まえがき
ジャンヌ・ダルクの戦友というと、認知度の高さはほぼジル・ド・レに限られ、少し詳しい人でラ・イル、ジャン・ド・デュノワ、アランソン公ジャン2世、リッシュモン大元帥などが挙げられる程度だと思うのだが、ジャンヌ・ダルクほどの著名な人物ともなれば関連人物の研究も進んでおり、また、戦友たちはそのまま百年戦争の終結に活躍した有力な軍人たちということもあって、実はその事績なども詳しく知られている。そんな、日本ではあまり知られていないだろうジャンヌ・ダルクの戦友たちの中から主な人物を30人ほどピックアップしてまとめてみたい。
この記事ではジャンヌ・ダルクの関連人物のうち、一緒に戦闘に参加した軍人・貴族たちが中心で、ジャンヌとともに戦っていない有力武将(例えばヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールや著名な老騎士アルノー・ギーレム・ド・バルバザンなど)、文官(ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユやルニョー・ド・シャルトルなど)、王族諸侯(シャルル7世やアンジュー公ルイ、ルネの兄弟など)は除外した。また副官ジャン・ドーロンら直属部隊とジャン・ド・メス(ジャン・ド・ヌイヨンポン)ら最初のシノン行の仲間たちについては別記事でまとめたのでこれも除外している。

記事の作成にあたってはフランス語版wikipediaの” Compagnons d’armes de Jeanne d’Arc — Wikipédia”の一覧とフランス語の各人物ページ、フランス語でのジャンヌ・ダルク関連人物をまとめたウェブサイトとしては非常に充実している個人ページの” Les Compagnons d’Armes de Jeanne d’Arc”、” Encyclopédie Larousse en ligne – Accueil”などのウェブ上の情報と、記事末にまとめた日本語文献を参照している。
なお、当時のフランスの官職” Grand maître de France”の訳については日本語の定訳がなさそうなので、上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』(晃洋書房,2014年)に従い「フランス家令長」の訳語を当てた。王家役人の人事に責任を持ち、内務大臣のような業務を担う職位である。また、軍事は一名の大元帥” Connétable”の下に2~複数名の元帥” Maréchal”と、元帥と同格で海軍を統括する提督” Amiral”職がある。なお中世のフランスでは特に目立って海軍が編成されているわけではないので、概ね陸海問わず元帥同様の高位の軍事指揮官といえる。
各人物の説明は概要に留めているが、当サイト内で個別に紹介記事をまとめた人物については当該記事へのリンクを貼っている。具体的には2019年11月14日時点で「ジャン・ド・デュノワ」「アランソン公ジャン2世」「ラ・イルことエティンヌ・ド・ヴィニョル」「ブーサック元帥ジャン・ド・ブロス」「ジャン・ポトン・ド・ザントライユ」「ジル・ド・レ」「ヴァンドーム伯ルイ1世」の七人だが、別に「中世のブルボン家~ブルボン公国の興亡とヴァンドーム家の台頭」でクレルモン伯シャルル(ブルボン公シャルル1世)についてより詳しい紹介をまとめている。その他関連事項についてもサイト内に詳細記事があるものについては各キーワードからリンクを貼った。
ひとまず日本語ではまとまった紹介が無い人物が大半なので、まずは概要の紹介をまとめるだけでも意義はあるかと思い記事を作成した。より詳しく知りたい方のためにフランス語名も表記したので、それで検索してもらえると、概ね信頼できる内容の紹介記事(フランス語か英語)を見つけることが出来るだろう。
あわせて、背景として以下の記事を参照していただけるとより深く理解できると思います。






他の記事とあわせて、ジャンヌ・ダルクについて深く知りたい方や、創作したい方に参考にしてもらえると幸いです。
A
シャルル2世・ダルブレ
Charles II d’Albre,1407-1471(1429年時22歳)。アルブレ領主。父はアジャンクールの戦いで戦死したドルー大元帥シャルル1世・ダルブレ。侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユの異父弟。オルレアン包囲戦、ジャルジョーからパテーまでのロワール作戦、ランス戴冠式へ向けた遠征など多くの作戦でジャンヌ・ダルクともに戦った。1429年11月より、ジャンヌ・ダルクは彼の指揮下で親英派独立勢力の首領ペリネ・グレサール討伐(ニヴェルネ遠征)に赴き、拠点の一つサン・ピエール・ル・ムーティエは陥落させたが本拠ラ・シャリテ・シュル・ロワールの攻略には失敗した。
