群臣諸将の中に隠れたシャルル7世をすぐに見つけ出して人々を驚かせ、王との面談を経て信を得たという。この大広間におそらくジル・ド・レも居合せたと思われる。

ジャンヌ・ダルクとの出会いよりジル・ド・レの生涯に大きな影響を与えた出来事が1429年4月8日に行われたジョルジュ・ド・ラ・トレムイユへの忠誠の約束であった。ジルは「国王に対する深い敬愛とともに、すべての諸侯との関係において、またそれら諸侯に対抗して生涯その死にいたるまでラ・トレモイユの領主ジョルジュ殿に全力を挙げて奉仕する」(注13)と誓い、実際この誓約を守り通すことになるのである。

オルレアン包囲戦

オルレアン包囲戦~勃発の背景からジャンヌ・ダルクの登場、終結まで
前史 フランス王シャルル6世が発狂して統治能力を失って以降、対立していたブルゴーニュ派とアルマニャック派はイングランド王ヘンリ5世に同盟を求め、両者の対立を好機としたヘンリ5世は1415年フランスに侵攻、アジャンクールの戦いでフランス軍を...

1429年4月21日、ジャンヌ・ダルクがブロワの補給基地に到着、大規模な補給部隊が編制され、4月27日、ジャンヌ・ダルクとその直属部隊、ラ・イル、アンブロワーズ・ド・ロレ、ブーサック元帥ジャン・ド・ブロス、フランス提督ルイ・ド・キュランそしてジル・ド・レらの部隊からなる補給・増援部隊がオルレアンに向けて進発、29日夕刻、ジャンヌ・ダルクはオルレアンに入城し歓呼をもって迎えられた。ただし、ジル・ド・レは護衛の任を終えるとブーサック元帥らとともに一旦ブロワに戻り、改めて増援部隊を率いて、5月4日、オルレアンに入城した。

ジル・ド・レとブーサック元帥率いる増援部隊が到着早々、意気上がったオルレアン兵たちが英軍のサン・ルー城砦に襲い掛かりこれを奪取することに成功、5月6日、強硬策を唱えるジャンヌに押され、ジャンヌ・ダルク、ラ・イルの部隊に率いられたフランス軍はオーギュスタン城砦を奪還し、5月7日、要衝トゥーレル要塞に襲い掛かった。この時、胸を射抜かれ倒れるジャンヌ・ダルクに一瞬動揺が走ったが、応急処置だけで再び戦場に姿を現した彼女の姿にフランス軍の士気は否応なく上がり夜までにトゥーレル要塞が陥落、怒涛の快進撃でイングランド軍の包囲網が崩壊し、5月8日、イングランド軍は兵を退き、オルレアンは解放された。これら一連の戦いにもちろんジル・ド・レも参加している。

オルレアンの戦いでのジル・ド・レの戦いぶりについてはいくつかのエピソードが伝記に紹介されているが確かなことはわからない。レナード・ウルフはジャン・ベネディッティ著のジル・ド・レの伝記からの引用としてサン・ルー砦攻撃時、突出してタルボット軍に挟撃されるジャンヌ・ダルクをラ・イル軍と連携して救出するジル・ド・レの姿を紹介しているが、実際のところサン・ルー攻略時にタルボット自ら出撃してはおらず、ほんの数時間で終結した小戦闘なためさすがにドラマティックに過ぎる(注14)。一方、清水はラ・トレムイユの意を汲んでジャンヌが軍議をリードしないよう監視、オーギュスタン城砦攻略でジャンヌが兵を率いて出陣するとバタールと善後策を検討するなど事実上の副将格のように描いているが、このような役割は慎重派のオルレアン代官ラウル・ド・ゴークールが担っていたものではなかったか(注15)。

ペルヌー「オルレアンの戦い」を読むと、ジル・ド・レの活動に触れられていることは少なく、実際は限定的で手堅いものであったようである。オルレアンに残されている出納簿にトゥーレル攻囲時の騎馬用支出としてジル・ド・レに対し、からす麦三桝分が支出されている記録が残る(注16)。また、バタイユによれば、トゥーレル要塞奪還に関して「ジル・ド・レや他の部将たちも、この日、きわめて早朝から彼女に従って左岸の橋頭堡であるトゥーレル堡塁の前方まで進出した」「あとに残った『まことに勇敢な戦士』という名声を得るにふさわしい勇猛ぶりを見せた合戦のひとつだった」(注17)とする。

ロワール作戦

オルレアン解放後、オルレアンの戦いには不参加だったアランソン公ジャン2世を総大将としジャンヌ・ダルクを擁するイングランド追撃軍が編成され、ジル・ド・レもこの一翼を担った。追撃軍はまず6月12日ジャルジョーを奪還、このジャルジョー攻略戦についてジョルジュ・バタイユは『ジル・ド・レがこれに参加したという証拠はなにもない』(注17)としているが清水はこれを否定して『ジルが当時この地で一千フランの支払いをした領収書が残って』おり、その内容から『ジルはこの作戦に参加して、しかもきわめて重要な役割を果たしていたとみるべき』(注18)と指摘する。追撃軍にリッシュモン伯軍が合流して、6月18日、集結したイングランド軍と対戦、タルボットを捕虜とするなどイングランド軍を壊滅させる。このパテーの戦いではジルはジャンヌと同じ後軍に配されて共に戦っている。

オルレアン解放後のイングランド軍追撃戦「ロワール作戦」と「パテーの戦い」
「ロワール作戦」 1429年5月8日、イングランド軍はオルレアン市の包囲を解き退却した。オルレアン包囲戦はフランスの勝利に終わったが、イングランド軍は主力を温存したまま退いたに過ぎない。5月11日、国王シャルル7世が待つロッシュでオルレア...

シャルル7世戴冠式と元帥昇任

続くシャルル7世戴冠のためのランス攻略軍にもジルは参加し、7月10日、トロワ市を降伏させ、7月16日には戴冠式の場となるランス市に国王軍が入城した。翌7月17日、いよいよ待望のシャルル7世戴冠式が開催される。このとき、ジル・ド・レは元帥杖を授与されてフランス王国元帥に就任、さらに戴冠式においてノートルダム大聖堂より聖油瓶を運び王の戴冠に侍する四騎士――レ元帥ジル・ド・モンモランシ=ラヴァル、国王親衛隊長ブーサック元帥ジャン・ド・ブロス、フランス提督ルイ・ド・キュラン、弩兵隊長ジャン・マレ・ド・グラヴィル――の一人にも選ばれた。24歳の若さでの元帥就任は当然ラ・トレムイユ侍従長の後ろ盾あってこそではあったが、ジル・ド・レの活躍は確かにその地位にあってもおかしくないものであった。

パリ包囲戦

この後、ジルは9月7日から8日までのパリ包囲戦に参加する。ランス戴冠式以降、アルマニャック派ではブルゴーニュ公との和平を目指すラ・トレムイユら和平派と武力攻勢を唱えるアランソン公ジャン2世やジャンヌ・ダルクら主戦派の路線対立が生じ、前者がブルゴーニュ公との和平交渉を行う一方、後者は首都パリ奪還を目指して軍事行動を起こした。このパリ包囲戦へのジルの参加について、ジャンヌは「自分にふさわしい人」を呼び寄せたと同時代の年代記作家ペルスヴァル・ド・カニが記しており、バタイユは『彼女は、決定的瞬間だと信じた時において、ド・レ殿をそのかたわらに置いておきたかったのであろうが、これは彼女が彼の軍人としての能力を買っていたことにほかならないであろう』(注19)という。なおジャンヌと一緒に戦ったのはこれが最後であった。

9月にはシャルル7世より「リュード攻略やオルレアンの敵包囲の排除、パティの合戦ならびに聖別式にあたってのランス市内での働き、さらにはセーヌ河彼岸における数県奪還の働き等々」の「赫々たる功績」(注20)により王家の紋章である百合の紋章の使用が認められた。この公文書もラ・トレムイユの下で作成・発行されており、ラ・トレムイユの働きかけによるところが大きい。

幸せな報告は続き、1429年末(注21)、妻カトリーヌが長女を出産しマリーと名付けられた。全てが上手くいきすぎるほど上手くいき、ジル・ド・レ栄光の時代はこれからも末永く続くかに思われた。

ジャンヌ・ダルクとジル・ド・レ

本当は不仲だった?

現在、創作で語られるジル・ド・レはジャンヌに心酔しジャンヌの死によって凶行へと走り破滅するキャラクターとして描かれることが多いが、実はジル・ド・レとジャンヌ・ダルクがお互いについて言及した記録も、両者の関係について触れられた記録も全く残っていない。二人が親密であったのかどうか全く不明なのである。

『ジル・ド・レのジャンヌに対する友情、あるいはジャンヌのジル・ド・レに対する友情といったようなことを言う人々がいる。だがこれは、なんら根拠のない想定にすぎないのであって、近年ジル・ド・レのことを述べた著者たちが、その恐ろしい様相に魅力的な面を対比させようとした、まことにナイーブな試みの結果にほかならないのである。』(注19)

彼がラ・トレムイユに忠実な立場であった点もジャンヌとの距離を感じさせる。ジャンヌ・ダルクはそのカリスマ性でもってアランソン公ジャン2世ジャン・ド・デュノワラ・イルザントライユといった武将たちの支持を集め宮廷内で対英主戦派の象徴になりつつあった。一方、ラ・トレムイユやフランス宰相ランス大司教ルニョー・ド・シャルトルら廷臣たちは戦争継続よりブルゴーニュ公との和平締結を優先させる方針が強くシャルル7世もこの和平派を支持している。また、ジャンヌがリッシュモンの復帰を王に進言していた点もラ・トレムイユにとっては警戒すべき点であった。ゆえに、ジル・ド・レはジャンヌを中心とした対イングランド主戦派へのカウンターとして対ブルゴーニュ和平派のアイコンとなる武将という役割を与えられていたのである。

『一四二九年九月の時点においては、シャルル七世の官房は、そのいまだ二十五歳に達していない高貴な生まれの元帥の人気を盛り上げようということに腐心していたようである。』(注20)

一方で、派閥対立の枠を超えて1429年9月のパリ包囲戦に参加している点は、純粋にジャンヌらへの共感から政治的立場を越えたのか、ラ・トレムイユの意向を反映して監視役としてなのか、などジルがどのような意図で参加したのか一考に値するだろう。

ジャンヌが捕らわれた際も、例えば身代金の資金集めに動いたデュノワや救出のため兵を募ったラ・イルらと違って、ジル・ド・レは特に熱心に解放や救出などの具体的なアクションを起こした記録は残っておらず、ジル・ド・レが救出の軍を起こしたという話が語られることもあるがあくまで創作で、おそらく多くのフランス諸侯・軍人たちと同様、宮廷の動向を注視しつつも無関心な態度に徹していたようである。