ニヴェルネ遠征に赴く前の1429年9月末から10月にかけて、ダルブレはジャンヌをシャルル7世派の首都ブールジュに連れていきシャルル7世の財政顧問ルネ・ド・ブーリニ家に預け、ここでジャンヌは三週間のオフを楽しんでいる。特にブーリニ夫人マルグリット・ラ・トゥールードと交流を深め、後の復権裁判での夫人の証言によれば、ブーリニ邸に女性たちを集めて雑談し、夜はほとんど毎日夫人と床を共にしたとのことで、かなり意気投合していたようだ。
ブーリニ夫人によれば「私はしばしば彼女が湯あみや蒸し風呂を使っているのを目にしましたが、私が見ることができた限りでは、彼女は処女だったと思います。」(「ジャンヌ・ダルク復権裁判」155頁)とのこと。
アランソン公ジャン2世
Jean II d’Alençon,1409-1476(1429年時20歳)。通称美男公。ジャンヌ最大の支持者として知られる。ヴァロワ王家の傍流でシャルル7世の信頼厚く王太子ルイの代父(後見役)を務めた。1429年3月、ジャンヌがシノン城に到着すると交流を深め、馬を送ったり剣術の稽古をつけたりした。オルレアン解放後のロワール作戦では総大将としてジャンヌとともにイングランド追撃にあたって勝利に貢献。以後パリ包囲戦までジャンヌとともに行動してジャンヌに心酔し、対英主戦派の領袖としてラ・トレムイユ侍従長ら和平派と対立する。
ジャンヌ死後、シャルル7世と対立するようになり、1440年の諸侯反乱プラグリーの乱を主導。乱鎮圧後、父王と対立深める王太子ルイを支持し、1456年、ジャンヌ・ダルク復権裁判で証言した直後、反逆罪で逮捕され1476年に死ぬまで獄中にあった。ジャンヌ・ダルク復権裁判ではジャンヌに助けられたことや彼女の様々な言動、そして有名なジャンヌの乳房が美しかったことなど多くの証言を残している。


ティボー・ダルマニャック
Thibault d’Armagnac,1405-1457(1429年時24歳)。名門アルマニャック伯家の傍流テルメ城主ジャン・ダルマニャックの末子。通称「テルメのティボー” Thibault de Termes”」。1429年4月29日、オルレアン防衛司令官ジャン・ド・デュノワとともにオルレアンに近づいたジャンヌを出迎えオルレアン市に案内した。以降オルレアンからランスまでの戦いに参加し、ジャンヌ・ダルクの忠実な戦友として知られる。ジャンヌ死後はデュノワの配下として対英戦争で活躍した。後に復権裁判では「戦争以外の面では飾り気がなくて無邪気」だったが、戦争になると「もっとも賢い指導者であるかのように行動」(「ジャンヌ・ダルク復権裁判」151頁)したと語っている。
B
ピエール・ベッソノー
Pierre Bessonneau,?-1446。1420年、王太子シャルル(シャルル7世)によって「将軍、王の大砲顧問および訪問者” général, maître et visiteur de l’artillerie du roi”」に任じられた(在任1420-1444)。オルレアン包囲戦に参加しており、防衛側の砲兵を指揮したと思われる。以後、ジャルジョー、ムン、ボージャンシー、パテー、ランスなど一連の戦いに参加した。1444年、彼の後任となったガスパール・ビュローとジャン・ビュローによってフランス初の砲兵部隊が編成される。
ブーサック元帥ジャン・ド・ブロス
Jean de Brosse dit Maréchal de Boussac,1375-1433(1429年時54歳)。シャルル7世の親衛隊長で三人の元帥の一人。ジャンヌ・ダルクの全ての主要な戦いに参加した戦友。オルレアン包囲戦では1428年10月24日、デュノワらとともに入城し、1429年2月12日のニシンの戦いでの敗戦後はオルレアン市を離れ、増援部隊の編成にあたった。彼の編成した大規模な補給・増援部隊の存在がオルレアン解放に大きく貢献することになった。1429年4月27日、ブロワの補給基地からジャンヌ・ダルクとともに補給・増援部隊を率いてオルレアンに向けて進発、1429年4月29日、ジャンヌのオルレアン入城後はジル・ド・レらとともに一旦ブロワに戻り、増援部隊を率いて5月4日に入城した。ジャンヌが捕らわれたコンピエーニュの戦いでも別動隊を率いて奮戦。ジャンヌ死後の1431年10月、コンピエーニュを包囲するブルゴーニュ軍を撃退して雪辱を果たした。1433年病没。


ジャン5世・ド・ビュエイユ
Jean V de Bueil,1406-1478(1429年時23歳)。ビュエイユ家はアンジュー地方の有力家門。オルレアン包囲戦以降、ジャンヌとともにジャルジョーからパテーの戦いまでのロワール作戦、ランス攻略、パリ包囲戦などの戦いに参加した。1430年初頭、侍従長ラ・トレムイユ派とリッシュモンを支持するアンジュー公派の内訌が深まり、前者の指示でアンジュー地方に侵攻してきたジル・ド・レと戦い捕虜となる。ジャンヌ死後の1433年、コワティヴィらとともにラ・トレムイユを襲撃して失脚させ、以後アンジュー公家の主力として対英戦争で活躍。1450年よりフランス提督(~1461年)。1451年、サンセール伯位継承。半自伝的な騎士文学「ル・ジュヴァンセル” Le Jouvencel ”」(1466年)を著し、後世、文人騎士として知られる。
C
アントワーヌ・ド・シャバンヌ
Antoine de Chabannes,1408-1488(1429年時21歳)。百年戦争後期屈指の著名な傭兵。小領主家出身だが父がアジャンクールの戦い(1415年)で、後継した長兄も1423年に戦死して領地の継承権は縁戚に移り何もかも失ったため、次兄ジャックとともに傭兵団を率いて生計を立てた。彼らの傭兵団は「追剥団」として怖れられた。オルレアン包囲戦の活躍で頭角を現しジャンヌの戦友として多くの戦いに参加。
1430年代、ブルボン公シャルル1世の配下となる。39年、ダンマルタン女伯と結婚してダンマルタン伯位を獲得。以後百年戦争で目覚ましい活躍を見せ、1453年兄ジャックの跡を継いで勅令隊の部隊長に就任。シャルル7世死後、次の王ルイ11世と対立して財産を没収されたため反乱を起こして勝利し、1467年、要職のひとつ「フランス家令長” Grand maître de France”」に任じられて次のシャルル8世時代まで宮廷の長老として重きをなした。戦場を駆け巡り略奪で食いつなぐ一介の傭兵から三代に渡ってフランス王家を支える重臣中の重臣にまで上り詰めた。
ジャック1世・ド・シャバンヌ
Jacques Ier de Chabannes de La Palice,1400-1453(1429年時29歳)。傭兵隊長。小領主家出身だが、父と長兄の相次ぐ戦死で継承権が縁戚に移り、弟アントワーヌとともに傭兵団を組織して生計を立てた。弟とともにオルレアン包囲戦での活躍で頭角を現し、1434年以前、ブルボン公シャルル1世の侍従長として公国軍の主力を担う。1440年、プラグリーの乱に参加し、乱後、45年に新設される勅令隊でブルボン派が主力を占めることとなり、ブルボン公シャルル1世が部隊長に任じられると隊長代行として公に代わって勅令隊の一部隊を率い、後に部隊長に昇進。
1453年7月のカスティヨンの戦いで受けた傷が元で同10月亡くなった。「フランス家令長” Grand maître de France”」(在任1451-1453)、ラ・パリス領主。フランソワ1世王時代にイタリア戦争で活躍したジャック2世・ド・シャバンヌ元帥は孫。
クレルモン伯シャルル・ド・ブルボン
Charles Ier de Bourbon, Comte de Clermont,1401-1456(1429年時28歳)。後のブルボン公シャルル1世(在位1434-1456)。クレルモン伯位はブルボン公家の嫡子に与えられる爵位。父ブルボン公ジャン1世がアジャンクールの戦いで捕虜となったままだったため、ブルボン公国の事実上の当主であった。ジャンヌとはオルレアン包囲戦の他、ランス攻略、ペリネ・グレサール討伐戦に参加した。
シノン城でのジャンヌとシャルル7世との会談にも同席し、後に処刑裁判でジャンヌが証言するところではシノン城でジャンヌの神の声を耳にした重臣の一人として名前が挙げられている。またパリ包囲戦時、ジャンヌら攻略軍にシャルル7世からの停戦命令を伝えた使者であった。オルレアン包囲戦の「ニシンの戦い」(1429年2月12日)での敗北の原因となる失策を始めとして軍事面では失敗が多い。
一方、高い政治力、交渉力で知られ、ブルゴーニュとイングランドの同盟関係が解消されイングランドが孤立するに至ったアラス会議(1435年)で事前交渉段階から活躍し和約締結を主導、百年戦争の大勢を決した。また、プラグリーの乱の首謀者となったが、乱後の巧みな交渉で反乱諸侯の赦免を勝ち取り、ブルボン派が新設される「勅令隊」の要職を占めることとする成果を出した。


プレジャン7世・ド・コワティヴィ
Prigent VII de Coëtivy,1399-1450(1429年時30歳)。ブルターニュ貴族で、母はシャルル7世の寵臣タンギー・デュ・シャテルの妹。オルレアン包囲戦時、周辺都市ジャンヴィル市の守備隊長としてイングランド軍を迎えうち、ジャンヴィル陥落後、オルレアン市に撤退してオルレアン包囲戦を戦った。1433年、ラ・トレムイユを襲撃して失脚させリッシュモンの復権を援けた。ラ・ロシェル総督(1437年)、フランス提督” amiral de France”(在任1439-1450)などを歴任。1440年、刑死したジル・ド・レの娘マリーを引き取り養育。レ家の復権に尽力してブルターニュ公よりレ男爵領を受封し、1444年、マリー・ド・レと結婚した。1450年、シェルブール包囲戦で戦死。
コワティヴィについては以下のジル・ド・レの記事でマリー・ド・レとあわせて詳しく紹介している。


フランス提督ルイ・ド・キュラン
Louis de Culant Amiral de France,1360-1444(1429年時69歳)。ブーサック元帥ジャン・ド・ブロスとは従兄弟同士。元帥” Maréchal”と並ぶフランス軍の要職「フランス提督” Amiral de France”」を務めた(在任1421-37)。オルレアン包囲戦に参加し、1429年2月12日のニシンの戦い後、一時オルレアンから退く。1429年4月、ブロワの補給基地からオルレアンに向かうジャンヌ・ダルクらに同行し、4月29日、ジャンヌ・ダルクとともにオルレアンに再入城した。シャルル7世のランス戴冠式ではブーサック元帥、ジル・ド・レ、グラヴィル弩兵隊長とともに四騎士の一人として王に侍した。他、ジャルジョーの戦いからパテーの戦いまでのロワール作戦、パリ包囲戦などにも参加している。