ジャンヌ・ダルク最大の支持者だったアランソン公ジャン2世、生涯よき理解者であったバタールことジャン・ド・デュノア、副官ジャン・ドーロンを始めとしたジャンヌ・ダルク直属部隊の面々、ラ・イルザントライユの傭兵組、ジャンヌの主要な全ての戦いに参加したアンブロワーズ・ド・ロレとブーサック元帥らが最も親しいグループで、ジル・ド・レはやはりその輪の外にある。

「いい人」だったジル・ド・レ

このように両者が置かれていた立場からは親しいというよりはむしろ対立していたようですらあるが、一方で、両者に共通するのがキリスト教に対する強い信仰心である。その残酷な快楽殺人の逸話から神を呪う涜神者としてのイメージが強いが、実はジル・ド・レはその死の瞬間まで神を畏れ、神の救いを求めて祈る敬虔なキリスト教徒であった。1435年には領内のマシュクールにサン・ジノサン礼拝堂を建てているし、裁判中も一貫して教会の権威に服する姿勢を見せ、神の恩寵を願っている。同じ敬虔なキリスト教徒としてジャンヌの信仰深さに親近感を覚え好意を抱いていた可能性はある。

また、ジル・ド・レの性格についてほぼ一致する特徴として語られるのが、「人を信じやすい性格」「子供っぽさ」である。勇敢で深い教養があり、人を惹き付ける魅力を持っていた半面、暴力的で浪費癖があり、ジャン・ド・クランやジョルジュ・ド・ラ・トレムイユら老獪な人々に唯々諾々と従い振り回される、およそ政治的駆け引きとは無縁な人物であるという(注22)。要するに彼は良くも悪くも根が単純な「いい人」なのである。ゆえに、ジャンヌ・ダルクと同様、政治性や党派対立などに頓着せず、素朴な感情から好感を持っていたということは十分に考えられる。

ジャンヌ・ダルクとジル・ド・レの関係性については、立場上は距離を置かざるを得なかったが、一方的か相互かはともかく悪い感情は抱いていなかったと思われ、また、ジャンヌはジルの軍人としての能力を評価していたようでもある、というところが主流な見方となるだろう。

例えるなら、自身が所属する部署の上司たちは対立しているけど当人同士は良い同僚と考えている職場の仲間といったところか。しかし、このような見方も想像でしかないため、よくわからないというのが実情だ。ともあれ、ジルがジャンヌに心酔する熱心な崇拝者、第一の戦友というよく言われる描写はあくまで創作の域を出ない。

ジル・ド・レの没落

ジャン・ド・クランの死

1430年頃から宮廷内ではラ・トレムイユ派とリッシュモンの復権を画策しはじめていたヨランド・ダラゴンらアンジュー派の対立が深まっていた。1430年初頭、ラ・トレムイユの命を受けたジル・ド・レは軍を率いてアンジュー公領のサブレを占領、レルミタージュ城を攻撃してアンジュー家の武将ジャン・ド・ビュエイユを捕虜とした。さらに翌1431年2月以前、ジルは移動中のヨランド・ダラゴンの馬車を襲撃してヨランドを誘拐、その後解放する事件も起こしている。これらはいずれもラ・トレムイユによるヨランド・ダラゴンへの牽制として行われたもので、ジルは臣従するラ・トレムイユのためにこのような危ない橋を渡ることも辞さなかった。

ジル・ド・レがこのようなラ・トレムイユとヨランド・ダラゴンらアンジュー派との政争に体よく使われていた頃、ジャン・ド・クランはフランス王、アンジュー公国、ブルターニュ公国三者の同盟締結交渉を行っていた。1431年2月22日から24日にかけてジルも祖父の下に呼び戻され、ブルターニュ公ジャン5世の嫡子フランソワ(のちのブルターニュ公フランソワ1世)とアンジュー公ルイ2世の娘ヨランド・ダンジューとの婚約および両国間の同盟締結、またラ・トレムイユも呼ばれてジャン5世と会談しブルターニュ公とフランス王との和平条約が結ばれた。

この1431年2月の同盟交渉がジャン・ド・クランの最期の仕事となった。翌1432年11月15日、一代でフランス王よりも富裕と呼ばれた資産と領地を獲得した野心家はその遺産を孫ジル・ド・レに遺して波乱の生涯を終えた。

ジル・ド・レの伝記を書いたレナード・ウルフは『クラン公は要するにこういう人物だった――貪欲で、腹黒く、悪賢く、残忍な男。土地がこの男の固定観念であり強欲がその宗教であり、暴虐がその映像であった。彼のこのような属性を考えると、同時代の他の男たちより暴虐の度合いが低いことを除けば、彼はまさしく時代の人といえる。しかし、彼の貪欲は父から子へと受け継がれる領土の創設と関係していた。したがって、愛のための貪欲といえるかもしれない。彼の孫であるジルが、すべてを相続することになっていたのだから』(注23)と評す。

ジャン・ド・クランは百年戦争という乱世に手段を択ばず領地を次々と獲得してブルターニュ地方からアンジュー地方にいたる一帯に広大な領地を獲得した老獪な野心家だが、一方でひとたび外交の舞台に立つと百年戦争下の諸勢力の和平や同盟関係の形成に力を発揮した調停者という面も持つ多面的な人物であり、「まさしく時代の人」であった。

この祖父の死はジル・ド・レにも大きな衝撃であったようだ。後に処刑裁判において、いつから犯罪行為を繰り返すようになったかと問われたとき、「祖父であるラ・シュズ殿が死去した年に、シャントセ城内において」と答えている。ただし、ここで注意しなければならないのは、ジルが証言しているのは、あくまでジャン・ド・クランの死の年から犯罪行為を始めたということであって、因果関係を示唆しているものではない、という点である。バタイユはここからクランの死とジル・ド・レの犯罪とを結びつけて上記のクランの暴力性の影響論を展開し批判を受けている。(注22,注24)

ジル・ド・レ失脚

ジャン・ド・クランによる1431年2月の和平を土台に、1432年初頭にブルターニュ公ジャン5世とアランソン公ジャン2世の間で金銭貸借関係を巡って勃発したプアンス包囲戦の和平交渉の結果、ブルターニュ=フランス両国間の関係強化とブルゴーニュ公国との関係改善を目指して1432年2月リッシュモンのフランス宮廷復帰が実現することになる。

リッシュモン大元帥の下に再編された王国軍は1432年8月、イングランド軍に包囲されたシャンパーニュ伯領の中心都市ラニー救援のためジャン・ド・デュノワ、ラウル・ド・ゴークール、そしてジル・ド・レらからなる精鋭部隊を派遣、8月10日、イングランド軍を撃破して解放した。この戦いでのジル・ド・レの働きは目覚ましく、勇猛な武人としての名声を不動のものとする(注25)。

1433年に入りラ・トレムイユとリッシュモンの政争は激しさを増し、リッシュモンを支持するヨランド・ダラゴンのアンジュー派が勢力を拡大していた。7月10日、ヨランド・ダラゴンの末子メーヌ伯シャルル・ダンジューはジャン・ド・ビュエイユ、ピエール・ド・プレゼ、プレジャン・ド・コワティヴィの三将に対しシノン城内のラ・トレムイユ襲撃を命じる。このとき太っていたラ・トレムイユの脂肪の厚みで短剣の刺突が致命傷とならず一命をとりとめたというエピソードが残る。

捕われたラ・トレムイユは宮廷を追放され失脚、彼に替わって若くして卓越した政治力を持つメーヌ伯がシャルル7世の信を得て国王顧問会議の長として宮廷を掌握、政治のメーヌ伯シャルル・ダンジュー、軍事のリッシュモン大元帥という二人三脚の体制が確立し、いよいよフランスは勝利への道を歩み始める。そして、ラ・トレムイユ失脚は同時にジル・ド・レの失脚をも意味していた。

宮廷に居場所を失ったジル・ド・レはラ・トレムイユの失脚と共に所領に退き、1434年3月のシエ市攻略戦に名を連ねたのを最後に軍人としてのキャリアを終えた。

破滅への道

旅するジル・ド・レ

宮廷を追われたとはいえラ・トレムイユはまだ諦めていない。この諦めの悪さこそジョルジュ・ド・ラ・トレムイユという男の特性であり乱世を泳ぎ切るコツである。何せ彼はここからさらに諸侯を使嗾し大規模反乱まで起こしながら、しぶとく生き残ってついには宮廷へカムバックを果たすのだ。

1434年春、ブルゴーニュ公国領内にあるシャルル7世派ブルボン公国の飛び地グランシー市はブルゴーニュ軍に包囲されていた。この窮状をみたラ・トレムイユはグランシー救出を手土産にした復権を狙い一万レアルもの資金まで準備してジル・ド・レに救援軍の編成と派遣を依頼する。しかし、ジルは軍の編成を行うと自らは赴かず弟ルネに軍の指揮を委ねた。ルネは兄ほどの軍才はなく、8月15日、グランシーはブルゴーニュ軍の手に落ちた。

グランシーが陥落した同じ日、ジル・ド・レはフランス中西部の都市ポワティエにいた。ジルは自身が派遣した軍のことなどほったらかして・・・旅をしていたのである。宮廷を追われたジル・ド・レは諦めていた。

ポワティエは歴史のある都市である。史上名高い「トゥール・ポワティエ間の戦い」で名前が登場するようにフランク王国時代、統治の拠点として築かれ後にポワトゥ伯領が成立、アキテーヌ公がポワトゥ伯を兼ねると南フランス文化の中心となり、12世紀、リチャード獅子心王のお膝元としてアンジュー帝国の政治的中心の一つとして栄え、フィリップ2世の征服以降フランス王もこの都市を重視した。百年戦争ではクレシーの戦いに続くポワティエの戦いが代表的な会戦として知られる。また司教座都市として発展し宗教施設が多数存在する。1434年8月15日、グランシーが陥落した同じ日、ジル・ド・レはその有力教会の一つサン・ティレール・ド・ポワティエ教会の参事会員に認められ、教会で少年たちが歌う聖歌に涙していた(注26)。

1434年9月27日、ジル・ド・レ一行はポワティエからオルレアンへと足をのばした。オルレアンでの滞在の様子については史料が残っているようで詳しく知られている。ジル・ド・レは個人の邸宅を彼専用の宿泊施設として借り切った「オテル・ド・ラ・クロワ・ドール――金十字ホテル」に滞在し、聖職者団や騎士団を多数引き連れて十数か所に分散滞在していた。そして、ここまでの旅行で相当散財したらしくオルレアンでは支払いに困って彼の従僕たちが幾人か借金の保証人になったりしている。十二月まで滞在していたが請求額810レアルに対してジルが支払えたのは495レアルで、従僕二人を残していくことでようやく出発できた(注27)。