D
ジャン・ド・デュノワ
Jean de Dunois,1403-1468(1429年時26歳)。別名「オルレアン私生児(ル・バタール・ドルレアン” le bâtard d’Orléans”)」から「バタール」の異名で呼ばれる。オルレアン包囲戦時の防衛指揮官。オルレアン公ルイ1世の庶子で、義兄オルレアン公シャルルがアジャンクールの戦いで捕虜となったままだったため、当主不在のオルレアン公領の管理を代行していた。オルレアン解放後、ジャンヌの多くの戦いに参加し、生涯ジャンヌ・ダルクの良き理解者であり、復権裁判ではジャンヌに関する多くの証言を残している。また、ジャンヌが捕らわれると身代金のための資金を集めるなど彼女の救出にも尽力した。
シャルル7世の信頼も厚く、ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユ失脚後、1439年、後任の侍従長に就任し、同時にデュノワ伯位を与えられた。1449年に始まるノルマンディー征服戦では三方向からノルマンディーに侵攻するフランス軍の中央軍を率いて征服に貢献。1451年、アキテーヌ公領攻略軍を指揮してアキテーヌ地方を平定するなど、百年戦争終結に多大な軍功があった。死の直前、ロングヴィル伯位を与えられ、オルレアン=ロングヴィル家初代となった。死後、ロングヴィル伯は公へ陞爵、ブルボン朝時代まで続く名門となる。


F
ギヨーム・ド・フラヴィ
Guillaume de Flavy,1398-1449(1429年時31歳)、コンピエーニュ守備隊長。1429年末、フランス王シャルル7世は英仏ブ三か国による講和会議開催をブルゴーニュ公に働きかけ、その条件としてコンピエーニュ市を含むオワーズ川流域の割譲を公に約束していたが、ブルゴーニュ公は英との秘密協定に基づいて講和会議開催を先延ばしにする一方で、1430年3月、割譲の履行を求めて軍を動かした。コンピエーニュ市はブルゴーニュ公へ従うようにとのフランス王の説得に応じず、勇敢な軍人であったフラヴィを守備隊長に選出して、ブルゴーニュ軍への抗戦を決めた。シャルル7世もブルゴーニュ公の二枚舌外交に気付くのは5月に入ってからで、先んじて4月にはジャンヌは独自にコンピエーニュ救援のため出陣していた。
5月14日、コンピエーニュに進軍したジャンヌはフラヴィの弟ルイとともにショワジ・オ・バック要塞救援に向かうがブルゴーニュ軍の大規模攻勢の前に撤退を余儀なくされ、ジャンヌはヴァンドーム伯ルイ1世とともに一時ソワソンに転進した後、5月23日、改めてコンピエーニュに帰還して、夕方マルニ救援へ向かう。マルニでは一時ブルゴーニュ軍を撃退するが次々押し寄せる敵軍の前にフランス軍はコンピエーニュへの撤退を開始、ジャンヌ部隊は味方の撤退を支援していたが、コンピエーニュ市唯一の入り口であったオワーズ川の橋に殺到したフランス軍と追撃してくる大規模なブルゴーニュ軍という混乱状態の中で、守備隊長フラヴィは出入口を閉鎖し、城外で孤立したジャンヌ・ダルクは捕われることになった。このような展開からフラヴィには後世、「裏切り者」「臆病者」の汚名が被せられることとなったが、これ以後六カ月に渡って彼はコンピエーニュ市を守り続け、結局ブルゴーニュ軍の占領を許さなかった。
フラヴィがジャンヌを裏切ったのか否かは現在まで議論が続いており、レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)は閉じられた出入り口は城門ではなく堡塁の門で町の存亡には関係ないため町を守るために門を閉じたのではなくジャンヌを売るために門を閉じたのではないかとし、またブルゴーニュ公から金銭を受け取ったらしいという後世の証言を採用している。一方で、ブルゴーニュ公と裏取引があったのであれば、何故彼はブルゴーニュ軍に徹底抗戦してコンピエーニュ市を守り続けたのだろうか。それに最終ラインである城門ではなく堡塁の出入口が存亡の危機に関係が無いと彼が考えていたとも言えないのではないだろうか。また、フラヴィの生前は裏切りについて語られることは無く、1455年以降のことであった。
フラヴィは1436年、リッシュモン大元帥によって解任され失脚、1449年、愛人と結託した妻によって殺害され不運な最期を遂げた。一方で、当時の多くの軍人がそうであったように、戦時には手段を択ばず残虐さを発揮して人々から恐れられた人物でもあり、大軍を前に都市防衛を果たした英雄であると同時に裏切りの疑惑が混在している。しかし、彼がジャンヌ・ダルク「最後の戦友」であることは間違いなかろうと思い、リストに加えることにした。
G
ラウル・ド・ゴークール