ラ・トレムイユとの訣別

1434年10月、オルレアン滞在中のジルの元にラ・トレムイユが来訪、グランシーでの一件やジルの浪費生活を厳しく叱責した。ラ・トレムイユは己の野心を諦めていなかったし、ジル・ド・レのことも諦めていなかった。愚かなジル・ド・レを利用してやろうと思っていただけかもしれないが、逆にジル・ド・レの失脚に責任を感じていたのかもしれない。従来、ラ・トレムイユがジル・ド・レについて評した『あの男はもう少し悪くさせた方が良いのだ』という言葉はジルを陥れ利用しようという悪魔の誘いのように言われていた(注28)が、世間知が欠落したジルについてもっと上手く立ち回ってほしいという心配のようにも思える。

1435年2月、ヌヴェールにおいてフランスとブルゴーニュ公国間で百年戦争当事国を集めた和平会議開催にむけた合意が成立し、イングランドへ使節が派遣された。この和平会議が同年7月より開催されるアラス会議である。ブルゴーニュ公としては神聖ローマ帝国領への進出を本格化させるうえで、勢力を回復させてきたフランス王との関係を安定させておきたいし、シャルル7世としてもブルゴーニュ公との和平は1419年のモントロー橋暗殺事件以来の悲願であった。その和平をかつて主導していたのがラ・トレムイユであり、そのラ・トレムイユ路線はリッシュモンも共通の目標としていたところである。

野にあるラ・トレムイユはこれを支持すべく、ブルゴーニュ公の配下で和平会議開催に異を唱えてランを包囲していたリニー伯ジャン・ド・リュクサンブールへの攻勢を企図してジル・ド・レへ協力を求める。あわよくばこの功を手土産に宮廷へ復帰できるかもしれない。リニー伯はジャンヌ・ダルクを捕らえたことでも名高いブルゴーニュ公配下屈指の勇将、ジル・ド・レの武勇がどうしても必要だった。しかしジルは浪費癖がたたって兵に払う軍資金が不足しており、一旦リヨンへ赴いて金融業者から借り入れて軍資金を調達するがそれでも足りず兵が不満を申し立てて出撃できなかった。ラ・トレムイユには改めて資金を調達すると言い訳してオルレアンに赴いたまま戻らず、結局、職務を放棄して逃げ出してしまった。ラ・トレムイユとは以後関わることはなく、この失敗が訣別となった。

止まらない浪費と破産

ジル・ド・レの浪費についてはすでに1424年頃からその兆候は見られていて、ジャン・ド・クランの生前は抑制されていたが、祖父死後から上記のように軍事活動にも支障が出るほどに浪費を繰り返していたとされる。しかし、それらのエピソードの多くが、1461年、ジルの遺領の返還を求める弟ルネ・ド・ラ・シュズにより作成された文書に依拠しており、過大に書かれている可能性があるため史料の信頼性には疑義が持たれている(注29)、という点は注意が必要である。清水は『こうしたジルのとてつもない浪費癖を、彼がその晩年におちいったおぞましい犯罪にいたるある種の精神的兆候のあらわれとうけとるむきもあるようだが、この浪費癖は当時の貴族生活のなかにあった流行あるいは気質のようなものであったと解釈することのほうが妥当なように思われる』(注30)として中世末期の貴族文化の中に位置づけている。

1435年3月26日、領内のマシュクールにサン・ジノサン礼拝堂を創建し、この運営費用を保証する文書をオルレアンの公証人に作成させている。サン・ジノサンはマタイによる福音書にあるヘロデ王により殺されたベツレヘムの子供たちを祀る、当時は一般的に広がっていた信仰に基づいているが、このジル・ド・レが作成させた文書の「聖なる幼児たちの思い出のために礼拝堂を寄進するものである」(注31)との一文が、後世、様々な憶測を呼ぶことになった。

「オルレアン包囲戦の秘蹟劇(ミステール)」

1435年5月8日、ジル・ド・レはオルレアンで開催されたジャンヌ・ダルク祭に参加している。これは1429年の解放を祝して以後毎年開催されているもので、この年は2万529行、五百人以上の役者を動員する大作聖史劇「オルレアン包囲戦の秘蹟劇(ミステール)」が上演されている。この上演に際しての旗印など大道具小道具類の少なからぬ数ジル・ド・レが持っていたものが提供された。

これにジル・ド・レはかなりの費用を負担したといわれているが、一方でレジーヌ・ペルヌー/マリ・ヴェロニック・クラン著『ジャンヌ・ダルク』では「祭典の経費はすべてオルレアン市が負担」(注32)としている。ジョルジュ・バタイユは1434年9月から1435年8月にかけてのオルレアン滞在中にジル・ド・レが費消した額は八万から十万エキュ、同書が書かれた1965年時点の貨幣価値に換算して10憶フランにも上ると試算している(注33)。これらの浪費のためにジャン・ド・クランがありとあらゆる手段でかき集めた多くの資産・土地が次々と売られていった。

一族の確執と禁治産

1435年7月2日、ジル・ド・レの浪費による資産の散逸に不安を覚えた弟ルネ・ド・ラ・シュズはいとこであるフランスの有力武将ロエアック伯アンドレ・ド・ラヴァルに相談した上で、ともにシャルル7世からジル・ド・レを禁治産とする旨の許可を得た。これにより、ジル・ド・レはフランス王の支配下にある所領の自己の財産を売却する権利を喪失、8月頃から所領に引きこもるようになった。

1436年5月、ジル・ド・レはシャントセでジル・ド・レの禁治産を公表する役割を担っていたミシェル・ド・フォントネイを襲撃するとマシュクルール城に拉致監禁する。フォントネイは幼少期のジルの家庭教師の一人であった。教会の抗議を受けて結局解放するが、後先考えない行為はエスカレートする一方であった。

ジル・ド・レは宮廷を去ってから、あきらかに自らを滅ぼそうとしているように見える。禁治産となってからの彼はその自滅への歩みをより速めていった。

外交問題化するレ家の不安定化

ジル・ド・レの禁治産の王令はあくまでフランス王の影響下にある彼の所領にのみ効力を発揮する。ゆえに当時独立国であったブルターニュ公国にある所領はその対象外なのである。1436年8月25日、弟ルネとロエアック伯はこの禁治産令を認めるようブルターニュ公ジャン5世に求めたが、逆にこの二人に臣従礼を求めた。ルネはこの頃リッシュモン麾下の部将としてフランス王に臣従していたし、ロエアック伯も後に元帥に任ぜられるほどの有力武将であったから、交渉は決裂する。ブルターニュ公にしてみればフランス王の王令を受け入れることで独立が脅かされることは避けたいのである。同9月5日、ブルターニュ公ジャン5世は自らジル・ド・レの居城マシュクール城を訪れると、未だジルの傘下にある武将たちから忠誠の誓いを得ていった。

ジル・ド・レの自滅的な浪費によるレ家の不安定化は、ただジル・ド・レ個人の問題にとどまらず、彼の所領がブルターニュ公国領からアンジュー公国領へとまたがっていたがゆえに、両国境界の不安定化をもたらし、必然的にフランス王国とブルターニュ公国との間の深刻な外交問題とならざるを得ない。ジル・ド・レにはこのような領主としての大局的な視点が致命的に欠けていた。

1437年2~3月頃、アンジュー公はジル・ド・レのアンジュー領内の城シャントセ城の没収を宣言するとともにシャントセ城をジル・ド・レから買い取らない旨の誓約書をブルターニュ公より受ける。しかし、ブルターニュ公はジル・ド・レと密かにシャントセ城の買い取り交渉を進めており、金に困っていたジルも売却に前向きであった。この交渉の事実を知ったルネとロエアック伯は同10月、兵を率いてシャントセ城を奪取、続けて11月、ブルターニュ領内のマシュクール城を占領してしまう。このときマシュクール城から子供の白骨遺体二体が発見されている。

これらの実力行使はルネやロエアック伯にしてみれば、あくまでレ家の財産・領地の散逸防ぎ一門の利益を守る目的以上ではないが、ブルターニュ公にしてみれば、ブルターニュ公国への軍事的脅威以外の何物でもない。実際、サブレには臨戦態勢のアンジュー公麾下ジャン・ド・ビュエイユ軍が睨みを利かせている。ブルターニュ公はヴァンヌに諸侯を招集してアンジュー公の軍事力行使に備えさせるとともに、ジル・ド・レを呼んでブルターニュ公国副司令官(中将)の地位を与え、12月25日、ジル・ド・レからシャントセ城を10万エキュで買い取る契約を結んだ。

後に、弟ルネとジルとの間でジルにシャントセ城を返還する代わりにルネにラ・モット・アシャールを譲渡する合意が成立して1438年6月にシャントセ城(おそらく同時にマシュクール城も)はジルの管理下に戻され、続けてブルターニュ公国宰相ジャン・ド・マレストロワに引き渡されるが、売却代金はジルがこのとき他の領地を抵当に入れて借り入れていた分の返済でほぼ亡くなったようだ。

その後、ジル・ド・レは弟に引き渡さねばならないはずのラ・モット・アシャールの引き渡しを拒否するだけでなく1434年に弟に譲り渡していたサン・テチエンヌ・ド・メルモルト城をも占拠して兄弟対立はより深まるが、1439年1月、ラ・モット・アシャールの譲渡が改めて約束されて実行され、兄弟対立は示談となった。また、サン・テチエンヌ・ド・メルモルト城も1438年、ブルターニュ公国財務官ジョフロワ・ル・フェロンを通じてブルターニュ公国へ売却されている。このサン・テチエンヌ・ド・メルモルト城がジル・ド・レを滅ぼすことになる。

この一連の事件で、ジル・ド・レの信頼は完全に地に落ちていた。ブルターニュ公もアンジュー公もフランス王もその他の諸侯も一族も多くの関係者が皆ジル・ド・レには失望していたのである。

所領にて

ジル・ド・レに仕えた者たち

宮廷を追われ浪費の果てに破滅していくジル・ド・レの許から多くの人々が離れていったが、それでも仕え続けていた人々がいる。

主君と同じ名を持つジル・ド・シエはジャン・ド・クランの後妻アンヌ・ド・シエの縁戚でかなり早い時期からジルに仕えた腹心である。様々な汚れ仕事をこなし、処刑裁判での証言によれば、後に複数の家臣に秘密が明かされるまではジル・ド・レの嗜好を唯一知る人物で、多くの子供たちを主君の元に連れていっていたという。行方不明の子供たちに関する報告の多くに彼の名が登場する。ジル・ド・レからの信頼は絶大で、ジル・ド・レの半身と言える人物であった。