Raoul de Gaucourt,1371頃-1462(1429年時58歳)。オルレアン包囲戦時のオルレアン代官。1415年、アジャンクールの戦いの前哨戦となったアルフルール包囲戦の守将で、一か月以上に渡ってイングランド軍の攻撃を防ぎ、陥落後約10年間捕虜となっていた。解放後の1428年、オルレアン代官に任命され、オルレアン包囲戦では副将として尽力した。作戦会議の為オルレアンからシノン城を訪れた際、ジャンヌ・ダルクとシャルル7世の対面の場に居合わせている。オルレアン包囲戦では攻勢を唱えるジャンヌに対し、籠城継続を主張して対立した。
オルレアン解放後、ロワール作戦に参加。1431年、ドーフィネ総督に就任。1451年、シャルル7世の命を受けてローマ教皇のもとへ訪れ、ジャンヌ・ダルク復権裁判の開催交渉にあたった。復権裁判ではシャルル7世とジャンヌの出会った様子やジャンヌの質素な生活態度、敬虔さなどを証言している。1456年、「フランス家令長” Grand maître de France”」(在任1456-1461)に任命される。シャルル7世死後、ルイ11世によって解任されて宮廷を去りほどなくして亡くなった。
ニコラス・ド・ジレーム
Nicolas de Giresme,?-1466。ロードス騎士団所属の騎士。オルレアン包囲戦開始時から参加した。1429年4月29日、ジャンヌ・ダルクら補給部隊がオルレアン市に近づくと、ジャン・ド・デュノワの命で市内に船で輸送物資を搬入する部隊の指揮を執った。5月7日のトゥーレル要塞攻略戦時、苦戦して日も沈み指揮官デュノワは退却を考えたが、ジャンヌに諭されて攻撃継続を決断、ジャンヌ自ら旗を振って攻勢に転じ一気に陥落させるが、このとき、トゥーレル要塞の堀に工兵が橋を架けて最初に渡ったのが彼だったという。補強された橋は細長くて高所に支柱もなく不安定な状況で架かっているだけだったので、渡れたのは奇蹟だと称賛された。
「幾つかの橋桁が破壊されていたので、彼らは大工を連れてきて、屋根板や梯子を運んで橋を渡るための足場を作ろうとした。壊れた橋をつなぐには板の長さが足りないのを見て、一番長い板に小さな板切を継いで補った。この上を一番最初に渡ったのはロードス騎士修道会に属する修道士でニコラ・ド・ジレームという名の騎士であった。彼に倣って何人かが渡った。補強された橋板は驚くほど細長く、それが何の支柱もなく高く空中に架っていたのは、わが主の与え給うた奇蹟だと人々は話しあった。」(レジーヌ・ペルヌー著「オルレアンの解放」170頁)
1447年、ロードス騎士団フランス管区長就任。
ジャン・マレ・ド・グラヴィル
Jean Malet de Graville,1390-1449(1429年時39歳)。フランスの弩兵隊長。ジャルジョー、ボージャンシー、パテーなどロワール作戦の一連の戦いに参加。シャルル7世戴冠式ではジル・ド・レ、ブーサック元帥ジャン・ド・ブロス、フランス提督ルイ・ド・キュランとともに四騎士の一人に選ばれた。
I
フローラン・ディリエー
Florent d’Illiers,1400-1461(1429年時29歳)。オルレアン包囲戦時シャトーダンの守備隊長。1429年4月28日、ジャンヌらに先んじてオルレアン市に増援として入城。このとき彼が率いた兵力は当時の史料「籠城日誌」では400名とされているが、これは過大と考えられ、別の史料では彼は100名の給与を受け取った記録があり、どちらにしても大規模な増援部隊であった。彼の配下にラ・イルの弟アマドク・ド・ヴィニョルがいる。続くジャルジョーの戦いでも主力として活躍した。1435年、シャルトル総督就任。
K
トュグデュアル・ド・ケルモイザン
Tugdual de Kermoysan,1390/1400-1450(1429年時29~39歳)。ケルモイザン家はブルターニュ屈指の古い家系で、彼は生年不明だが十四世紀末に生まれた。1421年、プレジャン・ド・コワティヴィとともに王太子シャルルに仕えるようになる。1429年5月4日、ブーサック元帥、ジル・ド・レらとともにオルレアンに入城してオルレアン解放戦に活躍した。5月8日、ラ・イル、ザントライユらとともに撤退するイングランド軍を追撃している。オルレアン解放後、リッシュモン大元帥の軍に合流し、同6月、リッシュモン軍がフランス軍と合流するとボージャンシーの戦い、パテーの戦いに参加した。その後も百年戦争で目覚ましい活躍を見せてフランス軍を代表する将軍の一人となったが、1450年のシェルブール包囲戦において、長年の戦友コワティヴィとともに砲撃を受け戦死した。
L
ラ・ファイエット元帥ジルベール・モティエ
Gilbert Motier de La Fayette, 1380-1464(1429年時49歳)。フランス元帥。1421年ボーヴェの戦いでは同盟軍スコットランド部隊と連携してイングランド軍を撃破しヘンリ5世の実弟クラレンス公トマスを敗死させた。オルレアン包囲戦にも参加。1428年~1432年のリッシュモン大元帥不在期間、シャルル7世政権で軍政を統帥。1445年からの勅令隊の創設等軍制改革に功があった。アメリカ独立戦争で高名な「両大陸の英雄」ラ・ファイエット侯爵ジルベール・デュ・モティエ(1757-1834)は子孫。
ギー14世・ド・ラヴァル
Guy XIV de Laval,1406-1486(1429年時23歳)。ブルターニュの名門ラヴァル家の当主(在位1429-1486)。ジル・ド・レことジル・ド・モンモランシ=ラヴァルとは従兄弟同士。ジャンヌ・ダルクのオルレアン解放の噂を聞きつけ、1429年6月、弟アンドレとともにジャンヌの下に参集し、ロワール作戦に参加してジャルジョー、ムン、ボージャンシー、パテーの戦いなどで勇戦した。非常に筆まめな人物でジャンヌに関する多くの記録を残したことで知られる。
「乙女殿は私と弟をとても親切に迎えてくれた。彼女は顔だけ出して甲冑をまとい、槍を手にしていた。われわれがセルに移動してからも、私は彼女を宿舎に訪ねていったことがある。彼女は葡萄酒をもってこさせ、まもなくパリでも飲ませてあげるといってくれた。彼女の声を聞いたり、姿や所作を見ていると、じつに神々しいまでに思えてくる。」(レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』116頁)
これは、1429年6月8日付で彼の母に宛てた書状の一節で、ジャンヌ・ダルクへ心酔する若く情熱的な名門貴族の生の声である。また、ジャンヌは彼を通じて彼の祖母でフランスの英雄ベルトラン・デュ・ゲクラン大元帥の未亡人でもあったアンヌ・ド・ラヴァルへ金の指輪を送っている。
アンドレ・ド・ラヴァル
André de Laval,1408-1486(1429年時21歳)ブルターニュの名門ラヴァル家の当主ギー14世の弟。ロエアック伯。後にフランス元帥に昇進しロエアック元帥の名で知られる。ジル・ド・レことジル・ド・モンモランシ=ラヴァルとは従兄弟同士。オルレアン解放の噂を聞いて兄ギーと共にジャンヌ・ダルクの下に参集し、ロワール作戦に参加してジャルジョー、ムン、ボージャンシー、パテーの戦いなどで勇戦した。1433年からラヴァル総督としてアンブロワーズ・ド・ロレとともに対ノルマンディー戦で軍功を挙げ、1436年パリ攻略の軍功によりフランス提督に就任(在任1337-1339)。さらに1339年フランス元帥に昇進した。
浪費が続くジル・ド・レを心配してその財産・所領の散逸を防ぐべく努力している。1451年、コワティヴィ戦死で未亡人となったジル・ド・レの娘マリー・ド・レと結婚。1453年、カスティヨンの戦いでイングランド軍を壊滅させ、百年戦争に終止符を打った。
アンブロワーズ・ド・ロレ
Ambroise de Loré,1395頃-1446(1429年時34歳)。ノルマンディーとアンジューの境界に位置するメーヌ地方の騎士一族に生まれた。1415年、アジャンクールの戦いに参加して以降アルマニャック派に属して軍歴を重ねメーヌ地方の防衛を担った手堅い手腕で知られた武将。1429年4月、オルレアンに向けたジャンヌ・ダルクらの補給・増援部隊の一人として名を連ね、以後ブーサック元帥に次いでジャンヌの多くの戦いに参加したジャンヌ・ダルク最有力の戦友。1429年8月ラニー総督に任命され、1433年からアンドレ・ド・ラヴァルとともにメーヌで対イングランド戦争に活躍し、1436年、パリ奪還後はパリ代官として首都行政の総責任者となった。1446年没。
M
ジャン・ド・モンテクレール
Jean de Monteclerc,生没年不明。「親方ジャン” Maître Jean”」の異名で知られるオルレアン包囲戦時の著名な大砲技術者。オルレアン市には三門の大砲と大小さまざまな火器が備えられており、オルレアン包囲戦開始時の1428年10月24日(または27日)にはモンテクレールによるものかは不明だが包囲軍司令官ソールズベリー伯が砲撃で戦死している。1429年3月、モンテクレールによる砲撃でソールズベリー伯の甥グレイ卿を含む五名のイングランド兵が殺され、イングランド軍を恐れさせた。その後、オルレアン市に備えられていた大砲が外されて海運で運ばれ、1429年6月12日のジャルジョーの戦いや17日のボージャンシーの戦いで、モンテクレールによる砲撃が加えられ、各都市の攻略に貢献した。
R
ジル・ド・レ
Gilles de Rais,1404/05-1440(1429年時24~25歳)。レ男爵ジル・ド・モンモランシ=ラヴァル。1428年、リッシュモン大元帥失脚後、彼の祖父ジャン・ド・クランと侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユらの力を背景に宮廷に迎えられる。オルレアン包囲戦、ロワール作戦、ランス攻略、パリ包囲戦までの一連の戦いに参加。ランス戴冠式ではフランス元帥に叙された上で四騎士の一人としてシャルル7世に侍した。