通称ポワトゥことエティエンヌ・コリオーが小姓としてジルに仕え始めたのは1427年、10歳のときだった。非常に美しい少年であったという。処刑裁判での彼に関する証言はジル・ド・レと本人のものとで若干の食い違いがあるが、おおむね以下のとおりである。ある日、ポワトゥは主君の部屋で二人の幼児の遺体を見つけてしまった。ジル・ド・レは彼を殺そうとしたが、ジル・ド・シエが彼は美しい少年だからと止め、ポワトゥはジル・ド・レと肉体関係を持ち秘密を共有する仲間となった。1437年、20歳のとき、ジル・ド・レの執事となっている。

他にジル・ド・レの若い従兄弟ロジェ・ド・ブリクヴィル、ポワトゥと同じ時期に執事になったアンリエ・グリアール、ロシニョール、プティ・ロバンといった人物がジル・ド・レの秘密を知る仲間たちであった。ただ、「スパディーヌ」と呼ばれる謎の人物の存在も、行方不明の子供たちに関する記録には登場する。スコットランド人でジル・ド・レの騎士団の一人であったという。

魔術師プレラーティと偽ジャンヌ

ジル・ド・レは1435年前後から降魔術に興味を持ち度々魔術師を招聘している。当初ジル・ド・シエが魔術師探しや実験の補助を行っていたが、36年頃からジル・ド・シエに代わって聖職者ユスターシュ・ブランシュという人物が魔術師探しを任された。様々な魔術師・錬金術師が招聘されてははかばかしくない結果に終わり去っていく。そうして、ブランシュが見出したのがイタリア・トスカーナ地方モンテカティーニ出身の自称魔術師フランチェスコ(フランソワ)・プレラーティ” Francesco Prelati”であった。

1439年5月14日、ブランシェとともにプレラーティがティフォージュ城に到着し、以後本格的な降魔術実験が開始される。6月から7月のある日、ジル・ド・レとプレラーティはジル・ド・シエ、ユスターシュ・ブランシュ、アンリエ、ポワトゥらの助けを借りて、ティフォージュ城の大広間で降魔術の準備を整えさせた。

『夕食後、午前零時前に、彼らは剣の尖端で地面にいくつかの円を描き、そこに十字架や文字や、それに「紋章のような」記号を書きつける。さらにユスターシュ・ブランシュとンリエはお香、ミルラ、ろかい、それに磁石がひとつ、炭をたくさん入れた土器いくつか、そしてさらにその炭に松明、灯火、燭台などで火をつけるのである。彼らはそのほかにも一冊の書物を携えており、そこにはいろいろな悪魔の名前や、悪魔祈願と降魔術の方式が記載されていたのである。ジルとフランソワは、これらのいろいろなものをそのあたりに並べ、フランソワはさらにいくつかの記号を書き加え、それから四方の窓を開け放させた。』(注34)

このときジル・ド・レは悪魔に宛てた手紙を持っていたが、結局降魔実験は成功しなかった。以後翌1440年にかけて十数度に渡る降魔実験が行われ、プレラーティ曰くジル不在のときに悪魔バロンが登場して金塊を見せたりしたと言うが、ジルが悪魔を目にすることは無かった。

この降魔術実験が始まったのと同時期、ジル・ド・レの許へジャンヌ・ダルクを自称する女が姿を見せた。1436年5月20日、ジャンヌ・ラ・ピュセルを称する女性ジャンヌ・デザルモワーズがロレーヌ地方に現れ、1440年8月までフランス各地に登場して金品を詐取してまわった偽ジャンヌ・ダルク事件が起きた。1439年春過ぎ、偽ジャンヌはジル・ド・レの所領にも現れ、彼女を見たジル・ド・レが何を思ったかはわからないが、配下の武将ジャン・ド・シカンビールに命じて彼女を同行の上でル・マン方面へ出陣させている。

偽ジャンヌ・ダルク事件~中世フランス「自称乙女」騒動の顛末
ジャンヌ・ダルクの死後、ジャンヌ・ラ・ピュセルを自称する女性が次々と登場してフランスを騒がせた。その数多の偽ジャンヌの中で1436年から1440年まで足掛け四年に渡って人々を騙し続けたジャンヌ・デザルモワーズ(“Jeanne des Arm...

多くの人々に見放されて社会的に孤立し、悪い評判がささやかれ、金銭的にも困窮し、怪しげな魔術に溺れ、集まるのはうさんくさい人々ばかり――そうして、ジル・ド・レは最後の年を迎える。

ジル・ド・レ処刑裁判

ジル・ド・レの逮捕まで

逮捕の背景としてのプラグリーの乱

1439年11月2日、シャルル7世政権はさらなる王権の強化と野盗化した傭兵団の抑制を目指し、諸侯の軍隊召集権や課税権を規制しフランス王に集中させることとするオルレアン勅令を発した。リッシュモン大元帥とメーヌ伯シャルル・ダンジューの立案である。当然、諸侯の大きな反発を生み、1440年2月17日、ブルボン公シャルル1世、アランソン公ジャン2世、元侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユらは王太子ルイを擁立して諸侯を糾合し反乱を起こす。世にいう「プラグリーの乱」である。

「プラグリーの乱」とフランス王常備軍「勅令隊」の創設
プラグリーの乱は1440年、フランスでおきた大規模な諸侯反乱である。フランス王シャルル7世が前年1439年に発したオルレアン勅令に反対し、ブルボン公シャルル1世・アランソン公ジャン2世・元侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユら有力諸侯が王太...

しかし、国王軍の猛攻の前に反乱は五か月で鎮圧、7月以降和平交渉が行われ、7月24日、クェセの和約を結び全面的に降伏することとなった。このときブルボン公の巧みな交渉によって反乱諸侯は皆赦免され、ラ・トレムイユも宮廷復帰が許されている。乱を経てフランス王シャルル7世は集権的権力を確立、1445年、国王直属の常備軍である「勅令隊」が編成され、フランスは近世国家への道を歩み始める。

ブルターニュ公ジャン5世はプラグリーの乱に際し、このようなフランス王権強化を警戒して反乱軍へ協力していたが、反乱が失敗に終わったため、今後強大化するであろうフランス王に対抗してブルターニュ公の権力を強化し、かつ対仏関係の不安定要因を取り除くことが急務となった。公にとってレ男爵領を放置しておくことはもはや一刻の猶予も許されないのだ。

サン・テチエンヌ・ド・メルモルト襲撃事件

少し遡って1440年5月15日、サン・テチエンヌ・ド・メルモルト教会をジル・ド・レ自ら率いる60~70名の騎士が襲撃、ブルターニュ公国財務官ジョフロワ・ル・フェロンの弟で聖職者のジャン・ル・フェロンを捕らえると、続けてサン・テチエンヌ・ド・メルモルト城をも占拠し、同城の管理をブルターニュ公より任されていたジョフロワ・ル・フェロンも捕らえ、城内に監禁してしまう。ジルは一旦売った同城を取り戻して他者に売却しようとしたようだが、だからといって突然襲撃するのは流石に無茶が過ぎる。6月24日、ブルターニュ公より5万エキュの罰金が科され、7月、ジル自らブルターニュ公を訪れて謝罪した。しかし、ジャン・ル・フェロンはティフォージュ城に移されて監禁が続けられた。

ジル・ド・レ告発状

1440年7月29日、ブルターニュ公国宰相ナント大司教ジャン・ド・マレストロワによって、ジル・ド・レの罪状を告発する文書が公表される。

『(前略)即ち騎士にして領主、男爵にしてわれらが主の僕、われらが教区の住民ジル・ド・レ殿は、数名の従犯者とともに、多数の無垢なる少年を殺害し、その喉笛を掻切り忌わしき手段で惨殺したうえ、それら少年に対し自然に悖る淫らなる行為とソドミーの悪徳を行った。さらにまた恐るべき降魔術を自ら実施しあるいは実施せしめ、悪魔に生贄を捧げあるいはそれと契約を結ぶなどのさまざまなるおぞましき犯罪を犯した。前記ジルがわれらの教区ならびに他の地域において上記の如き罪を犯し放蕩の限りを尽くしたことは、すでにわれらの代理人および審議委員の調査によって明確である。(後略)』(注35)

ティフォージュ城陥落

8月24日、ブルターニュ公ジャン5世は弟でフランス軍最高司令官であるリッシュモン大元帥と会談を行う。このときジャン5世はジル・ド・レに関するフランス王シャルル7世の意向を確認し、リッシュモンはシャルル7世がジル・ド・レに興味を持っていないことを説明、ジャン5世はリッシュモンにジル・ド・レの領地の割譲と協力を求め、リッシュモンはアンジュー公国内のジル・ド・レの居城であるティフォージュ城の攻略を約束した。ブルターニュ公とフランス王とでジル・ド・レの処分と資産分割が合意されたのである。

リッシュモン軍がティフォージュ城を奪取してジャン・ル・フェロンが解放されると、危機を察知してジル・ド・レの腹心であったジル・ド・シエとロジェ・ド・ブリクヴィルがジルを見限り行方をくらませた。続いて9月13日、ナントの宗教裁判所からジル・ド・レに対し出廷命令が下される。

ジル・ド・レの逮捕

1440年9月15日、マシュクール城正面に武将ジャン・ラベ率いるブルターニュ公国軍が姿を現し、召喚状を読み上げた。

『われらブルターニュ公爵ジャン五世殿下の名代隊長ジャン・ラベ、ならびにナント司教ジャン・ド・マレストロワ閣下の名代公証人ロバン・ギョメは、ブリエンヌ伯爵にしてラヴァル、プゾージュ、チフォージュ、マシュクール、シャントセ等の領主でかつフランス王国元帥にしてブルターニュ公国副司令官たるジルに命ずる。いさぎよくわれらに城を明け渡し、自らはわれらの縄を受け、降魔術、殺人、男色の三重罪の廉により宗教裁判ならびに世俗裁判を受けるべし。』(注36)

抵抗することもできたが、ジル・ド・レは城門を開け、自ら進み出て逮捕を受け入れた。清水著によればこのときフランス王国元帥の正装であったという(注37)。かくして、ジル・ド・レは逮捕された。

ともに逮捕されたプレラーティ、ポワトゥ、アンリエ、ブランシュらとともにナントに移送されたジル・ド・レは、囚人ではあるが貴族として遇され、トゥール・ヌーヴ(新塔)の広い一室を与えられ、軟禁状態ながらも自由な行動が許された。

ジル・ド・レを裁くため、ブルターニュ公国宰相ナント司教ジャン・ド・マレストロワを裁判長とする宗教裁判所と、ブルターニュ公国大法官ピエール・ド・ロピタルを裁判長とする世俗裁判所が設けられた。異端審問裁判ではまず宗教裁判が行われ、その判決を受けて世俗裁判所が開かれ刑が確定・執行されるという二段階の手順を辿るが、このような当時の慣習を踏まえた体制が整えられつつ、ジル・ド・レの裁判が通例と違うのは、世俗裁判と宗教裁判が同時進行で進んだことだった。