高い戦闘力と武勇で知られたが、1433年、彼が忠誠を誓っていたラ・トレムイユ侍従長の失脚によって宮廷を追われ、以後浪費生活を送ったため所領の不安定化を招き、1440年、ブルターニュ公ジャン5世によって異端審問裁判にかけられ降魔術を始めとする異端と幼児大量虐殺などの罪で処刑された。後世、ジャンヌ・ダルクに心酔して身を滅ぼした人物、最も親しい戦友として描かれるようになるが、お互いに言及したり、両者の関係を記した同時代の史料は存在せず、立場の違いもあってどれほど親密であったかは不明である。


リッシュモン大元帥アルテュール・ド・ブルターニュ
Arthur de Richemont, 1393-1458(1429年時36歳)。リッシュモン伯。ブルターニュ公ジャン5世の弟。「リッシュモン大元帥” Connétable de Richemont “」の通称で知られ、「正義の人/正義公” le Justicier ”」の異名を持つ。後のブルターニュ公アルテュール3世(在位1457-1458)。若いころから高い戦闘指揮力で知られたが、1415年アジャンクールの戦いで捕虜となる。1420年代前半、百年戦争当事国は彼との婚姻関係を通じた同盟締結と合従連衡を繰り広げ、1425年、シャルル7世政権に大元帥として招聘され宮廷改革を断行した。1427年、ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユとの政争に敗れて宮廷を追われ、以後独自に対イングランド戦争を展開した。
オルレアン解放後のロワール作戦でフランス軍に合流を図り、このとき、シャルル7世の意を慮った総司令官アランソン公らは合流を拒否しようとするが、ジャンヌ・ダルクの説得によって合流を受け入れた。6月18日のパテーの戦いの勝利にも貢献したが、シャルル7世は復帰を許さなかったため再び離脱。ジャンヌ・ダルクは彼の復帰を進言している。
1430年代からラ・トレムイユ派と内戦に入り、1433年、ラ・トレムイユの失脚とともに宮廷に復帰。以後彼を中心にフランス軍が再編、1440年のプラグリーの乱鎮圧を経て彼の直下に常備軍「勅令隊」が創設され、百年戦争勝利の原動力となった。
S
ジャン・フーコー・ド・サン=ジェルマン
Jehan Foucault de Saint-Germain,1400年頃-1466(1429年時30歳前後)。サン=ジェルマンの領主。オルレアン、ジャルジョー、ムン、ボージャンシー、パテーを始めジャンヌの多くの戦いに参加し、パリ包囲戦では弓兵を指揮、1430年4月、ジャンヌがラニーに部隊を進めた時、要塞を守る指揮官の一人であった。ジャンヌ最後の戦いとなったコンピエーニュの戦いにも参加している。1432年、ラニー・シュル・マルヌ守備隊長に就任。晩年、アスティ総督となる。フーコー家は十八世紀まで続くサン=ジェルマン地方の名家。なお後世有名なサン=ジェルマン伯爵(?-1784)とは関係が無い。
V
ヴァンドーム伯ルイ1世・ド・ブルボン
Louis de Bourbon, comte de Vendôme,1376-1446(1429年時53歳)。ブルボン家の傍流ブルボン=ヴァンドーム家初代。「フランス家令長” Grand maître de France”」(在任1425-1446)。オルレアン公ルイの友人であり、アルマニャック派結成時から加入。1415年のアジャンクールの戦いでは左翼軍の指揮を執り捕虜となった。
1429年3月6日、シノン城大広間でジャンヌとシャルル7世が出会うが、このときジャンヌを大広間まで案内したのがヴァンドーム伯であった。以後多くの戦いでジャンヌとともに戦う。1430年5月16日、ジャンヌ部隊とヴァンドーム伯部隊はソワソン市でコンピエーニュへ向かうべきとするジャンヌとサンリスへの転進を勧める伯で意見が分かれ、別行動をとることになった。コンピエーニュに向かったジャンヌは捕虜となり、翌年、異端審問裁判で処刑され生涯を終えることになる。彼はジャンヌ・ダルクを歴史の表舞台へ迎え入れ、そして送り出す役割を担うという、ジャンヌと奇妙な縁を持った人物となった。
その後、ブーサック元帥とともにコンピエーニュ解放に成功し、1435年にはアラス会議の代表団の一人として和約締結に貢献した。内政・外交・軍事とバランスよく高い能力を持ち不遇な時代のシャルル7世を支えた稀有な人材であった。ブルボン王家は彼の直系子孫である。


ラ・イルことエティエンヌ・ド・ヴィニョル
Étienne de Vignolles dit La Hire,1390頃-1443(1429年時30代後半)。ガスコーニュ地方出身の傭兵隊長。憤怒を意味する異名「ラ・イル” La Hire ”」の名で知られる百年戦争後期フランス随一の猛将。同郷の盟友ジャン・ポトン・ド・ザントライユとともに傭兵として頭角を現し、1427年、ジャン・ド・デュノワ指揮下でイングランド軍を撃破したモンタルジスの戦いで勇名を馳せ、1428年10月24日、デュノワとともにオルレアンに入城して防衛戦に活躍した。大敗となったニシンの戦いでもザントライユとともに殿軍として勇戦、一時オルレアンを離れた後、1429年4月29日、ジャンヌ・ダルクとともにオルレアンに再入城した。