世俗裁判所での証言収集――行方不明の子供たち

9月18日、ピエール・ド・ロピタルの下で世俗裁判所が開廷し、書記ジャン・ド・トウシュロンド主導で行方不明の子供たちに関する情報の調査と関係者を出廷させての聴取が開始される。ここでジル・ド・レらの関与が疑われる様々な子供たちの事例が十月までかけてとりまとめられることになる。

1432~33年頃、シール・ド・シエで行方不明になったマシュクールのジャン・ジェードンの十二歳の子についてジェードンはジル・ド・シエとブリクヴィルに尋ねたが「ティフォージュに行ったということしかわからない」「盗賊に連れていかれたのでは」という返答だった。同じころ、マシュクールのジャノ・ルッサンの九歳の子が家畜の番をしているとき行方不明になった。目撃証言によれば、長いマントを羽織り、顔にヴェールをかけたジル・ド・シエがその少年と喋っているのを見た者がいるという。同じ時期、他にも三人の子供の行方不明事件が立て続けに起きて人々の間で噂になっていたが、これについて、ジル・ド・シエが子供たちはイングランド兵に連れ去られたのではないかという説明を人々にしていたという。

1438年2~3月頃、ジル・ド・レのラ・シュズ館の料理人の手伝いをしていたギヨーム・デリという少年が行方不明になった。この直前、ジルの家臣ジャン・ブリアンという人物が彼の父に子供に料理の手伝いをさせてはいけないと語っていたという。その後、ギヨームの母がブリアンの妻と「レの殿様は子供を集めて殺しなさるという噂だ」と話しているところに、ジル・ド・レの家来がきて、ギヨームの母は詫びさせられた。

ジャン・ジャンブレとその妻は1438年6月19日、ジル・ド・レの居館に出入りしていた九歳の息子が行方不明になったと証言した。続く6月24日頃、ナントのジャンヌ・ドゥグルビーという女性の12歳の息子ジャンがお祭りの最中行方不明になった。同6月、ナントのジャン・ユベールの息子ジャンがブランセというジル・ド・レの家臣からジルの小姓に取り立てると約束されたあとアンリエに引き渡され、スパディーヌという騎士を紹介されて話をした。小姓への取り立てなどスパディーヌから話をされたジャン少年は両親にもこの一件を話し、両親は安心したという。その後6月26日、ジャン少年は出掛けたまま行方不明になった。母親は息子がスパディーヌと騎馬旅行しようと話しているのを聞いたという。後にスパディーヌは両親に息子がどうなったか尋ねている。

1439年8月25日頃、ブールヌフ・アン・レでロディーゴという名の男の家に泊まっていた美しい15歳ぐらいの少年ベルナール・ル・カミュが、ジル・ド・レの執事ポワトゥと何か話しているのを家の侍女マルゲリータ・ソランが目撃した。ベルナール少年は夕方ごろどこに行くともいわず姿を消した。この時期、丁度ブルターニュ公と会うためにジルもブールヌフ・アン・レを訪れていた。

1440年7月、ジルは、かつて自身の聖歌隊に取り立てていた青年アンドレ・ビュッシュに会うためヴァンヌを訪れた。ビュッシュはジルの好みにあいそうな、近郊のジャン・ラヴァリーという男の10歳になる男の子をジルの元に連れて行ったという。

子供たちの行方不明や変死というのは、当時はそれほど珍しいことではないが、この裁判ではこれら頻発していた子供たちの行方不明事例が次々と集められ、ジル・ド・レの容疑としてとりまとめられることになった。特に関係なさそうなものも含め、140名に上る子供たちの行方不明事件がジル・ド・レの犯罪として起訴されることになった。ただし、後述のように、具体的に名前を挙げられている被害者は二名にとどまる。

宗教裁判の開廷

ジル・ド・レ処刑裁判

ジル・ド・レ処刑裁判


9月19日、トゥール・ヌーヴの大広間において、ジャン・ド・マレストロワの下で組織された宗教裁判の第一回審理が開催された。検察官サン=ニコラ教会主任司祭ギヨーム・シャペイヨンによってジル・ド・レに対し起訴状が読み上げられ、ジルが「教理上の異端」の罪に問われていること、異端審問官ジャン・ブルエンの調べを受けるべきことが説明された。7月29日の告発状はもちろん、9月15日の逮捕時の文面と比べても具体性を欠く起訴状について、これは裁判官側の法廷戦略であると考えられている。すなわちフランス王の支配下からブルターニュ公国に渡る範囲にジル・ド・レの所領は広がっており、法廷の権限が及ぶ範囲は曖昧であったから、敢えてぼかすことで『ジル・ド・レに裁判官たちの権限を認めさせ、自分が彼らの管轄下にあるということに対して反対させないためだった』(注38)。

9月28日、宗教裁判第二回審理では、ジル・ド・レに自身の子や親族を殺されたと主張する原告十人が呼ばれ証言が取られた。このときジル・ド・レも出廷予定だったが姿を現さなかった。

10月8日、宗教裁判第三回審理。ジル・ド・レも出廷して、第二回審理で証言した原告十人が改めて出廷しジル・ド・レに対する告発を再度証言した。この日、検察官によって初めてジル・ド・レの罪状、すなわち少年殺人、男色、降魔術を始めとした「宗教裁判の管轄に属する他の数種の犯罪行為」(注39)などが読み上げられ、ジル・ド・レはすべての罪状を否定して激しく裁判官批判を展開した。裁判官は被告ジル・ド・レの抗議を棄却し、破門の脅しをかけたが、ジルは誓約を拒否してこの日の審理は閉廷した。

ジル・ド・レの罪~49項目の起訴状

10月13日、宗教裁判第四回審理。この日、検察官によって49項目に渡る起訴状が公開された。前半第1~14条は本裁判の位置づけや裁判官ら関係者が紹介された導入部で、第15条から罪状が挙げられ、大きく三つの項目に分類される。第一に少年たちの殺人の罪、第二に降魔術や錬金術などの異端の罪、第三にサン・テチエンヌ・ド・メルモルト教会襲撃に代表される聖職者の不可侵性の侵害の罪であった。

起訴状によると、14年前の1426年から1440年まで140人の男女の子供がジル・ド・レの一味によって殺害されたという。騙されて連れ去られた子供たちは殺害され手足を切り刻まれ、ジル・ド・レは死に瀕したあるいはすでに死亡した子供たちを犯し男色の罪を犯したとされた。ただし、具体的に被害者として名前が挙げられているのはプールヌフ・アン・レに住むロディーゴの家に泊まっていた少年ベルナール・ル・カミュとヴァンヌのジャン・ラヴァリーの息子の二名だけである。45体の骸骨がマシュクルール城で発見されたこと、このような犯罪行為をジル・ド・レが行うことになった原因は彼の過度の美食にあると指摘されている。また、やはり1426年からジル・ド・レは降魔術実験にのめりこむようになったとされ、その実験に際してティフォージュ城で子供の手足や目玉や心臓などをグラスに入れて悪魔に供したのだという。また、起訴状では1438年にサン・テチエンヌ・ド・メルモルト教会を襲撃して長期に渡り聖職者ジャン・ル・フェロンを監禁したとされる。

この起訴状の内容についてはある程度事実と言えるものも混ざってはいるが、例えば殺人や降魔術実験を1426年からとしたり、1440年に起きたサン・テチエンヌ・ド・メルモルト教会襲撃を1438年とするなど明確な間違いも多く、被害者数を140人とするのも根拠がない。また物証らしい物証も挙げられておらず、根拠とされているのはティフォージュ城で発見された遺骨と、集められた多くの人々のうわさ話、親族を失った人々の悲痛な証言の数々、そして彼の美食の習慣(七つの大罪の一つ暴食)であった。

この起訴状を聞かされたジル・ド・レは反発し証言を拒否して裁判官を侮辱した。

『検察官の要請に基づいて、ジルは司教ならびに異端審問官代理から、この起訴状の各項目について尋問を受ける。するとジルは、検察官の権威を否定し、彼らを裁判官として認めることを拒否し、さらには彼らを聖職売買者、放蕩者扱いにしたのである。彼は「このような聖職者や判事に返答するぐらいならば、首に縄をつけて吊るされた方がましである」と述べたと記録は伝えている。数回にわたる催告ののち、破門が宣せられた。ジル・ド・レはこれに対して抗議したが、この抗議は直ちに無価値とされ、却下された。それは「本裁判の性質ならびに彼が犯したものとされているあまりにも恐ろしい、あまりにも膨大な諸犯罪行為の性質上」であった。』(注40)

ジル・ド・レの自白

否認から自白へ

10月15日、宗教裁判第五回審理では午前中、信仰の在り方をめぐって異端審問官ブルエンとジルとの間で激しい論争が展開された。

『ジルは自分の神への信仰はまぎれもなく清純無垢なものであることを主張するが、ブルエンはだれにも自分の信仰を自慢することはできないはずであり、せいぜいよきキリスト教徒たらんと努力するが、それは近づきがたい理想にすぎないと反駁する。さらにマレストロワが、被告はすでに一昨日の法廷で教会から破門を宣告された身であって、もはやキリスト教徒ではないと断言した。動揺し激怒したジルは、法廷には私を破門にするどのような権利もないと絶叫する。審理はここで中断された。』(注41)

午後になると一転してジル・ド・レが起訴状の内容を認め、『「いずれも犯し、邪悪にも遂行」したむねを自白し、裁判官たちに対して成されたる罵詈雑言ならびに侮辱的言辞が赦されることを「謙虚に、また敬虔に、かつ涙にくれながら」求めた』(注42)という。一方、降魔術については否認を続けた。

一転して容疑を認めたジル・ド・レの心境については研究者たちの間でも自己陶酔や破滅願望、演劇的な自己演出などなど様々な考察がされてきたが、よくわかっていない。清水は海中に沈んだ「イスの国」やアーサー王伝説のアヴァロンなどブルターニュ地方で深く信仰されていたケルト的な他界信仰を挙げる。ジルはそのような他界への憧れを抱いて死を受け入れたのではないかという。(注43)なんにしても、このときまでにジル・ド・レはブルターニュ公と裁判官たちが自身を裁くことではなく死に至らしめることを目的としていることに気付いたと考えられる。

10月16日の第六回審理ではプレラーティの尋問が、17日の第七回審理ではポワトゥ、アンリエ、ブランシュらの尋問が行われた。19日の第八回審理のあと、20日には裁判官らの間でジル・ド・レを拷問にかけることが決定され、21日、第九回審理でジル・ド・レに対し拷問の実施が伝えられた。このとき、ジル・ド・レは拷問の実施を翌日に延期するよう懇願し、別室で裁判官らの質問に答えたいと述べた。

中世の異端審問制度概略

中世の異端審問制度は十一世紀の教会改革に端を発する。フランク王国の崩壊後、西ヨーロッパは秩序を失って戦乱の時代を迎え、フランク王という強力な庇護を失ったローマ・カトリック教会は腐敗し、権威は失墜し、各地にローマ教皇の権威に服さない独自のキリスト教信仰集団が生まれた。この事態を克服し改革しようという動きが十一世紀に始まるグレゴリウス改革である。教皇権の強化と同時に外に対しては十字軍に代表される異教徒討伐が、内にあっては教皇権に服さない異端弾圧が進められ、十三世紀南フランスで行われた異端カタリ派討伐戦争であるアルビジョワ十字軍の結果、1230年代に異端審問制度が確立する。

中世ヨーロッパの異端は概ね聖書を直接読む聖書主義と清貧生活を送ることを特徴としていたが、これらは例えば清貧生活を旨としたフランチェスコ会など正統派とされた人々にも少なからず共通する特徴である。教義の差異よりも教皇権への服従の是非こそが大きな違いであり、こうして誕生するのが「不服従の異端」である。1215年、第四ラテラノ公会議によって全信徒に告解が義務化され、告解を通じて自発的に教会の権威に服従すること、および異端の通報が求められた。

『いうまでもなく、教会の悔悛の秘蹟では信徒は「自発的に」告白することを求められた。一見したところ逆説的であるが、異端審問における告白は監禁や拷問の使用が許される強制的な性格が露骨であるにもかかわらず、最終的にはその真理性は告白の自発性によって保障されると考えられた。密室で余儀なくされた告白は、そのあとに被告によって「自分の」ものとして認められなければならない。』(注44)

ジル・ド・レの自白(1)~法定外自白

ジル・ド・レの裁判でもこの異端審問の原則に沿って自白が行われる。まずは密室での告白、すなわち「法廷外自白」である。

10月21日午後、ジャン・プレジャン司教、世俗裁判所裁判長ピエール・ド・ロピタルの二人と、宗教裁判所公証人ジャン・プティ、ジル・ド・レを逮捕した武将ジャン・ラベとその従者イボン・ド・ロセルフ、世俗裁判所書記ジャン・ド・トウシュロンドの立ち合いで、ジル・ド・レは詳細な自供を行った。ここでの自供によればジルが最初に罪を犯したのは「祖父であるラ・シュズ殿が死去した年に、シャントセ城内において」であったという。また「あくまで自分の想像力のおもむくままに行ったものであり、何びとの意見に従ったわけではなく、ただ自らの意思で。ただ自分の快楽とその肉の愉しみのため」(注45)に罪に及んだと語った。また、プレラーティも連れてこられ、同席の上で、降魔術実験で子供の手、目玉、心臓などの供物が用意されたが悪魔に届けられることは無かったことも供述した。

この法廷外告白が終わり、プレラーティが広間から退出するとき、ジル・ド・レは涙を浮かべて彼にこう言って別れを告げたという。

『さようなら、わが友人フランソワ。この世で二人が再び会うことはあるまい。神が君に十分な忍耐と分別をお与え下さるよう祈っているよ。十分な忍耐と分別が、そして神への信頼がありさえすれば大いなる喜びの地たる天国で二人が再会することは間違いないのだよ』(注46)

次は、密室での告白に続いて、公開の場での「自発的」な自白が行われなければならない。

ジル・ド・レの自白(2)~公開法廷

10月22日、第10回審理で多くの聴衆が見守る中、ジル・ド・レは起訴状の内容を全面的に認めた上で詳細な自供を行った。最初にジル・ド・レは前日の法廷外自白の内容を読み上げてもらうことを望んだ。『彼は公判廷外でのその自白から離脱することもなく、ただそれをより完全なものにし、その欠点や不十分な点を補充していこうと試みたのである。』(注47)。内容を確認した後、『深い悔恨と大いなる苦渋の様子を明らかにそれとわかるように面に表し、かつ大いに涙をこぼしながら』(注47)証言を行ったと記録されている。

まずジル・ド・レはラテン語を知らない聴衆が自身の恥ずべき行為を知ることが出来るよう世俗語(フランス語)で公表されることを求め、告白を始めた。

『若い時から私は神と十戒に反する多くの大罪を、告訴されている罪よりももっと重い罪を犯してきました。私が救世主に背いたのも、少年時代の教育が悪かったためで、子供の頃の私は自由放任でしたい放題のことをし、不法な行為に耽っても咎められなかったのです』(注48)

『父であり母であり若者や子供たちの友であり縁者であるあなたがたすべてに私は心から願いたい――どうか、良い躾を与えて欲しい、良い手本と良い教えに従うように(教えて)欲しい。そしてこの私が落ちた罠に彼らがかからないように教え導き罰を与えて欲しい』(注48)

『私は情熱の赴くまま、官能的喜びのために多くの子供たちを捕え、また部下に捕えさせた――殺したり殺させたりした子供の数は正確にはわからない。子供たちに対して私は悪をなしソドミーの罪を犯し・・・・・・子供が死ぬ前にも死んでから後でも、また死にかけている時にも、その腹にこの上なく罪深いやり方で射精した。私一人で、時には従犯者のジル・ド・シエ、ロジェ・ド・ブリクヴィル、アンリエ、エティエンヌ・コリオー、ロシニョールそれにプティ・ロバンの手を借りて、子供たちにさまざまなやり方で拷問をくわえた。子供たちの首を短剣で切り取ったり、短刀あるいはナイフで切り取ったりもした。頭を杖やいろいろな叩き棒で殴りつけたこともある(以下略)』(注48)

証言は続き、子供たちの死の様子を詳細に述べたあと降魔術の実験やサン・テチエンヌ・ド・メルモルト教会襲撃事件、そして指摘されている二件の殺人を含む複数の幼児殺しについても語り、エルサレム巡礼によって贖罪をするつもりだったが出来なかったこと、そして信仰の重要性を説き、あらためて聴衆に向かって子供たちの躾について、あまり華美な服装をさせてはいけないこと、怠け癖をつけてはいけないことを説き、「怠惰と贅沢は多くの悪徳を生む」と語りかけた。

そして、最後に彼は赦しを乞うた。

『膝を屈し涙を流して赦しを乞います――残酷にもこの手で殺した子供たちの縁者や友人の方々のお慈悲とお赦しを、そして創造主と聖なる救世主のお慈悲とお赦しを。・・・・・・どなたであれ私が罪を犯し傷つけた人々よ、ここにおられる方であれおられぬ方であれ、どうかキリスト者としての祈りを捧げてお救い下さい。』(注49)

異端審問の陥穽

異端を唆す存在として悪魔の陰謀という観念が確立するのも十二~十三世紀のことである。悪魔を呼び出し瀆神の陰謀が繰り広げられる場である秘密の集会では根源的犯罪としての同性愛(や近親相姦、獣姦など)が行われると想像された。中世ヨーロッパで同性愛が根源的犯罪とされたのは結婚が秘蹟として教会の管轄下に置かれたため、神=自然への反逆として観念されたがゆえのことだ。ジル・ド・レの自供はこのような「異端的犯罪」を網羅する内容として組み立てられている点に特徴がある。

異端審問裁判の過程で自白した被告は自らの身を神=教会へ委ねることで服従を示したとして、罪の減免が施されることが多い。しかし、歴史上、教会の権威への服従を示す異端審問制度は、教会と世俗権力との癒着によって君主権力強化の手段として活用された。イングランド王の影響下で開催されたジャンヌ・ダルク処刑裁判、フランス王の意図を反映したテンプル騎士団の異端審問裁判、そして十六世紀スペインの異端審問まで、異端審問は世俗権力の恣意的介入を前提に成立しているといっても過言ではない。過去の多くの異端審問同様、世俗権力たるブルターニュ公の支配下にあるジル・ド・レ裁判において自らの身を神に委ねることは、死を意味するのである。

ジル・ド・レの死

ジル・ド・レの処刑

ジル・ド・レの処刑


10月25日、検察官ギヨーム・シャペイヨンから、ジル・ド・レが事態をよく理解し反対を唱えていないことから審議の終結と判決を下すことを求める意見が述べられた。これを受けて裁判長ジャン・ド・マレストロワと異端審問官ジャン・ブルエンは最終宣告としてジル・ド・レが『異端の罪、背教、降魔の罪を犯した』(注50)と結論付けた上で破門の判決を宣告した。これによってジル・ド・レは教会の庇護下から外れることとなる。

異端審問では宗教裁判所は量刑を行わない。続けて世俗裁判所に身柄が移され、刑の確定と執行がなされることとなる。この一連の流れは「世俗の腕に委ねる」という言葉で表される。同日、ブッフェ城において、ピエール・ド・ロピタル裁判長の下で世俗裁判所が開廷され、ジル・ド・レおよび従者のアンリエ・グリアールとポワトゥことエティエンヌ・コリオーに対し死刑が宣告、刑の執行は翌10月26日午前11時、絞首刑の上で火刑と決められた。

判決が下されると、ジルは裁判長に対し三つの要望を出した。第一に、従者のポワトゥとアンリエにジルが処刑を免れるのではないかと言う不安を抱かせないため、両者より先に自身を処刑すること。第二に通例では火刑は遺体が灰になるまで焼かれるが、ジル・ド・レは焼き尽くされる前に遺体を取り出し、埋葬すること。第三に、処刑当日は処刑場まで聖職者・市民たちが付き添い行列をなして三人のために祈りを捧げることである。裁判長はこれを全て聞き入れた。

10月26日朝、取り決め通りジル・ド・レと従者ポワトゥことエティエンヌ・コリオー、アンリエ・グリアールの三人と、ナント司教ジャン・ド・マレストロワら聖職者が率いる行列が祈りを捧げながらトゥール・ヌーヴ(新塔)からナント市内イル・ド・ビュスに設けられた処刑場まで行進し、最初にジル・ド・レが、続いてポワトゥとアンリエの二人の刑が執行された。ジル・ド・レの遺体は絞首刑のあと少し焼かれてすぐに火が消されて降ろされ、四人あるいは五人の高貴な身分の婦人たちによってナント市内のノートル・ダム・デュ・カルメル教会に埋葬された。同教会はフランス革命時に荒らされてジル・ド・レの遺骨も散逸し、現在は教会自体無くなっている。

ジル・ド・レは有罪か、冤罪か

これまでみてきたように、ジル・ド・レの裁判は非常に恣意的に運用され、ジル・ド・レが問われた罪についても事実関係は非常に疑わしい内容となっている。それだけに、早くからジル・ド・レ冤罪説が唱えられていた。