オルレアン包囲戦ではジャンヌと馬を並べて解放までの一連の戦いで活躍、以後パリ包囲までジャンヌとともに戦った。ジャンヌの勧めを受け入れ告解を行うなど忠実な戦友として知られる。ジャンヌが捕らわれると軍を起こして救出しようと試みるが失敗。ジャンヌ死後、ノルマンディー方面総司令官などを歴任、1443年、戦傷が元で亡くなった。若いころ負った傷が元で右足を引き摺って歩いていたがハンデをものともしない強さを誇り、後にフランス式トランプでハートのジャックに模されている。


アルシャンボー・ド・ヴィラール
Archambaud de Villars,1373頃-1432(1429年時56歳前後)。ボーケール代官。オルレアン公ルイの友人で、公の庶子ジャン・ド・デュノワの軍事面の訓練を託された。オルレアン包囲戦に部隊長の一人として参戦し、1429年2月後半、オルレアンにもジャンヌ・ダルクの噂が流れると、ヴィラールはデュノワの命を受けシノン城へ情報収集のため赴く。ジャンヌ・ダルク入城後のオルレアン解放戦ではヴィラール隊はジャンヌの友軍として決定的な役割を演じた。
5月7日のトゥーレル要塞攻略戦で、ジャンヌ部隊の副官ジャン・ドーロンはジャンヌの旗を持っていた小姓が疲れていたため、ヴィラール隊のル・バスクという兵士に預けると、膠着した戦況を覆すため、前線でジャンヌの旗をかざすことを考え、ル・バスクを連れてトゥーレル要塞の堀に近づいていった。デュノワとの会談から戻ったジャンヌは前進するデュノワと旗を持ったル・バスクを見て旗が奪われたと勘違いして彼らを追いかけ、旗を奪うと自身で激しく旗を振った。この様子を見てジャンヌ部隊が集結、さらに他の部隊も攻勢に転じてトゥーレル要塞を陥落させた。翌日イングランド軍は全軍を退却させ、オルレアンは解放された。
トゥーレル要塞攻略時のヴィラール隊のル・バスクとジャンヌの旗のエピソードについては下記のオルレアン包囲戦の記事にまとめている。


X
ジャン・ポトン・ド・ザントライユ
Jean Poton de Xaintrailles,1390頃-1461(1429年時30代後半)。ラ・イルと並ぶ武勇で知られた傭兵隊長。同郷の傭兵隊長ラ・イルとともに軍事キャリアを始め、1423年のクラヴァンの戦い、1424年のヴェルヌイユの戦いなどで頭角を現した。オルレアン包囲戦では包囲戦開始時から参加し、1429年2月12日のニシンの戦いではラ・イルとともに殿軍として勇戦。同2月後半、ブルゴーニュ公への仲裁要請の使者として交渉に臨んだ。オルレアン解放戦からパリ包囲戦までジャンヌ・ダルクとともに戦い、著名なジャンヌ・ダルクの戦友の一人として知られた。
1435年のジェルベロワの戦いでラ・イルとともにイングランド軍を撃破してノルマンディー進出の橋頭堡を築き、1445年、常備軍「勅令隊」の部隊長の一人となる。1454年、フランス元帥に叙され、故郷にザントライユ城を築いた。戦場での活躍で、傭兵隊長から元帥まで上り詰めた勇将として名を遺した。


参考文献
・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』(創元社,2012年)
・上田耕造著『ブルボン公とフランス国王―中世後期フランスにおける諸侯と王権』(晃洋書房,2014年)
・城戸 毅著『百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書)』(刀水書房,2010年)
・佐藤賢一著『ヴァロワ朝 フランス王朝史2 (講談社現代新書)』(講談社,2014年)
・清水正晴著『<青髭>ジル・ド・レの生涯』(現代書館,1996年)
・高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』(白水社、1984年)
・高山一彦著『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)』(岩波書店、2005年)
・コレット・ボーヌ著(阿部雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子訳)『幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会』(昭和堂、2014年)
・デヴィッド・ニコル著(稲葉義明訳)『百年戦争のフランス軍―1337‐1453 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)』(新紀元社,2000年)
・レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福本直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)
・レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社、2002年)
・レジーヌ・ペルヌー(高山一彦訳)『オルレアンの解放 (ドキュメンタリー・フランス史)』(白水社、1986年)