1902年、考古学者・歴史学者サロモン・レナック” Salomon Reinach”は「この裁判に提出された証拠と称されているものは、今日の市民社会の裁判ならば何一つとして認められない類のものであろう」(注51)としてジル・ド・レ裁判の不備を指摘する論文を発表、1922年、作家フェルナンド・フレーレ” Fernand Fleuret”はレナックの論に従いつつ、ジル・ド・レの罪はブルターニュ公ジャン5世とブルターニュ公国宰相ナント司教ジャン・ド・マレストロワによる“でっちあげ”だとした。

現代に入ってもジル・ド・レ冤罪説は根強く、詩人・作家のジルベール・プルトウ” Gilbert Prouteau”は1992年、ジル・ド・レの無罪を唱えて弁護士らを集めルクセンブルクで復権裁判を開催しジル・ド・レの無罪判決を下したが、同裁判は歴史研究者・中世史家が一切参加しておらず、史料の読解など様々な面で誤りが多く、研究者たちの厳しい批判に晒された(注52)。

ジル・ド・レ裁判は確かにレナックが指摘する通り「この裁判に提出された証拠と称されているものは、今日の市民社会の裁判ならば何一つとして認められない類のもの」ではあるが、現状では、裁判における証言や起訴状など史料の内容はかなり疑わしいものの、ジル・ド・レを冤罪とする見解はほぼ支持されておらず、少なからずジル・ド・レ一味は幼児殺人を行っていただろうと考えられている。

実際のところ、ここには「無実の証明」の困難さが横たわる。ジル・ド・レ裁判は不十分な証拠や信頼のおけない裁判記録、背景となるブルターニュ公らの意図と恣意的介入などがある一方で、ジル・ド・レの犯罪を否定するような史料も物証も無く、ただ異端審問裁判で有罪となった事実が存在するだけだ。そして史料的限界ゆえに歴史学上は「有罪とされたという事実」以上に踏み込むことはできないのだ。

ジル・ド・レは有罪だったのか冤罪だったのか?おそらく少なくない数の殺人を犯したとみるのが主流な見解だが、その全体像は曖昧で、語られている話のどこまでが事実でどこからが創作なのかよくわからない。その根拠も事実関係もあやふやな「大量殺戮」を前提にしてこれまでジル・ド・レの「怪物」イメージが組み立てられてきたが、この従来のジル・ド・レ観を退けつつ、一方で現代の常識で判断してしまう罠に陥りがちな冤罪論とも距離を置き、白でも黒でもない「中世ヨーロッパの異端審問裁判で有罪とされたという事実」を受け入れるところから、ジル・ド・レは再考されなければならないだろう。

ジル・ド・レの娘――モンモランシ=ラヴァル家の終焉

ジル・ド・レ死後、彼の所領は一部がリッシュモン大元帥に割譲されたほかはブルターニュ公に没収された。

ジル・ド・レには妻カトリーヌ・ド・トアールと10歳の娘マリーがいる。家族関係は冷え切っていたとみられ、1434年頃からはプゾージュに半ば幽閉されるように逼塞していたという(注53)。未亡人となった妻カトリーヌ・ド・トアールは1441年、シャルトルの子爵(” Vidame de Chartres”)ジャン2世・ド・ヴァンドームと再婚して、娘マリー・ド・レの後見人を務めた。

父ジル死亡時10歳だった娘マリーはジル・ド・レの戦友でもあった武将プレジャン・ド・コワティヴィ” Prigent VII de Coëtivy”の庇護下に置かれた。

最初の夫プレジャン・ド・コワティヴィ

プレジャン・ド・コワティヴィはブルターニュの貴族で母がシャルル7世の寵臣タンギー・ド・シャテルの妹だったことから、シャルル7世に仕え軍人として活躍した。1428~29年のオルレアンの戦いでは前哨戦でジャンヴィル市の守備隊長としてイングランド軍を迎え撃ち、ジャンヴィル陥落後はオルレアンに退却してジャンヌ・ダルクやジル・ド・レとともに戦っている。1433年のジョルジュ・ド・ラ・トレムイユ襲撃の一人でもあった。1437年、ラ・ロシェル総督に任命され、1439年にはフランス提督となりシャルル7世の国王顧問会議の一角を占めるなど、当時のフランスを代表する勇将の一人である(注54)。

コワティヴィはマリーを引き取った直後からレ家の復権に尽力。ジャン5世生存中は認められなかったが、1422年、新ブルターニュ公フランソワ1世によってジル・ド・レ家旧領のうちレ男爵領の回復が認められる。ところが、公弟ジル・ド・ブルターニュがレ男爵領の相続を主張して係争となり、これは1450年のジル・ド・ブルターニュの死まで続いた。

1444年、シャルル7世の勧めもあってコワティヴィとマリーは結婚した。コワティヴィ45歳、マリー14歳と親子以上に齢の離れた夫婦で二人の間には子供も生まれなかったから、夫婦というより親子という意味合いの方が強かっただろう。しかし、戦争が二人の運命を翻弄することになる。

ノルマンディー征服とコワティヴィの戦死

1435年のアラスの和約以後、1436年にはパリ陥落を許すなど、イングランド軍の劣勢は著しく、ベッドフォード公死後親政に乗り出したヘンリ6世は強い統率力を発揮することが出来なかった。1442年、アンジュー公ルネの公女マルグリット(マーガレット・オブ・アンジュー)とヘンリ6世が結婚し、1444年、英仏間で長期間の休戦が成立して久しぶりの平和が訪れる。しかし、これはかりそめの平和で、この間、常備軍「勅令隊」の結成(1445年)を始めとするフランス軍の強化によって国力差は著しく開いていた。フランス軍は戦端を開く機会を待ち構えていたのである。

そして、戦争はまたブルターニュを契機として始まる。かねてから統率を失ったイングランド軍兵士たちがブルターニュとノルマンディーの境界付近で跳梁跋扈してブルターニュ公フランソワ1世を悩ませていたが、1449年3月25日夜、イングランド領ヴェルヌイユの守備隊がブルターニュ公国領のフジェール城を奪取するという事件が起きた。これを休戦協定違反と受け取ったフランス王シャルル7世はブルターニュ公を支持してノルマンディーへの攻勢を決断。1449年8月、東部からウー伯とサン・ポル伯軍、中央からデュノワ伯軍、西部からリッシュモン軍とブルターニュ公軍が一斉にノルマンディーへ侵攻を開始し、イングランド軍を一方的に蹂躙していった。1449年10月、ノルマンディーの首府――ジャンヌ・ダルク刑死の地――ルーアンを陥落させ、1450年4月15日、天王山となったフォルミニーの戦いでイングランド軍主力を壊滅させて大勢を決した。

ノルマンディー征服最後の戦いとなったのが1450年7月のシェルブール包囲戦である。この戦いでフランス軍を率いていたのがコワティヴィだった。最後の戦いだけあって包囲戦は熾烈を極め、シェルブール市城壁に備えつけられた大砲が包囲軍に砲撃をくわえた。7月20日、砲弾がコワティヴィに直撃し、彼は戦死する。コワティヴィの戦死と引き換えに、8月12日、シェルブール市は陥落し、ノルマンディー征服戦は終結し、アジャンクールの敗戦に始まるヘンリ5世の征服以来約30年ぶりに、北フランスはフランス王の支配下に復帰した。

マリーの再婚と百年戦争の終結

最愛の夫であり、二人目の父を失ったマリーは翌1451年、ジル・ド・レの従兄弟で以前レ家財産散逸を防ぐために尽力していたロエアック元帥アンドレ・ド・ラヴァルと再婚する。しかし、戦争は終わらない。再婚してすぐ彼女は出陣する夫を見送ることになる。

ノルマンディー征服を果たしたシャルル7世は間髪入れず、ヘンリ2世以来のイングランド領であるフランス南西部アキテーヌ公領の攻略を命じた。1451年5月、アキテーヌ公領へ侵攻したデュノワ伯率いるフランス軍はわずか一か月でボルドーを陥落させ全域を平定して、6月12日、三部会を開くと降伏文書を調印した。しかし、翌1452年10月、イングランドの老将ジョン・タルボットが兵を率いてアキテーヌへ上陸しボルドーを奪還したことで、フランス軍は再遠征を余儀なくされた。国王総代官としてブルボン公ジャン2世が任命され、ロエアック元帥アンドレ・ド・ラヴァルも主力を率いて出陣する。

1453年7月17日、ロエアック元帥率いるフランス軍とジョン・タルボット率いるイングランド軍がカスティヨン市近郊で激突した。百年戦争最後の会戦カスティヨンの戦いは、最早戦闘と呼べるようなものではなく、フランス軍による一方的な殺戮となった。ブルターニュ軍の側面攻撃に続く、ジャン・ビュロー率いる砲兵部隊の集中砲火でイングランド軍は抵抗らしい抵抗すら行えないまま、ジョン・タルボットを始め多数の死傷者を出して粉砕されたのである。10月20日、ボルドーも陥落し、1337年から足掛け116年に及んだ百年戦争はついに終結した。

三度目の悲劇は回避され、凱旋する夫を出迎えたマリー・ド・レはロエアック元帥夫人として余生を送り、1457年、27歳の若さでこの世を去った。ロエアック元帥との間にも子供は生まれず、ジル・ド・レの直系はここで絶えることになった。

ジル・ド・レの碑

マリーは父ジル・ド・レの死の数年後、処刑場の跡地に石製の記念碑を建てている。

『記念碑には壁龕が設けられていて、いつのまにか土地の人々から聖なる祭壇として崇められるようになり、「恵みの乳の聖母」と名付けられた。聖アンヌを守護神とすると信じられたこの祭壇に、何世代にもわたって、子供のために豊かな乳が恵まれるようにと妊婦たちがお祈りをしにやってきた。この記念碑は、フランス革命の時にジャコバン党の騒乱で破壊され、今は跡形もない。』(注55)

モンモランシ=ラヴァル家の終焉

マリー死後、レ男爵領はジル・ド・レの弟ルネが継承して、ルネ死後、娘のジャンヌに継承された。ジャンヌは夫フランソワ・ド・ショーヴィニとの間に男子アンドレがあり、1481年、ジャンヌ・ド・レが亡くなった後アンドレ・ド・ショーヴィニがレ男爵領を継承してレ領主ショーヴィニ家が始まるが、アンドレには後継者が無かったため、1503年、断絶した。以後レ男爵領は領主が次々と変わりつつフランス革命まで存続するが、ひとまずレの領主としてのモンモランシ=ラヴァル家は1481年のジャンヌ・ド・モンモランシ=ラヴァルの死をもって終焉となった。

歴史の中のジル・ド・レ

百年戦争は後にブリテン島統一の過程で形成されたグレートブリテン連合王国と絶対王政フランス王国という二大国家の誕生へと至る契機となったことで、どうしても英仏という二大国の抗争として語られがちだが、むしろ中世の王国・諸侯の利害が複雑に入り乱れた「諸王侯の戦争」であった。その利害関係の緊張が極限に達した結果、百年戦争は始まり、戦乱の中で数多の諸侯が消え去って強力な君主権が形成されていくのである。百年戦争は中世から近代への長い移行期の始まりであり、この過程は百年戦争が終わってもなお延々と続いていくことになる。

百年戦争はイングランド王とフランス王を見ているだけではさっぱりわからないが、諸侯に目を向けることで実にわかりやすくなる。百年戦争後に強力な王権が誕生したのは何故か。土地と領民を支配し独自の軍事力を持った自立した領主である彼らは何故自らを滅ぼすことになったのか。自力救済の世界が戦乱の中で強力な地域権力を築き、やがてより強力な統一権力を志向して、巨大なうねりとなって多くの人々を飲み込んでいく。

怪物と呼ばれるジル・ド・レとその一族についても、そのような百年戦争の中の中小領主家の盛衰として、また、中世末期を生きた一個の人間として見ることで、はじめて怪物としてではなく、歴史の中に位置づけることが出来るように思う。彼は猟奇的殺人者であったかもしれないが、同時に領主であり軍人であり、歴史を生きた一人の人間であった。そろそろ彼を怪物としてではなく、せめて歴史の敗者の列に加えてあげたいのである。歴史を作った数多の敗者の列に。

参考文献

・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』(晃洋書房,2014年)
・小田内 隆「異端者たちの中世ヨーロッパ (NHKブックス)」(日本放送出版協会,2010年)
・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)
・佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』講談社,2014年
・柴田三千雄他編『フランス史〈1〉先史~15世紀 (世界歴史大系)』山川出版社, 1995年)
・清水正晴著『<青髭>ジル・ド・レの生涯』(現代書館,1996年)
・甚野尚志著『中世の異端者たち (世界史リブレット 20)』(山川出版社,1996年)
・原聖著『興亡の世界史 ケルトの水脈(講談社学術文庫)』(講談社,2016年)
・原聖著『<民族起源>の精神史―ブルターニュとフランス近代 (世界歴史選書)』(岩波書店,2003年)
・樋口淳著『フランスをつくった王ーシャルル7世年代記』(悠書館,2011年)
・山瀬善一著『百年戦争―国家財政と軍隊 (教育社歴史新書 西洋史 A 19)』(教育社,1981年)
・アニェス・ジェラール、ジャック・ル・ゴフ著(池田健二訳)『ヨーロッパ中世社会史事典』(藤原書店,1991年,原著1986年)
・ギー・テスタス,ジャン・テスタス「異端審問 (文庫クセジュ)」(白水社,1974年)
・コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)『幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会』昭和堂、2014年
・ジョルジュ・バタイユ著(伊東守男訳)『ジル・ド・レ論―悪の論理─ (ジョルジュ・バタイユ著作集)』(二見書房,1969年)
・デヴィッド・ニコル著(稲葉義明訳)『百年戦争のフランス軍―1337‐1453 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)』新紀元社,2000年
・フィリップ・コンタミーヌ著「百年戦争 (文庫クセジュ)」(白水社,2003年)
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)
・レナード・ウルフ著(河村 錠一郎 訳)『青髯ジル・ド・レー―悪魔になったジャンヌ・ダルクの盟友 (海外ノンフィクション・シリーズ)』(中央公論社,原著1980年,訳1984年)
・吉田隼人「怪物の言説、言説の怪物──バタイユ『ジル・ド・レ裁判』序文における歴史記述の侵犯的性格をめぐって──

Gilles de Rais — Wikipédia
Liste des seigneurs, barons et ducs de Retz — Wikipédia
Maison de Craon — Wikipédia

脚注

注1)ジャンヌ・ド・レ・ラ・サージュことジャンヌ・シャボー。1331年生-1406年没。レ領主家は11世紀にギスタン1世・ド・レを初代として成立し、13世紀前半、ジェラール1世・シャボーの継承以後シャボー家が当主となり、1338年、男爵に陞爵した。

注2)レの表記はRetzとRaisの二種類があるが、Retzは18世紀以後に成立した新しい表記で歴代レ領主の一覧を表記する際に用いられるようになったもので、Raisが古い表記であるという説が十九世紀、ボサールによって唱えられ、その後、現在は中世史料でRaiz、Rais、Rayxなどの表記が見られるとして、ジル・ド・レの名前を表記する際にはRaisを使うのが一般的となった。(参照

注3)バタイユ51頁

注4)バタイユ53頁

注5)ウルフ166頁

注6)清水48頁

注7)ウルフ167頁

注8)ウルフ169頁

注9)クリッソン元帥襲撃犯をジャン・ド・クランの父ピエール1世・ド・クランとする説があるが間違いである。襲撃者は同じクランの一族だが、ピエール1世の弟ギヨーム1世・ド・クランの子フェルテ=ベルナール領主ピエール・ド・クラン・ル・グラン(大ピエール)の方である。この間違いは清水著に『クリソン暗殺未遂事件の下手人だったピエール・ド・クランとその妻カトリーヌ・ド・マシュクールとのあいだに生まれたのが、ジル・ド・レの祖父にあたるジャン・ド・クランである』(36頁)とあるのが恐らく最初で、樋口著も『曽祖父ピエール・ド・クランは、一三九二年、私怨から時の大元帥クリッソン暗殺をはかった、あの張本人である』(124頁)としており、両著を参考文献とした日本語版wikipedia(ジル・ド・レ – Wikipedia)は『しかし、母のクラン家には問題人物が多い。筆頭がジルの曾祖父に当たるピエール・ド・クランで、アンジュー公ルイ1世の家臣であるにもかかわらず、主君がイタリア遠征に出陣するとその軍資金を横領したり、1392年にブルターニュ公ジャン4世に唆されフランス大元帥オリヴィエ・ド・クリッソンの暗殺未遂事件を起こすなど筋金入りの悪党だった。』(2019年10月8日閲覧)と混同してしまっている。この内容は全てジルの曽祖父ピエール1世のではなく大ピエールのものである。Pierre de Craon le Grand — Wikipédia

注10)清水51頁

注11)原聖2016年285頁によれば『一四二二年のシャルル七世の即位に際して、跪座、脱剣による服従の姿勢をとらず、直立、帯刀で国王と手を合わせ、従属の誓いを述べるだけだった。(中略)直立、帯刀のままでの従属の誓いは、一五世紀後半のフランソワ二世まで継承された』として、ジャン5世治世下のこの時期、ブルターニュ公国が事実上独立国家となったことが指摘される。

注12)バタイユ179頁。なお、バタイユは(ヨランドがクランに)『結婚の交渉をするように求めた』という記述に留まるが、清水72頁は『婚約をまとめあげる』と成功したように記述している。しかし、アンジュー公ルイ3世の妻は1432年に結婚したマルグリット・ド・サヴォワだけなので、もし清水が書くように婚約が成立していたとしても結婚には至っていないだろうということで、ここでは交渉を任されたという表現にとどめた。

注13)バタイユ182頁

注14)ウルフ62頁/サン・ルー砦陥落の実際の流れはこうである。5月4日夜、就寝しかかっていたジャンヌたちは物音で目を覚まし、兵たちの一部がオルレアン市東部のサン・ルー砦に襲いかかったことを知り慌てて出撃、遅れて合流し勢いに乗ってサン・ルー砦を陥落させた。少人数で護る砦に夜襲をかけ、勢いに任せて一気に陥落させた戦闘である。

注15)清水92-93頁/指揮官デュノワを補佐するオルレアン代官ラウル・ド・ゴークールが軍議で積極策を唱えるジャンヌに対し慎重策を唱えて対立したことは復権裁判での証言などで記録に残っている。なお、清水もゴークールとジャンヌの対立については言及している。

注16)ペルヌー『オルレアンの解放』165頁

注17)バタイユ185頁

注18)清水100-101頁

注19)バタイユ188頁

注20)バタイユ190頁

注21)ジルの娘マリー・ド・レの誕生日をバタイユと清水は1429年末、ウルフは1430年初、フランス語版Liste des seigneurs, barons et ducs de Retz — Wikipédiaは1429年11月1日生としている。

注22)ジルの子供っぽさや政治性の欠如は彼の人生からも十分うかがえるが、反面、その善良性から暴力性を導き出す言説もまた生み出されたという点で注意が必要だ。ジョルジュ・バタイユは『ジル・ド・レについては通常の意味での子供っぽさという言葉は当たらない。それは実際のところは怪物性と言ったほうがよいものである。ただこの怪物性は本質的に子供っぽいものなのだ。しかしその子供っぽさには大人の可能性が備わっているのであり、それらの可能性は子供っぽいというより古代的であるのだ。だからジル・ド・レは子供なのであるが、野蛮人的に子供なのだ。彼は食人種がそうであるように子供なのだ』(70頁)という。このようなジョルジュ・バタイユがジル・ド・レと「怪物性」を結びつけた言説に対する批判としては、吉田隼人「怪物の言説、言説の怪物──バタイユ『ジル・ド・レ裁判』序文における歴史記述の侵犯的性格をめぐって──」がある。

注23)ウルフ39-40頁

注24)吉田隼人「怪物の言説、言説の怪物──バタイユ『ジル・ド・レ裁判』序文における歴史記述の侵犯的性格をめぐって──」参照

注25)バタイユ194頁

注26)バタイユ207頁

注27)バタイユ209-210頁

注28)バタイユ213頁

注29)清水290頁

注30)清水159頁

注31)バタイユ212頁

注32)ペルヌー、クラン460頁

注33)バタイユ220頁

注34)バタイユ245-246頁

注35)清水251頁

注36)清水254-255頁

注37)清水255頁

注38)バタイユ270頁

注39)バタイユ278頁

注40)バタイユ283頁

注41)清水269頁

注42)バタイユ284頁

注43)清水272-273頁

注44)小田内隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」302-303頁/以下本項の異端審問に関する記述は同書を中心に、ギー・テスタス「異端審問」、甚野尚志「中世の異端者たち」などを参照してまとめた。

注45)バタイユ287頁

注46)ウルフ204-205頁

注47)バタイユ288頁

注48)ウルフ206頁

注49)ウルフ208頁

注50)バタイユ290頁

注51)ウルフ222頁

注52)フランス語版Gilles de Rais — Wikipédiaの” Doutes relatifs à la culpabilité et tentatives de rehabilitation ”(罪悪感と復権の試みに関する疑問)の項参照

注53)清水287頁

注54)Prigent VII de Coëtivy — Wikipédia

注55)ウルフ222頁

タイトルとURLをコピーしました